幕間 帳簿
小沢総一郎は、湯呑みを五つ並べた。
一つだけ、大きいのにした。
『ジョン』の前に置いた。
息子の職場では、そう呼ばれている男だった。
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三月十二日。金曜日。
夜の九時を、少し過ぎていた。
居間だった。
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娘のほうは、まだ寝ていた。
金色のボタンの子供に、もたれていた。
子供は、正座のまま動かなかった。
「……動けんのじゃ」
誰も、頼んでいなかった。
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『ジョン』が、話しはじめた。
英語だった。
息子は、一言目で顔を上げた。
二言目で、天井を見た。
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「……父さん。訳して」
「長い。あとで」
「あとで、っていつ」
「健司」
妻が言った。
「分からないなら。お皿、洗ってきなさい」
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息子は、台所へ行った。
国の会議に出た男が、皿を洗いに行った。
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総一郎は、聞いていた。
三十年、証券会社にいた。
長い話は、頭の中で一枚にまとめる癖があった。
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勤め先は、アメリカのCIAだった。
国の、情報機関だった。
五十年前の案件を、掘り返した。
上から、触るなと言われた。
戻ってこいと言われて、戻らなかった。
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それで、先週。
本人に知らされないまま、記録から消された。
名簿にも、旅券にも、もういなかった。
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「何て」
妻が、小声で聞いた。
「勤め先を。クビに、なったそうだ」
「あら」
妻は、大きい湯呑みを満たした。
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話は、四十分かかった。
奥さんは、一度も口を挟まなかった。
手帳に、何か書いていた。
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『ジョン』は、話し終えて、湯呑みを空けた。
奥さんが、顔を上げた。
最初の質問は、神様のことではなかった。
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「給料が、止まったのは。いつ」
「火曜の、夜、九時だ」
奥さんは、書いた。
「最後の、振り込みは」
「……二月の、末だ」
書いた。
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「退職金は」
「いなかった、ことに、なってる。出ない」
「年金は」
「いなかった、ことに……」
「書類で、出して」
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総一郎は、感心していた。
経理の聞き方だった。
うちの部に欲しかった。
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「何て」
「お金の、話だ」
「大事ね」
妻も、感心していた。
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奥さんは、手帳を閉じた。
それから、子供のほうを見た。
金色のボタンを見た。
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「あれは」
『ジョン』が、総一郎を見た。
訳してくれ、という顔だった。
自分では、説明できないらしかった。
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「わしが、言う」
子供が言った。
娘を起こさないように、小声だった。
「神で、あるぞよ」
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総一郎は、詰まった。
三十年、英語で数字を話してきた。
神を訳したことは、なかった。
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「……ゴッド」
「大きすぎる」
『ジョン』が言った。
「スピリット」
「幽霊みたいだ」
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「守護神じゃ。正確に、訳せ」
「正確に訳すと、通じないんです」
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総一郎は、少し考えた。
「父の、古い、友人です」
「うちに、住んでいます」
英語で、そう言った。
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「……友人」
子供は、口をとがらせた。
「まあ。間違うては、おらん」
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奥さんは、子供を見た。
娘の寝顔を見た。
娘は、子供の肩で、よだれを垂らしていた。
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「オーケー」
それだけ、言った。
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「……それだけか」
『ジョン』が言った。
「この子が、先に、友だちに、なってる」
「私が、説明を、聞くのは。順番が、あと」
総一郎が、訳した。
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「えらいわね」
妻が言った。
娘のことか、母親のことか、分からなかった。
たぶん、両方だった。
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奥さんは、もう一度手帳を開いた。
最後のページだった。
ペンが、止まった。
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一行目に、うちの名字が書いてあった。
英語で、きれいな字だった。
金額の欄だけ、空いていた。
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「ごはんに、値段は、ないのよ」
妻が言った。
見なくても、分かったらしかった。
総一郎は、訳した。
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奥さんは、長いこと欄を見ていた。
それから、三文字だけ書いた。
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『TBD』
未定、という意味だった。
会計士が、帳簿に未定と書くのは。
たぶん、初めてだった。
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息子の席のことは、誰も話さなかった。
『ジョン』も、言わなかった。
総一郎も、訳さなかった。
それは、息子が自分で言うことだった。
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台所から、息子が戻ってきた。
手が、赤かった。
「で。何の、話だった」
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「為替だ」
総一郎は言った。
『ジョン』が、一升瓶に手を伸ばした。




