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消耗品たちの八月十五日  作者: 河野靖征


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野下に揺り起こされて目覚めたときは、外は、白一色に塗りこめられていた。

「さっきから霧のような雨が降って来ましてね、おまけに霧がかかって外一面は真っ白です。なにも見えません」

 と、野下は安堵したような眼差しを深い霧に注いだ。

 この分だと、今夜は動かないだろう。負傷している上に、歩くことへの厭気がさしている野下には、この霧は天与の恵みに思えたのである。

「これじゃ動きようがなかの。仕方がなか、もう少し待とうたい」

 外を窺いながら、寿は、隠しから煙草を取出して火を点けた。

「それにしても、こりゃ気味の悪か霧たい」

 と、煙草を咥えたまま用足しに外へ出た。

 放尿すると、自分の小便が、暗黒に吸いこまれて忽ち見えなくなった。不意に襲われる危険性はないものの、得体の知れないものが跫音もなく忍び寄って来て、いきなり背後を襲われそうな戦慄さえ覚えた。

 霧は、夜になると、闇と重なり合ってさらに深くなり、まるで墨汁に浸かったような漆黒の闇へと変貌した。

「これじゃどうにもなりませんね」

 と、有働がノソリと起きて来て、闇に覆われた外を窺って出て行った。

 姿こそ見えないが、バシャバシャと音を立てているのは、壁に向けて野獣が放尿しているのである。

 軍袴の釦を閉じながら戻った有働は、

「この霧は朝まで晴れませんよ。どうです。今夜一晩様子を見てから動きませんか」

 そう言って、野下に顔を振った。

「おい、米はまだ残っているかい?」

「雑嚢に半分ほど」

 有働はうなずいた。

「持っていても、この先まともに炊けるかどうかわからねえ米だ。班長殿、晩飯を炊きませんか」

「それもよかが、先はまだ長かとじゃ。糧秣はできるだけ節約せにゃならん。この先も、こげに恵まれた場所があるとは限らんけんの。いまは芋で我慢せい」

「そうですね、そうしますか」

 餓えは、もうこりごりである。有働は素直にうなずいた。

「野下よ、晩飯の飯上げをしようたい。それから、飯のあとでよかけん、各自の飯盒に入るだけの芋ば茹でてくれ。いつでも動ける用意にの」

 赤羽と曳田が起きてきて、外の様子に眼を白黒させた。

「こりゃまるで闇地獄だ」

 と、曳田と用足しに表に出て行った。

 ビシャビシャと音がするのは、やはり壁に向けて放尿しているのである。

 小便をし終えて滴を切ると同時に、赤羽は、大きな身震いを一つした。

「やけに冷えたぜ」

 戻った二人は、火の熾った別のかまどに手を当てた。

 その手を温めながら、曳田が口を開いた。

「こんな状態じゃ先へ進むのは無理ですぜ、班長殿。どうしますね?」

「今夜は中止だよ」

 と、有働が答えると、曳田の顔色が急に明るくなった。

「それなら有働さんよ、ついでと言っちゃァなんだが、芋も豆も食いきれねえほどあるんだ。今夜一晩と言わずによ、当分この家に籠もって自給の構えってのはどうだい。そうしているうちによ、世間の情勢も変わろうってもんじゃねえか」

 と、赤羽に相槌を求めた。

 赤羽は、股間を擦りながら、

「そうだな。そのうちに、満人の感情も冷えるだろうからな。なにも無理して歩くことはねえやな」

 と、曳田の顔にニタリと笑った。

 これが意外にも有働の癇に障った。

「なんだと、この馬鹿野郎!」

 有働の怒声がいきなり二人を叩きつけた。

「戦争はとうに負けているんだぞ。俺たちが歩いているたった半月足らずで、満人の態度があれだけ変わったんだ。そんな危ねえ橋を渡りながら、俺たちは歩いてんだぞ。あれだけの目にしこたま遭っても、まだ懲りねえのか、てめえら! ここだって、いつ見つかるかわからねえ状況なんだ。残りたけりゃ勝手に残りな。この山に籠もって炭焼でもキコリでもなんにでもなりやがれ。そのうち満人に寝首を掻き切られて、てめえら野垂死するのが落ちだ!」

「それくらいにしておかんか」

 と、有働を戒めて、寿の顔が赤羽たちに向けられた。

「きさんらに言うとくけんがの、確かに、ここには当座の自給条件ば揃うとって水もある。歩くことにも疲れとる。そげなきさんらの気持もわからんでもなかばってんが、じゃからゆうて、気ば許して居座るわけにはいかんとじゃ。きさんらはどげに思うとるかしらんばってんが、わしら三人は、最初に言うた目的地へ、一日でも早かごつ行きたい一心でこげして歩いとる。しかしの、きさんらが残る言うのなら、わしは制めたりはせん。きさんらの好きにすればよか。いま有働が言うたごつ、この満洲にはわしらの安息の場所はどこにもなかぞ。危なか思うたときは手遅れになっとるときたい。そげんなかを、どこまで無事に行けるか、このわしとて先ンことはわからんまま歩いとるとじゃ。それを承知で着いて来るとなら勝手に来ればよか。ただし何度も言うけんが、着いて来る以上は余計な考えも口出しも一切許さん。このことをよく憶えとくことぞ。わしらはこの霧が晴れ次第出発するが、着いて来る気がなかとなら、そこら辺で寝転んで芋でも囓っとれ」

 寿のこの言葉で、二人は口を噤んだ。二人残ったところで、生きて行く自信などありはしないのである。二人とも黙って脚絆を捲き直しはじめた。


 音もなく一晩じゅう降りつづけていた霧雨は、未明には上がったが、一夜が白みはじめても、霧は一向に晴れる気配を見せず、視界は二三メートル四方がやっと確認できるほどであった。

「こんな霧は、いままで見たことがねえな。どうです、班長殿、日中歩くには少々物騒ですけど、霧が晴れるまで、思い切って行けるところまで行ってみませんか」

 戸口へ立った有働が、外を窺いながら言った。

「この程度なら、歩いて歩けないことはありませんよ」

「霧のなかの移動は危険じゃ」

「でも、この分だと、晴れる気配はありませんよ」

「発見される確率は少ないがの、その代わりに、こっちも盲になる道理たい。ま、どげな状況やろと危険はつき纏うけんが、差し迫った危険のなかときは、焦って無理ばすることはなか」

「それもそうですね。歩いている途中に霧が晴れて、あのときみたいに、気がついたら敵のど真ン中だったじゃ洒落にもなりませんからね。やっぱり様子を見ますか」

「そげするより仕方なか」

 言いながら身震いをした。山の朝は、冷えこみが厳しいのだ。そろそろ夏の終わりが近づいている証拠である。

 寿は、かまどに火を熾している野下に声をかけた。

「傷の具合はどげな?」

「だいぶ楽になりました。傷口も塞がってムズ痒いほどです。班長殿のお蔭です」

 若いから恢復が早いのかもしれない。寿は、うなずいただけで、もう傷口を看ようとはしなかった。

「まだまだ強行軍ばつづくばってん、無理をせんで体力ば温存するとぞ」

 野下は笑顔でうなずくと、笊にジャガ芋と隠元豆をてんこ盛りに抱えて来た。

「芋は夕べの残りですが、豆を茹でました。朝飯です」

「ちょうど腹が減っていたんだ。有難え」

 と、有働が真っ先に手を出した。

「こいつと塩がありゃ、当分は餓える心配はねえな」

 有働は、粒状の岩塩をガリガリと噛みながら、ジャガ芋をガツガツと頬張った。

 目覚めた赤羽と曳田が、気まずそうに愛想笑いを浮かべて擦り寄って来た。

「有働さんよ、俺たちも一緒に行かせて貰うよ。班長殿、お願いしますよ」

 と、曳田が大柄な体を折って哀願した。

 強い者に()(ふく)して生きて来たお蔭で、自分を導く指揮官なくしては独自の行動ができないのだ。その習慣が染みついている曳田は、いま寿や有働に見捨てられでもしたら、困るのはやはり自分自信なのである。赤羽には表面では口裏を合わせてはいるが、肚では赤羽に信頼を寄せているわけではないのである。

 寿は、聞かぬ振りをして芋を口に運んでいたが、救いの手を差し出したのは有働であった。

「ぐずぐず言ってねえで、いまのうちにそいつを腹に詰めておけよ。これから先、まともに食えるかどうかわからねえからな。身が持たねえぞ」

 有働はそれだけ言って、ジャガ芋を頬張りつづけた。

 赤羽と曳田は、遠慮がちに芋の山に手を伸ばした。

 籠に盛られたジャガ芋は見る間に消えていった。

 このささやかな朝飯が、逃避行最後の食事になろうことなど、男たちは知る由もないことであった。

「外がだいぶ明るくなりましたね。この分だと、じきに晴れそうですよ」

 芋をたらふく食い終わって、食後の一服をうまそうに吹かしながら戸口に立った有働は、寿に振り向いてニタリと笑った。

「上から物を詰めこんだら下に押し出されるってのは自然の摂理ですけど、出しちまうと、なんだか損したみたいで困ったもんですね。ちょっと用足しに行って来ます。班長殿、行きませんか?」

 寿と野下が互いの顔を見合わせて含み笑いを洩らした。

「余計な心配はせんでもよか。野下もわしも、さっき済ませたとこたい。きさん一人で勝手にやって来い」

「なんだ、もうやっちゃったんですか。つれない班長殿だねェ」

 と、赤羽たちに顔を向けて、

「よ、おめえたちもいまのうちに用を足しとくんだな」

 と、巨体を揺らして出て行った。

 排泄行為があるということは、とにもかくにも、食って生きている証である。有働は、霧に包まれている畑に入って軍袴の紐を解いた。

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