第九十章 招待状
「三日。あたしも、行く」
由紀が、言った。
***
一月二十八日。木曜日の、夜の九時半。
実家の居間だった。
二時間半前。同じこたつで。
母が、予行演習を、します、と言った。
今は、誰も笑っていなかった。
***
こたつの上に、湯呑みが五つ並んでいた。
その真ん中に、赤鬼が仰向けに置いてあった。
角が、一本、曲がったままだった。
***
「知ってるわよ」
母は、言った。
「さっきも、言ったでしょう。……でも、聞くわ。由紀の、口から」
***
由紀は、背筋を伸ばした。
縁側の座り方だった。
***
「隠り山。……おじいちゃんが、節分の、夜に、行ってた、山」
「何を、しに」
「戸を、閉めに」
「縁側からじゃ、だめなの」
「今度のは、届かないの。……その場で、閉めないと」
母は、頷いた。
頷いて、続きを待った。
***
「何の、戸」
「……人の」
由紀は、言った。
「人を、一人。中に、入れて。その人の、形に、閉めるの。……その人しか、通れない、戸」
「前に、一回、閉めた。その人の、部屋の、戸。……九日の、夜中に。誰かが、触った、戸」
***
すき焼きの夜に、聞いた話だった。
母は、覚えていた。
***
「その人って」
「共さん。……久我、共さん」
「元日に、初詣、一緒に、行った人。おじいちゃんの、道場の」
***
父が、少しだけ顔を上げた。
夕刊は、たたんで、膝の上だった。
読んでいなかった。
***
「その方が。山で。……その、戸の、中に、入るの」
「うん」
「どうして」
***
由紀の口が、開いて、閉じた。
言えば、長い話だった。
五十年ぶんの長さがあった。
***
俺は、口を開きかけた。
こたつの中で、すねを蹴られた。
由紀だった。
目は、母を見たままだった。
***
「……それは」
由紀は、言った。
「共さんの、ことだから。……あたしが、勝手に、言えない」
「あたしの、危ないことは、言う。全部。……でも、共さんの、ことは。共さんのだから」
***
母は、由紀を見ていた。長いこと。
「……そう」
「人様の、ことは。人様の、ものね」
母は、湯呑みを置いた。
***
「じゃあ、由紀の、ことだけ、聞くわ」
「由紀は、どこに、立つの」
「戸の、外。……お兄ちゃんの、隣」
母は、俺を見た。
「健ちゃんは」
「……由紀の、隣」
「かみちゃんは」
「健司の、肩の、上じゃ」
***
上座から、声がした。
お多福は、頭の上にのせたままだった。
***
「赤城さんは」
「来ると、思う。……兄弟子が、だ、って、言って」
「言いそうね」
母は、少しだけ笑った。
すぐ、やめた。
***
「戸の、外は。……危なくないの」
「危ない」
由紀は、言った。即答だった。
ごまかさなかった。
そういう決まりだった。
***
「でも。あたしと、お兄ちゃんには、入れないんだって。……あれは」
「おじいちゃんの、朝の、体操の、おかげで」
「入れるのは。共さんだけ」
「だから、閉めるの。あたしが」
***
母は、しばらく黙っていた。
「……その方が。一番、危ないのね」
「うん」
「なのに。ご自分で、行く、って、おっしゃったの」
「……言った。私の、番です、って」
***
母は、仏壇のほうを見た。
それから、俺を見た。それから、由紀を見た。
「どこかで、聞いた、話ね」
「この家には。……そういう人しか、集まらないのかしら」
***
「伊左衛門の、せいじゃ」
「……親父の、せいだ」
メレオスと父が、同時に言った。
二人は、顔を見合わせた。
***
五十年。
お互い、見えないふりをしていた、二人の息が合っていた。
***
「母御」
メレオスが、言った。
「由紀の、戸はな。……わしでも、通れん」
「かみちゃんでも?」
「試した。弾かれた。……尻を、打った」
「神が、保証する。あれは、ええ戸じゃ」
「……お尻は、大丈夫だったの」
「神の、尻じゃ。……ちいと、痛かった」
***
母は、メレオスを見た。
それから、頭の上のお多福を見た。
「そう。……なら、たいした、戸ね」
***
母は、湯呑みを両手で持った。
飲まなかった。
「止めないわよ」
由紀が、顔を上げた。
***
「止めたら。……次から、言わなくなるでしょう。あんたたち」
図星だった。二人とも。
「先に、言いなさい、って。言ったのは、私だもの」
「言わせて、おいて。止めるのは。……ずるいでしょう」
***
湯呑みのお茶が、少しだけ揺れていた。
決まりには、値段があった。
聞くかわりに、止めない。
母は、それを黙って払っていた。
***
「……お母さん」
「何」
「ありがと」
「お礼は、いいの」
母は、言った。
「靴」
「え」
「山でしょう。……靴、あるの。あんた」
***
由紀は、黙った。
パンプスと、スニーカーと、成人式の草履しかなかった。
***
「明日、買いに、行くわよ。仕事、何時まで」
「……六時」
「駅前、八時まで、やってるから。……赤城さん、うちの、庭に、来るのに、登山靴だったでしょう。庭で、あれなら。山は、なおさらよ」
***
国務大臣は、うちの玄関に、靴の大事さを残していった。
***
「それと、腹巻き」
「いらない」
「いるの。一晩、外でしょう」
「子供じゃ、ないんだけど」
「子供じゃ、ないから、冷えるのよ」
***
理屈は、分からなかった。
でも、由紀は、黙った。
実家では、由紀も、はい、しか言えないときがあった。
***
父が、夕刊をこたつに置いた。
「……親父は」
父は、言った。
「一人で、行って。一人で、帰ってきた。……五十五回」
「誰も、迎えなかった。知らなかったからな」
***
父は、曲がった角を見ていた。
「三日は」
「玄関の、明かりを。つけておく」
「……何時に、なっても」
それだけだった。
***
上座で、メレオスが顔を上げた。
「……灯台じゃな」
小さな声だった。
***
父には、何のことか分からなかったと思う。
俺には、分かった。
***
出てきた戸は、中身を呼び戻す。
戸のそばに明かりがあれば、帰り道は一息だ。
北の果ての町で、メレオスが言ったことだった。
***
あれは、向こうへ帰すための話だった。
うちの玄関は、こっちへ帰るための明かりだった。
***
「その、久我さん、って、方」
母が、言った。
「お住まいは」
「官舎。……一人で」
「ご家族は」
***
由紀は、また少しだけ黙った。
「……それも。共さんの、こと」
「そう」
母は、頷いた。
それ以上、聞かなかった。
***
「節分は。どう、なさるの。その方」
「どう、って」
「山から、帰ってきて。……一人の、お部屋に、帰るの」
誰も、答えなかった。
考えたことが、なかった。
***
冬至の夜は、山からまっすぐ病院だった。
今度は、帰るところまで、誰も決めていなかった。
***
「……豆は」
父が、言った。
「三袋、ある」
鬼のいない豆まきを、知っている人の言い方だった。
***
母は、立ち上がった。
茶箪笥の引き出しを開けた。
一筆箋と封筒が、出てきた。
***
「母さん?」
「お呼び、するのよ。ちゃんと」
「口で、言えば、伝えるよ。俺が」
「健ちゃんは、だめ」
「なんで」
「肝心な、ところを、抜かすから」
***
否定できなかった。
二十九年ぶんの実績があった。
***
「由紀。お名前、どう、書くの」
「久しい、に。我。……とも、は」
由紀は、少しだけ間を置いた。
「共に、の。共」
***
母のペンが、一瞬、止まった。
「……いい、お名前ね」
書いた。封筒の真ん中に。
『久我 共 様』
***
昭和四十五年に、国が消した名前だった。
冬至の次の日に、赤城さんが万年筆で書いて返した名前だった。
***
母は、どっちも知らなかった。
知らないまま、普通に、宛名にした。
***
一筆箋には、何行か書いた。
手で、隠して、書いた。
「見ちゃ、だめよ」
「見ないよ」
「わしは、見て、よいか」
「かみちゃんも、だめ」
「……はい」
三回目の、はい、だった。
***
母は、封をして、俺に渡した。
「明日、渡して」
「……はい」
「落とさないでね」
「落とさないよ」
「曲げないでね」
「……曲げないよ」
信用が、なかった。二十九年ぶん。
***
一月二十九日。金曜日。
背広の内ポケットに、母の封筒が入っていた。
曲げないように、朝から背筋を伸ばしていた。
電車の中でも。エレベーターの中でも。
***
「……健司。お主、今日は、姿勢が、ええのぉ」
「曲げられないんだよ」
「何を」
「信用を」
***
0課の扉を開けた。
共さんは、もう来ていた。
部屋の隅の小さな机に、紺色のセーターで、封筒にシールを貼っていた。
一枚も、曲がっていなかった。
***
「……おはよう、ございます。健司さん。神様」
「おはようございます。……共さん」
「はい」
「手紙、です」
***
内ポケットから、出した。
一晩、入れていたので、少しだけ温かかった。
角は、曲がっていなかった。
***
『久我 共 様』
母の字だった。
少し右上がりの、冷蔵庫の買い物のメモと同じ字だった。
***
共さんは、すぐには受け取らなかった。
シールの台紙を置いた。両手を膝に戻した。
封筒の宛名を、見ていた。
***
「……どなた、から」
「母です。うちの」
「健司さんの、お母様が。……私に」
「ゆうべ、由紀が、言いました。三日、山に、行く、って。共さんの、戸を、閉める、って」
「共さんの、ことは。言ってません。……共さんの、ことだから、って。由紀が」
***
共さんは、少しだけ目を伏せた。
それから、もう一度、宛名を見た。
「……五十六年ぶり、でして」
「何が、ですか」
「私の、名前で。手紙が、届くのが」
真顔だった。
「宛名が。……合って、おります」
***
昭和四十五年から、共さんには、宛名がなかった。
***
共さんは、両手で受け取った。
名刺を受け取るときの、受け取り方だった。
封を、はがした。
糊のところを、ゆっくり、破かずに。
一筆箋が、一枚。
***
読んだ。
長いこと、読んでいた。
何行も、ないのに。
***
「……健司さん」
共さんは、一筆箋をこっちに向けた。
***
『久我様』
『節分の、豆まきを、いたします。
山の、お帰りに、お寄りください。』
『鬼は、二人、おります。
福も、一人、おります。
お客様が、まだ、おりません。』
『小沢幸子』
***
肝心なところは、一つも抜けていなかった。
***
「……福も、一人」
メレオスが、言った。
机の端にあごをのせて、覗いていた。
「一柱じゃ。母御は、数え方を、間違えとる」
「うちの、子は。一人、二人で、数えるんだろ。たぶん」
***
メレオスは、黙った。
耳の先が、赤かった。
***
「……鬼でも、福でも、ない、者は」
共さんは、言った。
「どこに、立てば、よいのかと。……思って、おりました」
「客じゃ」
メレオスが、言った。
「呼ばれたんじゃから。客じゃ。……堂々と、玄関から、入れ」
「呼ばれて、入る、ほうは。気分が、ええぞ。わしが、保証する」
***
ゆうべ、寒い玄関の外で、三回、呼ばれてから入った神様の、言うことだった。
***
共さんは、一筆箋をもう一度見た。
「……よその、お宅に。お呼ばれ、するのは」
「五十六年ぶりです」
***
それから、俺に向き直った。
椅子の上で、背筋を伸ばした。
四十五度。きっちり、三秒。
***
「お母様に、お伝え、ください」
「山へは。……参ります」
顔を、上げた。
「お宅へは」
「喜んで、伺います」
***
山には、喜んで、を、つけなかった。
嘘の言えない人だった。
***
紺色の手帳が、出てきた。
共さんは、書いた。
『二月三日 夜 隠り山』
その下に。
『帰り 小沢様宅 豆まき 客』
「忘れないように」
***
五十年。どこにも呼ばれなかった人の手帳に、行き先が二つ並んでいた。
一つは、行くところ。
一つは、帰るところ。
***
冬至の夜は、帰るところまで、誰も決めていなかった。
今度は、先に決まった。
***
共さんは、一筆箋を封筒に戻した。
手帳に、はさんだ。
それから、シールの台紙を取った。
次の一枚を貼った。
少しだけ、曲がっていた。
***
共さんは、それを見て、貼り直さなかった。
***
節分まで、あと五日だった。




