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第百六章 傘で、ござるゆえ

「三度、参った」


『ブル』が言った。

グリニッジの話だった。


***


三月二日。火曜日。

ロンドンは、雨だった。


俺たちは、店へ向かって歩いていた。


***


『レスラー』は、宿で寝ている。

昨日のロンドン半周の尾行で、横になったまま動かなくなった。


共さんも、宿に残った。首の稽古だそうだ。


***


『ブル』は、『ジョン』の折りたたみの下にいた。三回目だ。

傘は、まだ店にある。

だから『ブル』の手は、相変わらず、持つものを探して浮いていた。


俺はフードをかぶって、その半歩後ろを歩いた。


***


「十年、前に。いちばん、先に、疑い申した」


『ブル』は、前を向いたまま続けた。


「零度で、ござるゆえ」

「国へ、帰る、たびに。参った」

「三度とも。列に、並び申した」

「線を、またいで。帰り申した」


***


「……それだけか」


『ジョン』が言った。


「それだけで、ござる」


***


『ブル』は、空いているほうの手を内ポケットに入れた。

出てきたのは、写真だった。


三枚あった。


***


どれも、線をまたいでいた。

東経と西経に片足ずつ置いて、真顔で立っていた。


三枚とも、同じ顔だった。


***


「証で、ござる」


「何の」


「参った、証で、ござる」


***


写真の『ブル』は、傘を持っていなかった。

手が、今と同じように浮いていた。


「傘は」


「東京に、置いて、参った」

「ロンドンへ、持って、参れば。職人に、見つかり申す」


***


二十年、逃げていた人だった。


***


「戸は、見なかったんですか」


俺が聞くと、『ブル』は写真から目を上げずに答えた。


「見申した」

「庭師の、戸と、思い申した」


***


『ジョン』が、三枚目を取った。


端のほうを、長いこと見ていた。


「……写ってるぞ」


***


緑の戸だった。


***


「写って、おり申すな」


『ブル』の声は、変わらなかった。


「十年、探して。横に、あったのか」


「……左様」


***


「開けて、みなかったのか」


『ジョン』が、写真を突き返すように差し出した。


「紳士は。人の、戸を、開けぬ」


「仕事だろう」


「仕事でも、で、ござる」


***


「同門じゃ」


肩の上で、メレオスがうなずいていた。


「呼ばれんと、入らん。……ええ、心がけじゃ」


***


ほめていた。


ほめるところでは、なかった。


***


店に着いた。


鈴が鳴った。


***


職人は、台の前にいた。


台の上に、傘が一本、置かれていた。


***


細かった。

ひだが、一枚ずつ同じ幅で寝ていた。


***


『ブル』は、帽子を取った。

それから、両手を出した。


職人は、その手に傘をのせた。


***


三日のあいだ浮いていた手が、浮かなくなった。


***


職人が、何か言った。

短かった。


「次は、一年だ」


『ジョン』が訳した。


***


「心得た」


日本語だった。


職人は、うなずかなかった。


***


前掛けのポケットから、葉書を一枚出した。


もう、書いてあった。


***


『ジョン』が、横からのぞいた。


「……スティル」

「まだか、だ」

「日付が。来年の、一月だ」


***


「まだ、三月ですよ」


俺が言うと、職人は俺を見もしなかった。


信用が、なかった。


***


『ブル』は、内ポケットから束を出した。

細い紐を、十文字にほどいた。


一枚、足した。


***


二十一枚目だった。


縛り直して、またポケットに戻した。


***


店を出た。


雨は、まだ降っていた。


***


『ブル』は、傘を持っていた。


差さなかった。


***


「差さないんですか」


「巻いた、ばかりで、ござる」

「三日、かかった、巻きで、ござる」


***


『ジョン』が、折りたたみを半分、『ブル』のほうへ出した。


三回目だった。


***


『ブル』が、入ろうとした。


***


鈴が鳴った。


店の戸が、開いていた。

職人だった。


***


何か言った。

大きい声だった。


あの小さい体から出る声では、なかった。


***


「……差せ、だ」


職人は、続けた。


「巻くのは、俺の、仕事だ、だ」


***


戸が閉まった。


鈴が、まだ揺れていた。


***


「叱られとる」

「二回目じゃ」


メレオスは、うれしそうだった。


***


『ブル』は、傘を見ていた。


留めのボタンに、指がかかった。


***


今度は、止まらなかった。


開いた。


音がした。


***


『ブル』は、傘を半分、『ジョン』のほうへ出した。


「入られよ」


「折りたたみが、ある」


「袋で、ござろう」


***


『ジョン』は、自分の折りたたみを見た。


それから、たたんだ。


入った。


***


肩は、二人とも出ていなかった。


***


「広いな」


「傘で、ござるゆえ」


***


『ジョン』が、折りたたみをこっちへ投げた。


「使え」


「袋ですよね」


「袋だ」


***


袋を差した。


***


「開いたら。また、巻き直し、ですよね」


「左様」

「年に、一度。叱られに、参る」


***


いやそうでは、なかった。


***


『ジョン』のポケットが鳴った。


スマホだった。


***


傘の下で、画面を見た。


長いこと、見ていた。


***


「……人に、会ってくる」


「サイトシーイングで、ござるか」


「違う」


***


目は、泳いでいなかった。


***


『ジョン』は、傘を出た。


折りたたみは、俺が持っていた。


濡れて、歩いていった。


***


「……濡れるのが、好きな、国で、ござるな」


『ブル』は、傘の下から、その背中を見ていた。


***


三月五日まで、あと三日だった。


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