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第百二十三章 一円まで

「説明を」


ケイトさんが言った。

英語だった。社歌の話だった。


***


四月一日。木曜日。

父の会社の、入社式だった。


***


小沢総一郎は、壇の横に立っていた。

部長として、新人の顔を見る役だった。


新人は、四十人いた。

三十九人が、二十二歳だった。


***


一人だけ、背が高かった。

髪を、後ろで一つに結んでいた。


中途の採用だった。入社式には、出なくてよかった。

本人が、出ると言った。


***


社歌が流れた。

新人は、紙を見ながら歌った。


ケイトさんは、歌わなかった。

紙を、裏返していた。


***


「説明を」


隣の新人に、言った。

英語だった。


***


隣の新人は、二十二歳だった。

社歌の意味を、英語で説明した。


三番まで、した。


***


総一郎は、その新人の名前を覚えておいた。

英語が、うまかった。


***


四月二日。金曜日。

総一郎の部の、朝だった。


***


ケイトさんの机に、経費の書類が積まれた。

新人の、最初の仕事だった。


一番、簡単な仕事のはずだった。


***


十時に、ケイトさんが立った。


係長の机の前に、行った。

書類を、一枚置いた。


***


「説明を」


***


係長は、書類を見た。

タクシー代だった。


三千四百十円。

領収書は、三千四百円だった。


***


「……十円は」


係長は、汗をかいていた。


「缶コーヒーの、つもりで……」


***


総一郎が、通訳した。

ケイトさんは、うなずいた。


それから、書類を返した。


「一円まで」


総一郎は、訳さなかった。

係長の顔で、通じていた。


***


昼までに、部の全員が、自分の経費を出し直した。


誰も、頼んでいなかった。


***


「部長」


係長が、小声で言った。


「あの人、どこから」


「取引先の、奥さんだ」


うそでは、なかった。


***


総一郎は、席に戻った。


三十年、欲しかった部下だった。


***


四月六日。火曜日。

近くの小学校の、始業式だった。


***


健司の母は、校門の前で、赤いランドセルを見ていた。


由紀のだった。

押し入れに、ずっとあった。


***


エミリーが、背負っていた。


少し、小さかった。

エミリーは、気にしていなかった。


***


「かみちゃんは」


母が聞いた。


エミリーは、自分の肩を指さした。


***


金色のボタンの子供が、ランドセルの上に座っていた。


「……見学じゃ」


「誰に、頼まれたの」


「わしが、頼んだ」


***


二年一組だった。


先生が、黒板に名前を書いた。

カタカナだった。


エミリーは、手を振った。

三十人が、手を振り返した。


***


一番前の男の子が、ランドセルの上を指さした。


「せんせー。もう一人、いる」


***


先生は、見た。

何もなかった。


「いません」


***


男の子は、まだ指さしていた。

隣の女の子も、指さしていた。


前の三列が、全員、指さしていた。


***


「……見えとるのぉ」


ランドセルの上で、神様が言った。

うれしそうだった。


「子供は、ええのぉ」


***


昼は、給食だった。


カレーだった。

エミリーの、一番好きなものだった。


***


「オカワリ」


学校で、最初に言った日本語だった。

クラスで、一番早かった。


***


ランドセルの上の皿も、空になっていた。


給食の先生が、数を数え直していた。

一人分、合わなかった。


***


夜。小沢家の、台所だった。


ケイトさんが、手帳を開いていた。

最後のページだった。


***


『TBD』の横に、数字を書こうとした。

初めての、給料の額だった。


***


母は、見ないで言った。


「ごはんに、値段は、ないのよ」


***


ケイトさんは、ペンを止めた。


『TBD』に、線を一本、引いた。

定規は、使わなかった。


その横に、もう一度書いた。


『TBD』


***


「おかわり」


エミリーが言った。

今度は、ひらがなの発音だった。


母は、二杯目をよそった。


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