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幕間 帳簿

小沢総一郎は、湯呑みを五つ並べた。


一つだけ、大きいのにした。

『ジョン』の前に置いた。


息子の職場では、そう呼ばれている男だった。


***


三月十二日。金曜日。

夜の九時を、少し過ぎていた。


居間だった。


***


娘のほうは、まだ寝ていた。

金色のボタンの子供に、もたれていた。


子供は、正座のまま動かなかった。


「……動けんのじゃ」


誰も、頼んでいなかった。


***


『ジョン』が、話しはじめた。

英語だった。


息子は、一言目で顔を上げた。

二言目で、天井を見た。


***


「……父さん。訳して」


「長い。あとで」


「あとで、っていつ」


「健司」


妻が言った。


「分からないなら。お皿、洗ってきなさい」


***


息子は、台所へ行った。

国の会議に出た男が、皿を洗いに行った。


***


総一郎は、聞いていた。


三十年、証券会社にいた。

長い話は、頭の中で一枚にまとめる癖があった。


***


勤め先は、アメリカのCIAだった。

国の、情報機関だった。


五十年前の案件を、掘り返した。

上から、触るなと言われた。


戻ってこいと言われて、戻らなかった。


***


それで、先週。

本人に知らされないまま、記録から消された。


名簿にも、旅券にも、もういなかった。


***


「何て」


妻が、小声で聞いた。


「勤め先を。クビに、なったそうだ」


「あら」


妻は、大きい湯呑みを満たした。


***


話は、四十分かかった。

奥さんは、一度も口を挟まなかった。


手帳に、何か書いていた。


***


『ジョン』は、話し終えて、湯呑みを空けた。


奥さんが、顔を上げた。


最初の質問は、神様のことではなかった。


***


「給料が、止まったのは。いつ」


「火曜の、夜、九時だ」


奥さんは、書いた。


「最後の、振り込みは」


「……二月の、末だ」


書いた。


***


「退職金は」


「いなかった、ことに、なってる。出ない」


「年金は」


「いなかった、ことに……」


「書類で、出して」


***


総一郎は、感心していた。


経理の聞き方だった。

うちの部に欲しかった。


***


「何て」


「お金の、話だ」


「大事ね」


妻も、感心していた。


***


奥さんは、手帳を閉じた。

それから、子供のほうを見た。


金色のボタンを見た。


***


「あれは」


『ジョン』が、総一郎を見た。


訳してくれ、という顔だった。

自分では、説明できないらしかった。


***


「わしが、言う」


子供が言った。

娘を起こさないように、小声だった。


「神で、あるぞよ」


***


総一郎は、詰まった。


三十年、英語で数字を話してきた。

神を訳したことは、なかった。


***


「……ゴッド」


「大きすぎる」


『ジョン』が言った。


「スピリット」


「幽霊みたいだ」


***


「守護神じゃ。正確に、訳せ」


「正確に訳すと、通じないんです」


***


総一郎は、少し考えた。


「父の、古い、友人です」

「うちに、住んでいます」


英語で、そう言った。


***


「……友人」


子供は、口をとがらせた。


「まあ。間違うては、おらん」


***


奥さんは、子供を見た。

娘の寝顔を見た。


娘は、子供の肩で、よだれを垂らしていた。


***


「オーケー」


それだけ、言った。


***


「……それだけか」


『ジョン』が言った。


「この子が、先に、友だちに、なってる」

「私が、説明を、聞くのは。順番が、あと」


総一郎が、訳した。


***


「えらいわね」


妻が言った。


娘のことか、母親のことか、分からなかった。

たぶん、両方だった。


***


奥さんは、もう一度手帳を開いた。

最後のページだった。


ペンが、止まった。


***


一行目に、うちの名字が書いてあった。

英語で、きれいな字だった。


金額の欄だけ、空いていた。


***


「ごはんに、値段は、ないのよ」


妻が言った。

見なくても、分かったらしかった。


総一郎は、訳した。


***


奥さんは、長いこと欄を見ていた。


それから、三文字だけ書いた。


***


『TBD』


未定、という意味だった。


会計士が、帳簿に未定と書くのは。

たぶん、初めてだった。


***


息子の席のことは、誰も話さなかった。


『ジョン』も、言わなかった。

総一郎も、訳さなかった。


それは、息子が自分で言うことだった。


***


台所から、息子が戻ってきた。


手が、赤かった。


「で。何の、話だった」


***


「為替だ」


総一郎は言った。


『ジョン』が、一升瓶に手を伸ばした。


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