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消耗品たちの八月十五日  作者: 河野靖征


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 陽が昇りはじめると、霧は、加速度的に晴れはじめた。

「霧ば晴れて視界が開けたのはよかばってんが、大手を振って道ば歩けんとは皮肉なもんたいの」

 と、入口の(かまち)に尻を据えている寿は、煙草の青い煙を吹かしながら苦りきった笑いを浮かべた。

「班長殿」

 と、壁に靠れかかっていた有働が、思い出したように声をかけた。

「この下に渓流があるんでしょ?」

「あの道を百メートルば下ったところに流れとる」

「魚、いますかね?」

「さァどげかの。ま、清流やけん、()()()の類いの小魚はおるかも知れんたい」

 有働は、あァ、と、うなずいた。

「真っ昼間からボーとしていてもつまらねえな。垢落としに、下の川で水浴びでもしませんか? 野下の傷も、洗って清潔にしたほうがいいですよ。今日も危険はなさそうだし、どうです?」

「あれの傷は心配なか。もう日本海ば泳いで渡れるほど癒えとるたい」

 と、野下に軽い笑みを浮かべた。

「それより有働、水浴びばするとなら裏の湧水でやれ。渓流じゃと、万一の場合視角ば奪われて無防備になる。ここなら後方以外三方は急斜面になっとるけん、万一の事態ば発生しても確認は容易にでける。上から急襲されることもあるまい。気をつけにゃならんのは、この下の道だけたい。幸い畑の先は視界が開いとるけん、そこからなら誰が来てもすぐにわかる。野下、おまんも有働と行って繃帯布ば洗うて()ない」

「あの、班長殿はやらないんですか?」

 有働が訊いた。

「わしゃきさんほど潔癖症やなか。やりたか(もん)はあとで行かせる。きさんが戻って来るまで、わしはこの附近ば眺めとるたい。赤羽に曳田、きさんたちは左翼の斜面ば監視に就け。わしは正面と右翼の道ば見張る」

 寿は拳銃を膝に置いて、下界の様子が手に取るように見える畑の先端に胡座をかいた。

 森の一帯は、静かで平穏であった。戦争も人間の醜い諍いもない深閑とした山中で聞こえるものと言えば、渓流のせせらぎが幽かに耳に伝わってくるのと、野鳥の囀り(さえず)に混じって、時折、樹木の葉が風で触れ合うざわめきだけである。それ以外の余分な物音は一切ない。

 それなのに、この家の住人がこんな場所を棄てたのにはそれ相応の訳があってのことであろうが、炭焼にせよなににせよ、畑を耕して質素に暮らして行けば、無理にここを棄てずとも平和に生きられるはずであろうにと、あれこれと想像を巡らしながら、周辺に眼を配らせて寛いでいた。

 その平穏な空気が、突然打ち破られた。渓流の下流の遠くから、豆がはぜるような機械的な連続音が響いたのである。

 寿は半腰に身構えた。音はまだ遠かったが、その音がなんであるかは身に沁みて経験している。

 赤羽と曳田が血相を変えて寿の許に駈け寄って来た。

「曳田、有働たちに……」

 と、言いかけたが、その必要はなかった。

「ありゃロスケの自動小銃ですよ」

 と、顔色を変えた有働が駈けて来た。

 また連続音が聞こえた。

「この下の道の向うからですぜ」

 曳田が浮き足立った。

「この下流にロスケがいて、敗残兵がそれに引っかかったんじゃねえか」

 断続的な銃声音は、徐々に近づいて来るようであった。

「こっちへ向って動いとるの」

 道は昨日のうちに確認済みである。渓流に沿ったこれ一本しかない。銃声は、それを辿って来ている。

 寿の顔色に血の気が引いた。

「いかん。装具ばととのえて後退しろ! 家に入っちゃならんぞ。森の奥へ退れ!」

 赤羽と曳田が真っ先に森へ駈けこんだが、すぐに引き返して来て寿と鉢合わせた。

「駄目です。この上にもロスケが!」

「くそっ!」

 寿の口から呪いの呻きが洩れた。

「仕方がなか。家に潜れ!」

 と、言った寿の声と、

「下の道から誰か来ます!」

 と、蒼い顔をした野下の声が重なった。

 家に飛びこんだ寿は、すぐさま隙間から外を窺うと、そこに丸腰の日本兵が、ちょうど山道を駈け上がったところであった。数は二名である。

 日本兵は、家があるのを見て一刹那戸惑いを見せたが、危険を顧みずに転がるように飛び来んで来た。

「ばか! 戸ば閉めんか!」

 と、いきなり日本語が飛んで来たから、驚愕した二人は腰が抜けそうにうろたえた。

「戸を閉めて、体を隠せと言ってるんだ! 早くしろ!」

 敗残兵の一人が、慌てて戸を閉めて声を絞った。

「……友軍か?」

「見りゃわかるだろうが」

 壊れた土壁の隙間を覗きながら赤羽が答えた。

「お前ら二人だけか? 武器はどうした?」

「ロスケに取られた」

 一人が答えた。

「俺たちはよ、夕べ七人ほどロスケに捕まったんだが、夜中の霧に紛れて、俺たちはロスケの露営地から逃げたんだ。それをこの馬鹿が! 逃げる途中にドジっちまいやがって元の木阿弥よ! 一人が殺られちまった」

 と、古参兵らしい口調の一等兵が尖った声を被せた。

「なに言ってやがる! 満人の家に押し入って満服を手に入れようって誘ったのは、おめえじゃねえか」

「うるせえ! 俺ァただ満服が欲しかっただけだ。それを馬鹿めが! 女の胯ぐらに眼の色を変えやがって。てめえらがあんな馬鹿なことをしなけりゃ、町田の野郎は殺されずに、俺たちゃこんな破目にはならなかったんだ!」

「女があんなに騒ぐとは思わなかったからよ」

「なに言ってやがる! 俺たち敗残兵には、都合勝手な選択は許されちゃいねえんだぞ、そう言い聞かせただろうが。それを馬鹿が、なにもかも台無しにしやがって! いまの俺たちゃ、その日その日が真剣勝負なんだぞ!」

 その二人の会話に、有働が噛みついた。

「やい、てめえら、転がりこんだ早々ギャーギャー喚くんじゃねえ! そのお蔭で、俺たちも捲添えを喰らったんだぞ。おとなしくしねえとぶっ殺すぞ!」

 ゴリラのような巨体に覆い被されて、二人は怖れ慄いた。

「……わかったよ。まさか、こんなとこに友軍がいるとは思わなかったんだ」

「班長殿、こいつら、この場でバラしましょうか。どうせろくな連中じゃありませんよ。こんな野郎がいるから、俺たちゃ安心して歩けねえんだ!」

 有働が一等兵を睨めつけたまま言った。

 二人の兵隊は、班長と聞いて、俄に顔色を変えた。

「下士官がいるのか?」

「いるぜ、一人だけ。鬼も逃げ出す怖い軍曹殿がな」

 と、土壁の隙間から裏藪を睨んでいた曳田がふり返って言った。

「班長殿、ロスケはこの上にも廻りこんでいますぜ。この上には、どうやらもう一本道があるみたいで、奴ら上に向かって行きましたぜ。たぶんこいつらを追って上がって行ったんです。おっつけ戻って来ますぜ」

突然、頭上でマンドリンの連射音が響き渡った。まだ他にも仲間がいて、それに向けて発砲したのか、空に向けて威嚇射撃したものか判然としないが、頭上に赤兵がいることはこれで確かとなった。

「きさんら二名と言うたが、まだほかにも逃げた仲間がおるとか!」

 寿が訊いた。

「自分らだけだと思いますが……」

 と、古参の一等兵が首を捻って答えたとき、頭上で、あの満人村落で聞いた太いロシア語の意味不明の声が落ちて来て、凄まじい銃弾が家の周辺や屋根や壁に突き刺さった。これはもう威嚇ではなく、意識的に発砲しているのだ。二人の日本兵がこの家に入りこんだのを確認されている証拠である。ただそれ以上発砲しないのは、正面にいる仲間との同士討ちを避けているのだ。

「囲まれましたね」

 有働が呟いた。

「囲まれたの」

 寿は、土壁の隙間から忙しく周辺に眼を泳がせた。

「庭先のすぐそこまで敵さんのお出ましたい。野下、そっちはどげか?」

「駄目です。側面にも敵が!」

 裏口を警戒している野下が答えた。

「くそっ、駄目か!」

「ヤポンスキー、ダワーイ! ダワーイ!」

 今度は庭の向こうからロシア語が来た。意味はまったく不明だが、おとなしく出て来いとか、投降しろとか言っているのであろう。

「班長殿、どうしますか」

 引き攣った曳田の声が躍った。

「早く逃げなくちゃ、バズーカか手榴弾を放りこまれたらお終いですぜ」

「落ち着け。慌てちゃならん。向うがその気なら、ここまで来る前にこいつらはとっくに射ち殺されとる。奴ら、敗残兵を生きて捕まえる腹たい。へたに騒いだら自動小銃の餌食ぞ」

「八方塞がりになりやがった!」

 赤羽が声を慄るわせた。

 薄暗い家のなかで、重苦しい緊迫した時間が流れた。

 ロシア語がなにやら頻りに言っているが、男たちにはその意味が解らないから判断のしようがなかった。

「……これまでだな……」

 外を窺いながら有働が呟いた。

「これまでって、どう言うことだ?」

 赤羽が返した。

「多勢に無勢、寡兵に大敵ってことだよ」

 と、有働は悟りきった顔でニタリと笑った。

「それだけ云ァわかるだろ」

「手を挙げるってのか?」

 曳田の声が裏返った。

「……これじゃどうしようもねえ……観念しましょうや、班長殿」

 有働は、いきなり小銃をその場に投げ捨てると、胡坐をかいて煙草に火を点けた。

「白い布きれありませんか」

 咄嗟のことで、寿は、その意味がわからなかった。

「そげなもん、あるわけがなか」

 と、寿は言い捨てた。

「じゃ、しょうがねえな」

 有働は、落ち着きはらって、軍袴の紐を解いた。

「なんばすっとや?」

「褌を取るんです。さっき洗ったばかりで、まだ乾いちゃいませんがね」

 寿は漸く合点が行った。

「やめろ、有働」

 と、有働の袖を掴んだ。

「いま出たら、殺さるるぞ!」

 有働は、またニヤリと笑った。

「いいですか班長殿、いくら俺たちが我を張っても、こっちは単発、相手がダダダのマンドリンじゃ勝ち目はありませんよ。ここら辺が年貢の納めどきです。命があるうちに降参しましょうや。あとは野となれ山となれ、だ」

 有働は褌を小銃の先に括りつけると、扉の隙間からそれを振って怒鳴った。

「おーい、お前ら、射つな! 降参する!」

 すると、一台のジープが広場に駆け上がって、拡声器から流暢な日本語が飛んで来た。

「家に隠れているみなさん、投降するなら両手を高く上げて、速やかに出て来なさい。無駄な抵抗は死を意味します。これ以上逃げてはいけません」

 驚いた寿は、有働の傍に匍い寄って訊いた。

「あれは、日本人か?」

「友軍の兵隊服を着ていますから、日本人のようですよ」

 有働が扉の外を窺いながら答えて呶鳴り返した。

「お前は日本人か!」

 ジープから一人の兵隊が降りて声を張り上げた。

「そうです。日本の兵隊です。私は孫呉百二十三師団司令部附の真野です。ロシア語が話せるために、赤軍の捕虜収容所からこの任務を命ぜられました。戦争は終わりました。関東軍はソ連軍に全面降伏して武装解除を受けたのです。この近くの満人部落から、あなたたちが潜伏していると通報が入って説得に来たのです。武器を持っているなら、その場に置いて速やかに投降してください。危害を加えたりはしません。安心して出て来てください」

 寿は逃亡した一人に訊いた。

「捕虜収容所の真野とか言うたが、きさん知っとるか?」

 二人は顔を横に振った。

「戦争は終わった言うたの……有働、いつ終わったか訊いてみろ」

「戦争はいつ終わったんだ! 終わったという証拠でもあるのか!」

 有働が訊き返した。

「終わったのです。この八月の十五日に。天皇が終戦の詔書を読まれて、日本は無条件降伏しました。十二日前のことです。証拠は、この私が、ソ連軍の兵士たちとこうしていることです」

 寿は、天皇と聞いて少し首をかしげた。

「天皇が直接終戦を宣言したゆうのは、本当かの?」

 と、呟くと、

「この際、そんなことはどうでもいいことですよ。向うが終わったって言ってるんだから、そうじゃないですか?」

 有働は、外の様子を窺いながら、小銃の白旗を振りつづけた。

 外からまた声がかかった。

「隠れているみなさん、繰り返します。あなた方の生命の安全は保障されています。武器を置いて、両手を頭に乗せて静かに投降してください」

「どうします。班長殿」

 白旗を振りつづけている有働が寿を視た。

「敵の数は、どのくらいおるとや?」

 有働は扉の隙間から外を窺った。

「この正面には自動小銃を持った野郎が十人程度と、車に乗っているのは、ありゃ将校だな、それと日本の兵隊服を着た若い男が一人です」

「それが真野とかゆう奴じゃの。野下、そっちはどげんな?」

「さっき、向うの蔭にも四五人いましたが、いまは姿が見えませんから数はわかりません」

 野下が返した。

「正面だけでもこっちの二倍か……」

 寿は構えている拳銃を引いた。

「……これまでじゃの」

 呟いて観念した。軍刀と拳銃を床に寝かせて、それから静かに立ち上がって軍装を解いた。

「行くんですかい」

 と、赤羽が寄って来た。赤羽の体が慄えているのが寿にもわかった。

「終わりじゃ。相手が自動小銃じゃと、どげに足掻いてもわしらには勝ち目はなか」

 寿は、男たちに向かって言った。

「武装ば解いて投降しよう。有働、出て行くと伝えろ」

 寿は、襟の階級章をもぎ取り、薄暗い土間に装具を解いて投げ出した。階級章を棄てたのは、捕虜になれば、下士官以上は極刑に処されるという部隊の風評を信じてのことであった。

 有働が呶鳴るように叫んだ。

「おい、日本の戦友! いまから俺たちは出て行くが、出た途端に始末する魂胆じゃねえだろうな!」

「大丈夫です。その心配はありません。武器をその場に置いて、頭に両手を組んで、一人ずつ、ゆっくりと出てください」

 有働はまた寿の顔を見た。

「ああ言ってるんだから、よもや殺されることはないでしょうよ。試しにこいつらを先に出して反応を見ましょう。面倒を持ちこんだのはこいつらだ」

 二人は総毛だって拒んだ。

「なにブルってやがるんだ。てめえからだ。出ろ!」

 有働は、最初に飛びこんで来た一等兵の襟首を摑んで、戸口まで引っ張り出して振り向いた。

「おい、てめえも出るんだよ」

 と、尻込みをしている古参兵風の一等兵に小銃を突きつけた。

「さっさとしねえかこの野郎、ぶっ殺すぞ!」

 と、二人を威嚇して扉の前に立たせて、

「万一こいつらになにかあったら、班長殿、そのときは、これで肚をくくりましょうや」

 と、有働は手榴弾を握った。

「いいか、もしつまらねえ根性を出しやがったら、てめえら、生かしちゃおかねえぞ。行け!」

 と、二人の肩を突き飛ばした。

 二人はよろめくように出て行った。

 四五人の赤軍兵が飛び出て自動小銃で二人を囲むと、赤顔の指揮官らしき男が、日本人の通訳を呼んで家に指をさした。武装している者がまだいるだろうと言っているらしく、二人の兵隊の顔と家に視線を往復させた。

「まだなかにいるみなさん、五分待ちます。そのあいだに武器を置いて速やかに出て来てください。五分経っても出て来ない場合は、武力で鎮圧すると言っています。無駄な抵抗です。折角ここまで生きて来たのです。無意味に命を棄ててはいけません!」

 通訳は泣き声に近い声で伝えた。

「班長殿、行きましょう。あの二人が安全なら、俺たちも安全ですよ」

 有働は、握っている手榴弾を床へ転がした。

「武器は棄てた。いまから出て行く。射つなよ!」

 両手を挙げて外に出ると、外に控えた数名の赤軍兵が家になだれこんだ。

 寿たちの、小さな組織的抵抗は、苦難の逃避の末にあっけなく幕を閉じた。

 だが、これですべてが終わったわけではなかった。むしろ、これから復員するまでの数年間が、寿たちにとっての本当の苦難のはじまりであった。

 こののち、捕虜となった寿たちは、極東ソ連軍が戦利品として没収した廃工場に送られ、夏の軍衣袴のまま設備解体労役に駆り出され、それが終わると、かつて寿たちが運ばれた北黒線をさらに北上して、これから酷寒零下へと季節が移行するシベリアへ送られて行くのである。

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