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駅の見える森に潜んで休養した寿たちは、夜が深まってから不毛の大地へ足を踏み入れた。
夜明けまでには、南に霞んでいた山の麓まで行き着かねばならない。幾つかの丘陵と遠くには疎林はあるが、雑草もまばらな不毛地帯である。発見されれば、ここまで歩いた苦労が、それこそ一瞬にして水泡と化してしまうのだ。
丸くなりかけた淡い月明かりを頼りに暫く進むと、急に大地の傾斜がきつくなった。これは日中に確認していたものだが、曠野に幾つか点在している最初の丘陵に突き当たったのである。様子を窺うために丘を登ってかえり見ると、駅舎の周辺のその辺りだけが、赤軍の機甲部隊の明かりに混じって、街の灯りが揺れていた。あの曠野のときとちがうところは、その小さな明滅は、立ち寄りたくても近づけない、日本の軍隊から自由を取り戻した、まぎれもない勝者の明かりであった。
「あれを見ると、なんだか、娑婆の夜の街を無性に思い出しますよ」
有働が、遠くのそれを見つめて、懐かしそうにしみじみと呟いた。
「夜になるとね、赤や青のネオンの街を歩くんです。呑屋からみかじめ料を掻き集めるためにね。酒と女には不自由しなかった……」
「……わしらには、娑婆にやり残したもんがうんとあるたい。帰っての、それをやらにゃならん」
寿は、有働の肩を軽く叩いた。
「急ごう。グズグズしとると、ろくなこつァなか」
と、死角になる反対側の窪地に下りて歩きはじめた。
歩きはじめてすぐ、駅舎から尾を引くような機関車の甲高い汽笛がこだました。
男たちは耳を傾けたが、窪んだところからは遠い闇の向こうの様子などわかろうはずがない。列車は北へ向かったものか、南へ行くものか判然としないが、それが出発の合図であることだけは誰にもわかった。
「どっちへ行く汽車ですかね」
と、寿と歩調を合わせて歩いている有働が言った。
「もし南なら、あれに乗れば、班長殿の言う北安までは、ほんのひとっ走りですね」
北安どころか、列車なら、それこそ大連までひとっ走りである。人間の脚に較べて、なんと速いことか!
月明かりで青白く染まった寿の顔が、怒りと悔しさと情けなさとが入り混じって、いっそう青白く光った。
――くそったれが! こげな馬鹿げた戦ばやりくさって。なんでわしらが、こげな苦労ばせにゃならんとか!
「おい有働、わしらは、いったいなんのために歩いとるんかの」
わかりきったことである。だが、どうにもやりきれない虚しさが、つい愚問を投げた。
有働が、それをさらりと言い放った。
「さっき班長殿が言ったじゃないですか。俺も、班長殿も、みんな娑婆でやり残したものをやるために、こうして歩いているんですよ」
「……内地か……」
「そうです。内地に帰るんです。やり残したことがあるんでしょ。俺だってそうです。だったら、こんなところで死んだんじゃつまらねえ。弱腰になったら、なにもかも負けですよ」
有働は怒ったように言った。
「内地に帰っても、もしかすると、国も家族もなくなっとるかも知れんぞ」
「そうかも知れませんがね。でも、つまらねえ戦争をする俺たちの国はなくなっちまったほうがいいんです。そんなものなくたって、俺たちの里はなくなりませんよ。国は滅んでも、山や川は残るって言うじゃないですか」
「国破れても……か」
寿は、呟いて、皮肉に笑った。
「そげんこつより有働」
と、寿の声の調子が変った。
「さっきから考えとるんやが、こげな歩き方をしとったら駄目ぞ」
「駄目って、なにがです?」
「こげな恰好ばして歩くことがじゃ」
「これしかないんだから、仕方ありませんよ」
「やけんいかんとじゃ。武器も持っとらんほうがよか」
「なにを言っているんです。これがなきゃ生きて歩けませんよ」
寿は、有働の背を押して、少し歩幅を速めて仲間との間を開いた。
「よく聞くとぞ、有働。わしらはもう戦ばやめた人間たい。その人間がぞ、こげな姿で武装ばしてゾロゾロ歩いとったら、相手はどげ思うか?」
「そりゃ関東軍の負け犬と思うでしょうね」
寿は、歩きながらうなずいた。
「その負け犬がぞ、しょっちゅう牙を剝いて、ロスケや満人と戦ばしながら無事に歩き通せると思うか?」
「だって、その覚悟で、俺たちは歩いているんでしょ?」
「確かにそのとおりやが、だからゆうて、いつまでもこげなわけにゃいかんばい。オイはの、有働、最初は、状況がこげん早かごつ急変するとは思わなんだ。そりゃ、歩いとる途中にはいろんなことが起こる。多少の危険や衝突は仕方はなか思うとったばってんが、しかしの、さっきのあれを見て考えが変わった。あの様子じゃと、わしらが目指す鉄道以南の全線は完全に敵の手に陥ちとるごつ見える。このまま進んでも、危険度はますます高まる一方たい。とても無事に歩けそうになか」
「じゃ、どうするんです? まさか手を挙げるてんじゃないでしょうね」
「そげなこつすりゃ、わしらは内地へ帰れん。いや、その前に玉砕たい」
「じゃどうするんです?」
寿は、五六歩ほど無言で歩いてから、小声で、有働が日を夜にして考えていることを口にした。
「きさん、満人のおなごば抱きとうはなかね」
「女? 女がいるんですか!」
と、有働の眼玉がギョロリと寿に向けられた。
「声が大きか!」
と、囁くように戒めて、
「こげな辺鄙な野っ原のどこに、そげなおなごがおるか。ばか!」
と、吐くように言った。
「オイが言うのは、あの森で出会うた一等兵が言うた話たい。きさん憶えとろうがくさ。この先の満人部落……」
「あァ、そんなことを言っていましたね。でも、本当かどうかわかりませんよ」
「嘘かどうかは行ってからのことたい。わしが読んだところ、あの一等兵の顔は、すべてを知り尽くしとる顔やった。もしそれが本当なら、親日派のあすこは、男よりおなごのほうが多かごつあるようなけん、行ってみる価値はありそうなぞ。どげな有働、おなごの匂いば、久しぶりに嗅いてみんね。きさんのその鋭か鼻ば利かして、の」
このことが、どれほどの危険を孕んでいるかを考えるよりも、寿は、あの一等兵の言葉を信じようとしていた。非戦闘地区の上に親日的であれば、たとえ日本軍の敗残兵であったとしても、これまでの関係から、そこの住人は少なくとも友好的なはずである。それを知悉しているあの軍曹たちも、そこへ足を向けたはずである。誠意をもって対応すれば、相手もそれに応えてくれるはずであると、寿はそこに一縷の望みを託して心を動かしたのである。
「てことは、ひょっとして夜這ですか?」
ゴリラの鼻頭が牝の匂いを蘇らせたか、鼻先をヒクと動かしたが、寿の顔は緩んではいなかった。
「そげな卑しかもんやなか。取引たい。つまり、わしらの糧秣と甘味品を、あれらの満服と物々交換ばするとたい。やけん、ただ乗りをするんやなか。礼儀はきちんと尽くして、人数分の満服ば調達するとじゃ」
「満服ぐらいちょろいもんですが、……あ、そうか、いつか班長殿が言った、開拓民の百姓に化けるんですね?」
「いまみんなに話す」
有働の下腹部で燻りつづけている情慾の火種が、俄に燃えさかったようである。
「ありがてえ。こんなに早く女を抱けるとは思わなかったな、生きててよかった」
有働は、赤い舌で、長くなった鼻の下の唇をペロリとなめた。
「喜ぶのはまだ早かぞ。あいつらの言うたことがほんとかどげか、まずそれを確かめてからぞ」
寿は、立ち停まって、振り向いた。
「みんな集まってくれ」
男たちが傍に寄った。
「お前たちも聞いた思うが、森で出会うた連中が言うた話が本当なら、この先には親日派の満人部落があるはずたい。わしらは、ひとまずその部落を目指すことにする」
「まだ、たんまり糧秣はありますぜ」
意外にも、赤羽が生真面目に言った。
「目的は糧秣やなか。満服ば調達するとたい」
「なんだ、かっぱらいかァ」
と、ぼやいたのは曳田である。
それを有働の手が伸びて、曳田の肩を突き飛ばした
「かっぱらいとはなんだ! この野郎、班長殿が真面目に喋っているんだぞ。余計なことに口を出さずに、てめえは黙って聞いてろ!」
と、呶鳴りつけた。
寿は、曳田を見据えただけで先をつづけた。
「みんな、これはわしらにとっては大事なことやけん、しっかり聞くとぞ。前にも言うたけんが、わしらは、その満人集落で満服ば調達して、いま着とるもんと着替える。それから武器も棄てる。つまり、武装を解いて、わしらは民間人に戻るとじゃ。武装をしたこげな姿ばしとると、危険は高まる一方で、とても目的地まで行けそうもなか。そのためには民間人の被服を調達する必要がある。しかし、まともに交渉しても、相手は、わしらが敗残兵ゆうことを既に承知しとるけん、あの一等兵が言うたように、素直に行くとは限らん。警戒ばして受け容れんかもしれんし、男の連中も鉱山の労役ば解放されて、今頃は部落に戻っとる可能性も考えられる。そげな状況やとしたら、連中はわしら敗残兵を黙って見逃すはずはなか。武装ばして、わしらの脅威的存在になっとるかもしれん。やけん、安易に近づくのは危険たい。ひとまずその付近まで行って、部落の様子を探るなりして、慎重に行動せにゃならん。逆に危険がなかとなら、あすこは親日派ごつ部落らしかけん、交渉の望みはあるというもんたい」
「民間人に化けるってのはいいが、銃を手放すってのはどうかな」
と、曳田の怪訝な顔が赤羽に向けられた。
「支那語もできねえ俺たちが、丸腰で歩くってのも不用心だしな」
赤羽も懸念の色を示して、
「そうだな、銃だけはやっぱり要りますぜ」
と、きっぱりと言った。
「確かにきさんらの言うように、民間人に成り済ましても都合よく行くとは限らん。しかし、こげな恰好よりは、多少とも敵対感情は和らぐはずやし、危険度もいまよりは低いはずたい。言葉が通じんでも、誠意をもって接すれば、相手も無碍には扱わんやろくさ。そげ思わんか」
男たちは、互いの顔を見合せてから寿に顔を戻した。
「女とナニするときゃ面倒な言葉は要らねえもんだが、満服の交渉となると、こいつは少々骨ですぜ」
赤羽が言った。
「やけん、きさんらのその体を必要とするとたい」
「どういうことですかい?」
「早い話がだな」
と、寿の横から有働のにやけた顔が赤羽たちに寄った。
「こういうことだよ。交渉は一人じゃ危険だから、みんなで行って物々交換をしようってことだ。甘味品か缶詰を女に見せれば、女たちは喜んで股を開いて、ついでに満服もくれるって寸法だ。ね、班長殿、そうでしょ」
「股は余計たい」
有働がだらしなく笑うと、曳田の眼が前へ突き出た。
「女も抱けるのか?」
情けない夜這いの相談に、寿は苦々しく笑った。
「首尾よく行くか行かんかは、曳田、きさんの腕次第たい。そげな鼻の穴ば膨らましてデレーっとしとると、逆にキンタマば抜かれて、貰えるもんも貰えんごつなるぞ」
そう言い置いて、
「お前たちに言うとくけんが、これは女が目当てやなかぞ。あくまでも満服の取引ゆうこつを忘れちゃならん。意味ば履き違えて、無茶な行動は絶対にしちゃならん。都合よかことに、わしらには雑嚢の米があるし、まだ携帯口糧と甘味品の羊羹がある。これをかねの代償として物々交換ばする。うまく行けば、きさんたちの望みも叶えられるいうもんたい」
「そういうことなら、早えとこ行こうぜ」
と、眼を爛々と輝かせた曳田に、寿は、
「慌てるんやなか。わしの話を最後まで聞け! そげなせっかちじゃと、きさん、早死にばする羽目になるぞ」
と、厳しく誡めてつづけた。
「よく聞くとぞ。この交渉はきさんら四人でやる。交渉は有働、言葉は通じんでもよかけん、きさんがやれ。そのとき、相手の空気にちょっとでもおかしか様子ば感じたら、すぐに交渉を諦めて引き返すとぞ。野下とわしは、部落の周辺で待っとる。異常の際は銃ば二度射つけん、ナニん最中でもすぐやめて、引き揚げて来い。ただし、コトをいたす前に、満服を受け取るのを忘れちゃならんぞ。なにが起こっても、慌てたりせず、連中に危害を加えちゃならん。よかの」
「大丈夫ですよ、班長殿。きっとうまくやります。まかせてください」
有働が弾んだ声で答えた。
「よし、これからわしらは夜ば徹して歩く。水はできるだけ節約するとぞ。飲み過ぎると、疲れが出て歩けんごつなるけんの。糧秣は交代で担げ。有働に曳田、まずお前たちからじゃ。野下、歩けるな?」
「大丈夫です。歩けます」
傷口の痛みが和らいだか、野下は元気そうに答えた。
「心配あらへん。わいが傍に着いとるさけな。元気出して歩くんやで」
一行は、青白く光る月下の曠野を歩きつづけた。
その行程も、ちょうど曠野の半ば辺りまで進んだころ、南の方角から汽車の号笛が聞こえた。曠野に足を踏み入れてからこれで三度目である。音の伝わりからして距離はそう遠くなさそうであった。
やがて機関車の前照灯らしき小さな光が寿の眼に入った。ほんの二三秒のことだが、光は北に流れるように消えた。旅客列車のように光の帯はなく、幽かに聞こえる鉄道の繋ぎ目を叩く車輪の音が変則的であることから、あれは貨物列車である。それも、かなり長蛇の編成のようであった。
北の遠くでもう一度汽笛が響いた。いまの列車が、到着の合図を告げたのである。
寿は、なにも見えはしないその辺りをもう一度見て、暗い顔をいっそう暗くした。貨物列車であれ旅客列車であれ、南へ向かう列車が一本も走らないということは、もしかすると、それは後方へ退がるはずの日本人が、極東ソ連軍によって足止めを喰らっているのではないかと、そうも考えたりした。
だが、実際はそうではなかった。このとき、極東ソ連軍の手で武装解除を受けた関東軍の夥しい将兵たちが、捕虜となって、戦利品の輸送物とともに北へ運ばれていることなど、寿には知る由もないことであった。
寿たち一行は、夜を徹宵して目的とする山が近づいたところまで歩いて、月下の丘陵にぽつねんと浮かんでいる小高い疎林に身を隠し、そこで携帯口糧を開いて朝を待つことにして仮眠をとった。
その眠りも束の間、突然、至近で甲高い汽笛が響いて男たちを愕かせた。いつしか朝になっていて、一行が潜む疎林の麓に、北へ向かう長蛇の列車が通過したのである。
それを見送りながら周辺を窺い視ると、夜の曠野を歩いているときには差程も感じなかったが、そこから眺める自分たちの疎林は、かなりの高地であることがわかった。
孫呉の丘陵と同じように高低差が目立たなかったせいか、丘陵の斜面を登っているという感覚が殆ど感じられなかったから、それほどの高地を歩いているとは気づかなかったのである。その疎林の反対側へ廻ったところは、目的の山がすぐ眼の前にあり、眼下には、荷車が並んで通れるほどの幅員を持つ道道が鉄道と並行していて、山の裾野に沿って南北へ延びていた。
南へ延びている鉄路の向うには、幾筋かの炊煙らしき煙が上がっていた。それがあの一等兵が言った部落のものかどうかは、寿の位置からは確認できなかった。
「ここからじゃ見えませんが、あの立っている煙の辺りが満人の村ですかね?」
「そげ願いたかとこじゃが、ここからではなんとも言えんの。ロスケさんじゃと、それこそお手挙げじゃけんの」
寿は周辺を注意深く窺った。
南北に走っている眼下の鉄道も道路も、見渡す限りでは人影はなく、鉄道の向こうに見える炊煙との関係を結ぶ道路らしきものも見当たらない。だとすると、いつかの満人部落のように、どこか見えない場所に経路があるのかもしれない。
「あの煙の辺りまで行ってみますか」
と、有働が促すと、寿は慎重な面持ちで、
「いや、あの煙、水煙らしきものに見えんでもないが、もしかしたら別のものかもしれん。あすこには某の人間がおるのは確かやが、あの煙は家のもんやなかごつある。煙の上がり具合が、どうも部落とは関係なかごつ思える」
と、別の一点のそこに眼を細めて言いきった。
「そんなことが、どうしてわかるんです?」
「あれたい」
と、南へつづく道路の先に顎をしゃくった。
「向うの山裾の盛り上がった辺りを見てみい。耕地らしかもんが見えるばい。あれは畑たい。つまり、わしらの目指す部落は、あの方角に在るゆうことたい」
「ほんまや。あれは畑でっせ」
首を伸ばした高丸が相槌を打った。
「それじゃあの煙はなんですかね?」
「安全子を外しておけ」
寿は、すぐにはそれに答えず、銃嚢から拳銃を抜いて安全子を開いた。
「あの奥に畑があるゆうことは、たぶん、あっちに農家が集中しとるゆうことたい。視たところ、あの道路には荷車の轍はあるけんが、それ以外の車輌の通った形跡はなか。道は駅に繋がっとるらしいが、街とは眼と鼻の先やけんの、もしかすると、敵さんがおらんとも限らん。道路に出たら、一列縦隊で藪寄りに歩け。赤羽、きさんは殿ば(しんがり)就け」
そう命じて、少し困惑した顔を有働に向けた。
「あの煙は満人のものやと思うが、有働、この計画、もしかしたら、諦めるごつなるかもしれんぞ」
「えーっ。やめるんですかァ」
有働が不服そうに嘆いた。
「下手ばすると、そげんこつになるかもしれんと言うとるとたい。とにかく、もう少し先へ行って確かめよう」
寿は、男たちに合図を送って、疎林の斜面を下った。
用心深く暫く進むと、案の定、山の麓に集落があった。規模は想像していたよりも小さかったが、耕地はかなりの面積を有していて、背丈ほども育ったトウモロコシ畑が、両翼の山の麓まで拡がっていた。
そのトウモロコシ畑の中程まで達した辺りで、寿は村落とは反対側の山へ移動して、村落の全景が見下ろせる位置まで一行を導いて休止を命じた。
「どうやら赤軍の姿はなかごつあるの」
「連中は、野良仕事に忙しいんですね。みんな畑に入っていて、家の周辺には誰もいませんよ」
有働が答えた。
「だったら、いま行ってもしょうがねえな」
赤羽が呟いた。
「慌てることはねえよ。村は逃げやしねえんだ」
と、有働は、装具を置いて隠しから煙草を取り出して咥えた。
「このまま夜を待ちましょうや、班長殿。夕べは歩き通しだったから眠くてしょうがねえや。ここで腹ごしらえして、ひと眠りしませんか」
と、妙に落ち着き払って言った。
「そげするか。おなごの腹ば上で眠られたら、きさんはどげにも始末が悪かけんの」
有働は、エヘ、と、軍帽を掻いて照れ笑いした。
「ここなら村の動きがようわかる。この場所で夜を待とう。有働、いまのうちに背嚢の糧秣を仕分して、飯ば済んだらみんな交代で休めばよか。最初は、わしが見張りば立つ。野下、肩の具合はどげな?」
「大丈夫です、心配ありません」
寿は、緩んだ脚絆を捲き直しながらうなずいた。
「飯のあとで診ちゃるたい」
野下は、嬉しそうにコクリとうなずいた。
有働に分配を命ぜられた高丸は、天幕を広げて、二つの背嚢のなかの糧秣を天幕に広げて、物々交換用と、自分たちの分とに二つに分けた。マッチと煙草が抜かれてあるのは、さすがに年の功の成す業であった。
「こんなもんでよろしおますやろか?」
と、交換物資を有働に見せた。仕分けされた交換用には、甘味品と携帯口糧が、一つの背嚢分ほどであった。
「少し多いんじゃねえか。ま、いいや。多けりゃそれだけ条件もよくなる」
そう言って、だらしなくニタリと笑った。
男たちは、一食分の携帯糧秣を平らげると、銘々が木蔭を見つけて横になった。
その間、寿は、喫っている煙草の煙が立たないよう、手で煙を払いながら村落に視線を巡らせていた。
眼下に眺めるそこは、寿の眼には平穏に映っていた。非戦闘地区と聞いているせいか、住民たちは、戦争とは無縁のように長閑な風景に溶けこんで農作業に勤しんでいるようであった。男の数が少ないように思えるのは、一等兵の言葉どおり、日本企業の鉱山とやらに、解放されぬまま、まだ残されているのかもしれない。
寿は、念入りに、そこから眺められる範囲を眼で巡らせてみた。その限りでは、赤軍も民兵の姿もなく、住民は何事もなかったように警戒心を解いて、平穏に過ごしているようであった。そのことから、あの軍曹たちは、目的を達して、今頃は後方へ退がっているかもしれないと思った。もしそうだとすると、ここでの敗残兵の安全は、まだ保証されているのである。
煙草を喫い終えた寿は、ぼんやりと眼下を見つめている野下に声をかけた。
「ちょっと傷口ば診せんね」
軍衣を開いた野下の傷口は、二度目の荒治療が効いたようである。傷口はまだ痛々しいが、そこは塞がりかかっていた。無理さえしなければ、あとは時間が治癒してくれるはずである。野下のものも自分のものも既に使ってしまっているから、傷口は、有働から預かっている新しい昇汞ガーゼと取り換えられた。
寿は、野下の背中を軽く叩いて笑みを浮かべた。
「傷の完治は時間の問題たい。さ、いまのうちに、おまんも体ば休めとけ。わしらの旅は、まだはじまったばかりやけんの。先は長かぞ」
そう。先は長いのだ。途轍もなく長い旅程である。それには、充分な体力を温存させておかなければならない。戦闘で唯一生き残ったこの青年を、どんなことがあっても母親の許に帰してやらなければならないのだ。
その野下が横になってからも、寿は昼近くなるまで村落を監視していた。
豚や鶏の家畜が戯れているらしく、長閑な村落の麓から幽かな鳴き声が風に運ばれて伝わって来た。森の斜面に身を潜めている寿から見れば、そこは、まさに自由が満ち溢れた別世界であった。
「代わりましょうか」
と、有働がノソリと起きて来て、寿の横に腰を下ろして煙草を咥えた。
「眠れたね?」
「充分とは言えませんがね、ま、眠気をとる程度は眠りました。あとは俺が代わりますよ。一眠りしてください」
「お前、やはり今夜やるとか?」
「班長殿は満服が必要なんでしょ? 俺にも、満服のほかに必要なものがある」
そう言って、有働は煙草をうまそうに吹かした。
「しかしの、有働」
と、寿は言った。
「もしも交渉が失敗したらどげする? おなごも満服も、それどころじゃなくなるばい」
「心配要りませんよ。満人の連中はね、班長殿、滅多にお眼にかかることのない日本の食料には眼がありません。珍しい羊羹も乾パンも缶詰も揃っているんですよ。あれを見せれば、たとえ亭主だって、女房が他人の男に股を広げたって文句は言いませんよ」
「そげなもんで、交渉に応じるかの……」
「大丈夫ですよ。甘味品は、日本人でも貴重品なんです。つまり、満人の連中には宝物ですよ。班長殿には言いませんでしたが、前の部隊でね、こういうことは何度か経験済みなんですよ」
「しかし、前といまとじゃ状況が変わっとるとぞ」
有働は、煙草を二三服吹かすとそれを寿に差し出して、気にする風でもなくさらりと返した。。
「人間って奴はね、班長殿、状況が悪くなればなるほど、性欲と物欲は旺盛になるんです。大丈夫ですよ。とにかく、いまのうちに休んどいてください。満服が手に入ったら、班長殿、急いでここを離れましょうや」
まったく、こういうことに関しては、じつに頑固な男である。喋っているうちに、いったいどっちが指揮権を握っているのか怪しくなってしまったが、しかし、これに関しては有働のほうが一枚も二枚も上手である。寿は、今夜のことは有働にすべてを任せることにして、それ以上は言わずに退き下った。
「ちょっと横になるけん、あとを頼むばい」
言いつけてその場に体を伸ばすと、すぐに睡魔が寿の意識を奪い去った。
揺り起こされた。
「ぼつぼつ足下が危なくなりますよ、班長殿、起きてください」
眼を覚ますと、村落の麓は、既に夜の帳を下ろしはじめていた。
「……行くか?」
「いまのうちに、こいつを腹に詰めておいてください」
と、有働が口糧を手渡した。
「俺たちは先に下ります。この下に小屋があります。いまは使われていない穀物倉庫ですがね、なかは空っぽです。班長殿が寝てるあいだに偵察に行って確認済みです。あすこなら、万一のことがあっても大丈夫ですよ。あすこを集合場所にして、班長殿はあの小屋で待っていてください」
「……夜這いの待合所か……」
寿が皮肉に笑ったのを見て、有働は、これからが本番だと言わぬばかりに、ニヤリと笑った。
「ほんの二三十分で戻りますよ。じゃ、行って来ます」
四人は、山を辷るように下りて行った。
寿と野下は、少し遅れて山を下りると、有働の言った農道の脇に建てられてある小屋を覗いてみた。収穫したトウモロコシの種子を保管するための納屋であった。
小屋には、使い古した錆びた農具と、以前に収獲されたらしいトウモロコシの袋が二三積み重ねられてあったが、小屋は老朽化が烈しく、いまにも崩れそうであった。
寿は、しかし、その納屋に入ることをやめて、納屋のすぐ脇のトウモロコシ畑に身を隠すことにした。なぜならば、納屋の四方の壁には窓も隙間らしきものもないから、これでは両眼を塞がれたも同然であるし、万一忍び寄られても、こちらは気づかないし逃げ場もない。気づいたときは終わりである。
「ここなら周辺の状況は把握でけるし、あいつたちが戻って来てもすぐわかる。お前はそれまで横になっとれ」
野下は、言われるまま横になったものの、落ち着かなかった。有働たちが村落に入ってまだ幾らも経ってはいないのだが、随分と時間が経ったように感じて、
「大丈夫でしょうか?」
と、不安気に体を起こした。
「心配なかやろ。騒ぎが起こらんごつあるけん、交渉は順調にいっとる証拠たい」
そう答えたものの、胸の内では、野下同様に落ち着かなかった。有働は自信ありげに出向いたが、もしかしたら、そう簡単には事は運ばないかもしれないという、厭な胸騒ぎを覚えるのである。
寿は、暗くなった村落の辺りを耳で探りながら、有働たちが首尾よく事を運んでくれることを祈った。
その有働たちは、村落の入口を少し入ったところの、所謂、納屋を人間が一時的に住めるように改装した、貧相な家の小窓を覗いていた。
室内の換気をよくするためか、お愛想程度に設けられている粗末な窓は、扉は歪んで半分ほどしか閉まらないらしく、種油を灯した薄暗い部屋には、五人ほどの女たちが麦藁で編んだ茣蓙に坐って粟粥を啜っていた。
男の姿が見られないのは、やはり鉱山かどこかの山に取られていてまだ戻されてはいないのだ、と、男たちはそう解釈した。
「……班長の読みはさすがだな。あの森の連中の言うことは、やっぱり本当だったんだな」
と、赤羽が眼で女たちを物色しながら囁いた。
「ありがてえ。人数分だけ揃ってる」
有働が舌なめずりをして囁いた。
「だけど、百姓の女にしては、やけにこざっぱりしてるな。見たところ、あれは玄人だぜ」
あのとき、一等兵の言った話とはちがう雰囲気に、曳田が小首をかしげた。
「なんだかよ、変な様子だぜ?」
曳田が知る限りの満人の女は、浅黒く、いつも小汚くて垢染みていた。それが、どことなく垢抜けしたところが滲み出ており、陽焼けどころか、どの女も色白で肌は艶々としていて、どう見ても、農婦とは程遠い容姿なのである。いくら兵隊の相手をしているからといっても、百姓の村に、大腿まで割れた支那服を着た農婦はいなかったはずである。
内務班では何一つ真剣に考えることのなかった曳田は、連日の戦闘に加え、あの村落の惨劇から飢餓の彷徨を体験して以来、他の男たちよりも、少しは慎重に考えるようになっていた。
「ここはひとまず後廻しにしてよ、もう少し村の様子を窺ってからにしようぜ?」
この場は、曳田の言葉を尊重して、有働はそうするべきであった。しかし有働は、曳田の忠告など聞く耳を持たなかった。支那服の裾からはみ出たなまやかで輝くような白い太腿部に眩惑されたか、既に冷静な判断を失ってすっかり浮かれてしまっているのである。
有働が、鼻の孔を開いてニタリと笑った。
「素人だろうと玄人だろうと、そんなものはどっちだっていいじゃねえか。女にはちがいねえんだ。見ろ、眼の前に据膳が列んでるんだぜ。こいつに箸をつけねえテはねえだろ。それに、いちいち調べて廻るほどの村でもねえし、それより時間が勿体ねえ。そうだろ」
赤羽も高丸も、同じように眼尻をだらしなく弛めてうなずいた。
「……そうだな、どっちでもいいことだな。うろうろと歩き廻って、無駄な時間を潰すことはねえか」
先程の懸念など、どこ吹く風である。曳田もあっさりとうなずいた。
「よし、早いとこ交渉成立と行こうぜ」
と、一人の女に目星をつけたらしく、赤羽が囁いて有働に顔を向けた。
すると、いまいたはずの有働の姿が消えていた。
「チッ、図体の割には腰の軽い野郎だぜ」
と、とぼけた笑いを浮かべた赤羽は、曳田と高丸を促して有働を追った。
赤羽たちが入口に廻ったときには、有働は既に扉を開けて家に入っていて、そこで家長らしき年増の女に甘味品を見せて、手振り身振りでなんとか話を纏めようと悪戦苦闘していた。
両腕を組んで応対をしている女は、場馴れした艶っぽい眼を向けて、有働の仕種を黙って見つめていた。他の女たちと較べて少々歳を重ねているが、これが鼻筋の通ったなかなかの美形である。
この女は、男と女の色事に、難しい会話も手続きも不要であることをよく心得ているようで、男たちがなんの目的で来たかは既に読み取っていた。
「麗麗」
年嵩の女は、怪訝な顔で薄汚れた日本兵を見つめている女の一人を呼んだ。
名前を呼ばれた女は、箸を置いて年嵩の女の傍に立った。顔は必ずしも問うところではないが、男の眼を惹きつける充分な容姿を備えている。
年嵩の女が、早口の支那語で女になにやら喋ると、女は有働を見つめたまま、淡い笑みを浮かべてうなずいた。
有働は、そのうなずきを、これに関しての交渉は成立したと解釈して嬉しそうに唇をなめた。
有働は、提げている背嚢の中身を女に見せて、満服も交換をしてくれと、身振り手振りで示したが、これを説明するのに、要領を得ない有働は難儀した。
二人の女は、じっと聞いているのが煩わしくなったらしい。にが笑いを浮かべた年嵩の女が、
「我知了(わかったよ)」
と、煩いハエでも追い払うように片手を振って、
「満服、ナニスルカ?」
と、流暢ではないが、明瞭な日本語を有働に返した。
「なんだ、お前、日本語が喋れるのか? それならそうと最初に言ってくれよ。疲れちゃった」
と、有働が眼玉を細めると、女は黄色い声で笑った。
「日本兵隊サン、ワタシヨク知テルヨ。ソンコ、ユキリロ居タネ。兵隊サン、ワタシ知ルナイカ」
「やっぱりそうか。百姓の女にしちゃおかしいと思ったんだ。へー、お前、孫呉の夕霧楼にいたのか? 夕霧楼なら俺も何度か行ったことがあるから知っているよ。俺たちは、そこから来たんだ」
有働は、女の顔を覗きこむように見て、
「てことは、お前たちもあすこから逃げて来たのか?」
と、訊くと、女は、うなずく代りにニタリと笑った。
「そうか、あのドンパチのどさくさにまぎれて逃げて来たんだな。ま、そんなことはどうでもいいや。とにかく、満服はくれるんだろうな?」
有働は女に念を押した。
「心配スルナイ。アチノ小屋行テ待ツノコトヨ。満服、四ツ持テ来ルヨ」
「四つじゃ足りねえんだ。六つ、六人分用意してくれ」
六人分と聞いて、二人の女は顔を見合わせた。
重い乳房を両の手で支えるように腕組みした年嵩の女が、少し考えこむようにして言った。
「六ツカ、難カシナァ、アト、トコニイルカ?」
「畑の向うで待ってる。動かせねえ怪我人がいるんでな」
年嵩の女は、顎をしゃくるようにうなずいた。
「ワカタヨ。六ツ持テ来ルヨ」
言って有働の提げている背嚢に手を伸ばした。
「おっと、こいつは満服が揃ったときに渡すよ」
年嵩の女が艶っぽく笑った。
「女欲シタロ兵隊サン。抱キタイナイカ。アレ見ルノトコロ、在ルタロ、アノ小屋行テ待ツノコトアルヨ。ペッピン満服持テ、スク来ルノコトヨ」
と、ふくよかな胸を有働の腕に淫靡に押し着けた。
日夜、脳裏から片時も離れずにいる女の柔肌である。それが自分の体に触れたことで、先程から下半身が奮い立っている有働の抑制のバネが一気に緩んだ。
「よしわかった。早いとこ頼むぜ。もう我慢がならねえんだ。なんだったら、いまこの場でお前たちとやってもいいんだぜ」
有働は、女の乳房を鷲掴んでニタリと笑った。
「駄目ノコトヨ。プラク男来ルタロ? 見ツカル煩イナイカ。ワタシ、困ルノコトヨ。イソロタカラネ」
女はさり気なく身を躱した。
「イソロ……?」
有働は仲間に振り向いた。
「居候だってことだろ」
赤羽が答えると、有働は、あァ、と、うなずいた。
「居候って、お前たち、ここの村の女じゃないのか?」
「ソータヨ。プラク女ナイ。タカラ、オカネ稼クナイ女。ココイチャ、肩身狭イノコトヨ、イソロタカラ」
と、年嵩の女は、傍の女に行くように顎で促すと、有働に寄りかかるようにして甘い声を出した。
「兵隊サン、オマエ満服必要タロ。ソレ貰ウナイト村ノ男満服出スナイ。慌テルコチキ、貰ウ少ナイ言ウタロ。オマエ、ワタシノコレ欲シクナイカ」
女は、猫撫声にそう言って、大腿まで割れた支那服の裾からはみ出た雪のように白い脚線を見せた。
有働は、これで自制心を完全に狂わせてしまった。
「わかった、じゃ持って行きな。もう我慢の限界が来てるんだ。早いとこ済まそうぜ」
と、真黒な無精髯を綻ばせて、背嚢をそっくり差し出してしまった。
有働の手から背嚢を静かに受け取った年増の女は、女たちにそれを手渡すと、男たちに淫靡な微笑みを浮かべて、わざとふくよかな胸を持ち上げて、男たちに支那語で甘く囁いた。
「待っててね」
この言葉の意味は、たとえ支那語が達者なものでも。わからなかったであろう。支那語がまったく通じない有働たちは、この意味の重大さが理解できなかったのは尚更のことであった。女の色香にすっかり狂わされて浮かれてしまている男たちは、自分たちに危険が迫っていることすら微塵も疑わずに、女に指定された畑の納屋に入って、鼻の下を長く伸ばして落ち着きなく女たちを待ち侘びていた。
一方のトウモロコシ畑では、いつまでも戻って来ない有働たちに、寿はやきもきしていた。
「それにしても、やけに遅かばい。なんばしよっとかの」
と、夜這いに行かせた張本人が苛ついた。
それを、野下が答えた。
「満服の入手に手間取っているんじゃないですか?」
「そうかもしれんばってんが、それにしても遅かたい」
「向こうで騒動が起こっていないところからすると、やはり、うまくいっているんですよ」
寿の言った言葉をそのまま返すほど、野下は意外と落ち着いていた。トウモロコシ畑のなかは、また無言になった。
その有働たちは、いつまでもやって来ない女たちに痺れを切らせて、檻に入れられた野獣のように小屋のなかを歩き廻っていた。
「いったい、いつまで待たせやがるんだ!」
と、有働が哮えた。
「もうだいぶ時間が経つぜ。騙されたんじゃねえのか?」
と、赤羽は眼尻を尖らせた。
「そんなはずはねえ。交換物資は渡したんだ。もし裏切ったらどういうことになるか、あの女は日本兵を相手にしていた淫売だ。日本兵の恐さを知っているはずだ」
「満服を手に入れるために、村じゅうを駈けずり廻ってるんかな?」
と、曳田が返した。
「くそっ。こんなことなら、あの場で女をやっちまえばよかったな。満服なんかあとにしてよ。素直に言うことを聞くんじゃなかったな」
と、有働が臍を噛んで嘆いた。
「おい有働、あすこへ戻って確かめてみようぜ。俺たちを苔にしやがったら、ただじゃ済まねえことを、その場で思い知らせてやろうじゃねえか」
と、赤羽が意気捲くと、高丸が、
「もうちょっと待ってみたらどないだす。曳田はんが言うように、満服に手間取っとるんかもしれまへんやろ」
と、口を挿んだから、赤羽のほうが癇癪を起した。
「てめえは黙ってろ! ショネコの分際でハンとはなんだ、え、ハンたァ。てめえいつから古兵にそんな口が聞けるようになった。ぶっ飛ばすぞ」
と、怒鳴り上げると、
「うるせえ! ハンでもチョーでも、そんなもんどっちだっていいんだ! 軍隊はなくなっちまったんだぞ。いちいち古兵面するんじゃねえ。つまらねえことでギャーギャー喚くと、てめえこそぶっ殺すぞ!」
抑えようのない苛立たしさを赤羽に向けて、今度は有働が噛みついた。
「こちとらは、いまはそれどころじゃねえんだい」
赤羽は黙ってしまった。
「これ以上もう待てねえ!」
と、我慢の限界を超えた有働は、
「あのチャンコロの売女、取るだけ取って、はいさようならは許せねえぞ。くそったれ! そういう魂胆なら、女だからって容赦しねえ! 逆に身ぐるみ剥いで二度と使えねえ体にしてやる。日本人を苔にしやがって!」
扉を蹴破って勢い外に躍り出た。
赤羽たちもそれにつづいた。
気負いこんだのは、しかし、そこまでであった。有働が村道を走り抜けて村の斜面に踊り上がったとき、最後尾の高丸が頓狂な声を発して男たちを引き制めた。道の向うに、小さな二つの光が眼に入ったのである。
「あかん、ロスケの自動車や!」
光は、一直線にこちらに向かっていた。高丸と曳田は、慌てて小屋に反転した。
「おい、やめろ!」
有働に追いついた赤羽が袖を引いた。
まだ気づかずにいる有働は、血走らせた眼を剝いて、赤羽の手を払った。
「この野郎、邪魔するんじゃねえ!」
「馬鹿野郎! てめえロスケに殺られてえのか!」
「なんだと!」
「あれだ。ロスケが来やがった!」
「ロスケ!」
男たちは慌てて小屋まで引き返したが、さすがに小屋は危険と判断したらしく、トウモロコシ畑に身を潜めた。
「ちげえねえ。あれはロスケのトラックだ。ロスケが来やがったんだ! 班長のところへ戻ろうぜ!」
曳田が浮足立った。
「あのアマ、やっぱり俺たちを売りやがったんだな!」
と、有働が呪いの声を吐いた。
「今朝のあの鉄道の煙、あれはロスケのものだったんだな。あの女の一人が、あそこまで知らせに走りやがったんだ。でなきゃこんなに早くロスケが来るはずがねえ。グズグズしてると危ねえぞ。班長殿のところへ戻ろうぜ!」
男たちは転がるようにトウモロコシ畑を駈けた。
それと入れ替わるように、赤軍兵を満載した一台のトラックが村落に滑りこんで、その直後に、村落から数発の銃声が起こった。
「伏せろ!」
有働が号んだ。
「どこから射ったんだ?」
有働が眼を攣り上げた。
「村のあっちからだぜ」
赤羽が答えた。
「女の悲鳴が聞こえたな」
曳田である。
「俺たちを売った女が、なんで悲鳴を上げるんだ? そいつは変だぞ。もしかして、ロスケの野郎どもが女をやりに来たのかな?」
有働は、首を伸ばして周辺を窺おうとしたが、また銃声が何発かつづけざまに起こってすぐに首をすぼめた。
その銃声に、曳田が首をかしげた。
「待てよ。あの音は、ありゃ友軍の銃だぜ」
と、耳をそばだてて言った。
「ほんとか? なんで俺たちの銃があの村にあるんだ?」
有働が訊き返した。
「俺が知るわけねえだろ。しかし、あれは確かに九九の音だぜ。まだほかにも友軍がいやがるんだ!」
曳田が言い終わるのと同時に、今度は、畑一帯に自動小銃の銃弾がばら撒かれた。
その音に、高丸の声が踊り上がった。
「日本兵でっせ、あれは!」
高丸が、照明の先に浮かび上がった影を指した。
「あかん! こっちに来よる!」
小銃を発砲したのは村落の住民ではなかったのだ。
トラックからの照明に追われた二三の日本兵らしき影は、村落の斜面を辷るように駈け下りて、手頃な遮蔽物があると踏んだか、有働たちのいた小屋へ向かって駈けこんだ。これが男たちの運命を変えた。
袋の鼠となったそこへ、バズーカの砲弾が炸裂した。破壊された小屋の瓦礫が有働たちの至近を掠めて、小屋は跡形もなく消えた。
「くそっ、捲き添えを喰らってたまるか!」
有働たちは、トウモロコシを掻き分けながら、一目散に寿たちの場所へ走った。
突然の銃声と轟音に、寿は、有働たちが赤軍兵と交戦したものと思って、トウモロコシ畑で体を硬くして身構えていた。
そこへ血相を変えた有働たちが戻って来た。
「いまの銃声はきさんらか? 赤軍のトラックが一台部落へ入ったばってんが、いったいどげしたとや?」
と、驚愕の顔を有働に向けた。
「射ったのは俺たちじゃありません。別の連中です。別の日本兵がいたんです。奴ら小屋に飛びこみましたがね、バズーカで小屋ごと吹っ飛ばされました」
と、装備をととのえながら答えた。
「あの連中が邪魔さえしなけりゃ成功していたんです」
有働は、荒い息を吐いて村落を睨みつけていた。女に騙されたとは言えなかった。
「お前の帰りがあんまり遅かけん、どげしたかと心配ばしたばい」
と、有働の肩を突いて、泣き笑いに似た笑みを浮かべた。
自動小銃の連射音がまた村落の附近で起こった。まだ何名かの日本兵が残っているようである。ぐずぐずしてはいられなくなった。
「話はあとたい。こげしとると危なか。あれを盲射ちばされたらお終いぞ。後退しよう」
寿たちは、トウモロコシ畑を飛び出して森へ駈けた。
突然、上空が煌々と光った。照明弾が上げられたのである。畑一帯が昼間のように暴露された。
「いかん。見つかるぞ!」
寿が号ぶと同時に、驟雨のような銃弾が納屋を襲って、納屋の土壁がバリバリと音を立てて泣き叫んだ。
「急げ! 今度はバズーカぞ!」
寿の声で、最後尾の高丸が、抱えている背嚢を投げ棄てた。食糧は貴重だが、重い糧秣を抱えて木立を抜けながら駈けるのは、縦横に張り巡っている木の枝に動きを奪われて、それこそ死と直結なのである。
照明弾は、森を駈ける一群を捉えたようである。バズーカが、寿たちの行く手の森で爆発した。
「伏せろ!」
寿が号ぶと、後続の男たちは、将棋倒しのようにバタバタと伏せた。しかし、その声は、最後尾の高丸には届かなかった。爆発音に声が掻き消されたのである。
高丸は、前の男たちが突然姿を消したのを、いまの爆発で、みんなは瞬時に殺られたと思いこんで狼狽した。すぐ前の草叢に伏した野下が、樹間からこぼれる照明弾の光に照らされて、頻りに手をバタバタさせているのに気づいた。その有様に、高丸は、負傷した野下だけが生き残って助けを呼んでいるのだと思った。野下は、しかし、負傷したのではなく、大声が出せないから仕方なく手を大袈裟に振るより、高丸に伝える手段がなかったのである。
照明弾が消えて、辺りが闇に包まれた。高丸は、森のなかで完全に孤立したと思って総毛立った。森に向けられた自動小銃は、無差別に唸りを上げている。
照明弾がまた上った。その明りが、今度は高丸の姿を白々と浮かび上がらせた。
あかん、見つかってまう! そう思った途端、高丸の全身に戦慄が駈け巡った。
高丸は野下をかえり見た。野下は、依然と口をパクパクさせて、頻りになにやら喚いている。腹をやられたか、横たわって声も出ないほどの重傷らしい。高丸は、野下のほうへ歩みかけた。そこへ驟雨のような横殴りの銃弾が来た。銃弾は、まるで高丸一人に狙いを定めているかのようであった。
恐怖に絡まれた高丸は、野下の救助を諦めて、それとは反対の斜面に飛びついて、斜面を掻き毟るように登りはじめた。照明弾が煌々と照らす斜面の先は安全だと、高丸なりの動物的本能が働いたのである。
高丸は、手足をバタバタ動かして這い登った。その先に危険が待ち受けていることなど、考える余裕はなかった。ただ、少しでも村落から遠く離れることが、この際の最重要課題であった。銃弾の届かぬところまで逃げ延びれば、あとはどうにでもなると、高丸は直感でそう思ったに過ぎなかった。
下の木立から、野下の叫ぶような声が聞こえて、その声に向けて銃弾が降り注いだ。高丸には、それがどの方向から来たものかはわからなかった。野下の声は、それきり途絶えて聞こえなくなった。
高丸は、いまの銃声で野下は死んだときめつけた。戦友を見捨てた罪悪感など微塵も残さなかった。むしろ、つまらぬ情け心を起こさなくて幸いだったと思った。戻っていれば、今頃は地獄の一丁目を野下と歩いているにちがいないと、そう信じて疑わなかった。
可哀相やけど、あいつは死んでしもたんや! 高丸は、必死で斜面を掻きつづけた。
水筒と飯盒が触れ合って、ガラガラと異常な音を立てた。この音は致命傷となりかねない。高丸は、水筒も飯盒も、あっさりと斜面へ投げ捨てた。次に、急角度の斜面を掻き登るのに背にかけた重い小銃と、精白米の詰まった雑嚢が邪魔になった。高丸は、それもためらいなく投げ捨てて、あとは、独言を喚きながら斜面をよじ登った。こんなところで死ぬわけにはいかなかった。女房と汗を流して築いた商売を、もう一度立て直したかった。二人三脚で頑張れば、どんな苦労も厭わずにやれそうであった。
「素子、待っとりや。わいは生きて帰るで! 二人でな、もいっぺん商売をやり直すんや。和子も六歳や、尋常一年に上がったら、ええべべ拵えて着せたるんや! そやから、どうしても生きて帰らなあかんのや。ここまで戻って来たんやで。いまさら死んでたまるかいな!」
突然、頭上の視界が開けた。
「道や! やっぱし、道があったんや!」
歓声を搾り上げた。道にさえ出れば、敵の脅威を躱すことができる。高丸は、全身の力を振り絞って、一気に斜面を蹴った。
高丸の手が、遂に山道の縁にかかった。ところが、拙いことに、すぐ眼の前に、黒い木立の幹が塀のように照明弾の光に揺れていた。道に上がるにはそれが邪魔になった。高丸は、それを避けようと横へ移動した。すると、不思議なことに、それが高丸と並行して動いた。高丸は顔を上げた。その途端、叩きつけるような自動小銃の銃弾が、高丸の体を真上から縫いつけるように斜面を駈け下った。高丸は、両手を伸ばしたままの姿勢で、斜面を滑り落ちた。
その高丸の最後を悉に見届けたのは、野下だけであった。
野下は、手探りで寿の許に匍った。
「班長殿。高丸が!」
途端に、声に向かって連射が来た。
「声ば立つるな。動いちゃならん」
また連射が来たが、これは方角がずれていた。
寿は、野下のところまで静かに匍匐した。
「高丸がどげしたとか?」
と、蚊の羽音よりも小さな声で訊いた。
「この上の斜面で……」
「斜面?」
寿は、すぐには要領を摑めなかった。
「斜面がどげしたとや?」
「高丸が急に斜面を登り出したんで、制めたんですが、それでも、高丸は斜面を登ろうとして……」
「確認ばしたとか?」
「照明弾ではっきり見えました。この上には道があるんです。でも、ロスケが廻りこんでいて、上から高丸を……。高丸は、そのまま滑り落ちて、動きませんでした」
「どうします? このままの状態だと囲まれますよ」
有働が匍って来て、姿形が幽かに確認できるほどの闇のなかで囁いた。
「それを高丸が教えてくれたばい。この上には道があって赤軍兵が廻りこんどる。いま動くと危険じゃ。このまま潜伏して、少し様子ば見てから後退しよう。照明弾も届かんこげな深か森のなかたい。連中とて、迂闊に入っちゃ来れまい。ただし、音も咳も絶対立つるんやなかぞ。それが標的になるけんの」
村落の辺りで、自動小銃の連射音と幾つかの乾いた爆発が起こった。村落の周辺には、まだ敗残兵が潜んでいるらしく、それが抵抗しているのである。
寿たちの潜む森のすぐ上で、甲高い笛の音がした。それに答えて、今度はトウモロコシ畑から同じように笛が走って早口のロシア語が飛び交った。寿たちが潜んでいるのを確認している赤軍兵が、上と下で互いの位置を確認し合っているのである。
「ヤポンスキー……ダワイ!」
意味不明の怒声が飛んで来た。出て来いとでも言っているのであろうが、素直に手を挙げて出て行く馬鹿者は、ここにいるはずがない。
少しの沈黙のあとに、森の下方で自動小銃が唸った。森に銃弾が飛んで来ないのは、空に向けて威嚇したのである。
頭上からロシア語がまた落ちて来て、笛が二度鳴った。下の笛がそれに答えると、次には畑の向うから強烈な光が飛んで来た。照明弾では無理と判断したか、今度はトラックに搭載されている大型の照明灯が横から森へ照射されたのだ。
どうあっても捕らえるつもりである。発見されたら命はない。寿は、息を殺して敵の動きを見守った。
強烈な逆光線の畑から、赤軍兵が森へ進入しようとしているのが見えた。
「有働、いよいよとなったら、わしが手榴弾ば投げるけん、それを合図に一斉に射て。向こうは五六人やけん、それで片付けられる。慎重にやれ」
囁いて、寿は、雑嚢から手榴弾を取り出すと、安全栓を歯で引き抜いて発火態勢に入った。
――来るなら来ればよか! その代わり、きさんらも高い代償ば払うごつなるぞ!
自分では、冷静を保っているつもりでも、体は正直である。握っている手榴弾の手が小刻みに震えて、止まらない。怯えている証拠である。脂汗が、背中にジットリと絡んでくるのがわかった。樹木が生い茂っているから、慎重に見定めて投げないと、木に撥ね返される虞がある。
――落ち着け! 落ち着くとぞ!
と、胸に言い聞かせた。
迫り来る侵入者は、樹木を楯に、用心深く、自動小銃の銃先で藪を分けながら、苛立つほどの時間をかけて森を分け入っている。
――もう少し。もう少し近づいてからぞ!
寿は、迫り来る死の恐怖に、無念の臍を噛んだ。これまで生き延びて来た時間が、ここに来て消滅するか! いよいよ人生との訣別である。握り締めている手榴弾の手が、小刻みに震えた。
すると、寿の眼の前で、突然、異変が起こった。
村落周辺で複数の笛がけたたましく鳴って、それを受けたトウモロコシ畑の笛が、森のなかへ送られ、眼前に迫った死が、急に反転して遠退いたのだ。
「ヤポンスキー、ヨッポイマーチ!」
ロシア語が退き際にそう叫ぶと、一丁の自動小銃が、弾倉が空になるまで森一帯に唸りを上げた。
日本兵を討ち取れなかった腹癒せか、銃弾は、寿たちの周辺の樹木に凄まじい音を立てた。
上にいた赤軍兵も、坂道を下りながら、森へ向けて断続的な連射を繰り返して消え去った。
一触即発、あと一秒敵の笛が遅れていたならば、寿たちは、確実に高丸のあとを追う羽目になっていたにちがいなかった。
寿は、それでも赤軍兵が残っているかもしれないと用心して、手榴弾を構えたまま、その場に暫く潜んでいた。
森の脅威は、完全に消え去ったようである。その代わりに、村落周辺の銃声がいっそう烈しくなって、その辺りに火の手が上がった。生き残りの敗残兵がまだ潜伏しているらしく、それらは家屋に火をつけて、場所を転々と変えて抗戦しているようであった。
これが、寿たちの幸運な援護となった。
赤軍兵は村落の敗残兵に引きつけられている。いまが撤退の好機と考えた寿は、漸く手榴弾を棄てた。まごまごしていると、いつこちらに戻って来るかわかったものではない。あの陣地のように、今度は火炎放射器で焼かれる可能性大である。
寿が囁いた。
「野下、この上の道までの距離はどれくらいか?」
「約七八メートルほどです」
野下が答えた。
「よし、そこを一気に突破するぞ。野下、きさんは有働から離れるんやなかぞ!」
と、腰を浮かしかけたとき、村落のほうで、複数の重く鈍った爆発音が起こった。敗残兵が、バズーカで息の根を止められたらしい。その方面の銃声は完全に沈黙した。
「急げ!」
一行は、闇のなかに生い茂った樹木の枝を掻き分け、森の斜面を駈け登った。




