幕間 とりあえず、生
「討ち入りの、前で、ござる」
『ブル』が言った。
飲み会の話だった。
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三月三日。水曜日。
ロンドンは、めずらしく晴れていた。
夜の七時だった。
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「討ち入りの、前は。そば屋の、二階で、ござる」
「……パブですよね、ここ」
「一階で、ござるな」
時代劇で覚えた段取りだった。
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「前の、晩じゃ、ないんですか。ああいうのは」
「前の、晩に、飲めば。当日、使えぬ」
「ゆえに。二日、前で、ござる」
そこだけ、現実的だった。
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「つけられたら、どうする」
『ジョン』が言った。
きのうの今日だった。
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「この、店は。亭主が、昔の、同僚で、ござる」
「知らぬ、顔が、入れば。鐘を、鳴らし申す」
カウンターの上に、小さい鐘が下がっていた。
亭主は、黙ってグラスを拭いていた。
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木の卓に、六人で座った。
見えるのは、五人だった。
『レスラー』は、二日ぶりに起きていた。
座ると、椅子が鳴った。
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『ジョン』は、座って待っていた。
五分、待った。
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「……来ないな」
「誰が、で、ござる」
「店の、人間だ。注文を、取りに」
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「参らぬ」
「あそこへ、自分で、参る」
『ブル』は、カウンターを指した。
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「……ボタンは」
「ボタン」
「押すと、来る、やつだ」
「ござらぬ」
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『ジョン』は、卓の上を探した。
裏も見た。
なかった。
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「おしぼりは」
「ござらぬ」
「お通しは」
「ござらぬ」
「……座ったら、出るだろう。黙ってても」
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「アメリカでも、出ないですよね」
俺が言うと、『ジョン』はこっちを見た。
「出ない」
「だから、言ってる」
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日本から来た三人は、黙って座っていた。
怒っているのは、アメリカ人だった。
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『ブル』が、カウンターから戻ってきた。
盆に、グラスを五つのせていた。
茶色かった。
泡が、なかった。
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「とりあえず、生、だろう」
「これが、生で、ござる」
「樽の、中で。まだ、生きて、おる」
本当のことらしかった。
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『ブル』は、もう飲んでいた。
「待て」
「乾杯が、まだだ」
「飲めば、よかろう」
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「音頭は、誰だ。幹事は」
「主は、拙者。幹事は、おらぬ」
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『ジョン』は、立った。
「えー」
「本日は。お忙しい、ところ」
誰も、頼んでいなかった。
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大臣の乾杯より、長かった。
「乾杯」
言ったのは、『ジョン』と、日本から来た三人だった。
『ブル』は、二口目だった。
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『ジョン』は、一口飲んだ。
止まった。
「……ぬるい」
「冷やせば。味が、死に申す」
「冷やせ。殺せ」
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「熱燗は、ほめてましたよね。発明だ、って」
「あれは、温めて、ある」
「これは、冷やして、ない」
「違うだろう」
違うらしかった。
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共さんは、両手でグラスを持っていた。
一口、飲んだ。
首から、赤くなった。
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「……効きます」
「ぬるいと。なお、効きます」
背筋は、さっきより伸びていた。
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メレオスは、俺のグラスを一口なめた。
顔を、しかめた。
「苦い」
「徳利は、ないのか」
「ない」
「……神の、飲みものでは、ないな」
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食べものが来た。
揚げた魚と、揚げた芋だった。
それだけだった。
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「枝豆は」
「ござらぬ」
「冷ややっこは。たこわさは」
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「……東京が、恋しゅう、ござるか」
「恋しい」
即答だった。
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グラスが、空いた。
「次は、ヤンキーの、番で、ござる」
「何の」
「おごる、番で、ござる」
「順に、一人ずつ。皆に、おごる」
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「主催、だろう。あんたが」
「一杯目は、持ち申した」
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「会費は」
「取らぬ」
「割り勘は」
「野暮で、ござる」
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「五人、いるんだぞ」
「全員が、おごったら。五杯、飲むことに、なる」
「左様」
***
「……一円まで、割ったほうが、早い」
加藤さんが聞いたら、うなずく台詞だった。
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『ジョン』は、財布を持ってカウンターへ行った。
文句を言いながら、行った。
英語でも、言っていた。
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『レスラー』の番だった。
「三つ、くれ」
自分の前に、三つ並べた。
「皆の、ぶんは」
「……順番、だろう」
順番の意味が、違っていた。
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共さんの番だった。
グラスは、まだ一杯目だった。番は、番だった。
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カウンターの前で、頭を下げていた。
四十五度だった。
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亭主が、初めて手を止めた。
同じだけ、下げ返した。
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「……あれは、通じるのか」
「通じて、おり申すな」
『ブル』も、知らなかったらしい。
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俺の番だった。
「ハイボール」
通じなかった。
「ウイスキー。ソーダ」
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亭主は、ウイスキーを出した。
ソーダを、別に出した。
混ぜるのは、自分だった。
何でも、自分でやる国だった。
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十時五十分だった。
鐘が、鳴った。
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『レスラー』が、立った。
『ジョン』の手が、上着の中に入った。
俺は、戸を見た。
誰も、入ってきていなかった。
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「ラスト、オーダーで、ござる」
「……同じ、鐘なんですか」
「鐘は、一つで、ござる」
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「まだ、十一時前だぞ」
「十一時で、閉め申す」
「二次会は」
「ござらぬ」
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「締めは。ラーメンは」
「宿で、寝るのが。締めで、ござる」
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『ジョン』は、ぬるいグラスを置いた。
「この国は」
「よく、戦争に、勝ったな」
「早う、寝るゆえで、ござる」
***
店を出た。
十一時、ちょうどだった。
通りは、もう暗かった。
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「郷に、入っては。郷に、従え、で、ござる」
「それは、日本の、ことわざだ」
「左様」
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『ブル』は、少し黙った。
「……おしぼりは。よい、もので、ござった」
二十年、東京にいた人だった。
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「帰ったら、居酒屋だ」
「店は、俺が、選ぶ」
「割り勘で、ござるか」
「一円までだ」
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三月五日まで、あと二日だった。




