第百六章 傘で、ござるゆえ
「三度、参った」
『ブル』が言った。
グリニッジの話だった。
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三月二日。火曜日。
ロンドンは、雨だった。
俺たちは、店へ向かって歩いていた。
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『レスラー』は、宿で寝ている。
昨日のロンドン半周の尾行で、横になったまま動かなくなった。
共さんも、宿に残った。首の稽古だそうだ。
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『ブル』は、『ジョン』の折りたたみの下にいた。三回目だ。
傘は、まだ店にある。
だから『ブル』の手は、相変わらず、持つものを探して浮いていた。
俺はフードをかぶって、その半歩後ろを歩いた。
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「十年、前に。いちばん、先に、疑い申した」
『ブル』は、前を向いたまま続けた。
「零度で、ござるゆえ」
「国へ、帰る、たびに。参った」
「三度とも。列に、並び申した」
「線を、またいで。帰り申した」
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「……それだけか」
『ジョン』が言った。
「それだけで、ござる」
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『ブル』は、空いているほうの手を内ポケットに入れた。
出てきたのは、写真だった。
三枚あった。
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どれも、線をまたいでいた。
東経と西経に片足ずつ置いて、真顔で立っていた。
三枚とも、同じ顔だった。
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「証で、ござる」
「何の」
「参った、証で、ござる」
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写真の『ブル』は、傘を持っていなかった。
手が、今と同じように浮いていた。
「傘は」
「東京に、置いて、参った」
「ロンドンへ、持って、参れば。職人に、見つかり申す」
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二十年、逃げていた人だった。
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「戸は、見なかったんですか」
俺が聞くと、『ブル』は写真から目を上げずに答えた。
「見申した」
「庭師の、戸と、思い申した」
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『ジョン』が、三枚目を取った。
端のほうを、長いこと見ていた。
「……写ってるぞ」
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緑の戸だった。
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「写って、おり申すな」
『ブル』の声は、変わらなかった。
「十年、探して。横に、あったのか」
「……左様」
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「開けて、みなかったのか」
『ジョン』が、写真を突き返すように差し出した。
「紳士は。人の、戸を、開けぬ」
「仕事だろう」
「仕事でも、で、ござる」
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「同門じゃ」
肩の上で、メレオスがうなずいていた。
「呼ばれんと、入らん。……ええ、心がけじゃ」
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ほめていた。
ほめるところでは、なかった。
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店に着いた。
鈴が鳴った。
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職人は、台の前にいた。
台の上に、傘が一本、置かれていた。
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細かった。
ひだが、一枚ずつ同じ幅で寝ていた。
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『ブル』は、帽子を取った。
それから、両手を出した。
職人は、その手に傘をのせた。
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三日のあいだ浮いていた手が、浮かなくなった。
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職人が、何か言った。
短かった。
「次は、一年だ」
『ジョン』が訳した。
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「心得た」
日本語だった。
職人は、うなずかなかった。
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前掛けのポケットから、葉書を一枚出した。
もう、書いてあった。
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『ジョン』が、横からのぞいた。
「……スティル」
「まだか、だ」
「日付が。来年の、一月だ」
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「まだ、三月ですよ」
俺が言うと、職人は俺を見もしなかった。
信用が、なかった。
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『ブル』は、内ポケットから束を出した。
細い紐を、十文字にほどいた。
一枚、足した。
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二十一枚目だった。
縛り直して、またポケットに戻した。
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店を出た。
雨は、まだ降っていた。
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『ブル』は、傘を持っていた。
差さなかった。
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「差さないんですか」
「巻いた、ばかりで、ござる」
「三日、かかった、巻きで、ござる」
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『ジョン』が、折りたたみを半分、『ブル』のほうへ出した。
三回目だった。
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『ブル』が、入ろうとした。
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鈴が鳴った。
店の戸が、開いていた。
職人だった。
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何か言った。
大きい声だった。
あの小さい体から出る声では、なかった。
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「……差せ、だ」
職人は、続けた。
「巻くのは、俺の、仕事だ、だ」
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戸が閉まった。
鈴が、まだ揺れていた。
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「叱られとる」
「二回目じゃ」
メレオスは、うれしそうだった。
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『ブル』は、傘を見ていた。
留めのボタンに、指がかかった。
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今度は、止まらなかった。
開いた。
音がした。
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『ブル』は、傘を半分、『ジョン』のほうへ出した。
「入られよ」
「折りたたみが、ある」
「袋で、ござろう」
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『ジョン』は、自分の折りたたみを見た。
それから、たたんだ。
入った。
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肩は、二人とも出ていなかった。
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「広いな」
「傘で、ござるゆえ」
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『ジョン』が、折りたたみをこっちへ投げた。
「使え」
「袋ですよね」
「袋だ」
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袋を差した。
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「開いたら。また、巻き直し、ですよね」
「左様」
「年に、一度。叱られに、参る」
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いやそうでは、なかった。
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『ジョン』のポケットが鳴った。
スマホだった。
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傘の下で、画面を見た。
長いこと、見ていた。
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「……人に、会ってくる」
「サイトシーイングで、ござるか」
「違う」
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目は、泳いでいなかった。
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『ジョン』は、傘を出た。
折りたたみは、俺が持っていた。
濡れて、歩いていった。
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「……濡れるのが、好きな、国で、ござるな」
『ブル』は、傘の下から、その背中を見ていた。
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三月五日まで、あと三日だった。




