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第百七章 顔と、声

「昔の、上司だ」


『ジョン』が言った。

会ってきた人の話だった。


***


三月二日。火曜日。

ロンドンは、夜になっても雨だった。


十一時を回っていた。


***


『ジョン』は、戸口に立っていた。

髪から落ちた水が、床に丸く溜まっていた。


***


部屋は、俺と『レスラー』で一つだった。

『レスラー』は、朝と同じ向きで寝ていた。


共さんと『ブル』も、ここで待っていた。


***


「上の、上の、人ですか」


「違う。その、下だ」

「俺と、上の上の、あいだに、いた男だ」


一段、近くなっていた。


***


「何で、ロンドンに、いるって」


「入国の、記録だ」

「サイトシーイング、と、書いてあった、そうだ」


「……信じて、もらえたんですか」


「誰も、信じて、なかった」


審査官も、信じていなかった。


***


俺は、タオルを出した。

『ジョン』は、受け取らなかった。


ポケットから、スマホを出した。


「録った」


***


「紳士は。人の、話を、録らぬ」


「紳士じゃ、ない」

「仕事だ」


***


机に置いて、指で押した。


***


皿の音がした。

店の中らしかった。


それから、男の声がした。

英語だった。低くて、ゆっくりだった。


***


共さんは、目を閉じていた。


始まる前から、閉じていた。

五十六年、そうしていた人の閉じ方だった。


***


「……サイトシーイングか、だ」


『ジョン』が訳した。


「俺は、そうだ、と、言った」


目が泳いだかどうかは、録音では分からなかった。


***


男が、また何か言った。

短かった。


『ジョン』の声は、しなかった。

皿の音だけが続いた。


***


男が、もう一度言った。


「……一人だな、だ」


***


「答えなかったんですか」


「答えて、ない」

「向こうが、決めた」


***


「嘘は。申して、おられません」


共さんが言った。

目は、閉じたままだった。


***


五日に、共さんがやることだった。

『ジョン』が、先にやっていた。


***


「調べれば、分かるでしょう。俺たちのこと」


「分かる」

「三日は、かかる」

「役所だ。どこの、国でも」


役所が遅いのを、初めてありがたいと思った。


***


録音の男が、長く喋った。


『ジョン』は、すぐには訳さなかった。


***


「……西へ、移った、だ」

「椅子が、一つ、空いてな、だ」


***


西海岸の、書斎の席だった。

声が、途中で切れた席だった。


***


「座ったんだ。あいつが」


「前の、人が。どう、なったか」


「知ってる、はずだ」

「……聞けなかった」


***


『ジョン』は、床の水を見ていた。


「俺に。尾行を、教えた、男だ」


***


録音の中で、電話が鳴った。


男が出た。

一言だけ、言った。


「……セブンティ・ファイブ」


***


『ジョン』は、そこで止めた。


「七十五、だ」

「名前で、呼ばなかった」

「昔は。名前で、呼んでた」


***


「円卓では」


共さんが言った。


「数で、呼びます」

「席の、ある、方、どうしが」


***


『ジョン』は、うなずいた。

もう一度、押した。


***


声が、変わった。


遠かった。

電話を、こっちへ向けた声だった。


***


尖っていた。

吐き捨てるように言って、切れた。


***


『ブル』の眉が、片方上がった。

訳す前だった。


***


共さんの目が、開いた。


「存じて、おります」


***


「去年の。冬至の、前に。聞いた、お声です」

「西経、七十五度の、方です」


***


「機械を、通しても。分かるのか」


「あの、ときも」

「機械を、通した、お声でした」


ほかの聞き方を、したことがない声だった。


***


「三時間で、電話を、くれた、声だ」


『ジョン』が言った。


「かも、しれない、じゃ、なくなった」

「向こうは。俺の、声を、知ってる」


***


「先の、お声は」


共さんは、続けた。


「存じません」

「……新しい、方かと」


***


新しい席の者は、顔も声も知られていない。

『ブル』が、そう言っていた。


***


向こうの新しい席は、今夜、両方知られた。


顔は、『ジョン』が持っていた。

声は、共さんが持っていた。


***


こっちの新しい席は、まだどっちも知られていなかった。


さえない顔だった。


***


「何て、言ったんですか。最後の、声」


「五日は。ロンドンに、いるな、だ」


***


「いるな、と、申すからには」


『ブル』が言った。


「五日は。本人が、参り申す」

「機械は、通さずに」


七つ、揃う日だった。


***


「帰るんですか」


「帰らない」

「辞めろ、とは。言われて、ない」


前にも、聞いた台詞だった。


***


「つけられて、ないんですか。ここまで」


「つけられた」

「まいた」

「教わった、とおりに」


それで、濡れていた。


***


「あんたの、より。うまかったぞ」


『ジョン』は、寝ている『レスラー』に言った。


「……見えて、ない」


寝言だった。


***


「五日は、どうするんですか」


「サイトシーイングだ」

「列に、並ぶ。線を、またぐ」


目は、泳いでいなかった。


***


「呼ばれて、おらんのに。行くのか」


肩の上で、メレオスが言った。


「破門じゃ」


入門も、していなかった。


***


時計が、十二時を回った。


三月五日まで、あと二日だった。


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