第百八章 うん、うん
「角が、ございません」
共さんが言った。
面の話だった。
***
三月四日。木曜日。
ロンドンは、曇りだった。
朝の九時だった。
***
宿の部屋の、ベッドを壁に寄せた。
真ん中に、椅子を一つ置いた。
0課の稽古と、同じ形だった。
***
箱から、面を出した。
白かった。
塗りが、ところどころはげていた。
鬼では、なかった。
***
つけて、座った。
穴が小さくて、前が半分しか見えなかった。
共さんが、後ろに立った。
***
「思い出します、と、申しました」
「思い出して、おります」
「どうですか」
「……思い出した、角は。面白う、ございません」
***
後ろで、音がした。
かくん、と。
「十一度で、ございます」
「分度器に、戻ってる」
『ジョン』が言った。
***
「何を、やってるんだ」
『レスラー』が言った。
0課の稽古の日は、病院にいた人だった。
***
「首を、傾げる、稽古です」
「面白いものを、見ないと。傾かないんです」
『レスラー』は、少し考えた。
***
ポケットから、スコーンを出した。
頭に、のせた。
***
「食べものは」
共さんが言った。
「頭に、のせる、もので、ございません」
叱られていた。
『レスラー』は、黙って下ろして、食べた。
***
「わしが、やる」
肩が、軽くなった。
頭が、重くなった。
「何、してるんだ」
「角じゃ」
***
面の穴からは、上は見えない。
「指を、二本、立てとる」
「神の、角じゃ」
***
前だけ、見えた。
『ジョン』が、俺の後ろを見ていた。
口が、少し開いていた。
「……傾いた」
***
「神様が。角を、なさって、おられます」
後ろで、声がした。
真顔の声だった。
「面白う、ございます」
***
『ブル』だけが、違うところを見ていた。
俺の頭の上と、俺の後ろを、行ったり来たりしていた。
***
「……そこに、おられるので、ござるか」
「います。頭の上に」
「見えぬ」
***
「見えぬ、ものを、見て。首を、傾げて、おられる」
「……肝が、冷え申す」
見えない人には、そう見える。
円卓は、全員、見えない人だった。
***
「あすも、やるぞ。わしは」
八つ目の席は、角の役になった。
***
「次は、小沢くんだね」
机の上で、声がした。
スマホの画面に、課長がいた。
***
東京は、夕方の六時だった。
「定時、だからね。手短に、いこう」
うしろを、加藤さんが帰っていった。
***
『ブル』が、椅子の背に手を置いた。
声が、低くなった。
「東経、百三十五度」
「そなたの、国の、扉は。いつ、開く」
「うん、うん」
***
「困って、おる」
『ブル』が言った。元の声だった。
「腹が、痛い」
『ジョン』が言った。
「謝ってる」
『レスラー』が言った。
***
三人とも、違った。
三人とも、合っていた。
***
「課長。二回、言うと。考えて、いるように、聞こえる、って」
「うん、うん」
聞こえた。
本当に、考えているように聞こえた。
***
「……何を、考えてるんですか。それ」
「晩ごはん、だね」
***
「きょうは、さばの、日なんだ」
「みそか、塩か。うん、うん」
考えていた。本当に。
***
「ふりは、だめなんだよ。小沢くん」
「本当に、考えるんだ。別の、ことを」
会議のあいだ、ずっと晩ごはんを考えてきた人だった。
***
「何を、聞かれてるか。分からなかったら」
「私も。会議の、半分は、分かって、ないよ」
「うん、うん」
0課は、それで回っていた。
***
別のこと。
帰りのことを、考えた。
十四時間、あった。鉄の塊だった。
***
「東経、百三十五度」
「前の、席の、者は。どうした」
「……うん、うん」
***
部屋が、静かになった。
「……深う、考えて、おられる」
『ブル』が言った。
「何を、考え申した」
「帰りの、飛行機です」
***
「それは、本当に、考えてる声だ」
『ジョン』が言った。
飛行機の俺を、知っている人だった。
***
「同じじゃな」
頭の上で、メレオスが言った。
「共は、角を、見とる。お主は、鉄の、塊を、考えとる」
「ふりは、しとらん」
***
「嘘は。申して、おりません」
共さんが言った。
中身が、違うだけだった。
***
「うん。それで、いこう」
課長が言った。
腕時計を、見ていた。
***
「小沢くん」
「あしたは。うん、うん、で、いいからね」
「はい」
「一つだけ。一回で、頼むよ」
***
「帰って、くるんだよ」
***
上の人に、うん、は言いにくい。
稽古のときに、そう言った。
「……うん」
一回だった。
***
課長は、うなずいた。
「じゃあ。さばが、待ってるから」
画面が、消えた。
***
三月五日まで、あと一日だった。




