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第九十六章 ジョンと、ブル

「座って、いただこうか」


課長が、言った。


***


男は、椅子に座った。


傘を、膝のあいだに立てた。

柄に、両手を重ねた。


置かなかった。

机の上でも、床の上でも、なかった。


***


『ホラー』が、起きた。


誰も、起こしていなかった。


前髪を上げて、男を見た。


三秒。


***


「……一人です」

「中。ただの、人です」

「傘は」


赤城さんが、聞いた。


「傘も。ただの、傘です」


前髪を、下ろした。

寝た。


***


「お名前は」


課長が、聞いた。


「ジェームズ、と、申す」


部屋の全員が、同じ顔になった。


***


「……ボンド」


壁の画面で、『ギーク』が言った。


「それは、小説で、ござる」


男は、言った。


眉が、動いていなかった。

言われ慣れていた。


***


「あの男は。名を、名乗り、すぎ申す」

「諜報の、者が。行く、先々で、名を、名乗って、どうする」


正論、だった。


***


「名字は」

「ござらぬ」

「……と、いう、ことに。なって、おり申す」

「うん、うん」


課長は、言った。


「コードネーム、要るね」


***


課長の命名は、いつも早い。

俺のは、三秒だった。


***


「『ジョン』は、もう、いるから」

「います」


『ジョン』が、言った。


「俺が」

「『ジョン』くんが、さっき。ジョンブル、って、呼んでたね」

「呼びました」

「『ブル』で、いいね」


三秒、だった。


***


「待ってください」


『ジョン』が、言った。


「並べると」

「『ジョン』と、『ブル』」


課長は、口の中で言ってみた。


「……ジョン・ブルだね」

「うん。覚えやすい」

「俺の、名前の、後ろに。こいつが、つきます」

「前が、ヤンキーで。後ろが、拙者」


***


『ブル』が、言った。


もう、『ブル』だった。


「植民地が、先に、立つとは。……世も、末で、ござる」

「二百五十年前に、独立した」

「許した、覚えは、ござらぬ」

「うん、うん」


課長は、言った。


「仲が、いいね」

「よく、ありません」

「よう、ござらぬ」


同時、だった。


***


加藤さんが、お茶を持ってきた。


『ブル』は、湯呑みを両手で受けた。

傘は、肘で挟んでいた。


一口、飲んだ。


「結構な、お点前で」

「給湯室の、お茶ですけど」

「心で、ござる」


加藤さんは、にこにこした。


***


「俺は、コーヒーで」


『ジョン』が、言った。


「茶を、海に、捨てた、国の、者は」


『ブル』は、湯呑みを見ていた。


「茶の、味が、分からぬ」

「ボストンの、話か。二百五十年前だぞ」

「あれは。うちの、茶で、ござった」

「税金を、かけるからだ」

「払えば、よかったので、ござる」

「払わなかったから、今、コーヒーが、うまい」


***


「お茶も、コーヒーも」


加藤さんが、言った。


「経費で、落ちますから。どちらも」


二人は、黙った。


0課で一番強いのは、経費を握っている人だった。


***


「あの」


俺は、聞いた。

聞かずに、いられなかった。


「今日。晴れて、ますけど」

「存じて、おり申す」

「雨の、日も、持ち申す」

「雨の、日は。差すんですよね」

「差さぬ」

「……え」

「開かぬ」

「二十年。一度も」


***


『ブル』は、傘を少し持ち上げた。


細かった。

ステッキみたいに、細かった。


ひだが、一枚ずつ同じ幅で巻いてあった。


***


「この、巻きは。ロンドンの、職人の、仕事で、ござる」

「一度、開けば。同じ、巻きには、戻らぬ」

「東京に。巻ける、者が、おらぬ」

「開いたら」

「ロンドンへ、送らねば、ならぬ」

「雨の、日は」

「濡れ申す」


***


「じゃあ。何の、ために、持ってるんですか」

「紳士で、ある、ためで、ござる」


真顔だった。


***


「こういう、国だ」


『ジョン』が、言った。


「折りたたみを、買え」

「あれは。傘では、ござらぬ」

「袋で、ござる」


***


隅の机で、共さんが傘を見ていた。


長いこと、見ていた。


「……結構な、巻きです」


共さんは、言った。


「ひだの、幅が。揃って、おります」


***


『ブル』の眉が、初めて動いた。


「お分かりに、なるか」

「一枚も。曲がって、おりません」

「左様」

「どなたの、お仕事で」

「名は、申せぬが。六十年、巻いて、おる、男で、ござる」

「……六十年」

「恐れ、入ります」

「かたじけない」


***


二人は、頭を下げ合った。


四十五度と、帽子を胸に当てる礼だった。


几帳面な人間は、国を越えて、几帳面な人間が分かるらしかった。


***


「健司」


肩の上で、メレオスが言った。

小声、だった。


「聞け。あやつの、喋りはな」

「月曜、八時の。じいさんじゃ」

「……誰だよ、それ」

「わしは、昔。伊左衛門の、居間の、箱で。言葉を、覚えた」

「箱」

「人が、動く、箱じゃ」

「白い、ひげの。旅を、する、じいさんが、おっての。……偉い、じいさんじゃった」

「毎週、見た」


***


時間が、かかった。


「……時代劇で、日本語、覚えたのか」

「そうじゃ」

「神の、喋り方だと、思ってた」

「神の、喋りじゃ」

「じいさんが、偉かった、からの」


ずっと一緒にいて、初めて聞いた。


***


「あの」


俺は、『ブル』に聞いた。


「日本語は、どこで」

「ビデオで、ござる」

「赴任の、前に。テープを、百本、渡され申した」

「全部。時代劇で、ござった」

「……誰が、選んだんですか」


***


『ブル』は、少し黙った。


「昔の、上役で、ござる」

「日本とは。こういう、国だ、と」

「信じて、参った」

「着いたら」

「誰も、こう、喋って、おらなんだ」

「直さなかったんですか」

「百本、覚えた、あとで、ござる」


***


「同門じゃ!」


メレオスが、言った。

小声じゃ、なかった。


「同じ、師匠じゃ!」


***


「……うちの、神様が」


俺は、言った。


「同門だ、って。言ってます」


『ブル』は、俺を見た。


「そちらの、お若い、方は。どなたと、お話しで」

「うん。神様」


課長が、言った。


「小沢くんの、肩に、いるんだ」


***


『ブル』は、俺の肩を見た。

何もないところを。


驚かなかった。


「左様で、ござるか」

「わが国も。古い、城には、たいてい、何か、おり申す」


***


肩に向かって、膝の帽子を少し持ち上げた。


「お初に、お目に、かかる」

「うむ」


メレオスが、言った。


「苦しゅうない」

「……苦しゅうない、と、言ってます」

「かたじけない」


***


「俺は」


『ジョン』が、言った。


「信じるのに、時間が、かかった」

「そこが、ヤンキーで、ござる」


***


「本題だ」


赤城さんが、言った。


部屋が、静かになった。


「東経、百三十五度の、席、と、言ったな」

「申した」

「どこまで、知っている」


***


『ブル』は、湯呑みを置いた。


「わが国は。百四十年、前から、存じて、おり申す」

「うちは」


『ジョン』が、言った。


「五十年、前から、掴んでいた」

「掴んで。消したので、ござろう」

「担当の、者ごと」


***


『ジョン』は、黙った。


本当のことだった。


「……そっちは」

「消しは、いたさぬ」

「棚に、入れ申す」

「開けては、ならぬ、棚に。百四十年ぶん」

「同じだ」

「違い申す」

「わが国は。捨てぬ」

「読まぬ、だけで、ござる」

「もっと、悪い」

「そうかも、しれぬ」


***


課長は、手帳に書いていた。


「うん、うん」


二人が張り合うたびに、話が出てきた。


課長は、聞いているだけでよかった。


***


「一八八四年」


『ブル』は、言った。


「世界の、経度の、零度を。グリニッジに、決めた、年で、ござる」

「その、年に。ロンドンで、始まった、会が、ござる」

「子午線の、会」

「メリディアン、と、申す」

「席は、七つ」

「名では、呼ばぬ。経度で、呼ぶ」

「議長は、零度」


***


隅で、共さんが頷いた。


「同じで、ございます」


中から聞いた人と、外から見てきた人の話が、合った。


***


「欠ければ、継ぐ」


『ブル』は、言った。


「百四十年。欠けては、継いで、参った」


円卓は、欠けても回る。


鷲尾の言ったとおりだった。


***


「零度は」


赤城さんが、聞いた。


「誰だ」


『ブル』は、傘の柄を見た。


「拙者の。昔の、上役で、ござる」


さっきと、同じ言葉だった。


***


「テープを、選んだ、男で、ござる」

「この、傘を、くれた、男でも、ござる」

「東京へ、発つ、朝に」

「巻き直しは、この、店で、と。職人の、名を、書いた、紙を、添えて」


誰も、何も言わなかった。


***


「二十年。開かなんだのは」


『ブル』は、言った。


「職人が、おらぬ、から、だけでは。ござらぬ」

「あの男が、巻かせた、巻きで、ござるゆえ」


***


『ジョン』は、コーヒーを見ていた。


ジョンブル、とは、言わなかった。


***


「確かか」


赤城さんが、聞いた。


「零度が、その、男だと」

「確かで、ござる」

「なぜ、分かる」

「……わけは、追って」

「今は、申せぬ」


赤城さんは、長いこと『ブル』を見ていた。


***


「何が、したいの」


『レディー』が、言った。


「その、会は。百四十年も」


***


『ブル』が、口を開きかけた。


「……一つ」


隅から、声がした。


「申し上げて、おりません、でした」


***


『ブル』は、口を閉じた。

『ジョン』も、カップを置いた。


共さんが話すときは、二人とも黙った。


***


「一度だけ、目が、開いた、と。申しました」

「字を、書く、前に。見えた、ものが、ございます」

「仮面が、七つ」

「その、奥の、目が。全部」

「私の、顔を、見て、おりました」

「あれを、では、ございません」

「私の、顔を、です」


***


共さんは、少し黙った。


「……欲しい、目でした」

「何が」


『レディー』が、聞いた。


「年を、取らない、顔が」

「私は。五十六年、取りません、でしたので」


静か、だった。


***


「……不老不死で、ござる」


『ブル』が、言った。


「棚の、いちばん、古い、紙に。そう、書いて、ある、と。聞いて、おり申す」

「あの会は。百四十年」

「それだけを、探して、おる」


***


「偉い人って」


『レディー』が、言った。


「最後は、それなのね」


***


「差し上げられる、ものでは、ございません」


共さんは、言った。


背筋は、まっすぐだった。


「五十六年。取られた、だけです」

「年を、取らなかった、のでは、ございません」

「年を。数えて、もらえなかった、のです」


***


ゆうべ、母が数えた。


三十七と、今年の一粒。


「ゆうべ。三十八、と。数えて、いただきました」

「来年は、三十九だ、そうです」


共さんは、言った。


「そちらの、ほうが。……ようございます」


***


あれは、言っていた。


五十年、遊んでも。こわれなかった、と。


こわれるのが、普通だった。


***


七つの仮面は、一人だけこわれなかった顔を見て、欲しい、と思った。


***


「零度は」


『ブル』が、言った。

小さい声だった。


「九十を、越えて、おり申す」

「死を、恐れる、男では、ござらなんだ」

「……年を、取り申した」


傘の柄の上で、手が動かなかった。


***


「なぜ、今日、来た」


赤城さんが、聞いた。


「席が、空いた、からで、ござる」

「欠けた、席は。三十日の、うちに、埋める」

「決まりで、ござる」

「百四十年。一度も、破られて、おらぬ」


***


「三十日」


課長が、手帳をめくった。


「三月の、五日だね」

「埋める、ときは。七つの、席が、揃い申す」

「零度も」


赤城さんの登山靴が、床を一回叩いた。


***


「……つまり」


『ジョン』が、言った。


「それまでは。椅子が、一つ、余っている」

「ヤンキーに、しては。察しが、よい」

「一言、多いんだ。あんたは」

「誰が、座る」


***


誰も、答えなかった。


でも、全員が同じことを考えていた。


課長だけが、手帳に書いていた。


「うん、うん」

「椅子が、一つ、だね」


***


『ブル』が、立った。

帽子を、かぶった。


「今日は、これにて」

「信用は、しない」


赤城さんが、言った。


「結構で、ござる」

「拙者も、いたさぬ」

「それで、ちょうど、よい」


***


扉のところで、加藤さんが言った。


「雨、降って、きましたよ。さっき、予報で」

「左様で、ござるか」

「傘。お持ち、ですよね」

「持って、おり申す」


***


『ブル』は、傘を持って、差さずに出ていった。


***


「……あれが、英国だ」


『ジョン』が、言った。


「タクシーを、呼んで、やれば」


『レディー』が、言った。


「呼ばない」

「濡れるのが、好きなんだ。あの国は」


***


言いながら、スマホを出していた。


「……大使館の、車が、いるだろう。どうせ」


嘘が、下手だった。


***


0課に、濡れて帰る紳士が、一人増えた。


三月五日まで、あと二十九日だった。


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