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第百十四章 紙、一枚

「どちらの、脚で、ございますか」


鷲尾が言った。

椅子の話だった。


***


三月九日。火曜日。

警察病院の、個室だった。


***


鷲尾は、きょうも窓を見ていた。

布団に、しわがなかった。


***


赤城さんが、一言だけ言った。


「椅子は、直った。後任が、直した」


***


鷲尾の目が、窓から離れた。

俺に、来た。


それで、脚の話になった。


***


「右の、後ろです」


「何で」


「床を。紙、一枚ぶん、盛りました」


***


鷲尾の眉が、少し動いた。


「……一枚」


「私の、見立てでは。一枚と、半分で、ございました」


***


半分、足りなかった。


百四十年傾いていた椅子は、まだ紙半分、傾いているらしかった。


***


「細かいのぉ」


肩の上で、メレオスが言った。


「大臣と、同じじゃ」


***


赤城さんには、聞こえている。

何も、言わなかった。


***


「次の、席で。お願い、いたします」

「半分」


「……うん」


一回だった。

宿題が、二件になった。


***


「零度は。何と」


「よろしい、と」

「持ち帰って、検討します、と。言ったら」


***


鷲尾は、長いこと俺を見ていた。


「……通りましたか」


「通りました」


***


「一度は、通ります」

「二度は、通りません」


「零度は。同じ、返事を。二度、お聞きに、なりません」


***


「なぜ、教える」


赤城さんが言った。


「椅子を。直して、いただき、ましたので」

「ほかに、理由は、ございません」


羊羹のときと、同じ答えだった。


***


「次は。紅茶を、持って、いきます」


鷲尾の眉が、また動いた。


「円卓に。茶は、出ません」


「知ってます」


***


「百四十年、で、ございます」

「……私も。気に、なって、おりました」


母と、同じ意見だった。

円卓の中にも、一人いた。


***


「カップは。七つ、お持ち、ください」

「揃いで」


うちのは、六つだった。

一つ、足りなかった。


***


鷲尾は、窓に戻った。


「大臣」

「私は、変わりません」


***


少し、間があった。


「……椅子は。変わり、ましたが」


***


廊下に出た。


「紙、半分だ」


赤城さんが言った。


「忘れるな」


大臣も、気になるほうの人だった。


***


長椅子に、『レスラー』がいた。

丸いものを、持っていた。


「あんを、入れた」


「……あんパンですか」


「あんパンに、なった」


満足そうだった。


***


同じころ。

東海岸の、窓のない部屋だった。


***


男が、紙を三枚読んでいた。

面は、つけていなかった。


円卓では、西経七十五度と呼ばれていた。


***


一枚目は、ロンドンから帰った四人の報告だった。


追い返された。けがはない。

なぜ帰ったのか、本人たちにも分からない。


***


二枚目は、一行だった。

西経百二十度からだった。


あの方が、ついている。


***


三枚目は、東京からの返事だった。


照会の件は、所管の部署で確認中。

回答の目安は、三か月。


***


男は、その行を二度読んだ。


「……役所は、遅い」


自分で言った言葉だった。


***


受話器を取った。


「役所を通らない道が、一つある」

「宿帳だ。あの町に、ホテルは一軒しかない」


***


「……人を、やるのか」


低くて、ゆっくりした声だった。


「もう、やった」


電話は、そこで切れた。


***


西海岸の部屋で、受話器を置いた男がいた。


もう一度、取った。

番号を、途中まで押した。


置いた。


***


モルクヴィークは、まだ雪の中だった。


赤い屋根のホテルに、宿帳が一冊あった。


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