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第百十七章 何もない、町

「長い、です」


『ギーク』が言った。

イングリッドさんから届いた、データの話だった。


***


三月十五日。月曜日。

0課の朝だった。


***


「揺れは、ゼロ。いつもどおりです」

「最後に、文章が、ついてます」

「いつもは、一行なんですけど」


***


壁の画面に、日本語が並んだ。


***


『知らない人が、ホテルに来ました』

『四日前、です』

『長い、ので。書きます』


***


『レディー』が、爪から目を上げた。

『ジョン』は、椅子から腰を浮かせた。


***


俺は、宿帳のことを、初めて思い出した。

本名で、書いた。


***


三月十一日。木曜日。

モルクヴィークは、まだ雪の中だった。


昼の十二時で、空はもう明るかった。

一月とは、違う町だった。


***


赤い屋根のホテルに、男が来た。

灰色のスーツに、厚いコートだった。


町の人間は、こういう服を着ない。


***


「宿帳を、見せてもらいたい」


英語だった。


***


ソルヴェイは、カウンターの向こうにいた。

布巾を、畳んでいた。


***


「ないわ」


「ない?」


「警察に、渡したの。一月に」

「全部、話したとき。一緒に」


***


本当のことだった。

この人は、もう、嘘をつかなかった。


***


布巾の角が、四つ、揃った。


「コーヒーは」


男は、断った。

この町で、ソルヴェイのコーヒーを断った人は、初めてだった。


***


駐在所は、坂の下にあった。

町に一人だけの、若い駐在さんだった。


***


「宿帳を、預かっていると聞いた」


駐在さんは、机の引き出しを見た。

見ただけだった。


***


「見せられるものは、一つもない」


一月に、書けることが一つもないと言った人だった。


***


「その引き出しか」


駐在さんは、ポケットから赤い帽子を出した。


引き出しの上に、置いた。

畳んだままだった。


***


男は、帽子を見た。

どけようとして、やめた。


なぜやめたのかは、本人にも分からない顔だった。


***


坂の途中に、白い教会があった。


ヨハネスは、男の話を最後まで聞いた。

それから、記録簿を出した。


***


洗礼。結婚。葬式。


***


「座っていなさい」


男は、座った。


ヨハネスは、一八九〇年から読みはじめた。


***


二時間たって、男が言った。


「一月に、日本人が二人と、アメリカ人が一人。いたはずだ」


「この本に、ない人のことは。話せない」


***


三人とも、この町で生まれなかった。

結婚も、しなかった。

死にも、しなかった。


だから、どこにも書いていなかった。


***


山の手前で、スノーモービルが止まっていた。


トナカイのおじいさんは、男を見なかった。

犬が、見た。


男の顔を、舐めた。


***


「小柄な、日本人を、知らないか」


***


おじいさんは、足元を見た。

何もないところを、見た。


「小さいほうなら。知っている」


それだけ言って、エンジンをかけた。


***


空き地に、子供たちがいた。

白鳥が、並んでいた。


氷だった。九羽、まだ溶けていなかった。


***


「これは、誰が作った」


一番小さい女の子が、答えた。


「かってに、できた」


ほかの子も、うなずいた。

全員、同じ答えだった。


***


観測所の扉は、半分だけ開いた。

灰色の髭が、のぞいた。


「何もない町だ」


***


ベルグ所長は、言った。


「揺れも、ない。帰ってくれ」


ばたん、と閉まった。


***


扉の向こうの窓で、イングリッドさんが見ていた。


男は、その日のプロペラ機で帰った。

何も、持っていなかった。


***


『帰りました。何も、持たずに』


画面の文章は、そこで一度、切れていた。


***


「……かってに、できた、か」


『ジョン』が言った。


「白鳥が、勝手に、できるか」


***


「できます」


『ギーク』が言った。


「あの町では。今は」


***


「何もない町、ね」


『レディー』が、爪に目を戻した。


「一月は。何もない町じゃ、なかったけど」


***


「小さいほう、と言うたか」


肩の上で、メレオスが言った。

ポケットを、上から二回叩いた。


トナカイの角のボタンが、入っているところだった。


***


「……わしは。小さくは、ないぞ」


小さかった。


***


文章の続きが、一行だけあった。


『白鳥は、まだ、溶けてません』


一月にも、同じことが書いてあった。


***


国は、照会を役所で止めた。

町は、宿帳を引き出しで止めた。


判子は、一つも押していなかった。


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