第九十二章 清書
「十分前に、入ったぞ」
営林署のおじいさんが言った。
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二月三日。水曜日。
節分の夕方の、五時十九分。隠り山のゲートの前だった。
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「五時、九分じゃ。……今日の、日の入りの、時間じゃ」
「時計を、見ながら、入りよった。秒まで、合わせて」
おじいさんは、帳面を開いた。
きれいな楷書の名前の横に、入山の時刻が書いてあった。
『十七時〇九分』
下山の欄は、やっぱり空いていた。
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「あんたらは、十分、遅刻じゃ」
「わざとです」
赤城さんは言った。
「あいつは。遅れる、人間を、待たない。……先に、始める」
「始めさせて、ええんか」
「始めて、もらわないと。困ります」
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おじいさんは、赤城さんを長いこと見た。
「……五度目じゃが」
「やっぱり、分からん、連中じゃ」
***
ゲートの脇に、ワゴンが止まっていた。
『レスラー』と『レディー』と『ジョン』が、ここに残ることになっていた。
***
「下ろすのは、俺が、やる」
『レスラー』が、腕を組んで言った。
「背の、高い、男なんだろ。……俺しか、いない」
あんパンは、ポケットに入ったままだった。食べていなかった。
***
「ゲートは、押さえます」
『ジョン』が言った。
「誰も、上げません。……誰も、です」
***
『レディー』は、俺を見た。
「貸し、二つ」
「……覚えてます」
「まだ、返して、もらって、ないのよ」
「帰って、きなさい。返しに」
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ノルウェーの貸しだった。何で返すのかは、まだ聞いていなかった。
聞くのが怖かった。でも、聞きに帰ってくるつもりだった。
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由紀が、スマホを見ていた。
「お兄ちゃん」
「何」
「お母さんから」
写真だった。
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実家の玄関だった。明かりがついていた。外は、まだ明るかった。
『お父さんが、四時に、つけたわよ』
その下に、もう一行あった。
『豆、三袋、あるからね』
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「……早いな。父さん」
「何時に、なっても、って。言ってたよね」
「何時からでも、だったんだな」
***
由紀は、スマホをしまった。
「あと。有休、取れた。今日と、明日」
「店長、何か、言ってたか」
「名刺、くれた」
「誰の」
「弁護士の」
「……」
「お兄さんの、会社と。戦うなら、って」
「戦わないよ」
「そう、言っといた」
「信じて、なかった」
***
おじいさんが、ポケットから何か出した。
小さな袋だった。炒った豆だった。
「下りてきたら、まけ」
「山の、中では、まくなよ。……鹿が、食う」
俺の足元の、何もないところに差し出した。
「ぼうずの、ぶんじゃ」
俺が受け取った。
「……わしのじゃ」
肩の上で、小さい声がした。
「あとでな」
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「帰りは」
おじいさんは言った。
「一人、多いんじゃったな」
「はい」
赤城さんが言った。
「数えて、待っとる」
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ゲートをくぐった。
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「ええか」
メレオスが、俺の肩の上で言った。
「三つじゃ」
「一つ。開けさせる」
「二つ。開いた、戸に。あれを、帰す」
「三つ。閉める」
「それだけじゃ」
「引っぱり、出すのは」
由紀が聞いた。
「ならん」
「外から、引けば。器が、割れる。……あれより、先に。鷲尾という、男が、壊れる」
「あれが。自分で、出るまで。誰も、手を、出すな」
「健司。お主もじゃ」
「分かってる」
「お主が、一番、出しそうじゃから。言うとる」
反論できなかった。
***
「四つだ」
赤城さんが言った。前を歩いていた。振り向かなかった。
「四つ目。……連れて、下りる」
メレオスは、少し黙った。
「……四つじゃ」
言い直した。
***
山道は暗かった。月はなかった。
指先に、火種を一つともした。足元が見えるくらいの。
「……便利ね」
由紀が言った。母と同じ言い方だった。
***
影は、今日もいなかった。
「……いません。一つも」
『ホラー』が言った。道の土を見ていた。
「歩いたのは。一人です」
「でも。……二人ぶん、です」
「下見の、ときは。奥の、人、だけでした」
「今日は。笑ってる、ほうも。います」
「楽しみに、してます。……すごく」
誰も、何も言わなかった。
***
共さんは、俺の後ろを歩いていた。背筋を伸ばして、自分の足で。
「冬至の、夜は」
共さんは言った。
「この、道を。……覚えて、おりません」
「上りも。下りも。……私の、足では、ございませんでしたので」
「今日は。覚えて、帰ります」
紺色の手帳に、帰りの行き先が書いてある人だった。
***
由紀の靴は、もう音が違った。
「痛くないのか」
「絆創膏、貼ってきた。先に」
「腹巻きは」
「……してる」
「聞かないで」
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祠の跡が見えた。
明かりがあった。
俺は、指先の火を消した。
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ランタンが四つ。窪みの四隅に、同じ距離で置いてあった。
測ったんだ、と思った。
***
その真ん中に、男が一人、膝をついていた。
こっちに背中を向けていた。
ワイシャツの袖を、肘までまくっていた。右も、左も、同じ幅で。
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背広の上着は、脇の石の上にあった。
畳んであった。四つの角をそろえて。
北の番小屋で、同じ畳み方を見た。
戸の向こうへ行った人たちが残していった、帽子の畳み方だった。
***
鷲尾は、振り向かなかった。
一メートルの定規を水糸に沿って当てて、竹のへらで土に線を引いていた。
ゆっくり、同じ速さで。
引き終わったところの糸は、外してあった。糸巻きに、きっちり巻いてあった。
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「……半分です」
『ホラー』が、小さく言った。
「線。半分、引いて、あります。……十分で」
「速いな」
赤城さんが言った。
「下書きが、あるからだ。……あいつは。下書きの、ほうに、時間を、かける」
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赤城さんが、俺を見た。頷いた。
窪みから十歩。崩れた石のところ。
しゃがんで、土に手を当てた。気を流した。
壁が四枚。屋根が一枚。戸口が一つ。
***
「……十九秒」
『ホラー』が言った。腕時計を見ていた。
「課長に、報告します」
「今、それ、いいから」
***
鷲尾は、振り向かなかった。線を引いていた。
***
共さんが、祠の前に立った。コートの襟を直した。
それから、俺と由紀に頭を下げた。
「お願い、いたします」
背をかがめて入った。中で正座した。
こっちを向いて、顔を上げて、目を開けて。
五十年、うつむいて、目を閉じていた人だった。
***
由紀が、戸口の前に立った。俺は、その隣に立った。
母に言ったとおりの場所だった。
由紀は、両手を前に出した。
四つ吸って、二つ止めて、六つ吐いた。
戸口の空気が、少しだけ温かくなった。
「……閉めた」
***
メレオスは、確かめに行かなかった。
「三回目は、せん」
「尻が、もたん」
「それに」
「三回目は。……わしの、番では、ない」
***
窪みのほうで、定規が止まった。
一本、引き終わったところだった。
鷲尾は、糸を外した。糸巻きに巻いた。最後まで。
それから。
***
首だけが、こっちを向いた。
肩は動かなかった。手も動かなかった。首だけだった。
にこにこしていた。
***
「遅かったね。赤城さん」
大人の声だった。低くて、よく通る声だった。
喋り方だけが、子供だった。
「十分」
「この人、怒ってるよ。……時間、守らない、って」
***
この人。
自分のことだった。自分の体のことだった。
***
手は、もう次の糸に定規を当てていた。
口が喋っているあいだ、手は線を引いていた。
二人の人間が、一つの体を分けて使っていた。
***
「……手前が、喋ってます」
『ホラー』が言った。前髪を上げていた。
「奥が。手を、動かしてます」
「奥の人、動かないんじゃ、なかったのか」
「動いて、ませんでした。……廊下と、ロビーでは」
「机に、向かってる、ところは。僕、見てないので」
見てない、だけだった。
***
「おでこの人」
鷲尾の口が言った。
「今日も、出してる」
「こっち、来る?」
「行きません」
『ホラー』は言った。
「前にも、断りました」
***
鷲尾の目が、俺と由紀を見た。
「伊左衛門の、家族」
「二人とも、来たんだ」
「うるさいのが、二人」
由紀の肩が、少し上がった。手は、下がらなかった。
***
それから、目が、俺の肩の上で止まった。
見せていなかった。でも、あれには見えていた。
「……あ」
にこにこが、少しだけ深くなった。
「きみ」
「まだ、帰って、ないの」
***
メレオスの手が、俺の襟を掴んだ。
小さい手だった。震えていた。
俺は、メレオスの襟を、後ろから掴んだ。練習どおりに。
「……帰らん」
メレオスは言った。うつむかなかった。
「わしの、家は。こっちじゃ」
「ふうん」
「こっちも、帰らないよ」
「うち、来てるし」
***
目が、祠を見た。戸口の奥の、紺色を見た。
「ただいま、って。言えば、いい?」
祠の中から、声がした。
「家では、ありません」
こもっていなかった。
「……私の、体です」
「開けません」
***
にこにこが、止まった。
首が、傾いた。
「……やだ」
***
「奥の、人が」
『ホラー』が言った。
「礼を、してます」
「四十五度です」
「手前の、背中に。……見送ってます」
「手を。離しました」
***
止めなかった。
押さえていた戸を、中から開けた。
主人の行きたいところへ、行かせるために。
そのために、ランタンを四つ並べて、線を引いて、山をゆるめた。
清書だった。全部。
***
鷲尾の顔から、にこにこが消えた。
首の後ろから、陽炎みたいなものがにじみ出た。
冬至の夜に、共さんの首の後ろから出てきたものだった。
***
「来るぞ」
メレオスが言った。
俺は、襟を掴んだ手に力を入れた。
由紀が、息を吸った。
「……よっつ」
***
陽炎が、跳んだ。
祠へ。
同じときに。
空になった鷲尾が、足を出した。
戸へ。
二つ。同時だった。
***
節分の夜だった。




