第百十一章 お帰りは、あちら
「おしぼりで、ござる」
『ブル』が言った。
『ジョン』の前の、湯気の話だった。
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三月五日。金曜日。
夜の九時だった。
おとといの、パブだった。
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亭主が、布巾を熱い湯でしぼったものだった。
「……出るじゃないか」
「今宵だけで、ござる」
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『ジョン』は、顔を拭いた。
今夜、片づけられる予定の男だった。
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「座って、待つので、ござる」
「注文は。こちらから、取りに、参る」
「……きょうは、来るのか」
おとといと、逆だった。
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表の戸には、『レスラー』が立っていた。
戸は、『レスラー』でふさがっていた。
裏口には、共さんが立っていた。
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俺は、裏口の敷居に手をついた。
指一本ぶん、盛った。
昼の椅子より、少し多かった。
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「何を、した」
『ジョン』が聞いた。
「敷居を、高くしました」
「……古い、店だからな」
そういうことに、なった。
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面の豆は、耳に入れ直してあった。
「この、街は。カメラが、多くて、助かります」
『ギーク』だった。
借りているらしかった。誰に、とは聞かなかった。
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「来ます」
「表に、二人。裏に、二人」
鐘が、鳴った。
ラストオーダーには、早かった。
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表の戸が、外から押された。
動かなかった。
「満席だ」
『レスラー』が言った。
日本語だった。
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通じていなかった。
通じなくても、通れなかった。
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一人が、上着の中に手を入れた。
『レスラー』は、二人の肩に手を置いた。
持ち上げて、向きを変えて、置いた。
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合気では、なかった。
腕力だった。
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裏口は、静かだった。
一人目が、敷居でつまずいた。
共さんが、袖を取った。
半歩、回った。
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「お帰りは。あちらで、ございます」
男は、路地のほうを向いていた。
なぜ向いているのか、分かっていない顔だった。
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二人目は、殴りかかった。
同じだった。
半歩で、同じほうを向いた。
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じいちゃんの道場で、最初に習うやつだった。
俺も、習った。
共さんのは、俺より半歩少なかった。
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四人とも、来た道を帰っていった。
誰も、殴られていなかった。
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「もう、一人」
『ギーク』が言った。
「表です。一人だけです」
「手ぶらです」
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『ジョン』が、窓を見た。
長いこと、見ていた。
「……通せ」
「俺の、客だ」
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『レスラー』が、戸を空けた。
年配の男だった。
コートを着ていた。面は、つけていなかった。
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普通の顔だった。
課長の席に座っていても、おかしくなかった。
昼に、低くてゆっくり喋った人だった。
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英語だった。
耳の中で、です、ます、になった。
「今夜の便を、取ってあります」
「一緒に、来てください」
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「お断りします」
『ジョン』だった。
『ジョン』の英語まで、ていねいに届いた。
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裏口から、足音がした。
共さんだった。
『ジョン』の後ろに立った。
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男の目が、止まった。
昼に、卓の端に立っていた顔だった。
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頭が、重くなった。
「夜も、やるぞ」
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共さんの首が、傾いた。
面がないので、今度は見えた。
かくん、では、なかった。
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男は、一歩下がった。
「……そういうことですか」
どういうことかは、向こうが決めた。
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男は、『ジョン』を見た。
俺のことは、見なかった。
昼に、同じ卓に座っていた面の中身だとは、思っていない目だった。
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「今夜は、帰ります」
戸のほうへ、歩いた。
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『ジョン』が、何か言った。
短かった。
「知っていて、座ったのですか」
耳が、言った。
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男は、振り向かなかった。
「椅子は、空けておくと、誰かが座ります」
戸が、閉まった。
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『ジョン』は、長いこと戸を見ていた。
「……訳すか」
「聞こえてました」
「そうか」
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十時五十分だった。
鐘が、鳴った。
誰も、立たなかった。
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「ラスト、オーダーだ」
『ジョン』が言った。
財布を持って、立った。
「俺の、番だ」
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カウンターへ、自分で行った。
「とりあえず、生」
日本語だった。
亭主は、茶色いのを五つ注いだ。
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ぬるかった。
『ジョン』は、何も言わなかった。
一円まで、とも言わなかった。
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敷居は、帰りに戻した。
三月五日が、やっと終わった。




