第九十五章 隅の、机
「一秒、縮んだね」
課長が、言った。
***
二月四日。木曜日。
立春の、0課だった。
課長は、メモを見ていた。
『ホラー』の字だった。
『祠 十九秒』
***
「二十秒で、お願い、したんだけどね」
「……すみません」
「いや。早い、ぶんには、いいんだ」
「うん、うん」
***
メモを書いた本人は、自分の机で寝ていた。
前髪が、下りていた。
ゆうべから、ずっと下りていた。
***
「起こさないで、あげてね」
加藤さんが言って、お茶を置いてくれた。
「額が、赤いですよ」
「豆です」
「……豆」
「豆です」
加藤さんは、それ以上聞かなかった。
***
『レスラー』が、上着を着ていた。
「病院、行ってくる。交代だ」
「『ジョン』さん、と」
「ああ」
***
扉のところで、振り向いた。
「あんパン、一個。大臣に、貸しだ」
「請求するんですか」
「しない」
「言った、だけだ」
出ていった。
***
スマホが、鳴った。
由紀から、だった。
『全部、言った』
『三時間、かかった』
『お母さん、途中で、けんちん汁、温め直した』
『お母さんが、泣いた』
『あたしは、泣いてない』
泣いたんだな、と思った。
有休の、二日目だった。
***
部屋の隅に、小さな机がある。
共さんが、座っていた。
今朝、実家から一緒に来た。
紺色のコートで、背筋を伸ばして、風呂敷の包みを持って。
***
「共さん」
加藤さんが、手帳を開いていた。
「三日の、ぶんです。十二件」
「先に、お支払い、して、あります」
「はい」
共さんは、言った。
「帰って、参りましたので。……貼ります」
***
封筒を一枚取って、シールを貼った。
曲がっていなかった。
二枚目。三枚目。
十二枚、貼った。
それから、もう一枚貼った。
***
「一枚、多いですよ」
「利子で、ございます」
真顔だった。
加藤さんは、手帳に何か書いた。
にこにこ、していた。
今日は、目が赤くなかった。
***
机の端に、風呂敷の包みがあった。
弁当、だった。
二段、だった。
母が、持たせた。
***
「……卵焼きが、入っとる」
メレオスが、机の端にあごをのせたまま言った。
「匂いで、分かる」
「人のだぞ」
「分かっとる」
「人の、ものは。勝手に、食わん」
「誰に、教わったんだ」
「……昔の、話じゃ」
***
共さんが、包みをほどいた。
ふたを、開けた。
卵焼きを一切れ、箸で取った。
ふたの裏に、のせた。
「神様。一切れ、差し上げます」
「やる、と、言われたら。食って、ええんじゃ」
「それも、誰かに、教わったのか」
「うるさい」
食べた。
「母御の、味じゃ」
***
扉が、開いた。
『ジョン』、だった。
目の下が、黒かった。
「交代、してきた」
「どうだった」
課長が、聞いた。
***
「起きています」
「一言も、喋りません」
「何を、してるの」
「羊羹を、並べ直しています」
「……羊羹」
「大臣が、置いていった、やつです。厚さが、ばらばらの」
「厚い、順に、並べて。次に、薄い、順に、並べて。……今、三回目です」
「定規は」
「取り上げました」
「それで」
「指で、測っています」
誰も、何も言わなかった。
***
十時、だった。
扉が、もう一度開いた。
赤城さん、だった。
きのうと、同じ服だった。
登山靴、だった。
「大臣。……靴が」
「替える、暇が、なかった」
椅子には、座らなかった。
***
「鷲尾が。一言だけ、言った」
部屋が、静かになった。
「円卓は。欠けても、回る」
***
「……円卓」
課長が、言った。
「心当たりの、ある、者は」
誰も、手を上げなかった。
***
壁の画面で、『ギーク』がキーを叩いていた。
自宅、だった。ジャージ、だった。
「……だめです」
「検索しても。アーサー王しか、出ません」
***
「欠ける、って、ことは」
『レディー』が、言った。
「席が、あるのね。決まった、数の」
「そうだろう」
「いくつ」
「分からない」
***
シールの音が、止まっていた。
いつから止まっていたのか、分からなかった。
***
「……存じて、おります」
隅から、声がした。
全員が、そっちを見た。
共さんは、シールの台紙を置いた。
両手を、膝に戻した。
***
「丸い、卓です」
「木の」
「席が。七つ、ございます」
赤城さんの顔が、動かなくなった。
***
「私は」
共さんは、言った。
「その、端に。立って、おりました」
「去年の。冬至の、前です。……一度だけ」
「あれが、呼ばれて、参りました。私の、足で」
「目は、閉じて、おりました」
「耳は。閉じられ、ませんので」
「聞いて、おりました」
***
0課で、一番あれらのことを知っている人は、隅の机で、一件十円のシールを貼っていた。
***
「……久我さん」
赤城さんが、言った。
「無理は」
「赤城さん」
共さんは、言った。
「つらく、なりましたら。先に、申し上げます」
「奥様との、約束ですので」
「……奥様」
「小沢の、奥様です」
***
赤城さんは、俺を見た。
「うちの、決まりです」
俺は、言った。
「ゆうべ、入りました。共さんも」
赤城さんは、少し黙った。
「……そうか」
それから、初めて椅子に座った。
「聞かせて、ください」
***
共さんは、紺色の手帳を開いた。
何も書いていないページだった。
見ながら話すためじゃなかった。
話したことを、書くためだった。
***
「人の、名では、呼び合いません」
「数で、呼びます」
「西経、七十五度」
「西経、百二十度」
「東経、百三十五度」
***
「……経度か」
『ジョン』が、言った。
「はい」
「東経、百三十五度の、方は。報告を、して、おられました」
「几帳面な、報告でした。数を、一つも、間違えずに」
「山で。鷲尾さんの、お声を、聞きまして」
「あの、席の、声でした」
赤城さんは、頷いた。
一回だけ。
***
「七つの、うち。三つは」
共さんは、続けた。
「機械を、通した、声でした。……その場には、おられなかった、のだと、思います」
「西経、七十五度の、方は。米国の、方です」
『ジョン』の手が、止まった。
***
「担当の、者が。帰れ、という、命令に、従わない、と。話して、おられました」
「名前を、掘り返して、いる、と」
全員が、『ジョン』を見た。
『ジョン』は、長いこと黙っていた。
***
「……俺だ」
「あの、命令を、出したのは。俺の、上の、上だ」
「席が、あったのか。……あそこに」
「あの国の、上の、ほうにも。席は、ある、と」
共さんは、言った。
「そう、申して、おりました」
『ジョン』は、笑った。
笑い方じゃ、なかった。
***
「西経、百二十度の、方は」
共さんの声が、少し低くなった。
「反対、なさいました」
「あれが。……何か、いたしました」
「声が、途中で、切れました」
***
『ジョン』が、顔を上げた。
「冬至の、前。西海岸」
「元の、国防次官だ。……心不全、と、発表された」
「心不全じゃ、なかったんだな」
「存じません」
共さんは、言った。
「目を、閉じて、おりましたので」
「……私の、口が。笑って、おりました」
***
それ以上は、言わなかった。
言わせなかった。
「久我さん」
赤城さんが、言った。
「そこは。もう、いい」
「……恐れ、入ります」
***
「その日。決まった、ことが、ございます」
共さんは、背筋を伸ばし直した。
「全部の、扉を。同じ、夜に、開ける」
「一番、長い、夜に」
冬至、だった。
***
「……当たってたのね」
『レディー』が、言った。
あの夜の前に、同じ夜に全部、と、勘で言った人だった。
「うれしく、ないわ」
***
「議長が、おられます」
共さんは、言った。
「零度、と。呼ばれて、おられました」
「年を、取った、声でした」
「一番、静かな、方でした」
「決を、採りました、とき。手を、上げる、衣の、音が」
「その方、だけ。一拍、遅う、ございました」
***
「迷って、いた、のか」
「存じません」
「遅かった、ことだけ。……覚えて、おります」
共さんは、少し黙った。
***
「それから。一つ」
「西経、百二十度の、方の、声が。切れた、ときです」
「あれが、そちらに。気を、取られて、おりました」
「一度だけ。目が、開きました」
「私の、目が、です」
***
「卓の、木目に。指で、書きました」
「私の、名の。……二画だけ」
「爪で、ございましたので。残って、いるかも、しれません」
***
手帳の端に、名前を書いた人だった。
忘れないでください、と。
山へ入る前に。
五十六年たって、敵の卓にも、同じことをしていた。
***
「……証拠に、なる」
赤城さんが、言った。
「その、卓を。見つければ」
「はい」
「どこに、あるか、は」
「存じません」
「地下、でした。……音が、響きましたので」
***
「あの」
壁の画面で、『ギーク』が言った。
早口じゃ、なかった。
「零度、って」
「経度の、零度、ですよね」
「そうだろう」
「グリニッジです」
「……イギリスです」
誰も、何も言わなかった。
***
「あと」
『ギーク』は、言った。
「円卓も。……アーサー王で、合ってました」
「検索、正しかったです」
***
「英国か」
赤城さんが、言った。
「英国は、動きません」
『ジョン』が、言った。
即答、だった。
「議長が、いるなら。うちより、深い」
「うちと、同じです。……掘った、人間が、消される」
「外務省を、通せば」
「通した、瞬間に。零度に、届きます」
「あの国には。頼めません」
***
赤城さんは、腕を組んだ。
登山靴の先が、床を一回叩いた。
そのとき、だった。
***
扉が、鳴った。
こん、こん。
ノック、だった。
***
この扉をノックする人間は、ほとんどいない。
ここに来る人間は、みんな黙って開ける。
課長が、扉を見た。
「……どうぞ」
***
黒服、だった。
「大臣に。お客様です」
「通して、いない」
「大使館の、お車が」
黒服は、言った。
「大臣の、お車の、後ろに。……病院から、ずっと」
「どこの」
***
答える前に、黒服の後ろから、男が一人出てきた。
初老、だった。
灰色の背広に、白い口ひげ。
手に、細く巻いた傘を持っていた。
外は、晴れていた。
***
「御免」
男は、帽子を取った。
「英国大使館。一等書記官」
「……と、いう、ことに。なって、おり申す」
日本語、だった。
日本語、だったけど。
***
「東経、百三十五度の、席が」
男は、言った。
「空いた、と。お見受け、いたした」
***
椅子が、鳴った。
『ジョン』が、立っていた。
「……ジョンブル」
男の眉が、片方上がった。
***
「おや」
「ヤンキーで、ござるか」
「まだ、国に、帰って、おらなんだか」
「帰る、国に。席が、あったんでね」
「それは、難儀な」
「あんたの、国ほどじゃ、ない」
***
「知り合いかな」
課長が、聞いた。
「知りません」
「存ぜぬ」
同時、だった。
***
「……健司」
肩の上で、メレオスが言った。
目が、輝いていた。
「あやつ」
「わしの、師匠と。同じ、喋りじゃ」
「師匠?」
「箱の、じいさんじゃ」
「誰だよ」
「あとで、話す」
***
0課に、二人目の外国人が来た。
嘘の下手な国が、二つになった。




