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消耗品たちの八月十五日  作者: 河野靖征


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 どこまで歩いても、樹海は、相変わらず同じ景色と薄暗さであった。

 それでも、食糧のあるうちは、男たちはどうにか精神の平衡を保って歩いていたが、四日目の最後の糧食を全員で分けてから以後の丸二日は、雑草を摘んで煮て食い、軟らかい木の根を囓り、木の葉の雫を啜って歩いた。

 日光も、風も殆ど通さない鬱蒼とした樹海にあるのは、色とりどりの、見るからに食欲をそそる茸だけであった。

 有働が、その茸を軍靴の先で指さして、

「……これ、椎茸みたいですけど、食えませんかね?」

「死に急ぎたいなら、食ってもよかぞ」

 空腹に喘ぐ無知な者なら、すぐさま手を出すはずのところを、寿はきつく言い聞かした。

「キノコだけは手を出しちゃならんぞ。死にたか奴は食うてもよかけんが、そうでなかもんは、絶対に手ば出しちゃならん」

 こういう類には、往々として毒があると聞いている。森に生えている茸のすべてがそうとは限らないが、それを見分ける知識を持たない寿は茸だけは怖れた。食ってから後悔したのでは遅いのだ。

 有働が、忌々しそうに軍靴で茸の群れを蹴散らした。茸の胞子が沸き立って腐葉土に這った。

 それを怨めしそうに見つめて、男たちは蹌踉けるように歩き出した。

 空腹と疲労は極限に達している。樹海を彷徨するその姿は、まるで冥界をさまよう亡者そのものであった。餓えによる極度の衰弱が思考を(せん)(もう)させはじめて、男たちの体力を加速度的に奪い去った。

 誰も、天幕と鉄帽はとっくに棄てていた。持ち歩くことが重荷になったのである。持物は、干上がって空になった水筒に飯盒、それに雑嚢のなかで踊っている手榴弾に捨てたくなるほど重い小銃と、空腹の足しにもならない実包だけであった。だが、これだけは、どんなことがあっても手放すわけにはゆかなかった。自分を護る唯一の財産だからである。長い時間、途轍もなく奥深い密林をさまよいつづけるいまは、それさえ携えているのも重荷になっている。

「……いつになったら、この森ば出られるとか。出口は、いったいどこにあるとか!」

 どこまで歩いても一向に抜けられない苛立ちに、寿は呻くように呟いた。

 樹海の森は、歩けば歩くほど、寿たち一行を森の奥深く封じこめるようであった。どこまで歩いても、獣が棲息している痕跡も、野鳥の囀り(さえず)さえも聞こえない。

 ――この森は、鳥や獣の棲息すら許さんとね!

 この森で安穏と生きられるのは、獣すら眼を背ける猛毒を持った得体の知れない茸の類だけのようである。

 寿は、何度も停止を考えたが、いま停まったら完全に動けなくなることはわかっている。だから肉体が停止を求めても、寿の意識が頑なにそれを許さなかった。

 最初のうちは、分隊の指揮官として、部下の手前、何事も遅疑逡巡はあってはならぬという自覚が確かに優先していたが、そんなものは、いまはもうどうでもよくなっていた。ただ男の意地で歩いているに過ぎなかった。男たちの手前、(こと)に赤羽や曳田に対しては、意地でも歩き通さなければ、男としての面子が立たないと思っていた。

 そうは、しかし、頭では思っていても、肉体はそんな意地など考慮しない。自分では意地を貫いて歩いているつもりでいても、疲労しきった五体はそれに従おうとはせず、頻りに休息を求めて駄々をこねた。停止を求めて強制的に停まろうとする意志と、歩かねばならないのだと抵抗する意地の壮絶な闘いであった。

 寿は、人類未到の積もり重なった柔らかい腐葉土に足を掬われながら転倒寸前に歩いていた。それも、歩いているという自覚すらもなくなりはじめていた。顎を突き出し、杖代わりの軍刀を頼る自分の姿に、おのれの肉体の脆さを(ひし)と感じていた。誰よりも強靱と自負していた肉体が、これほどまで弱いとは思いもしなかったのである。

 狩猟で山に籠っているときは、一日や二日ひもじい思いをしても、水さえあれば平気であったのだ。それがどうしたことだ。たった二日絶食しただけで、この有様である。

 足を前に運ぼうとすれば、顎が先に突き出て上体が前のめりになって平衡がとれなくなる。軍刀で支えようとすると、今度はその手に力が入らず、踏ん張ろうとする足が縺れて寿は簡単に倒れた。そのたびに。低い呪いの呻き声を発して起き上がる。木の幹に軍靴の先が少しでも触れようものなら、それだけで簡単に転んだ。一度転ぶと、起き上がるのは容易ではなかった。有働が手を差し伸べてくれなければ、なにもかも投げ出して、歩くのを放棄してそのまま眠ってしまいそうであった。

 一歩進むごとに、周囲の樹木が自分の全精力を吸い取って行くように感じた。その反面、自分だけは哭を上げてはならないという意地と虚勢が、いまの寿をかろうじて支えているに過ぎなかった。

 赤羽も意地の塊となって歩いていた。

 表面では寿に従順な態度で接してはいるが、たった一夜で砲兵隊の権威を丸潰しにされた、あのときの屈辱は決して忘れてはいないのである。

 寿の敏捷な身のこなしと強さにおいては、確かに一目置いてはいる。だが、赤羽には、地方での土木業と砲兵隊で鍛え上げた強靱な肉体が備わっているのだ。

 赤羽は待っていた。(かく)々(かく)たる砲兵隊を鼻であしらった予備役が顎を出すのを。だから、どうあっても、ここでくたばるわけにはゆかないのである。意地でも歩き通して、寿から弱音の一つでも聞く必要があった。さすが砲兵だけあって芯が太かたい。あとはきさんが指揮ば執れ。と、その小気味よい瞬間が、もうすぐそこまで来ているのだ。赤羽は、その一念を強いバネとして歩いていた。

 ――あの野郎は顎を出しかけている。潰れるのはもう時間の問題だぞ!

 そう思うと、肉体の内部から言い知れぬ強い力が湧いて来るようであった。

 ――早く潰れろ! そのときは存分に嘲ってやる。蹴り飛ばして、これからは俺が指揮官だ! そう呶鳴り散らしてやるのだ。誰が貴様なんかに手を貸してやるもんか! いいか川尻、よく聞けよ。俺たち砲兵隊をなめるからこういう破目になるんだ。いまさら弱音を吐くんじゃねえ。このガスたれが! 俺たちがいかに強靱な肉体の持主であるかがこれで思い知っただろ! ざまァ見やがれだ。やい、立ちやがれ、この腑抜け野郎! そう罵って、てめえを嗤い飛ばしてやる!

 だが、肚で牙を剝いて力んでみても、空腹と疲労に祟られては駄目である。たった一撃で寿に牙を折られ、熾烈な戦闘で度肝を抜かれた赤羽は、もはや肉体と魂を抜き取られた単なる猛獣の剥製でしかなく、炭鉱で揉まれた寿の鞏固な意地には適わなかった。落伍寸前となった剥製の猛獣は、簡単に意地をかなぐり捨てて哭を上げた。

 ――もう駄目だ! お願いだ、班長殿。ほんの一分でいいから休ませてくれ。そうしたら、あとはどんなことでも言うことを聞きますぜ!

 曳田は、半分死人となって歩いていた。二度目の飢餓地獄に怯え、じわじわと忍び寄る死の恐怖におののきながら、幽明境を彷徨(さまよ)う魂のように歩いていた。

 有働の場合は、これは赤羽とは別の意地を張って歩いていた。彼の世界で言う、義理と人情が絡んでのことである。

 分隊長には、あの砲兵との騒動以来、なにかと世話になっている。松月では、自分の男を立ててくれた義理もある。有働にとっては、恩義ある大事な兄貴分なのである。その兄貴分が必死で歩いているのに、舎弟が先に倒れるわけにはゆかなかった。娑婆に戻るまでは、どんなことがあろうとも、この兄貴を護り通さなければならない。胸にそう誓っているのだ。この密林に入るとき、死は覚悟の前と言ったが、まだ死が訪れたわけではない。生きるか死ぬかは賭けである。そのときの(さい)の目で決まるのだ。

 いちばん若い野下が最初に遅れはじめたが、これは無理はなかった。肩に負傷していることもあって、体力の消耗が著しいのだ。とはいえ、致命的な傷を負っているわけではない。傷口は無性に疼くが、強い意志と、誰にも負けない根性さえ持っていれば、どんなに過酷な条件下であろうと歩けぬはずはない。そう自分に言い聞かせて歩いていた。だが、それも、糧食が尽きるまでのことであった。食料が尽きた途端に、野下の体の全機能は、時間とともに徐々に停止をし始めたのである。

 野下は、それを、あらゆる食い物を想像することによって活力を呼び戻そうとしたが、考えるだけ無駄であった。考えれば、逆に空腹感が募るだけで、衰弱した肉体は悲鳴を上げるだけであった。なにを考えるにしても、なにをするにしても、餓死寸前の状態ではなにも叶わないのだ。

 赤羽や曳田に、裕福な家庭の軟弱な坊ちゃん育ちとビンタを取られた意地もある。野下は、奥歯を噛み締め、唇を真一文字に結んで歩いていた。どんなに辛くても、弱音だけは吐かないつもりであった。あんなゲスな古兵連中に、やっぱりお前は軟弱な青二才だったと、鼻で(わら)われたくははなかった。

 だが、もういけない。一文字に結んだ唇は、自分の意志とは無関係にすぐにだらしなく開いて、喘ぐように荒い息を吐いていた。肉体も精神も限界を訴えているのだ。持ち合わせているはずの正常な五感が、とうとう狂いはじめたようである。その証拠に、眼は翳みはじめ、先程まで耳の奥で煩く騒いでいた耳障りな虫の声も止み、歩いている感覚さえなくなりはじめている。すぐ前を歩く高丸の姿でさえ、ともすれば歪んで見える。高丸が落ち葉を踏みしだく音を頼りに歩いているが、その音すらも、どこから伝わって来るのかわからなくなっている。

 こんな状態だと、倒れるのは時間の問題である。これでは駄目だ。いまここで倒れると、「アカ」に傾倒した奴はなにかと弁は立つが、肝腎な肉体も精神も出来損なっていると、分隊長に嘲られそうである。いやそれだけではない。手榴弾一発を握らされて、無情な視線で見据えられて、この森に棄てられそうである。弱音を吐けばお終いである。だから、どんなことがあっても、歯を食い縛って歩かねばならなかった。倒れたら、それですべてが終わりになるのである。

 そう言い聞かせて足を運ぶが、足も、手も、どこもかしこも、意思に逆らって思うように動いてくれない。肉体が、精神が、思考が、体の全機能が停止をはじめた証拠である。ボロボロになったのだ。もう駄目である。

 野下は、疲労のあまり、父親の安否も、母親の病気のことも、もうどうでもよくなっていた。自分がこんな苦労をして歩いていることなど、母親は、おそらく夢想さえもしないだろうと思った。それよりも、今頃は病気も回復して、それこそ野下のことなど忘れて、毎日のように着飾り、いつも(つる)んでいる女友達とレストランへ出向いて豪勢な洋食に舌鼓を打ち、埒もない巷の浮き世話に花を咲かせているかもしれないのだ。そんな母親に、こんな苦労談を話して聞かせても、とても素直に信じて貰えそうにない。そう考えると、無性に腹が立ってきた。

 ――あんな病気になったのも、おやじや俺をろくに構わず好き勝手に暮らしていた罰が当たったんだ。いい気味だ。おふくろよ諦めろ。俺は、こうして歩きながら肩から腐って死んで逝くのだ。どうせ生きて帰れやしないんだ!

 野下は、落伍だけは絶対にすまいと眼だけをギラギラさせて、揺らめきながら、殆ど落伍寸前に歩いていた。

 野下のすぐ前を歩く最年長の高丸は、他の誰よりも気丈に振る舞って、仲間を気遣いながら歩いていた。

 これは、自分が年長であることの負い目が空元気を装っているのでも、関西人特有の図太い根性がそうさせているのでもなかった。自分の築き上げた財産を守らんがための一心で歩いているのである。そのためには、どうしても、分隊長や仲間たちには生き延びて貰わなければならないのである。仲間がいなくなっては目的が達せられない。だから、いまの自分を酷使してでも仲間を気遣ってやらなければならないのだ。

 高丸は、遅れがちな野下が来るのを待って、まだ声をかけるだけの余裕を見せた。

「しっかりしいや、一選抜の一等兵はん。あんたはここではいちばん若いお人でっせ。年寄りの一つ星に負けたら恥でっせ。頑張って歩きなはれ。遅れて、はぐれてしもうたら見捨てられまっせ。こんな森んなかでくたばりとうはおまへんやろ。な。精出して歩きなはれ」

 野下は、高丸が待っていてくれた気持ちに甘えて、とうとうその場に坐りこんだ。

「少しだけ休ませてくれよ。そうしたらあとを追うよ」

「アホなこと言いなはんな。ここで休んだら、一軒先に誰が歩いとるかわからへん森のなかでっせ、はぐれて迷子になるにきまっとるやおまへんかいな」

 高丸は、先を歩く男たちを見逃すまいと、忙しく顔を動かした。

「行きまっせ、わいは……」

 高丸は、行きかけて、振り向いた。

「早う来なはれって! グズグズしとったら、ほんまに置き去りにされてしまいまっせ!」

 そこへ、有働がよろめきながら戻って来て、いきなり呶鳴り上げた。

「なにもたついてやがんだ。てめえらだけが腹ァ空かして歩いてんじゃねえぞ。みんな同じに歩いてんだ。さっさと行かねえか!」

 と、小銃をしゃくった。

 高丸は、跳ねるようにその場を離れたが、野下は、有働の顔をぼんやりと見上げただけで、腰を上げようとはしなかった。

「そうかい。てめえがどうしても歩けねえってんなら、俺がここでバラしてやる」

 言ったかと思うと、有働は、小銃の遊底を烈しく引いて、いきなり野下の膝元の土を射ち抜いた。

「くたばりたくなかったら、早く行け!」

 と、もう一発放って、またガチャリと遊底を引いた。

 野下は、本当に射殺しかねない有働の血走った眼に危険を感じて、疲れを忘れたかのように、高丸のあとを()()めくように追った。

 銃声を聞いた寿が血相を変えて来た。

「どげしたとか!」

「いやね、あの野郎が暢気にここで昼寝してやがったから、ちょいと起こしてやったんですよ」

 と、野下の後姿に眼尻を尖らせた。

「生きるか死ぬかってときに、あの野郎、暢気に休んでやがって、今度生意気な態度しやがったら、本当にぶっ殺してやる!」

 寿は、有働の肩に手を置いた。

「きさんの苛立つ気持ちはわかるばってんが、そげに尖るんやなか。そのうち、あいつはきさんに感謝ばするたい。さ、行こう」

 二人は、先で待つ仲間のところへ、縺れるようにして足を向けた。

 そこへ、男たちが顔色を変えて戻って来た。

「班長殿!」

 と、高丸が森の奥に指をさした。

「あっちから、誰か来まっせ。さっきの銃声を聞かれたんですわ!」

 と、声を慄わせた。

 眼を凝らして見ると、開けた視界の向こうに、人影がこちらへ向かって揺れ動いていた。

「伏せろ!」

 疲れも空腹も吹っ飛んでしまった。

 寿は、拳銃の安全子を開いて、樹木の蔭に身を跼めた。

「敵ですかね?」

 有働が囁いた。

「まだわからん」

 寿は数を読んだ。武装した数は四つである。先頭に立つ一名は、軍刀を吊っていることから将校にも見えたが、服装からこれは下士官のようで、あとの三名は兵隊である。その三名は、重そうな背嚢を背負っているが、いずれも軽快な身のこなしからして、充分な給養を摂っているようであった。

「道ば迷うた日本猿が四匹たい」

「餌を持った猿だといいですね」

「そう希いたいが……」

 言いながら首をかしげた。

「そげにしても、こげな密林であの重装備とはの? きさんたちは、まだ伏せとれ」

 友軍にはちがいないが、用心に越したことはない。

 寿は、拳銃を腰の位置に構えたまま、ゆっくりと立ち上がった。相手側は、遠くから寿の姿を認めて、自分たちの仲間と信じこんだようである。

「射つな、俺だ!」

 と、親しげに叫んで手を振りながら寄って来たが、近づいて、それが仲間とはちがう別人であることに気づいた下士官は、俄に怪訝な顔色を浮かべた。

「銃声がしたが、あれはあんたたちか?」

 と、血色のいい顔で周囲を見廻して、不思議そうな眼で訊いた。

「そうたい。久し振りに焼き鳥が食える思うてぶっ放したとやが、逃がしてしもうたばい」

 拳銃の安全子を閉じて、さり気なくそう答えた寿は、(くさ)(むら)の男たちに声をかけた。

 薄汚れた纏まった人数が草の葉隠れから顔を出したのを見て、軍曹は、これも多少の戸惑いを見せたようであったが、この近辺には、自分たち以外の部隊はいないと信じこんでいるせいで、寿たちのことを、自分たちとは逆の方向から上って来た同属部隊と勝手に解釈したらしい。

「あんたら、(しん)(せい)からか?」

 と、親しげな顔を向けた。

 寿は、そう問われても、答えようがなかったから、曖昧にうなずくしかなかった。

「……それにしても、大そうな装備ばしとるが、おんしらも移動部隊ね?」

 と、訊いた寿に、軍曹は一瞬緊張したようであったが、さすがに軍隊の飯を長年食っているだけに、そこはしたたかであった。何食わぬ顔で答えを(かわ)した。

「いや、銃声が九九式だったろ。それも二発だったから、俺が先発させた奴らが合図をくれたものと思って来てみたんだが、そうかァそっちからか。……しかし、この非常時にジャングルで焼鳥たァ悠長じゃねえか。で、どんな状況だ、そっちは?」

 軍曹は、今度は真顔で訊いた。

「このとおり惨敗たい」

「そうか、そっちも駄目か。それじゃ進みようがねえな」

 と、軍曹の顔が俄に曇った。

「どういうことね?」

 軍曹は、すぐには答えずに、うしろに控えている一等兵に顎をしゃくった。

 一等兵は、軍曹の尻のそこへ、担いでいる背嚢を重そうな音を立てて下ろした。

 軍曹は、その背嚢にドカリと尻を据えて言った。

「いやな、俺たちは(せい)(けい)の鉄道守備隊だが、隣の(へい)(ちよう)の信号場が満人のテロに妨害されたんで、そこの復旧作業の応援に出ていたんだがな、そこへ今朝方伝令がすっ飛んで来て言うにはだな、ロスケが孫呉以南の鉄道を分断しはじめたって言うじゃねえか。したがって清渓には戻れねえから、取り敢えず身の廻りのものを掻き集めて、ひとまず(よう)(れい)か辰清まで退ろうってことにしたんだ。それで、そこから先の小興安へ向かう予定だったが、辰清が駄目となりゃ、こりゃその先も危なくなったと考えなけゃならんな。敵さんの早いご到着とはな」

 長い密林の彷徨で、軍曹の言う今朝が何日を指しているのか寿にはわからなかったが、少なくとも、あれから十日は過ぎているはずである。それに孫呉の主要陣地は装備が充実しているのだ。あれほどの大軍が侵攻して来たとしても、寿の頭のなかでは、黒河を中心とする璦琿や孫呉の要塞陣地は、いずれは陥るにしても、敵を容易に南下させない火力を備えているからまだ健在のはずであった。

 それが、いまの軍曹の話では、敵はその頑強な抵抗線を突破して、孫呉以南の鉄道を既に掌握しているということになる。もしそうだとすれば、単純に考えても、鉄道を辿っての南下は不可能と考えねばならなかった。仮に、敵がその鉄道へまだ及んでいないとしても、戦況は刻々と変化しているのだ。楽観は禁物である。

 その懸念が、こう言わせた。

「その先発ばした、おんしらの仲間は?」

「そうさな、先発させたはいいが、あんたの話だと、こりゃ奴らも危ねえことになってるな」

「それ以後の、孫呉の状況は?」

 軍曹は首を振った。

「璦琿も孫呉も戦闘中だという情報だけで、詳細はわからん。なにしろ、俺たちは平頂の警備に缶詰だったからな」

 寿はうなずいた。

「と言うことは、いまの時点では、孫呉以南の鉄道は無事ゆうこつたいの」

 軍曹は、一刹那、不可思議な顔を寿に向けたが、他のことを考えているらしく、なにも言わず黙っていた。

「孫呉の陣地が頑張っとるとなら、こげなとこでいつまでもぐずぐずしちゃおれんばい」

 軍曹はうなずいた。

「そういうことだな。……で、あんたたちはどっちへ行くつもりだ? 孫呉へは行かれんし、南も危ないってことになったら、どこにも行かれんぞ」

「わしらは、鉄道を目指して、北安を抜けるつもりたい」

 すると、軍曹は片手を大きく振った。

「やめろやめろ。この状況なら、お前、へたをすると北安まで敵さんに掌握されているぞ。その人数で雁首揃えてノコノコ出てみろ、それこそ元の木阿弥……」

 そこで急に言葉を切った。軍曹は、はじめて会話の矛盾に気づいたようである。白眼を二三度パチパチやって、懐疑的な顔を寿に向けて身を乗り出した。

「ちょっと待てよ? あんた、いま鉄道を目指してるって言ったが、辰清から来たんじゃないのか?」

 寿は、密林の奥へ顎をしゃくった。

「あの方角からたい」

「え?」

 と、軍曹は、寿の示したほうへ視線を動かして絶句した。

「……てことは、あんたら、いったいどの道から来たんだ? 俺たちの道以外、この近辺には道はどこにもないはずだが……」

 軍曹は、疑心暗鬼に首を捻った。

「だって、そっちは獣も棲まねえ深いジャングルだぜ。人間様なら尚のことだ」

 と、もう一度その先を視て、とても信じられないというふうに首を振ると、俄に訝しげな顔になった。

「待てよ……てことは、なにか?」

 軍曹は、自分が早とちりしたのを、このときになって漸く理解したようである。

「……つまり、あんたらはあの道を通らなかってことは、つまりは同属の守備隊じゃなく、この密林のなかを歩いて来た別の部隊ってわけか?」

 寿がうなずくと、軍曹は、薄汚れた寿たちをしげしげと見廻して、感嘆の声を上げた。

「そいつは驚きだ。それが本当なら、この地獄のジャングルをよくぞ生きて来られたと勲章ものだぞ」

 と、冗談を飛ばしてから急に真顔になった。

「て、ことはだぞ、同属部隊じゃないってことになると、あんたら、いったいどこの部隊だ?」

「遜河の第二線部隊たい」

 軍曹は、愕きを通り越して嘲笑した。

「それじゃ、遜河からここまで遙々ジャングルを辿って来たってわけか? そいつは重ね重ねご苦労さんだ」

「そげに言うおんしらは、どげな?」

 軍曹は、半ば呆れた顔で鼻の穴を膨らませた。

「だから、いま言ったように、俺たちが来たすぐそこにだな、荷馬車が通れるほどの道があるんだ。俺たち鉄道守備隊が非常の際の物資の搬送路として切り拓いた道路でな、俺たち以外は誰も知らん道だ」

軍曹は、また仲間をかえり見て嗤った。

「いやおかしいと思ったんだ。考えてみりゃこの辺りには俺たちの守備隊だけで、それ以外の戦闘部隊はおらんはずだもんな。だから銃声が聞こえたとき、俺ァてっきり先発した仲間だと信じて来てみたんだ。つまりだな、こういうことだ。いま言ったその道だが、こっちから向かって右に行けば腰嶺の駅、と言ってわからなければ孫呉方面の道で、左は辰清、つまり北安方面へ繋がる駅がある。そこから先は、あんたらがよく知っている遜河の地形のようなもんでな、途中には幾つかの山間を走るが、比較的平坦な地形が小興安の先までつづいている。俺たちは、取り敢えず辰清まで出てみてだな、そこで、ひとまずどんな状況か様子を探って、それから保線の移動台車で白林まで足を伸ばそうと、ま、こういう段取りだ」

「おんしらは鉄道守備隊ね」

「そうだ」

 それなら鉄道沿線は詳しいはずである。この軍曹の言うことはでたらめではあるまい。

「もし辰清が駄目な場合はどげするね?」

 軍曹は、腰かけている背嚢に眼を落としてから、

「そのときゃお前、目的地まで迂回して行こうじゃねえか。北安までの沿線は俺たちの地所みたいなもんだ。なァ」

 と、部下たちをかえり見て楽観的な笑みを浮かべた。

「つまり」

 と、寿は、軍曹が腰かけている背嚢に顎をしゃくった。

「その中身は、そのための糧秣ゆうわけね?」

 寿は、逸る気持ちを抑えて、やんわりと訊いた。

 兵隊の携えている三つの背嚢と、それぞれの肩にたすき掛けに提げられて膨れ上がっている雑嚢のなか、これは、おそらく精白米であろうそのすべてが糧秣なら、これはかなりの分量を携行していることになる。

「ま、そういうことだ」

 軍曹がそう答えると、寿の背後で低いざわめきが起こった。猿の餌どころか、この三つの糧秣は、大の人間四人を一ヶ月は養う糧秣である。餓死寸前の男たちの眼が、色めき立つのも無理はない。

 この軍曹が、もし寿たちが餓死寸前であることに気づいていたら、こうは答えずに、その場を早々に切り上げていたにちがいない。素直に近づいたのは、寿の表情があまりに落ち着いているのと、この広大な死の密林を部下を嚮導して踏破するほどの下士官である。その男が、食糧を携えていないはずはないと勝手に思いこんでいるからである。この認識の甘さが、とんでもないことになった。

「これ、全部糧秣が詰まってるんですか?」

 眼の色を変えた有働が、寿の横からいきなり躍り出て、眼を丸くした。

「……お前ら、糧秣は?」

 餓えた猛獣が、背嚢を見つめながら喉を鳴らした。

「ドンパチの最中に、持ち出す暇がなかったんだ」

「え! ない?」

 軍曹の顔が俄に引き攣った。これは拙いことになりそうである。糧食を掠り取られでもしたら、これからの前途が暗いものになる。軍曹は、後悔の色を顕わにしたが、そのときはもう遅かった。

「それにしても、お前ら、トカゲや蛇くらいは食ったにしても、こんな深い森を、遜河から、よく餓死もせずにここまで来れたな。どうするつもりだ、これから先?」

「幸運の仏様が、わざわざ廻り道ばして、わしらを救いに来てくれたやなかね」

 寿はうっすらと笑って、軍曹のうしろに控えている男たちに顎をしゃくった。

 糧秣の詰まった背嚢に腰を下ろして、暢気に煙草を吹かしていた男たちは、俄かに眼を攣り上げて起ち上がった。

 軍曹は、それを苦々しく笑った。

「お互い様だと言って、気持ちよく分けてやりたいのは山々だがな、残念だが、かねを積まれてもこれだけはできん相談だ。俺たちは、これから原隊と合流して長旅をするんでな。これはそのためのものなんだ」

 この軍曹の言訳は、喋り過ぎたいまでは、もうなんの信用性はなかった。

「分けちゃ貰えんゆうわけたいの」

 寿がそう呟くと、古参兵らしき屈強な一等兵が、軍曹の頭越しに手を横に振った。

「悪いが、そいつは駄目だね」

 と、これがぞんざいな口の利き方である。兵科の異なる相手だから、上下間の気遣いなど無用と考えているのだ。

「いま班長殿も言ったように、俺たちは、この糧秣を抱えて原隊に合流しなけりゃならねえんだ。口を開いて待ってる子雀どもに、餌を与えなきゃならねえからな」

 これで口を噤んで退き下がればよかったものの、一等兵は、食糧を出し惜しむあまりについ余計な口まで滑らせた。

「その代わり、と、言っちゃなんだが、いいことを教えてやるよ。この先の辰清の鉄道沿いに南へ五六キロばかり行くとな、男より女の数が多い満人の部落がある。鉄道を頼りに南へ行きゃすぐにわかるさ。そこの男たちの殆どは日本のなにやら興産とかいう鉱山の採掘現場に駆り出されていてな、女たちは疼いた体を持て余しているそうだ。そこは非戦闘地区で、おまけに女たちは親日派だからな、行って頼めばよ、粟飯の一膳くらいは調達できるぜ」

 すると、軍曹が眼くじらを立てて一喝した。

「馬鹿ったれ! 余計なことを喋るんじゃねえ!」

 この一喝に、どのような意味が含まれているか、寿には容易に想像がついた。

 一等兵が、ニヤニヤしながら軽く調子づいて喋ったところから、この男たちは、その部落でいい思いをした憶えがある証である。

 寿は、しかし、そんな話はどうでもよかった。仮にそこが親日派の花園であろうとも、飢餓のどん底に喘いでいるいまの寿には、単なる絵に描いた餅でしかない。いま必要で関心があるのは、眼の前の、肥え太った三つの背嚢に納められている糧秣だけである。一等兵の言葉を信じるかどうかは、空腹を満たしてからである。

「かねなら、日本円で二十五円ばかりあるが、これで六名分の糧秣を分けてくれんかの」

 寿は、胸の隠しからかねを出して見せた。

「駄目だよ。さっきも言ったろ。いくらかねを積まれても出せないものは出せないんだよ。それによ、そんなかねを持っていても、ここでは使いようがねえよ。班長殿、これ以上の道草を食っていたら陽が暮れますよ。早いとこ山を下りましょうや」

 と、一等兵が背嚢を担いだのを見て、軍曹も、これを潮時と踏んだようである。

「さて、と……」

 と、両膝を叩いて腰を上げた。これ以上の長居は無用である。

「では、ぼつぼつ行くとするか。俺たちは先を急ぐんで、どうもすまんな」

「そうか、……行くとね」

「ああ、こいつが言うように、陽が落ちるまでにこの峠を越えたいのでな。おい、出っ発だぞ」

 と、軍曹が部下たちを促して行きかけようとすると、いきなり腕を引き寄せられて寿の拳銃が胸に向けられた。

「なにをするんだ!」

 先程までとは打って変わって、突如として豹変した寿の態度に、愕いた軍曹以下の男たちの顔から忽ち生気が消え失せた。

「動くんやなか! 一人でも動いたら、きさんらは永久にこの森から出られごつなるぞ!」

寿の背後でガチガチと遊底の動く音が響いた。有働以下の男たちが、軍曹の仲間に小銃を構えたのだ。

「有働、この軍曹の拳銃を抜き取って、こやつらの銃の弾倉底板を外せ。少しでも抵抗したら、かまわん、射殺しろ。この場の責任はオイが持つ!」

 そう命じて、拳銃の銃口を軍曹の胸に圧し当てた。先程までの空腹による疲労は一気に消し飛んでいた。

「この期に及んで、そげな原隊なんぞ、あるはずはなかばい。原隊は潰されとるか、それとも安全な後方へ逃げとるかいずれかたい。それを、きさん、食糧惜しさにでまかせばぬかしよってくさ! おい軍曹。見え透いた嘘は、わしには通用せんのぞ。その糧秣も、どうせ糧秣庫からくすねたもんたい。ちがうか!」

 軍曹の胸に当てられた銃口が、強く圧し着けられた。

「のォ軍曹どんよ、わしの願いを少し聞いちゃらんね。長か旅ばするのはわしらも同じたい。みんな国へ帰りたか一心でこげして歩いとる。そのためには、わしらも食糧を必要とするとじゃ。お互い兵科はちがうばってんが、同じ関東軍麾下の飯ば喰ろうた同胞部隊やなかね。の、そうじゃろもん。なんも全部よこせと言うとるんやなか。友軍ば誼たい、六人分の糧秣を分けてやらんね」

 軍曹は悲壮な顔を引き攣らせた。

「そんな、無茶を言わんでくれよ。これは俺たちが集めた貴重な糧秣なんだ。それを略奪するんかよ」

 寿は鼻で笑った。

「略奪はお互いさまたい。わしも、の、同胞ば友軍に銃ば向けて、こげな真似はしとうなかとじゃ」

 と、軍曹の額を銃先で二三度軽く突いた。

「この下士官のオイが、部下の前で恥ば忍んで頭ば下げとるとぞ。おんしは、それを無視ばするとね。もしそげな素振りばしたら、おんしらは、辰清か白林か知らんばってんが、そこへは出られんごつなるばってんが、それでもよかね」

 飲まず食わずの密林の彷徨で、げっそりと痩せた寿の(がん)()の奥には、なんの躊躇(ためら)いもなく人を殺しそうな、殺意の炎が揺らめいた。相手がこれ以上拒むようなら、額に当てられた銃口から、呵責のない銃弾が頭蓋骨を粉砕しそうであった。

「どげな?」

「待ってくれ。わかった。出すよ。出すから、そいつを引いてくれ」

 行きずりと甘く見て取ったのが不運であった。出会った相手があまりにも悪すぎたのだ。山賊と化した敗残兵に、わざわざ食糧を運んで来てやったようなものであった。

 軍曹は、たすき掛けにしている膨れ上がった雑嚢の一つを、おずおずと差し出した。

「こ、米だ。これで勘弁してくれ。な。あとは、その……とにかく必要なんだ」

 すると、眼を血走らせた有働がいきなり横から出て、軍曹の襟首を締め上げた。

「やい、この盗っ人野郎! これっぽちで、俺たちが納得して退き下がるとでも思ってやがるのか。てめえ、ぶっ殺されてえのか!」

 餓死寸前のわりには、万力のような力である。胸ぐらを捩られた勢いで、軍曹の第一釦が弾け飛んだ。

「どうせ盗んだものじゃねえか。それを出し惜しみしやがって! 出さねえと、てめえら一人も生かしちゃおかねえぞ! てめえらとちがって、俺たちァ算えきれねえほど人を殺して来たんだ。てめえらをぶち殺したって、こちとらは虱を潰した程度にしか思っちゃいねえんだ!」

 と、軍曹を突き飛ばしてその足下に、奪った軍曹の拳銃弾を放った。

「班長殿、こいつらをさっさとここでバラしましょうや。こいつら、どうせろくな戦闘もしねえで、真っ先に糧秣をかっぱらって仲間を捨てて逃げやがったにちがいないんです。こんな野郎を生かしてちゃ、これから先、ろくなことはありませんよ」

 そう言ったかと思うと、

「やい、グズグズするんじゃねえ!」

 今度は一等兵の足下にぶっ放した。

「てめえらの分も全部こっちに出せ!」

 蒼白に固まった男たちに拳銃をしゃくった。

「おい、そいつを開けてみろ」

 と、高丸に顎で示すと、高丸は小銃をその場に投げ捨てるように置くと、背嚢の一つに飛びついてそれを開いた。

 それを覗き視た赤羽と曳田は、眼を丸めて生唾を呑んだ。

「こりゃたまげたね。詰めるだけ詰めてやがる」

「よくもまあ、これだけかっさらう暇があったもんだ」

 曳田が感嘆の声を洩らした。

 開かれた背嚢には、携帯糧秣が隙間のないほどぎっしりと詰められていて、さらに甘味品の羊羹と、有難いことにマッチから煙草まで用意されてあった。

 高丸は、背嚢の左右に縛着されている膨れあがった雑嚢を開いた。

 それには精白米がぎっしりと詰められていて、これに男たちが提げている雑嚢の精白米を合わせると、この男たち四人を、一ヶ月どころか二ヶ月は悠に養えるほどの分量であった。

 背嚢に詰められた糧秣を手際よく計った高丸は、仲間を見廻して、それから寿の顔にニンマリと笑みを浮かべた。

「班長殿、この三つの中身は殆ど公平に詰められてまっせ。一つを六人で割ると……二つもありゃひと月は悠に食える勘定ですわ」

 軍曹が慌てた。

「ま、待て。待ってくれ! そんなに持って行かれたら俺たちが干上がっちまう。せめて一つにしてくれんか。な、頼むよ」

「やかましい! てめえは黙ってろ! 今度喋ったら、本当にぶっ殺すぞ!」

 有働が軍曹に一喝した。

「どうします、班長殿。さっさとこの連中を始末して腹ごしらえをしませんか。この糧秣を見た途端に、急に腹の虫が鳴りはじめて、我慢できませんよ」

 餓えた猛獣が悲鳴を上げた。

「そげするか。ただし、その連中は殺しちゃならん。高丸、まずみんなに一食分ば分配しちゃれ」

 命じて、軍曹に言った。

「おい班長。おんしも守備隊で甘か汁ば吸うた関東軍の下士官たい。こげな場合の選択はどげにすれば勘定が合うか、そのよか頭で考えることぞ。わしらは、おんしの言うた辰清ゆうところへ行くことにするが、わしらの邪魔をしちゃならんぞ。邪魔ばしたら、これぞ」

 と野下の小銃を手にして、銃口を軍曹の胸に圧し当てた。

「わしらの行く手を邪魔ばする奴は、友軍じゃろと満人じゃろと容赦なく始末ばする。言うとくけんがの、わしらは関東軍のガラクタ兵とお墨付きば貰うた遜河四家屯の愚連隊たい。そやけん、つまらん小細工ばせんことぞ。もしそげなごつしたら、きさんらは生きて内地ば帰れんごつなるけんの。この男が言うたように、わしらは、ほんの昨日まで厭ゆうほど人ば殺して来たけん、人ば殺すことなんぞ屁とも思うとらんとじゃ。このことを頭のなかに叩きこんでかかるとぞ」

 これだけで、軍曹たちを慄え上がらせるには充分であった。

「よし、有働、この連中の銃と残りの糧秣は返してやれ」

 と、命じて、有働の拳銃を引き取って、弾倉内の銃弾を抜いて軍曹に手渡した。

「班長。もいっぺん念ば押しとくけんが、きさんたちがどこへ行こうが勝手たい。やけんが、わしらの前後三百メートル以内を歩いちゃならんぞ。一人でもわしらに姿を見せたら、わしは即刻きさんらを射ち殺す。自慢するわけやないが、わしの射撃能力は、連隊の狙撃手大会に出るほどの腕前での、三百メートル先の雀の頭ば射ち抜く正確な眼ば持っとる。つまり、限秒四秒できさんたちはあの世へ逝く羽目になるゆうわけたい。わかったの。よし、もう行ってよか」

 軍曹たちは、這々の体で森に消えた。

 その姿が消えるまで見送った寿は、情けなく笑った。

「オイも、とんだ山賊の大将に成下ったもんたい」

 呟いて、寿は、軍曹たちの万一の報復を警戒して、少し先に見えている大小の岩石の群れに移動した。樹木の下の地盤は、どうやら岩盤層らしく、岩肌を掴むように根を張り出しているそこは身を隠すには都合がよく、防禦には格好の場所と判断したのである。

 その一つの、一番手前の比較的大きな岩蔭に腰を下ろして、寿は、高丸から分配された携帯口糧を開いた。

 餓死寸前の男たちにとっては、鉄道守備隊の男たちはまさに地獄に仏であった。有働の二発の発砲がなければ、この僥倖はまず得なかったにちがいない。

 男たちは、餓鬼になって貪り食った。友軍に対して手荒な強奪をした罪悪感などは、空腹に掻き消されて微塵も湧いてこなかった。

 一息ついて、落ち着きを取り戻した有働が、久し振りに味わう煙草をうまそうに吹かした。

「あの連中のお蔭で命拾いをしたもんですが、ちょっと可哀相な気もしますね」

 伸びた髯を撫でながら呟いた。

「鬼のごつ、ひどか仕打ちばしたがの、あの場合は、ああでもせなんだらわしらが参っとったとじゃ。それに全部を喝上げたわけやなか。ま、少しは泣いて貰おうやなかね」

 と、寿がにが笑いで呟くと、岩に(もた)れていた赤羽が巨体をむっくと持ち上げて、

「気にするこたァありませんぜ、あの野郎、同じ日本人のくせしやがって、同胞相身互うことをせずに見捨てようとしやがったんだ。俺ァほんとにぶっ殺してやりてえと、心底そう思ったぜ」

 と、怒りを顔にまぶした。

「あんな意地汚え野郎は見たことがねえぜ。どうせなら、みんな剥ぎ取って丸腰で行かせるんだった」

 すると、曳田が、

「それだよ」

 と、すぐさま受けて、

「あんな野郎だからよ、俺たちのことを根に持って、どこかで待ち伏せしてやしねえかな?」

 と、不安げな顔を上げた。それを寿が含み笑いしながら答えた。

「これほど時間が経ってもなにも起らんとじゃ。心配なか。わしにあれだけ脅かされりゃ、連中とて命は惜しかろうたい。わしのハッタリば効いて、今頃は半里も先へ逃げとりんさるたい」

「ハッタリって、じゃあれ、嘘だったんですか? 三百メートル先のスズメ……」

 有働が眼玉を丸めた。

「なんじゃい、きさんまで本気にしとったとや?」

 寿は声を上げて笑った。

「ばか、考えてみい。三百先の雀の頭ば仕留めるのは不可能ぞ。小銃の秘中限界は精々二百じゃ。ぼやーっとつっ立っとる麒麟や象ならどこぞに中るかもしらんばってんが、それでも動いとるもんを仕留めるのは、よほど訓練ばした狙撃手でも無理たい」

「なんだ、俺たちまでまんまと一杯食わされたんですか」

 男たちは声を殺して笑い合った。

 一頻りの会話が途切れると、今度は満腹感による睡魔が襲って来た。狙われる危険性が薄れたことから、男たちは岩に凭れたまま眠ってしまった。

 巨岩を背に、暫く周辺を警戒していた寿も、いつしか警戒を解いて泥のように眠った。

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