第百七章 顔と、声
「昔の、上司だ」
『ジョン』が言った。
会ってきた人の話だった。
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三月二日。火曜日。
ロンドンは、夜になっても雨だった。
十一時を回っていた。
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『ジョン』は、戸口に立っていた。
髪から落ちた水が、床に丸く溜まっていた。
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部屋は、俺と『レスラー』で一つだった。
『レスラー』は、朝と同じ向きで寝ていた。
共さんと『ブル』も、ここで待っていた。
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「上の、上の、人ですか」
「違う。その、下だ」
「俺と、上の上の、あいだに、いた男だ」
一段、近くなっていた。
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「何で、ロンドンに、いるって」
「入国の、記録だ」
「サイトシーイング、と、書いてあった、そうだ」
「……信じて、もらえたんですか」
「誰も、信じて、なかった」
審査官も、信じていなかった。
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俺は、タオルを出した。
『ジョン』は、受け取らなかった。
ポケットから、スマホを出した。
「録った」
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「紳士は。人の、話を、録らぬ」
「紳士じゃ、ない」
「仕事だ」
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机に置いて、指で押した。
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皿の音がした。
店の中らしかった。
それから、男の声がした。
英語だった。低くて、ゆっくりだった。
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共さんは、目を閉じていた。
始まる前から、閉じていた。
五十六年、そうしていた人の閉じ方だった。
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「……サイトシーイングか、だ」
『ジョン』が訳した。
「俺は、そうだ、と、言った」
目が泳いだかどうかは、録音では分からなかった。
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男が、また何か言った。
短かった。
『ジョン』の声は、しなかった。
皿の音だけが続いた。
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男が、もう一度言った。
「……一人だな、だ」
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「答えなかったんですか」
「答えて、ない」
「向こうが、決めた」
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「嘘は。申して、おられません」
共さんが言った。
目は、閉じたままだった。
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五日に、共さんがやることだった。
『ジョン』が、先にやっていた。
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「調べれば、分かるでしょう。俺たちのこと」
「分かる」
「三日は、かかる」
「役所だ。どこの、国でも」
役所が遅いのを、初めてありがたいと思った。
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録音の男が、長く喋った。
『ジョン』は、すぐには訳さなかった。
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「……西へ、移った、だ」
「椅子が、一つ、空いてな、だ」
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西海岸の、書斎の席だった。
声が、途中で切れた席だった。
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「座ったんだ。あいつが」
「前の、人が。どう、なったか」
「知ってる、はずだ」
「……聞けなかった」
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『ジョン』は、床の水を見ていた。
「俺に。尾行を、教えた、男だ」
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録音の中で、電話が鳴った。
男が出た。
一言だけ、言った。
「……セブンティ・ファイブ」
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『ジョン』は、そこで止めた。
「七十五、だ」
「名前で、呼ばなかった」
「昔は。名前で、呼んでた」
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「円卓では」
共さんが言った。
「数で、呼びます」
「席の、ある、方、どうしが」
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『ジョン』は、うなずいた。
もう一度、押した。
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声が、変わった。
遠かった。
電話を、こっちへ向けた声だった。
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尖っていた。
吐き捨てるように言って、切れた。
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『ブル』の眉が、片方上がった。
訳す前だった。
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共さんの目が、開いた。
「存じて、おります」
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「去年の。冬至の、前に。聞いた、お声です」
「西経、七十五度の、方です」
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「機械を、通しても。分かるのか」
「あの、ときも」
「機械を、通した、お声でした」
ほかの聞き方を、したことがない声だった。
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「三時間で、電話を、くれた、声だ」
『ジョン』が言った。
「かも、しれない、じゃ、なくなった」
「向こうは。俺の、声を、知ってる」
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「先の、お声は」
共さんは、続けた。
「存じません」
「……新しい、方かと」
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新しい席の者は、顔も声も知られていない。
『ブル』が、そう言っていた。
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向こうの新しい席は、今夜、両方知られた。
顔は、『ジョン』が持っていた。
声は、共さんが持っていた。
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こっちの新しい席は、まだどっちも知られていなかった。
さえない顔だった。
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「何て、言ったんですか。最後の、声」
「五日は。ロンドンに、いるな、だ」
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「いるな、と、申すからには」
『ブル』が言った。
「五日は。本人が、参り申す」
「機械は、通さずに」
七つ、揃う日だった。
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「帰るんですか」
「帰らない」
「辞めろ、とは。言われて、ない」
前にも、聞いた台詞だった。
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「つけられて、ないんですか。ここまで」
「つけられた」
「まいた」
「教わった、とおりに」
それで、濡れていた。
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「あんたの、より。うまかったぞ」
『ジョン』は、寝ている『レスラー』に言った。
「……見えて、ない」
寝言だった。
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「五日は、どうするんですか」
「サイトシーイングだ」
「列に、並ぶ。線を、またぐ」
目は、泳いでいなかった。
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「呼ばれて、おらんのに。行くのか」
肩の上で、メレオスが言った。
「破門じゃ」
入門も、していなかった。
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時計が、十二時を回った。
三月五日まで、あと二日だった。




