第百十七章 何もない、町
「長い、です」
『ギーク』が言った。
イングリッドさんから届いた、データの話だった。
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三月十五日。月曜日。
0課の朝だった。
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「揺れは、ゼロ。いつもどおりです」
「最後に、文章が、ついてます」
「いつもは、一行なんですけど」
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壁の画面に、日本語が並んだ。
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『知らない人が、ホテルに来ました』
『四日前、です』
『長い、ので。書きます』
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『レディー』が、爪から目を上げた。
『ジョン』は、椅子から腰を浮かせた。
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俺は、宿帳のことを、初めて思い出した。
本名で、書いた。
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三月十一日。木曜日。
モルクヴィークは、まだ雪の中だった。
昼の十二時で、空はもう明るかった。
一月とは、違う町だった。
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赤い屋根のホテルに、男が来た。
灰色のスーツに、厚いコートだった。
町の人間は、こういう服を着ない。
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「宿帳を、見せてもらいたい」
英語だった。
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ソルヴェイは、カウンターの向こうにいた。
布巾を、畳んでいた。
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「ないわ」
「ない?」
「警察に、渡したの。一月に」
「全部、話したとき。一緒に」
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本当のことだった。
この人は、もう、嘘をつかなかった。
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布巾の角が、四つ、揃った。
「コーヒーは」
男は、断った。
この町で、ソルヴェイのコーヒーを断った人は、初めてだった。
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駐在所は、坂の下にあった。
町に一人だけの、若い駐在さんだった。
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「宿帳を、預かっていると聞いた」
駐在さんは、机の引き出しを見た。
見ただけだった。
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「見せられるものは、一つもない」
一月に、書けることが一つもないと言った人だった。
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「その引き出しか」
駐在さんは、ポケットから赤い帽子を出した。
引き出しの上に、置いた。
畳んだままだった。
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男は、帽子を見た。
どけようとして、やめた。
なぜやめたのかは、本人にも分からない顔だった。
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坂の途中に、白い教会があった。
ヨハネスは、男の話を最後まで聞いた。
それから、記録簿を出した。
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洗礼。結婚。葬式。
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「座っていなさい」
男は、座った。
ヨハネスは、一八九〇年から読みはじめた。
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二時間たって、男が言った。
「一月に、日本人が二人と、アメリカ人が一人。いたはずだ」
「この本に、ない人のことは。話せない」
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三人とも、この町で生まれなかった。
結婚も、しなかった。
死にも、しなかった。
だから、どこにも書いていなかった。
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山の手前で、スノーモービルが止まっていた。
トナカイのおじいさんは、男を見なかった。
犬が、見た。
男の顔を、舐めた。
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「小柄な、日本人を、知らないか」
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おじいさんは、足元を見た。
何もないところを、見た。
「小さいほうなら。知っている」
それだけ言って、エンジンをかけた。
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空き地に、子供たちがいた。
白鳥が、並んでいた。
氷だった。九羽、まだ溶けていなかった。
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「これは、誰が作った」
一番小さい女の子が、答えた。
「かってに、できた」
ほかの子も、うなずいた。
全員、同じ答えだった。
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観測所の扉は、半分だけ開いた。
灰色の髭が、のぞいた。
「何もない町だ」
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ベルグ所長は、言った。
「揺れも、ない。帰ってくれ」
ばたん、と閉まった。
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扉の向こうの窓で、イングリッドさんが見ていた。
男は、その日のプロペラ機で帰った。
何も、持っていなかった。
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『帰りました。何も、持たずに』
画面の文章は、そこで一度、切れていた。
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「……かってに、できた、か」
『ジョン』が言った。
「白鳥が、勝手に、できるか」
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「できます」
『ギーク』が言った。
「あの町では。今は」
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「何もない町、ね」
『レディー』が、爪に目を戻した。
「一月は。何もない町じゃ、なかったけど」
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「小さいほう、と言うたか」
肩の上で、メレオスが言った。
ポケットを、上から二回叩いた。
トナカイの角のボタンが、入っているところだった。
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「……わしは。小さくは、ないぞ」
小さかった。
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文章の続きが、一行だけあった。
『白鳥は、まだ、溶けてません』
一月にも、同じことが書いてあった。
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国は、照会を役所で止めた。
町は、宿帳を引き出しで止めた。
判子は、一つも押していなかった。




