第九十一章 定規の、線
「四度目か」
営林署の、おじいさんが言った。
***
一月三十一日。日曜日の、昼の一時。
隠り山のゲートの前だった。
節分まで、あと三日だった。
***
「……もう、数えんぞ。わしは」
おじいさんは、ゲートの鍵を開けた。
それから、俺たちを順番に見た。
俺。赤城さん。『ホラー』。
ここまでは、冬至と同じ顔だった。
***
おじいさんの目が、四人目で止まった。
共さんだった。
紺色のコートで、背筋を伸ばして。
元日に『レディー』が一秒で選んだコートだった。
***
「……あんたは」
おじいさんは、言った。
「冬に。背負われて、下りてきた、人じゃな」
***
共さんは、四十五度の礼をした。きっちり、三秒。
「その節は。……お騒がせ、いたしました」
「今日は、自分の、足か」
「はい。自分の、足で、参りました」
おじいさんは、頷いた。
それ以上、聞かなかった。
***
五人目を、見た。
由紀だった。
赤いマフラーに、新しい登山靴。
おととい、母と駅前で買った靴だった。
箱から出したばかりの、泥の一つもついていない靴だった。
***
「……今度は、娘っこまで」
「妹です」
俺は、言った。
「兄が、いつも、お世話に、なってます」
由紀は、頭を下げた。
携帯ショップのお辞儀だった。
***
おじいさんは、由紀の靴を見た。
「靴は、ええ。……誰が、選んだ」
「母です」
「ほう。……ええ、母親じゃ」
***
赤城さんが、少しだけ目をそらした。
自分の登山靴を見ていた。
あの靴がきっかけで、由紀の靴が買われた。
赤城さんは、それを知らなかった。
知らなくて、よかった。
***
おじいさんは、最後に、俺の足元の、何もないところを見た。
「ぼうずも、足元、気いつけてな」
「……うむ」
***
メレオスが、言った。
見せていなかった。でも、返事をした。
おじいさんに聞こえたかどうかは、分からなかった。
***
ゲートをくぐろうとしたとき。
「そういえば」
おじいさんが、言った。
「きのうも、一人、来たぞ」
***
赤城さんの足が、止まった。
「……きのう」
「土曜の、朝じゃ。……一人で。背広で。革靴で」
「この、山に。革靴で」
***
おじいさんは、首を振った。
呆れた顔だった。
「あんたらの、最初の、ときと、同じじゃ。……じゃが、あんたらと、違うて。転ばんかった」
「許可は」
「持っとった。……きれいな、申請書じゃった。一字も、枠から、はみ出しとらん」
***
おじいさんは、ゲートの小屋を顎でしゃくった。
「背の、高い、男じゃ。肩の、広い。……わしに、礼を、しよった。こう」
おじいさんは、腰を折った。
四十五度、だった。
誰も、何も言わなかった。
***
「何を、持って、いましたか」
赤城さんが、聞いた。
「鞄を、一つ。……それと」
おじいさんは、少し考えた。
「定規じゃ」
***
「長い、定規を、持っとった。一メートルは、あったかの。……山に、定規を、持って、入る、人間は。初めて、見た」
「二時間ほどで、下りてきた。……帰りに、ゲートの、前で。靴の、泥を、拭いとった。ハンカチで」
「丁寧に。片方ずつ」
***
おじいさんは、山のほうを見た。
「……山に、入る、人間の、顔じゃ、なかったな。あれは」
「どんな、顔でしたか」
「葬式の、支度を、しに、来た、人間の、顔じゃ」
***
山道は、静かだった。
冬至の夜は、道の両側に影が並んでいた。
見送るみたいに。
今日は、いなかった。
***
「……いません」
『ホラー』が、言った。
「一つも。……冬至に、閉めてから。きれいです、この山」
「きれい、なのに」
「……きれい、なのに。きのう、人が、来てます。一人」
***
『ホラー』は、道の土を見ていた。
「笑ってない、ほうです」
「……子供じゃ、なくて」
「奥の、人です。……ここを、歩いたのは。あの人、一人です」
***
由紀が、俺の袖を引いた。
「お兄ちゃん」
「何」
「足、痛い」
「……靴ずれか」
「新しい、靴だから」
「絆創膏、ある」
「あるの」
「母さんが、持たせた。……十枚」
***
由紀は、黙った。
それから、小さい声で言った。
「……腹巻きも、してる」
「断るって、言ってただろ」
「断れなかった」
知っていた。
***
祠の跡に、着いた。
崩れた石と、焦げた土と、その真ん中の窪み。
冬至の夜。ここで、戸を閉めた。
***
窪みの底は、ただの土だった。
落ち葉が、積もっていた。
その、はずだった。
落ち葉が、なかった。
***
窪みのまわりだけ、きれいに掃いてあった。
箒の跡が、残っていた。
まっすぐな跡だった。一本、一本、平行だった。
***
その掃いた土の上に、糸が張ってあった。
白い糸だった。
大工が使う、水糸だった。
***
短い杭が、何本も打ってあった。
杭から杭へ、糸がぴんと張ってあった。
窪みを、囲んで。
***
まっすぐな線が、何本も、交わって、形になっていた。
見たことのある形だった。
赤い帽子の内側の。番小屋の床の。方眼紙の。
紋章、だった。
***
「……下書き、ですね」
共さんが、言った。
「糸で。……先に、線を、決めて、おります」
***
糸の交わるところは、どこも結んでいなかった。
一ミリ手前で、止めてあった。
方眼紙と同じだった。年賀状と同じだった。
***
「あの人は」
俺は、言った。
「下書きから、定規で、引くんでしたね」
「清書は。……当日、なさるのでしょう」
共さんは、言った。
***
メレオスが、俺の肩から降りた。
糸の手前で、止まった。
入らなかった。
「……戸を、開ける、陣じゃ」
メレオスは、言った。
***
「北の、番小屋の、床と、同じじゃ。……線の、数まで」
「閉めた、戸を。もう一度、開ける、つもりじゃ。節分の、夜に」
***
冬至に、閉めた。俺と、由紀で。
それを、定規で、開け直そうとしていた。
***
「遊びじゃ、ないな。これは」
赤城さんが、言った。
糸を見ていた。一本、一本。
「あれは、遊びたがっている。……久我さんの、体に、戻りたがっている」
「だが、これは」
「鷲尾の、仕事だ」
***
「……久我さん」
「はい」
「あれは。こういうことを、しますか。……糸を、張って。杭を、打って」
「いたしません」
共さんは、言った。即答だった。
***
「あれは。退屈な、ことは、いたしません。……五十年、一度も」
「面倒な、ことは。奥に、やらせようと、しました。……私は、いたしませんでした」
「ですから、あれは。五十年。……私の、体で。働いたことが、ございません」
***
倉庫で、手の甲の人たちを集めて、遊ぼうか、と言っていた。
それだけだった。
***
「鷲尾さんは」
共さんは、糸を見た。
「なさるのですね。……奥から。ご自分で」
***
警備局長の仕事も。年始の挨拶も。申請書も。
手前の子供が飽きて放り出したことを、奥の人が黙って片づけていた。
控える座り方の人だった。
***
だから、あれが入っても、鷲尾は、鷲尾のままでいられた。
***
「……手前と、奥で」
『ホラー』が、言った。
「したいことが、違うんですね」
「手前は、久我さんが、ほしい。……奥は、戸を、開けたい」
「一つの、体で。……二つ」
***
赤城さんは、頷かなかった。
窪みの真ん中を見ていた。
糸の線が集まるところ。紋章の中心。
***
北の番小屋では、そこに、帽子が二つ、畳んであった。
ここには、何もなかった。
土が四角く掃いてあるだけだった。座布団、一枚ぶんくらいの。
***
「……神様」
赤城さんが、言った。
「戸を、開けるには。何が、要りますか」
メレオスは、少しだけ黙った。
***
「……入る、ものじゃ」
「冬至は、二十六人、歩かせようと、した。北では、二人じゃった」
「戸は。向こうへ、入る、ものが、あって。初めて、開く」
***
「きのう、鷲尾は、一人で、来ました」
赤城さんは、言った。
「手の甲の、連中は、冬至に、全員、押さえた。……あいつには、もう、連れが、いない」
***
四角く掃いた土を、見ていた。
「あいつは。人に、やらせない男だ」
「下書きも。清書も。……自分で、やる」
誰も、何も言わなかった。
***
葬式の支度をしに来た、人間の顔。
おじいさんは、そう言った。
***
「……自分が、入る、つもりか」
メレオスが、言った。
「あれが、久我の、体に、移ったら。空いた、自分の、体を。……戸に、くれてやる、つもりか」
「手前の、子供の、したいことと。自分の、したいことを。……両方、一晩で、片づける、算段じゃ」
「几帳面な、男じゃのぉ」
ほめていなかった。
***
赤城さんは、長いこと黙っていた。
「……一人も、死なせるな、と。言った」
「鷲尾も、含めてだ、と」
「死ぬ、つもりの、男が。相手だとは。……思って、いなかった」
***
それでも、変わらない、とは、今日は言わなかった。
言わなくても、変わらない顔をしていた。
***
「……消しますか。これ」
俺は、聞いた。
糸を焼くのは、一瞬だった。指先の火で、足りた。
「消さない」
赤城さんは、言った。
***
「消せば、鷲尾は、場所を、変える。……あいつは、予備を、用意する男だ」
「ここで、やらせる。……俺たちの、知っている、場所で」
「触るな。糸、一本」
「一ミリ、ずれても。あいつは、気づく」
***
気づく、と思った。
方眼紙の線を見たあとでは。
***
糸の外側。窪みから十歩ほど離れたところに、崩れた石が積んであった。
昔の祠の跡だった。
***
「……ここに」
俺は、しゃがんだ。
土に、手を当てた。
冷たかった。
普通の冬の土の冷たさだった。
「立てます。当日」
「今日は、立てて、すぐ、戻します。……跡が、残らないように」
***
気を、流した。
土が、持ち上がった。
壁が、四枚。屋根が、一枚。
小さな祠が、立った。
人が、一人。正座して、入れるくらいの。
戸口が、一つ。戸は、なかった。
***
「……三十秒」
『ホラー』が、言った。
腕時計を見ていた。課長に頼まれたらしかった。
「当日は、二十秒で、お願いします、と。……課長が」
「測ってたのか」
「メジャーも、預かってます」
測るのか、と思った。
測るらしかった。
***
共さんが、祠の前に立った。
戸口を、見ていた。
中は、暗かった。
***
「……共さん」
由紀が、言った。
「無理なら。……今日は、いいです」
「いえ」
共さんは、言った。
「稽古は。本番と、同じに、いたしませんと」
***
背をかがめて、入った。
中で、正座した。こっちを向いて。
暗い中に、紺色のコートが、ぼんやり見えた。
***
「由紀さん。お願い、します」
由紀は、戸口の前に立った。
両手を、前に出した。
***
息を、吸った。四つ。
止めた。二つ。
吐いた。六つ。
***
何も、見えなかった。
戸は、見えなかった。
でも、戸口の空気が、少しだけ温かくなった。
官舎の戸と、同じだった。
***
「……閉めました」
「どれ」
メレオスが、とことこ歩いていった。
戸口に、頭から入ろうとした。
ごん。
弾かれた。尻もちを、ついた。
***
「……二回目じゃ」
「なんで、また、試すんだよ」
「母御に、保証した、手前。……確かめて、おかんと」
尻をさすりながら、言った。
「ええ戸じゃ。……前より、硬い」
***
由紀は、戸口の中を見ていた。
「……共さん」
「はい」
中から、声がした。少し、こもっていた。
「暗く、ないですか」
少し、間があった。
***
「……暗う、ございます」
「五十年、こういう、ところに、おりましたので。……覚えが、ございます」
由紀の手が、少しだけ下がった。
***
「ですが」
共さんの声は、変わらなかった。
「あそこには、戸が、ございませんでした」
「こちらには、ございます。……由紀さんの、戸が」
「それに」
***
暗い中で、紺色のコートが動いた。
共さんが、戸口から出てきた。
自分で。弾かれずに。
***
「私は、出られます。……いつでも。自分の、足で」
「あそことは。違います」
背筋を伸ばして、由紀に頭を下げた。
「結構な、戸でした」
お茶をほめるみたいな言い方だった。
***
由紀は、少しだけ笑った。
それから、鼻をすすった。
「……寒いだけ」
「腹巻き、してるのに?」
「うるさい」
***
祠を、土に戻した。
壁が崩れて、屋根が落ちて、元の地面になった。
落ち葉を、かぶせた。風で。そよ風くらいの。
今度は、加減を間違えなかった。首が、治っていた。
糸には、一本も触らなかった。
***
帰る前に。
赤城さんが、窪みの縁に立った。
四角く掃いた土を、もう一度見ていた。
***
背広の内ポケットから、何か出した。
年賀状だった。一枚だけ。
『謹賀新年』。『鷲尾』。両脇に、鉛筆の線。
赤城さんは、それを見て、また、しまった。
***
「……二十年」
誰にともなく、言った。
「仕事だった、と。久我さんは、言った。……『レディー』も」
「そうだろう。……そうだと、思う」
「だが。二十年、同じ、厚さに。羊羹を、切り続けるのは」
***
赤城さんは、糸を見た。
「仕事だけで。……できる、ものか」
誰も、答えなかった。
答えを知っている人は、ここにはいなかった。
きのう、ここに、いた。
***
ゲートに戻ると、おじいさんが待っていた。
「早かったな」
「下見、でしたので」
「……三日に、また、来るんか」
「来ます」
「夜か」
「夜です」
***
おじいさんは、しばらく黙っていた。
それから、ゲートの小屋から帳面を持ってきた。
入山の記録だった。
きのうのところを、開いた。
***
名前が、あった。きれいな楷書だった。
両脇に、鉛筆の線は、なかった。
消してあった。きれいに。右の端まで。
「……消し残しが、ない」
赤城さんが、言った。
***
その下の欄に、もう一行あった。
入山の予定の欄だった。
『二月三日 日没より』
***
その横に、下山の予定の欄があった。
空欄、だった。
線も、引いてなかった。
***
あの几帳面な人が、そこだけ、何も書いていなかった。
***
「帰りの、時間を、書かん、人間は」
おじいさんが、言った。
「帰る、気の、ない、人間じゃ。……この、ゲートに、四十年、おるが。そういう、欄は、何度か、見た」
「たいてい。探しに、行くことに、なる」
***
帳面を、閉じた。
「あんたらは、書いていけ」
「何を、ですか」
「三日の、ぶんじゃ。……帰りの、時間まで」
***
赤城さんは、万年筆を出した。
書いた。
入山、二月三日、日没。
***
人数の欄で、手が止まった。
少し考えて、書いた。
行き、の欄に、来る人数を。
帰り、の欄に、それより一人、多く。
***
おじいさんは、それを見た。
「……勘定が、合わんぞ」
「合わせます」
赤城さんは、言った。
「山の、上に。先に、一人、おりますので」
「連れて、下ります」
***
おじいさんは、赤城さんを見た。長いこと。
「……冬も、そうじゃったな。あんたらは」
「四人で、入って。五人で、出てきよった」
***
共さんが、小さく頭を下げた。
その、五人目だった。
***
おじいさんは、帳面を小屋に戻した。
「下山の、時間は」
「……未定です」
「未定、と、書いたんか」
「書きました」
「空欄よりは、ましじゃ」
おじいさんは、言った。
「未定は。……下りる、気の、ある、人間の、書き方じゃ」
***
帰りの車の中で。
由紀は、靴を脱いでいた。
かかとに、絆創膏を貼っていた。
三枚目だった。
***
「……お兄ちゃん」
「何」
「お母さんに。今日のこと、言う」
「下見だぞ。危なくなかっただろ」
「危なくなかった、って、言うの」
由紀は、言った。
***
「危ないことだけ、言ってたら。……言わないときは、危なくない、って、ことに、なるでしょ」
「それ、じいちゃんの、異状なし、と、同じだよ」
そうかもしれなかった。
***
異状なし。五十五年ぶん。
書いて、閉じた手帳の中だけに。
***
「……じゃあ、俺も、言う」
「何を」
「由紀が、靴ずれで、絆創膏、三枚、使った、って」
「それは、言わなくていい」
***
後ろの席で、共さんが、紺色の手帳を開いていた。
『一月三十一日 下見 戸、結構』
その下に、もう一行、書いた。
『帰り 一人 多く』
「忘れないように」
***
メレオスは、俺の膝の上で、窓の外の山を見ていた。
何も、言わなかった。
あの窪みの糸の手前で、一歩も中に入らなかった。
五十年、いた場所だった。
***
三日後。あそこで。
自分を閉じこめた相手の名前を、呼ぶ。
***
俺は、メレオスの襟を、後ろから軽くつまんだ。
「……何じゃ」
「練習」
「……今から、掴むな。三日、早い」
振りほどかなかった。
***
節分まで、あと三日だった。




