第百二十二章 茶は、うまかった
「茶は、うまかった、って」
靴を脱ぐ前に、言った。
玄関だった。
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三月二十五日。木曜日。
夜の八時だった。
成田から、まっすぐ実家に来た。
スーツケースは、門の外に置いたままだった。
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母は、廊下の向こうで手を拭いていた。
「誰が」
「零度、っていう人」
「円卓の、一番、偉い人」
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「いくつの人」
「分からない。声は、おじいさんだった」
「じゃあ、ちゃんとした人ね」
母の基準は、年だった。
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「伝えてくれ、って。言われた」
「その家の方に、って」
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母の手が、止まった。
「その家、って。うちのこと?」
「伊左衛門の、家族です、って。言ったから」
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「……そう」
母は、手拭いを畳んだ。
四つに、畳んだ。
いつもは、二つにしか畳まない人だった。
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「お茶菓子は」
「え」
「お茶菓子は、出したの」
「……出してない」
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「お茶だけ?」
「お茶だけ」
「おじいさんに」
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母は、長いため息をついた。
円卓より、こっちのほうが重かった。
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「次は、羊羹ね」
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「次、あるのかな」
「あるわよ。うまかった、って言う人には」
「次が、あるの」
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居間で、父が新聞を読んでいた。
聞こえていたらしかった。
ページが、めくられなかった。
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「……羊羹なら」
父が言った。
「駅前の、和菓子屋だ」
「あそこのは、切っても、崩れない」
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父も、次があると思っているらしかった。
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肩の上で、メレオスが黙っていた。
いつもなら、羊羹の一言目は、この神様だった。
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「どうした」
「……年寄り、じゃと」
「うん」
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「伊左衛門のところに。外国の、客が」
「来たことが、あった、ような」
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「いつ」
「……思い出せそうで、出てこん」
メレオスは、首を傾げた。
本当に、出てこない顔だった。
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「羊羹を、食えば。出てくるかも、しれん」
「そういう、仕組みじゃないだろ」
「そういう、仕組みじゃ」
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台所の時計が、九時を指した。
玄関で、鍵の音がした。
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「ただいま!」
エミリーだった。
日本語だった。
後ろに、ケイトさんがいた。
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ケイトさんは、手に、紙の袋を提げていた。
中身は、書類だった。
父の会社の、封筒だった。
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「……父さん」
「来週から、うちの部だ」
新聞が、一枚めくられた。
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円卓のことを全部話すより先に、それを聞くことになった。
うちの決まりは、先に言うことだった。
父も、ちゃんと守っていた。




