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消耗品たちの八月十五日  作者: 河野靖征


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終章


    終 章


 日本人は、占領国の統治下から精神的に立ち直るのに、差程の時間を必要としなかった。

 殊に顕著だったのは、敵国を鬼畜米英と煽って国民を奈落の底へ突き落とした指導的立場にいた高級軍人たちであった。彼らは、敗戦翌日には、何食わぬ顔で統治者側へ身を翻して真っ先に彼らの僕となり、困窮に喘ぐ国民を尻目に、今度は自己の安全と生活の安定に務めたのである。

 一般庶民もまた、占領されていることにすぐに慣れて、その身替わりの早さは眼を見張るものがあった。

 その一方で、戦場で生き残った元兵士だった人々のなかには、終戦の歓びなど微塵も感じず、無責任だった日本に対する深い怨念を抱いた者も少なくなかった。

 なかでも、極東ソ連軍の捕虜となって長期間(長い者は十年)シベリアの収容所に抑留された元関東軍の兵士たちは、抑留生活から解放されて復員したのちも、戦争の深い傷痕を引きずり、苦悶の長い日々を送ったのである。

 寿と有働も、この仲間である。五年という過酷な歳月をシベリアで生き抜いて復員した二人には、毎年訪れる終戦記念日は地獄へ突き落とされた記念日でしかなく、人々のように終戦の感傷に浸る気持ちなど微塵も湧かなかった。

 この日も、こうして小さな居酒屋でグラスを重ねられるのも、単に(ひとえ)幸運であったことの歓びだけのもので、無事に復員したからといって、母国からの補償は何一つ受けてはいないのである。このことから、終戦記念日そのものを素直に受け容れよというのがどだい無理な話であり、いまだその傷が癒やされないまま、今日を過ごしているのである。

 寿の許へやって来た有働も同様であった。辛い過去を捨て去りたい気持ちから、最初のうちは、不慣れな街へ寿と遠慮がちに出向いていたが、そのうちに炭鉱の環境にも街にも慣れて、夜ごと独り歩きするようになった。多少の無茶をやらかすが、堅気の暮らしに落ち着きを取り戻した有働を、寿も、いつしか安堵の眼で見守るようになっていた。

 そのような日々がつづくある日、寿が労務管理室の机で昼食の弁当を広げているさ中に、本館事務所からの内線電話がけたたましく鳴り響いた。

 その受話器の向こうの声に、寿は、廻りが驚いて顔を上げるほどの声を上げた。

「なんとな! そげな阿呆なことがあるはずはなか! なにかの間違いやなかね。昨日の有働は、確かに非番やったけんが、今日は一番方で、今頃は二抗に入っとるはずぞ」

【それがですの、二抗の事務所に訊いたばってんが、今日は休んどるかして、まだ出て来とらんとじゃ】

「……おかしかの? あいつは、わしに無断で休む奴やなかはずやが、もしかして、夜遊びば祟って風邪ば引いて寝こんどるんかの……」

【それならよかばってんが、しかしですの、警察が言うにはですの、ま、電話のことやけん、はっきりせんとやが、聞いたところの背格好を考えると、どうやら有働さんごつあるようなんじゃ。わしも、あの人ンごつァ知っとうけんの。そやけん、それを聞いて、こりゃどうやら有働さんに間違いなかばいと、そげ思うて、あんたに電話ばしたとじゃ。寿さん、あんたは有働さんとは無二の戦友ばい。間違いじゃったら、そりゃそれに越したことはなかばってんが、あんた、ちょっと警察ば行って確かめてくれんかの】

 電話口が、心配そうな声で寿を促した。

「有働がそこへおるゆうのんは、確かとじゃの?」

【長屋におらなんだら、そげに考えてよかじゃろの】

 相手はそう言って内線を切った。

 寿は、弁当もそこそこに事務所を飛び出すと、自転車のペダルを蹴って、まず坑夫長屋へ走った。

 立てつけの悪い引き戸を開けて入ると、散らかし放題の部屋には万年布団が敷かれてあるだけで、有働の姿はなかった。

 ――あのばか、仕事ばサボりよってくさ、夕べからどこぞで呑んどるにちがいなか!

寿は、有働の立ち寄りそうな場所を片っ端に捜し廻った。

 飲み屋街はまだ店を閉じている。寿は、朝から店を開けている何軒かの立ち吞屋を廻ってみたが、有働が立ち寄った形跡はなかった。

 映画館を覗いてみたが、そこにもいなかった。寿は、自分の馴染みの居酒屋に飛びこんで女将を叩き起こした。

「おい、おかみ、(さと)()はおらんね!」

 寝乱れた髪を手櫛でほぐしながら二階から降りて来た女将は、寿の悲愴な顔色を見て眼を丸くした。

「どうしたんね大きな声ば出してくさ。上がりんさいよ」

「いまは、そげな時間はなか。それより、今日は有働は来んかったね?」

 聡子は顔を横に振った。

「昼間は店を閉めちょるけん、なんぼあの人でも入っては来れんばい。鍵ば開けて自由に入れるんは、世の中の男じゃあんただけやけんねェ」

 と、流し眼を送った。

「馬鹿、冗談ば言うとる場合やなか。有働は、ほんまごつ来んかったとやの?」

 聡子は、今度はうなずいた。

「夕べはね、確かに来たことは来たよ。やけんど、どこかで呑んだかして、来た時間が遅かったけんね。焼酎を二杯ほど呑んで、これ以上飲むと明日の仕事に障るけん帰る言うてね、ご機嫌さんで帰ったとよ」

 聡子は柱時計に眼をやって、

「確か十一時ごろじゃったと思うばい」

 と、寝不足のあくびを手の甲で抑えた。

「水を……水ば一杯やらんね」

 聡子が水道の水をコップに注ぎながら訊いた。

「朝からそげな血相ば変えて、いったいどげしたとね?」

 手渡されたコップの水を、寿は一息に飲み干して、それを聡子に返した。もう一杯くれというのだ。

「……たったいま、警察から連絡ばあっての、わしの事務所に……」

「警察ね。あの人が警察沙汰ば起こしたとね?」

「そうやなか。警察が言うにはの、ゆんべ夜中に、有働が殺されたらしかとじゃ……」

「え!」

 と、聡子の短い愕きの声と同時に、手からコップが床へ辷り落ちて、コップの割れた音とともに水が弾け散った。

「……いま市立病院におるらしかけん、そこへ行って確かめるまではなんとも言えんばってんがの、これだけ捜してもどこにもおらんとこばみると、どうやら本当かもしれん。わしゃこれから市立病院ば行ってくる」

「うちも一緒に行こうかね?」

「いや、お前はここにおれ。もしかしたら、あいつのことやけん、ひょっこり顔ば出すかもしれん」

 儚い希望がそう言わせた。

 寿は、居酒屋松月を飛び出した。

 病院に出向くと、受付に老刑事が看護師と顔を見せて、寿は地下の遺体安置室へ導かれた。

 安置室には、白布に覆われた巨体が横たわっていた。

 老刑事は、遺体にかけられている白布をとって、

「この仏さんですたい」

 と、呟いて合掌した。

 寿は、その顔を見て、愕然とした。

「……有働……」

 過去の大戦で九死に一生を得て、あの地獄の密林を生き抜き、シベリアの酷寒に耐え抜いた強靱な男が、こうも簡単に死んでしまうとは信じられなかった。

 老刑事の話では、有働は、駅前広場からの小さな商店街を抜けたところの、国鉄本線と貨物専用線の踏切にさしかかったところで、若い男女が二三人のチンピラに絡まれているのを見て、それを助けようとして、逆に腹部と大腿部を刺されたのが致命傷になったということであった。

「今朝方、主犯格の一人が長兄に連れられて自首ばして来よりましての、即刻殺人容疑に切替えて逮捕ばしたゆうわけじゃが、残念ながらあとの二名は逃走中やが、ま、これも時間の問題ですたい」

 温厚そうな老刑事はそう言って笑ったが、眼は底光りを放って据わっていた。

「自首ばした奴はどげん男ですか?」

「それがですの、なんとも元海軍特攻隊の生き残りゆうことやが、それもまァどこまで本当かの。所詮は、世間から爪弾きばされたチンピラですけんの。それにしても、この仏さんは災難やったばい。折角の善意がこげんごつなってしもうて……」

 老刑事は、有働の顔にそっと白布をかけてやった。

「そりゃそうとですの、あんたの事務所が教えてくれたこの仏さんの身内ばごつやが、うちの係の者がいろいろと手ば尽くして調べたとですがの、どうやら、この仏さんには身元の引き取り手がどこにもなかゆう話なんじゃ。死因は刺突による大腿部動脈の失血とはっきりしとるし、わざわざ司法解剖ばすることもなかろうと、うちの上司も言うとりましての。かと言うて、仏さんは炭鉱に属しとる人やけん、このまま荼毘ば付して無縁仏にするゆうこともできんし、はァどげしたもんかと思いましての。それであんたに来て貰うたとやが、どげしましょうかいの?」

 どげするかもないものである。老刑事の言葉は軟らかな相談口調ではあるが、寿の表情を探るように視る眼つきは強制に近い鋭さがあった。身元が判明した以上は、遺体を持ち帰れと言っているである。

 寿は、それをやんわりと受けた。

「これはわしの弟ばごつ奴ですけん、わしの手で懇ろに弔うちゃろ思いますたい。これからすぐに準備ばして引き取りに来ますけん、すまんですが、もうちょっとだけこのまま寝かしておいてやってくれんですかの」

 老刑事の眼が俄に弛んだ。

「あァよかですとも。あんたのような人に骨ば拾うて貰うて、この仏さんも、これで成仏ばできますたい」

 老刑事は、短くなった蝋燭と線香を取り替えて、有働に合掌して看護師と部屋を出て行った。

 寿は、その場に崩れ落ちるように坐して、なんの前触れもなく卒然と逝ってしまった有働を惜しんで、無念の涙を絞って泣くだけ泣いた。


 その夜、有働の遺体を引きとった寿は、炭鉱集会所の一室にささやかな通夜の席を設えた。

 そこへ、坑夫仲間の弔問に混じって、一組の若い男女が弔花を胸に抱えて訪れた。

 二人は、有働の胸元に、そっと弔花を添えて合掌した。娘の眸からは、大粒の涙が滝のように溢れ出ていた。

『……班長殿、この娘さん、ヤケに別嬪ですね。あっちにも、こんないい娘と、うまい酒がありますかね……』

 死装束を纏った有働のそこだけが黒々とした口髯が、ぼそりとそう囁いたように思えた。

『あァあるたい。こげな腐った世の中とちごうて、あっちには、永遠に諍いのなかよかところがの。そやけん、酒もおなごも選取見取ぞ。これからは誰にも遠慮は要らんたい。きさんの好きなごつ、存分に愉しむがよか……』

 有働の顔が、どことなく、綻んだように見えた。


                                     消耗品たちの八月十五日 終わり

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