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樹木の葉からこぼれ落ちた水滴に瞼を直撃されなければ、寿はそのまま眠りつづけていたにちがいない。
眼が覚めたとき、何気なく触った腐葉土に異常な湿気を感じた寿は、起き上がって、周辺を確かめてから顔を蒼ざめさせた。
腐葉土や岩肌が湿っているのは、雨が降ったせいで濡れているのではなく、夜露で湿っているのである。意識のうちでは、ほんのうたた寝程度くらいにしか思わなかったが、どうやら、そのまま一夜を明かしたらしいのである。
寿は、まだ熟睡している有働を揺り起こした。
「……もう出発ですか?」
有働が眼を擦りながら言った。
「暢気に眠っとる暇はなかぞ。すぐに出発の準備たい」
と、周辺に視線を泳がせて、うっそりと笑った。
「何事もなかったのは幸いやったけんが、うっかり寝首ば掻くるるとこやったばい。どうやら、わしらは、ここで夜を明かしたようたい」
慌ただしく出発の準備をすると、寿は、軍曹の言葉を思い出して、騙されて元々と軍曹の消えた方角を辿ってみた。
軍曹が言ったのは、でたらめではなかった。ほんの二三十メートルも進んだそこには、細い帯のような隘路が紺碧の空と並行して延びていた。夥しい軍靴と荷車が通ったらしく、道には軍靴の足跡と、荷車で深く抉られた轍が刻まれていた。
この道が軍曹の言った鉄道守備隊の拓いたものであるならば、足跡から判断して、この軌跡は辰清へ向かったのである。あの軍曹も辰清の駅を目的としているくらいだから、そこには街があるはずである。いずれにせよ、その辺りまで行って、状況を確かめる必要があった。
半日も歩いたところで、道は緩い下り坂となり、やがて草原地帯へ入って、道はそれを割るようにつづいていた。
その草原に足を踏み入れた途端、黄褐色の吸血鬼が人間の生血を嗅ぎつけて、突然、両翼の草原から襲いかかって来た。虻である。
最初のうちは手で払って進んでいたが、執拗に攻撃して来る虻の集団に堪りかねた男たちは、遂には逃げるように道を駈けた。
草原の半ばほどまで駈け抜けたとき、緩い斜面の下に渓流が眼に入った。
「川だぞ!」
誰かがそう叫んで、寿がそのほうへ顔を向けたときには、男たちは、我先を競って渓流へ向かって駈け出していた。
男たちは、しかし、沢の縁まで辿り着いたところで、急に身を伏せた。
少し遅れて来た寿に、有働が顎をしゃくった。
「あれ、見てください」
見ると、小石を整然と敷き詰めたような川原のそこには二つの大きな岩が顔を突き出しており、無数の焚火の跡があった。
岩の蔭には、雑嚢が二つ置かれていて、その横には一挺の小銃が立てかけられてあった。風に飛ばされないようにペグで固定された一人用の天幕も張られてあり、俄か作りの石釜には飯盒が一つかけられたままになっていた。日本軍の兵士が使うものであることは疑いなかったが、装具をそのままにしているところからして、まだ一部の兵隊が残っている証拠である。残されている小銃は一挺だが、人数はわからない。
「周囲を警戒しろ」
寿は、拳銃の安全子を開いた。
「あの軍曹たちですかね?」
有働が呟いた。
「ちがうやろたい? 連中なら、こげなところで火ば焚いて、暢気に休息はでけんはずたい。視たところ、火の気はなかごつ思うが、もし連中じゃと危なかぞ。もう少し接近して様子を視よう。きさんたちはそこに待っとれ。有働、荷物を下ろしてオイと来い」
寿は、他の男たちを援護に残して、拳銃を腰だめに構えて沢に下りると、点在する岩の一つを遮蔽物にして、用心深く周辺を窺った。
「どうやら、あすこには人の気配はありませんね」
「よし。あすこまでオイが行くけん、きさん援護ばせい」
と、寿が腰を浮かすと、有働の手が寿の袖を引いた。
「ちょっと待ってくださいよ。銃は、俺は苦手です。俺が行きます。班長殿は俺を援護してください」
「よし行け。あすこまで走ったら、すぐに身を隠すとぞ」
寿は構えた。
「行け!」
有働は、巨岩が転がるように駈けて、岩に体当たりをして辺りを窺った。
「安全です」
と、有働が小銃を振った。
寿が駈けつけると、有働は、
「こりゃあの連中のものじゃありませんよ」
と、軍靴の先で焚火の灰を軽く払って、岩に立てかけられている小銃を手にした。
「こいつを見てください。こりゃ昨日や今日の錆じゃありませんよ」
視ると、小銃は赤錆びが出て、機関部は作動しなかった。蓋が開け放たれて、焚火にかけられたままになって雨水が溜まった飯盒には、ボウフラが忙しく浮き沈みしていた。
雑嚢の一つには乾麺麭が詰められていて、もう一方の雑嚢には精白米が半分ほど残されていた。しかし、いずれも雨水を吸って腐敗していて、得体の知れない夥しい蟲が蠢いていた。
「こりゃひでえや」
有働は慌てて飛び退いた。
「しかし、不思議ですね」
と、有働は、辺りを見廻して首を捻った。
「銃やこんな糧秣を放ったらかしにして、どうしたんでしょうかね? 逃げたんですかね?」
寿は、なにも答えずに、怪訝な顔つきで周辺に視線を泳がせていた。
この焚火の主が、どのような事情で姿を消したのかわからないが、ただ推測できるのは、この焚火の主は、糧秣を携えているところからある程度余裕のある撤退をし、そうして、ここが適当な場所ときめて野営をしたのだ。だが、それも束の間のことにちがいない。なんらかの危険を感じて、装具をととのえる暇もなく、慌ててそれらを放棄して撤退したにちがいないのだ。焚火には食い尽くした空の飯盒と、小銃は錆びついたまま放置してある。何者かに襲われたにしては争った形跡はなく、確認できる範囲にも、そのような荒れた様子はない。やはり、単独で逃避したのであろう。
寿は仲間に合図を送った。
男たちが腰を丸めて駈けて来た。
「ここの主は行方不明やけんが、どうやら危険はなかごつあるようたい。念のために、周辺をもう少し調べよう。赤羽、お前と曳田はこの上流を調べてくれ」
と、二人を上流の偵察に出した。
「野下、お前は高丸とこいつの守ばして、ここで待っとれ。異常があったら銃を鳴らせ」
野下と高丸に糧秣を託して、寿は、有働を伴って下流へ足を向けた。
少し下ったところで、二人の疑問が解消された。沢の縁に弾帯が棄てられてあり、その先の川縁に上半身を沢に浸けた日本兵の腐乱死体が一つ転がっていた。
周辺を窺い視ても争った形跡はなく、どうやらこの変死体が、焚火にかけられた飯盒の持主であることに相違なさそうであった。
薬盒を調べると、手つかずの実包がぎっしりと詰まっていた。もしかして、あの軍曹が言っていた先発の仲間の一人か? と、そう思ったが、それにしては腐敗がかなり進んで時間が経ち過ぎていた。それに、このような場所まで来て、しかも糧秣を携えていながらなぜ死ななければならなかったか、それが心に引っかかった。だがそれを確かめようにも、手掛かりのすべてを死者が持ち去っているいまは、その真相は闇に葬られて知る術はなかった。
「この仏、どこにも外傷がなかとこをみると、病死ばしたとやの、どこの誰やら永久にわからんばい……」
呟いて元の場所に戻ると、既に赤羽たちが戻っていた。
「この先は滝になっていて、進むことができませんぜ」
寿はうなずいた。
「この下流に、友軍の死骸が一つ転がっとる。この装具は、たぶんそいつのもんたい」
そう言って、弾帯を赤羽に渡すと、胸の隠しから煙草を取出して火を点けた。
「あの銃は使いもんにならんばってんが、実包だきゃ役に立つ。みんなで分けるとよか」
淡い煙を吐きながら紺碧の天空を見上げた。太陽はまだ高い位置にあった。
「もう少し下ってみましょうか。いい場所があったら、そこで飯を炊いて大休止しましょうや」
と、屍兵が残した天幕を丸めて水筒に水を汲むと、有働は先頭を切って歩き出した。
下流に足を向けて暫く辿ると、沢は二手に分かれていた。その一方の川原の縁に、巨岩を摑むような形で根を張ったブナの巨木が聳え立っていた。大休止するには恰好の場所である。
「この場所なら、少々煙が上がっても心配要りませんよ、班長殿。ここで飯を炊いて精をつけましょう」
有働は天幕を敷いた。
「どうぞ」
と、場所を作って、
「おい、お前ら焚木を集めて火を熾せ」
高丸と野下に、まるで自分が指揮官であるかのように命じた。
二人は、命ぜられるまま、川原に散乱している焚木に手頃な流木を集めて火を熾した。
乾燥して堅く締まった流木は火つきが悪かったが、いったん火が熾ると勢いがあった。
「班長殿、被服を脱いでください」
「脱いでどげすっとか?」
「洗うんです。そう臭くっちゃ虱も寄りつきませんよ」
「きさんこそ、人のことは言えんばい」
「だから洗うんです。こう汚れちゃ痒い上に臭くてたまりません。脱いでください。洗ってきます」
軽くうなずいて、寿は軍衣を脱いだ。
「褌も取るとか?」
有働はすぐに答えずに、
「お前ら、俺たちが戻って来るまで飯を炊いておけよ」
と、二人に言いつけると、
「飯が上がるまで、水浴びでもしませんか。褌はね、手拭い代わりに使えば綺麗になります」
有働は自分も軍衣を脱いで、二人分の被服を抱えて沢に入って行った。
その後姿に、寿は、にが笑いを浮かべて言った。
「きさんらも飯上げはあと廻しにして、いまのうちに被服を洗うておけ」
「そやけど……」
高丸が、沢に視線を送って気にした。
「心配せんでよか。誰もビンタなんぞ取りゃせん。わしの命令たい、さ、早う行け」
言って、寿も沢に入った。
渓流の水は冷たかったが、心地よかった。他の男たちも沢に浸かって、汚れきった体を褌で擦り、被服を足で踏んだり水面に叩いたりして洗うと、それを沢の石場に広げたり、枝に掛けたりして乾した。
高丸と野下は、沐浴から戻るとすぐに飯炊きにかかったが、他の男たちは飯が上がるまで木蔭で微睡んだ。
やがて、各自の飯盒に飯が上がった。副食には、牛肉の缶詰を切った。
温かい味のある飯は久し振りであった。満足感に浸った男たちは、銘々が陣取っていた木蔭に散って行ったが、焚火の周りには、寿と有働と野下が残った。
食後の煙草をうまそうに吹かしながら、にが笑いを浮かべた寿が、誰にとはなく口を開いた。
「無敵関東軍の成れの果てがの、他人の畑ば漁って生き長らえ、友軍の糧秣ば喝上げて飽食するとは、神さんも仏さんも呆れとるばい」
「あの場合は仕方がありませんよ。連中は充分すぎるほど糧秣を抱えていながら、こっちが頭を下げても、一欠片も分けてくれようとしなかったんですから……」
焚火の熱で、顔を赤く染めた野下がぼそりと言った。
「大本営か関東軍か知りませんが、中枢がしっかりしていたら、こんな負け戦だけは回避できたんです」
「その負け戦ですがね、班長殿」
と、焚火をいじっていた有働が、珍しく素直に受けた。
「俺たちが何日も密林をさまよっている間に、もしかして、戦争は終わっているんじゃないですかね」
いじっている煙が寿に廻って、その煙を吸った寿が咳きこむように答えた。
「あれだけの火力でわしらの火線を一気に突破したとじゃ、終わっとっても不思議はなか思うが、もう少し先へ行って確かめんと、なんとも判断のしようがなか」
「璦琿や孫呉が戦闘中だってあの軍曹言っていましたがね、それもいつまで保つかわかったもんじゃありませんよ。もしかすると、鉄道は既にロスケの手に渡って、今頃は押さえられているんじゃないですかね。行って大丈夫でしょうかね?」
「それがさっきから気になっとるところたい。わしゃ、あの軍曹が言うた辰清とかゆうとこへ出て、そこで鉄道の状況ば視てから南へ向かおうと考えとるがの、もしその鉄道が危なかごつなっとるとすると、少々難儀なごつなるやもしれんの」
「もしそうだったら、今度は少し遠廻りになっても、山の裾野伝いを行きましょうよ。森はもうこりごりだ。糧秣はごっそりあるんだから……」
言いかけて、有働は、野下の顔に眼を細めた。野下が生乾きの襦袢の傷口あたりを擦って、顔を歪めたのが気になったのだ。
「まだ痛むのかい、その傷?」
野下は、苦しそうな顔で淡く笑った。
「どうやら化膿しているようだ」
沐浴をする際に被服を脱いだとき、傷口が悪化していて、そこが化膿していることを知った野下は、傷口を洗い流そうとしたが、あまりの激痛に諦め、中途半端に周辺だけ洗ったのがいけなかったようであった。傷口を触ったことで、かえって体に熱が出はじめて、痛みが激しくなって来ているのである。
「見せてみろ」
と、寿は、野下の襦袢を脱がせて患部を診た。その途端に顔色を変えた。高丸の処置は、どうやら無駄に終わったようである。
「このばかたれが。こげんなるまで、なして黙っとったとや」
「高丸が傷口を焼いてくれたお蔭で、痛みは治まっていたんで、大丈夫だろうとつい気を弛めて安心していました」
「いかんな。なんとかせにゃ」
覗いた有働も唸った。
「こりゃひでえや。とにかく班長殿、いまは傷口を清潔にするよりテはありませんよ」
「よし、もいっぺん荒治療たい。有働、野下を川の縁ば寝かせろ」
と、有働の銃剣を焚火に差して野下を沢の縁に寝かせた。
「有働、これの体を押さえとれ。野下、少々痛か思いばさするが、我慢するとぞ」
寿は、野下の化膿した部分を、焼けた銃剣の尖で抉って、指で膿を搾り出しながら洗った。その間、野下は悲痛な呻き声を上げて悶えつづけた。
「有働、焚木の火ば持って来い」
「どうするんです」
「傷口を焼いて消毒するとじゃ、早よせい」
傷口を綺麗に洗い流して野下を天幕に寝かせると、寿は、有働の薬盒から実包を受け取り、その弾頭を歯で抜いて火薬を傷口に盛った。
「野下、動くんやなかぞ。顔ばそむけて、眼ばつむっとれ。有働、火じゃ」
火薬は敏感に反応した。寿が焚木を近づけた途端、野下の傷口から閃光が走ると同時に、肉の焦げる異臭が鼻を衝いた。
野下は呻き声を上げて悶絶した。
「これで少しは楽になるやろたい」
寿は、黒く焦げた傷口に昇汞ガーゼを当てがい、新しい繃帯布を捲いた。
野下が眠っている間、寿たちも日陰で横になった。灼熱の太陽は、渓流の岩肌を焦さん勢いで燃えていたが、清流を撫でる爽やかな風のせいで、日陰は心地よかった。
眠ったらしい。
突然、差程遠くないところで、豆が連続して弾けるような音に寿は刎ね起きた。男たちも、音に反応して、顔色を変えて寿の許に寄って来た。
「銃声ですね、あれは?」
有働の声に、寿は耳を澄ませた。
すると、また銃声が三発つづけざまに響いて、少し間をおいてさらに二発が響いた。銃声は森に反響しているから、方角は判然としない。
「高丸、野下に被服ば着せちゃれ」
野下は眼を覚ませていた。男たちは、まだ生乾きの被服を手早く着て、銃を執って身構えた。
寿は、耳を澄ませて待った。もしどこかの敗残兵が敵と遭遇したのならば、銃声は頻繁に起こるはずである。銃声は、しかし、それきりであった。
有働の視線が忙しく周辺を泳いだ。
「いまの音、ありゃ俺たちの小銃の音じゃありませんよ。ロスケですかね?」
「どうかな?」
寿は、耳を澄ましつづけた。
「どこかの敗残兵が敵と衝突ばしたのかもしれんが、それにしても、あの音の様子はおかしか。銃声がぷっつり止まったいうことは、殺られたか、それとも逃げきったかのどっちかやが、いずれにしてもここは危険じゃ。向かいの森に移動して様子を見よう。高丸、野下の介護ばしちゃれ。野下、歩けるか?」
野下はうなずいた。
寿たちは、足早に反対側の沢の森に身を隠して様子を窺った。
暫くすると、上流から沢伝いに、薄汚れた日本兵が姿を見せた。数は三名である。拳銃を片手に軍刀を吊るした将校と、あとの二名は下士官と兵隊であった。銃声の主は、どうやらこの将校のようであった。
三名は、用心深く沢を下って来ていたが、上流の死体と焚火の跡を確認しているらしく、今度は下流に焚火が燻っているのに愕いて、俄かに銃を構えて岩蔭に潜んだ。
「どうします?」
有働が囁いた。
「もう少し様子を見よう」
寿は、手早く脚絆を捲き締めながら周辺に眼を配った。
「出て行って、あの銃声がなんだったか訊きませんか?」
「訊いて、どげするとや」
「情報が取れるかも知れませんよ」
有働の愚問に、寿は舌打ちを一つして、吐き捨てるように言った。
「ばか! あの連中は森のなかを逃げとるとぞ。その連中からどれほどの情報が取れるとじゃ。その必要はなか。さっきの銃声は、どうせ野鳥かなんかを狙うたとじゃ」
「そうかも知れませんね」
と、有働が答えると、被服をととのえている赤羽が、これも軽薄な口を出した。
「しかし、確認した以上は知らん顔はできませんぜ。友軍だし相手は将校だ。この際合流して、指示を仰いだほうがよくはねえですかね。有働の言うように、将校だったら、この近隣の戦闘詳報を持っているかも知れませんぜ」
だから出て行かないのである。下士官と兵隊だけなら、寿はためらいなく出て行ったであろうが、出て行かないのは、それが将校であるのと、まだ軍隊の階級制度が厳然と生きているはずだからである。将校がいては、折角得た自由が束縛されてしまうばかりでなく、それこそ兵一般の心得を適用されて、将校の身勝手な私物命令で動かされたらたまらない。へたに合流すれば、それこそ命の掛け替えを幾つも持っていなければならい羽目となる。
その思案の最中に、黙っていればいいものを、曳田が、
「……やっぱり、出て行ったほうがいいんじゃねえですかね。もし鉄道警備の将校だったら、この先の安全な途を知っているかもしれんし、合流の義務もあるしな」
と、つまらぬ口を入れたから、寿の感情がますます硬化した。
「将校がおったら、合流ばせにゃならんのか。将校が、わしらにどれほどを安全を約束してくれるゆうとじゃ。くだらんごつ言うんやなか。わしらは、あげな連中に屑同然に扱われたとぞ。馬鹿面下げて、ノコノコ出て行ってみい、兵一般の心得ば適用されて、わしらの自由は奪わるるとぞ。折角手に入れた自由も、貴重な糧秣も、あの将校にみんな掠り取らるるとじゃ。上官の命令での」
寿は、赤羽と曳田に厳しい眼を向けて睨みつけた。
「最初にわしと約束ばしたごつ、きさんら、もう忘れたとか! あの将校と合流したけりゃ、きさんらだけで勝手に行け! ただし、糧秣は一欠片もやらんぞ。きさんらが抜けてくれたら、わしもその分楽になるゆうもんたい。この期ば及んで、いまさら将校の面倒ば見らるっか!」
搾るような怒声を叩きつけられた二人は、それきり黙ってしまった。言われるとおりである。貴重な糧秣を掠り取られて食い扶持が減っては元も子もない。餓えは、もうたくさんなのである。
将校は、まだ燻っている焚火を長靴でいじって周辺を窺っていたが、やがて従者を促すと、足早に土手の斜面を駈け上がって草原に姿を隠した。彼らが消えた先、それが上に行ったのか、下ったのか、寿のところからではわからなかった。
寿は、念のために暫くその場所にとどまって、安全を確かめた上で元の場所に戻った。
「……ここを通るってことは、やっぱり鉄道守備隊の連中ですかね」
と、有働が、将校たちの消えた辺りを窺いながら言った。
「あの軍曹が言ってたでしょ。守備隊の連中のほかにこの道は誰も知らないって……」
「前線は大混乱ばしとるとじゃ。わしらがそうであるように、どこの敗残兵が迷いこんでも不思議はなか。それだけにグズグズしとれんことだけは確かたい。次はなにが出て来るかわからんけんの。わしらも先を急ごうたい」
寿たちは、草原へはすぐに入らずに、暫く川沿いを下ってから道に戻った。
被服も体も清潔にしたせいか、今度は二三の虻が血を嗅ぎ廻っただけで、さほど悩まされることはなかった。
周囲を密林に囲まれた草原を暫く下ると、道は再び森の隘道へと一行を導いた。だがもう迷うことはない。軍曹の言ったことが正しければ、鉄道までの道は一本である。
森に入ると、夥しい軍靴の跡に鉄帽が転がっていた。
「慌て者の馬鹿が落としたんだな」
有働が、顎紐の千切れた鉄帽を軍靴で蹴って呟いた。
「自分の装具を拾わねえで行ったということは、よっぽど急いで移動したんだな。もしかしたら、この先のどこかで野営をしているかも知れませんよ」
一行は、周辺に神経を張り巡らせて進んだ。そのお蔭で、深い森を抜けきるまで随分と長い時間がかかった。
何事もなく森を抜け出て、荒涼とした丘陵地帯に足を踏み入れたときは、太陽は西に大きく傾いていた。
幾つかの緩い高低差のある丘陵の遙か向うには、軍曹が言ったとおり駅があるらしく、幾筋かの黒煙が立ち昇っていて、夥しい軍靴の軌跡はその方角へ延びていた。
寿も迷わずその跡を辿り、そして一つ目の丘陵を登り切ったところで足を停めた。丘陵の下に、部隊のものと思われる十数台の空の荷車が遺棄されているのである。
「やっぱり、中隊単位の部隊が通ったんですね」
有働が辺りを窺いながら呟いた。
荷車が棄てられているその先には、小高い疎林が、ちょうど黒煙の立ち昇る方向にぽつねんと浮かんでおり、少数と思われる足跡がその疎林を往復していた。撤退部隊が出した斥候の足跡であろう。
乱れた夥しい足跡がその先へ進まずに大きく反転して森へ引き返しているのは、斥候の報告で、その先は危険であるということである。そう判断した指揮官は、その場で荷車を棄てて、荷駄を人力に変更して別の森へ進道を修正したのである。
寿も、その先は危険と判断して、部隊の足跡を辿るかどうかを思案したが、確認できる範囲には敵性らしき気配が感じられないことから、思い切って様子を窺うことにして、足早に疎林まで足を伸ばした。
だが、その先は、案の定であった。駅はあるにはあったが、その周辺には、極東ソ連軍の機甲部隊が駐屯していた。
待機線には二筋の貨物列車が休息していることから、男たちが見た黒煙はこの機関車のものであった。
「それにしても凄い数だな」
と、赤羽が愕きの声を洩らした。
「あのときと同じだ。隙間もねえほどロスケの機甲部隊がわんさといやがる」
「野郎が言ったのは本当だったんですね。あれは、確かに鉄道ですよ」
と、有働が言い終えたちょうどそのとき、機関車の甲高い汽笛が響き渡った。
太く力強い黒煙を噴き上げて、長蛇の貨物を牽引した列車は、北へ向けて動き出した。
寿はその煙を眼で追いながら言った。
「北へ向かうゆうこつは、あの貨物には戦利品ば詰まっとるゆうわけたいの」
「てことは、この先は全滅ってことになりますよ。どうします? もう少し接近して、鉄道の様子を探りますか?」
「やめとこう。あれを見れば充分たい。それに、ここから先は視界が開き過ぎとる。発見されたら逃げ場がなか。先の部隊も、それを警戒して森へ迂回ばしたとじゃ」
寿は苦笑した。ここまで来て、わざわざ死の顎門へ飛びこむ馬鹿な真似はできない。まっぴらご免であった。
「……てことは、つまりは、またぞろ密林へ逆戻りってことですか」
有働は、周辺を見廻して溜息を吐いた。
寿は、それとは別の方角、左翼前方の起伏の緩い丘陵が連なる曠野に視線を巡らせていた。
その先は、遙か彼方に見える山の稜線まで一本の樹木もなく、生き物さえ生息しそうにない黒い不毛の大地が懐を広げて待ち受けている。
寿は、それを見定めて賭に出た。
「森ば歩くのは最後の手段たい。わしらは夜を待って、あの曠野を南下する」




