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第百十一章 お帰りは、あちら

「おしぼりで、ござる」


『ブル』が言った。

『ジョン』の前の、湯気の話だった。


***


三月五日。金曜日。

夜の九時だった。


おとといの、パブだった。


***


亭主が、布巾を熱い湯でしぼったものだった。


「……出るじゃないか」


「今宵だけで、ござる」


***


『ジョン』は、顔を拭いた。


今夜、片づけられる予定の男だった。


***


「座って、待つので、ござる」

「注文は。こちらから、取りに、参る」


「……きょうは、来るのか」


おとといと、逆だった。


***


表の戸には、『レスラー』が立っていた。

戸は、『レスラー』でふさがっていた。


裏口には、共さんが立っていた。


***


俺は、裏口の敷居に手をついた。


指一本ぶん、盛った。

昼の椅子より、少し多かった。


***


「何を、した」


『ジョン』が聞いた。


「敷居を、高くしました」


「……古い、店だからな」


そういうことに、なった。


***


面の豆は、耳に入れ直してあった。


「この、街は。カメラが、多くて、助かります」


『ギーク』だった。

借りているらしかった。誰に、とは聞かなかった。


***


「来ます」

「表に、二人。裏に、二人」


鐘が、鳴った。


ラストオーダーには、早かった。


***


表の戸が、外から押された。

動かなかった。


「満席だ」


『レスラー』が言った。

日本語だった。


***


通じていなかった。

通じなくても、通れなかった。


***


一人が、上着の中に手を入れた。


『レスラー』は、二人の肩に手を置いた。

持ち上げて、向きを変えて、置いた。


***


合気では、なかった。

腕力だった。


***


裏口は、静かだった。


一人目が、敷居でつまずいた。


共さんが、袖を取った。

半歩、回った。


***


「お帰りは。あちらで、ございます」


男は、路地のほうを向いていた。

なぜ向いているのか、分かっていない顔だった。


***


二人目は、殴りかかった。


同じだった。

半歩で、同じほうを向いた。


***


じいちゃんの道場で、最初に習うやつだった。

俺も、習った。


共さんのは、俺より半歩少なかった。


***


四人とも、来た道を帰っていった。


誰も、殴られていなかった。


***


「もう、一人」


『ギーク』が言った。


「表です。一人だけです」

「手ぶらです」


***


『ジョン』が、窓を見た。

長いこと、見ていた。


「……通せ」

「俺の、客だ」


***


『レスラー』が、戸を空けた。


年配の男だった。

コートを着ていた。面は、つけていなかった。


***


普通の顔だった。

課長の席に座っていても、おかしくなかった。


昼に、低くてゆっくり喋った人だった。


***


英語だった。

耳の中で、です、ます、になった。


「今夜の便を、取ってあります」

「一緒に、来てください」


***


「お断りします」


『ジョン』だった。

『ジョン』の英語まで、ていねいに届いた。


***


裏口から、足音がした。


共さんだった。

『ジョン』の後ろに立った。


***


男の目が、止まった。


昼に、卓の端に立っていた顔だった。


***


頭が、重くなった。


「夜も、やるぞ」


***


共さんの首が、傾いた。


面がないので、今度は見えた。

かくん、では、なかった。


***


男は、一歩下がった。


「……そういうことですか」


どういうことかは、向こうが決めた。


***


男は、『ジョン』を見た。

俺のことは、見なかった。


昼に、同じ卓に座っていた面の中身だとは、思っていない目だった。


***


「今夜は、帰ります」


戸のほうへ、歩いた。


***


『ジョン』が、何か言った。

短かった。


「知っていて、座ったのですか」


耳が、言った。


***


男は、振り向かなかった。


「椅子は、空けておくと、誰かが座ります」


戸が、閉まった。


***


『ジョン』は、長いこと戸を見ていた。


「……訳すか」


「聞こえてました」


「そうか」


***


十時五十分だった。


鐘が、鳴った。


誰も、立たなかった。


***


「ラスト、オーダーだ」


『ジョン』が言った。

財布を持って、立った。


「俺の、番だ」


***


カウンターへ、自分で行った。


「とりあえず、生」


日本語だった。

亭主は、茶色いのを五つ注いだ。


***


ぬるかった。


『ジョン』は、何も言わなかった。

一円まで、とも言わなかった。


***


敷居は、帰りに戻した。


三月五日が、やっと終わった。


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