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第九十七章 椅子が、一つ

「紳士は。風邪を、ひかぬ」


『ブル』が、言った。


言って、すぐ、くしゃみをした。


***


二月五日。金曜日。

0課の、朝だった。


扉は、今日もノックされた。


こん、こん。


二日続けてノックされたのは、初めてだった。


***


「ひいて、ますよね」

「ひいて、おらぬ」

「鼻が、赤いです」

「英国の、者は。もとより、鼻が、赤い」


***


「折りたたみを、買え、と、言った」


『ジョン』が、言った。


「袋は、持たぬ」


***


傘は、今日も手にあった。

細く、巻いてあった。


「それ。きのう、濡れましたよね」

「濡れ申した」

「どうやって、乾かしたんですか」

「開かずに、乾かし申した」

「……開かずに」

「ドライヤーで。二時間」


真顔だった。


***


加藤さんが、湯呑みを置いた。


お茶じゃ、なかった。

生姜湯、だった。


「経費で、落ちますから」

「かたじけない」


『ブル』は、両手で受けた。

傘は、肘で挟んでいた。


***


課長が、ホワイトボードに書いた。


『椅子 一つ』


それだけ、だった。


「誰が、座るか、だね」


***


『ホラー』は、今日は病院だった。

『レスラー』が、戻ってきていた。


「俺が、行く」


『レスラー』が、言った。


「座れば、いいんだろ」

「円卓の、椅子は」


『ブル』が、言った。


「百四十年、前の、椅子で、ござる」

「それが、どうした」

「……割れ申す」


***


『レスラー』は、自分の椅子を見た。


0課で、一番大きい椅子だった。


それでも、きしんでいた。


黙って、あんパンを出した。


***


「私?」


『レディー』が、言った。


誰も、まだ聞いていなかった。


「喋りすぎるわよ。私」

「全員、言い負かして、帰ってくるけど。いい?」

「それは、困るね」


課長が、言った。


「会議が、終わっちゃう」


***


「俺は、だめだ」


『ジョン』が、言った。


「西経、七十五度が。俺の、声を、知っている、かも、しれない」

「喋りも、ヤンキーで、ござるしな」

「あんたは、どうなんだ」

「拙者は。零度に、声も、歩き方も、知られて、おり申す」

「傘もか」

「傘は。なおさらで、ござる」


***


「私、家から、出ないので」


壁の画面で、『ギーク』が言った。


誰も、聞いていなかった。


***


「課長は」


俺は、言った。


「うん、うん、しか、言わないので。向いてると、思います」

「うん、うん」


課長は、言った。


「課長は、課長の、仕事が、あるからね」

「誰が、判子を、押すんだい」


逃げ方が、うまかった。


***


「俺は、顔が、割れている」


赤城さんが、言った。


今日は、革靴だった。


「先生の、弟子だと。向こうは、知っている」


***


ホワイトボードの字は、『椅子 一つ』のままだった。


座る人間が、一人もいなかった。


***


「椅子に、座る、者は」


『ブル』が、生姜湯を置いた。


「誰でも、よい」

「……誰でも」

「新しい、席の、者は。顔も、声も、知られて、おらぬ」

「仮面も、ござる」

「大事なのは」

「誰が、連れて、くるか、で、ござる」


部屋が、静かになった。


***


「円卓は。あの方に、逆らえぬ」

「逆らった、席が。どうなったか」

「皆、見て、おる」


西経、百二十度。


声が、途中で切れた席だった。


***


「あの方が、連れて、きた、者を。断れる、席は、ござらぬ」

「あれは、もう、いない」


赤城さんが、言った。


「向こうは。それを、知らぬ」

「鷲尾殿は、病室で、羊羹を、並べて、おる」

「報告は。届いて、おらぬ」


***


『ブル』は、隅の机を見た。


傘の先は、向けなかった。

目だけ、だった。


「年を、取らぬ、お顔が。もう一度、あの、卓に、現れれば」

「戻られた、と。向こうは、思い申す」


***


共さんは、シールを貼っていた。


手は、止まっていなかった。


***


「駄目だ」


赤城さんが、言った。


「久我さんを。あの、卓に、戻すのか」

「あれの、ふりを、させて」

「赤城さん」


共さんが、シールの台紙を置いた。


「私は。嘘は、申せません」

「申さずとも、よい」


『ブル』が、言った。


「黙って、立って、おられれば」

「向こうが、勝手に、思い申す」


***


「……黙って、立つ、だけ」


共さんは、言った。


「それなら。五十六年、いたして、おりました」


真顔だった。


笑うところか、どうか、誰にも分からなかった。


***


「今度は」


共さんは、言った。


「私が、立ちます」

「目を、開けて」

「久我さん」

「あの、卓に。私の、字が、残って、いるか」

「見に、参りたい、と。思って、おりました」

「きのう、申し上げた、ときから」


***


「駄目だ、と、言った」

「存じて、おります」

「つらく、なりましたら。先に、申し上げます」

「ですから」

「行かせて、ください」


***


赤城さんは、口を開けた。

閉じた。


節分の前にも、同じことがあった。


二回、駄目だ、と言って。

三回目は、言えなかった。


***


「……条件が、ある」


赤城さんは、言った。


「一人では、行かせない」

「はい」


共さんは、言った。


「一人では、参りません」

「椅子に、座る、方が。要ります」

「連れて、参る、方は」


***


共さんは、部屋を見た。


「私が、選んで。よろしいですか」

「どうぞ」


課長が、言った。


***


共さんは、俺を見た。


「健司さん」


全員が、俺を見た。


「……俺」


***


「あれは。円卓で、健司さんの、話を、して、おりました」

「撃たない、方が。どこまで、撃たないで、いられるか」

「見て、いたい、と」

「向こうは。それを、聞いて、おります」

「あれが、連れて、くる、なら。健司さんで、ございます」


筋は、通っていた。


通ってほしく、なかった。


***


「それに」


共さんは、言った。


「隣に、いて、いただく、なら」

「伊左衛門さんの、家族が。ようございます」


断れなかった。


***


「……俺、顔に、出ます」

「知ってる」


『レディー』が、言った。


「仮面が、あるわ」

「声にも、出るわよ。あんた」

「じゃあ、だめじゃないですか」


***


「わしも、行くぞ」


肩の上で、メレオスが言った。


「肩は、わしの、席じゃ」

「円卓に。八つ目の、席じゃな」

「見えないんだろ。向こうには」

「見えん」

「あれの、仲間は。もう、おらん」

「一番、ええ、席じゃ」


***


「小沢くん」


課長が、言った。


「会議はね」

「うん、とだけ、言えば、いいんだ」

「……うん、だけ」

「二回、言うと。考えて、いるように、聞こえる」

「うん、うん」

「そう」

「三回は」

「多い」

「聞いて、いないように、聞こえる」


長年それでやってきた人の、言葉だった。


***


「試して、進ぜよう」


『ブル』が、言った。


背筋が、伸びた。

声が、低くなった。


「東経、百三十五度」


零度の声、らしかった。


***


「そなたの、国の、扉は。いつ、開く」

「……うん」

「いつ、と、聞いて、おる」

「うん、うん」

「二回、言い申した」

「考えて、いる、ように、聞こえました?」

「困って、いる、ように、聞こえ申した」


***


「こいつで、大丈夫か」


『ジョン』が、聞いた。


「うん」


課長が、言った。


一回、だった。


***


「待て」


『ジョン』が、言った。


「どこで、やるんだ。その、集まりは」

「英国で、ござる」


『ブル』は、言った。


「七つ、揃う、ときは。必ず」


***


「久我さん」


『レディー』が、言った。


「パスポート、ないのよね」

「戸籍が、ございません」


共さんは、言った。


「オーロラも。それで、行きそびれました」


***


「三十日で、戻す」


赤城さんが、言った。


加藤さんが、書類の束を持ってきた。

机に、置いた。


音が、した。


***


「戸籍の、回復が、先です」

「それから、旅券です」

「判子は、十七か所です」

「窓口は。三か月、と、言って、います」

「大臣だ」

「大臣でも。窓口は、窓口です」


赤城さんは、黙った。


0課で一番強いのは、やっぱりこの人だった。


***


「……また」


メレオスが、言った。


「わしより、先に。身分が、できるのか」

「神様は、戸籍、要らないだろ」

「要らんが。悔しい」


***


「生年月日は」


共さんが、一枚目を見ながら聞いた。


「昭和、八年、と。書いて、よろしいの、でしょうか」

「本当の、ことですので」


***


加藤さんは、共さんの顔を見た。

書類を、見た。


「……写真と、合いませんね」

「合いません」


***


「英国の、入国は」


『ブル』が、言った。


「拙者が、何とか、いたす」

「九十三の、四十前を。通す、手は、ござる」

「どんな、手だ」

「紳士の、秘密で、ござる」

「賄賂だな」

「紅茶で、ござる」


***


赤城さんは、書類の束を持った。


重そう、だった。

鷲尾より、重そうだった。


扉のところで、振り向いた。


「場所は」

「存ぜぬ」


『ブル』は、言った。


「英国の、どこか、で、ござる」

「どこか」

「地下で、ござろう。……そこまでは、久我殿と、同じで、ござる」


***


「じゃが」


『ブル』は、傘を少し持ち上げた。


「傘が。存じて、おる」

「……傘が」


答える前に、くしゃみが出た。


二回、だった。


***


「紳士は」


『ジョン』が、言った。


「風邪を、ひかないんじゃ、なかったのか」

「ひいて、おらぬ」

「これは。……英国の、挨拶で、ござる」


***


三月五日まで、あと二十八日だった。


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