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東方に眺める荒涼とした曠野を横眼に、森の裾野を南下していた寿たち一行は、いくつか点在している大小の丘や疎林を躱しながら歩いているうちに、森が二手に分かれているのを訝って足を停めた。
右の一つは北方に、左のもう一つは南方と思われる方角へ細い口を開けていて、辿っている森の裾野は、そこから見える範囲では、その裾野は大きく東へと湾曲して消えていた。
寿は選択に迷った。このまま進めば、その先には、北黒線への手掛かりが掴めるかも知れないし、まったく絶望かも知れない。いま眼の前に口を開いている二つの途は、右の細い荒野は、これは真北に延びているからまず駄目である。だとすると左の途である。これは西に延びている。目指しているのは、西もしくは西南である。途中で同じような別れ方をしていても、そこで進路を修正すれば、目指す北黒線の軌条に近づくか突き当たるはずである。ここに自分たちの行く途が示されているのは、もしかすると、これが最後の好機かも知れない。
寿は、迷わず西の荒野へ脚を向けた。
だが、進んでいるうちに、荒野は次第に狭められて、遂には密林に前途を断ち塞がれてしまった。丸一日歩いた結果である。
寿の顔に、不安がこぼれ落ちた。周辺を窺ったが、どちらを向いても、後方以外は、抜けられそうな森の谷間さえもない。深そうな森が、またも前途に立ち塞がっているのである。
「どこぞに抜ける場所があると踏んだが、行き止まりとはの……」
森を避けるには、一日分だけ元の場所まで退がるよりほかに途はない。
寿は、額に溢れ出た汗を、汚れた軍衣の袖で拭った。上半身は湯水を被ったようにぐっしょりと濡れて、血と汗と埃で汚れた軍衣からは、鼻を衝く臭気を放っていた。
「この森、どこまでつづいているか、わかりませんがね」
と、溜息まじりにそう言った有働の軍衣も、他の男たち同様に悪臭を放っていた。執銃帯剣を取り除けば、紛れもなく薄汚い浮浪者の集団である。
「折角ここまで来たんです」
と、有働は言った。
「いまさら戻って、方角を変えるわけにはいきませんよ」
高丸の背負っている籠を覗いて、有働は、思案に暮れている寿に思い切った言葉をかけた。
「ね、糧秣はあるし、いっそのこと、こいつを突っ切って行きませんか」
「退がって進路を変えるにしても、今度は、そいつがどこへつづいているかわからねえしな、ここまで来たら一か八かだ、前に進むより方法はねえんじゃねえかな」
赤羽も、長い道程を引き返すのを飽き飽きしている。有働に同意を示すと、曳田がそれを不安げに返した。
「でもよ、前みたいに、何日も森をうろつくことになったらコトだぜ」
自分が獣道を見誤った因で、地獄の森を彷徨した辛さが骨身に沁みているのである。
「あのときは食いもんがなかったからだ。今度はちがう。節約すれば四五日は大丈夫だよ。この森だって、涯がないわけじゃねえだろ。それまでには、どこかに出られるはずだ。そう思いませんか、班長殿」
と、有働はその気でいたが、寿は肚をきめかねていた。有働が言うように、四五日は飢える心配はなく歩けるだろうが、それから先の行程は自信がないのである。あの森のような結果に陥るのは確実とわかっていて、同じ過ちを犯すのは、それこそ愚の骨頂というやつである。
だが、そうは考えるものの、いまさら引き返すことのできないところまで進んでいるのである。目的とするところへ行くには、どうしてもこの密林を踏破するより方法はなさそうであった。
――どげするか?
食糧はどうにか確保しているものの、有働の言うようにせいぜい四日であろう。それまでに集落か畑にでも行き当たらなければ、今度こそ、全員が密林の腐葉土に骨を埋めることになる。
「どうします?」
有働が、決断を迫るように訊いた。
寿は、もう一度四方を窺い視て、
「……そうたいの。ここまで来たからには、前へ進むより方法はなかやが……」
と、まだためらいの色を滲ませていると、苛立った有働がキッパリと言った。
「こういうことはね、班長殿、ためらっては駄目です。当たって砕けろですよ。何事もやってみなければ、結果なんてもんは出ませんよ。もしかして、この森のすぐ向こうに鉄道が通っているかも知れないんですよ。どうせ一度棄てた命です。やってみて、それでいよいよ駄目となったら、そのときは、みんなで肚をくくればいいじゃないですか。そうでしょ。こいつらだって、班長殿に固い約束をしたんです。この先がどうなろうと、覚悟も肚もくくっていますよ。そうだろ、おめえたち」
曳田を除いて、他の男たちは首を揃えてうなずいた。
こういう場合の有働の決断は早かった。娑婆で危険な場数を踏んで来た男には、この際の不必要な思考は無用のようであった。
「肚をきめてください」
有働の髯面が寿の顔に迫った。
寿は、男たちの固い決意に促されて、漸く肚をきめた。
「よし、きさんたちにその覚悟があるとなら、わしも肚ばくくろう。この森がどこまでつづいとるかわからんが、とにかく、鉄道はこの方角のどこかに必ずあるはずたい。それを期待して森ば歩こう。ただし、きさんらに言うとくけんが、下手をすると、今度は生きて出られんかもしれんぞ。その覚悟でかかるとぞ。曳田、多数決たい。きさんも諦めて肚ばくくれ」
一行は、死を覚悟の密林へ再び足を踏み入れた。
最初の一日目は、密生して縦横に張り巡らせている木立の枝を掻き分けながら歩くのに難儀したが、それでも樹海の天空が開かれているお蔭で、太陽の光跡を目安に、目的とする方角へ脚を運ぶことができた。前の密林とちがってこのままの状態がつづけば、多少の苦労は覚悟の前としても、方角だけは誤らずに歩けそうだと、誰もの顔も希望に満ちていた。
だが、その前途の楽観もその日だけのものであった。次の日の太陽が西へ傾きかけたところで空模様が急変して、一行は大雨に見舞われた。驟雨となった森は、やがて天と地の境目がわからなくなるほど森一帯が濃霧に包まれ、視界を奪われた一行は、殆ど手探りで森の藪を分け入った。
暫く進むと、雨脚の鈍った大樹の根に偶然行き当たった。雨音のざわめきは烈しかったが、幸いにして、その周辺は密集した樹木の葉が天蓋の役目を果たしているお蔭で、男たちは大樹の根に体を寄せ合って、雨で冷え切った体を携帯天幕で身を包んで雨乞いをした。
深い霧に覆われた森は、一向に止まない雨で明るくなる気配は見せなかった。
寿は、待っていても埒は明かないと腰を浮かしかけたが、諦めて腰を落とした。方位を特定する手段を失ったまま密林を無闇に歩くのは危険である。確実に地獄の途を辿る結果となる。寿は、思案の末、そこで雨中での野宿を早めにきめた。
夜間の冷えこみに寿が目覚めたときは、まだ闇の中であった。雨音は消え、雨水が一滴も落ちて来ないところからすると、どうやら雨は上がったらしい。
頻りに時間が気になったが、腕時計は戦闘最中の爆風で壊れて時間はわからない。天空に眼を泳がせてみたが、そこも墨汁に浸かったようであった。森の夜の訪れは早いが、夜明けはそれとは反対に遅いのだ。まだ、夜は明けていないようである。
寿は、また眠った。
次に目覚めたときには、火が焚かれていた。
焚火の前には、野下と高丸がいた。雨で冷えきった体に耐えきれず、湿った枯木を拾い集めて、苦心して火を熾したのだ。
二人は、仲間の一日分の糧を焚火にくべて焼いていて、二人の被服も殆ど乾いているのと、焚火の周辺も乾燥していることからして、火を熾してから、かなりの時間が経っていることを示していた。
寿が火の傍に腰を下ろすと、焚火の熱で顔を赤く染めた高丸が愛想笑いを浮かべた。
「いま飯上げの支度をしてますよってに、班長殿、それまで、ちょっと寒うおますやろけど、その濡れた上着脱いでおくれやすな。乾かしますよってに」
と、手を差し出した。
「いや、このままでよか。火があるとやけ、こげなもん、じきに乾くたい」
と、焚火の灰のなかのジャガ芋を小まめにいじっている野下の手に眼尻を細めて答えた。大人の拳ほどのジャガ芋、一人頭一食一個の糧食は、健全な人間の胃の腑にはとても間に合わないが、餓死だけは免れる。それが灰のなかで、ほどよく焦げて焼き上がろうとしていた。
焚火の煙に噎せて目覚めた男たちが、咳きこみながら起きて来た。
「内地じゃまだ夏の真っ盛りだってのに、ここの森はよ、めっぽう冷えるぜ」
と、赤羽が、この数日ですっかり軽くなった尻をドカリと落とした。
「これで食い物と火がなけりゃよ、俺たちゃ確実に地獄の一丁目行きだな」
と、熊のような手を焚火に当てて、
「軍隊の待遇も褒めたもんじゃなかったが、いま思うと、そいつが無性に恋しいぜ」
と、そこだけは黒々としている無精髯を綻ばせた。
それを曳田が軽く受けながら、
「そうだよな。あすこじゃ食い物も火も当り前だったから、こうなってみると、至り尽くせりの待遇だったってことがよくわかったぜ」
しみじみと呟いて、生乾きの軍衣を脱いで焚火に炙りはじめた。気持ちに余裕があるのは、眼の前には暖かい火と、いまは餓える心配がないせいである。
そう。火は、人間が生きて行く上で欠かせない貴重なものである。営舎では人間の扱いこそなかったが、冬になれば暖は与えられたし、殺伐で窮屈だが、雨露を凌ぐ屋根と寝台があり、まがいなりにも衣・食・住だけは保証されていたのだ。不自由な兵隊稼業に不満さえ覚えなければ、日常は快適な生活が営めたのだ。軍隊の年次を傘に内務班を牛耳り、古参兵面で営舎内を肩で風を切って歩いていた軍隊の神様たちが、それを真剣に悟るには、こうした実物による教育が必要だったのである。
仲間たちの話を外に、先程から寿の傍に坐って、暗い森の天蓋を気にして眼を泳がせていた有働が、ぼそりと呟いて、男たちを眼の前の現実に引き戻した。
「……それにしても、班長殿、さっきから天辺を見てるんですがね、あれからずいぶん時間が経っているはずなんですが、空が明るくなる気配がまったくありませんよ。まだ夜中なのですかね?」
その呟きに、寿は、闇の天蓋と森を交互に見較べた。
なるほど、言われてみればそうかもしれない。焚火の明かりに眩惑されて気づかなかったが、そこから先の向こうは暗さを増して見える。密集した樹木の葉で天空が覆われているとしても、夜明けが確実に近づいているならば、森の視界は、時間が経つにつれて徐々に開け放たれるはずである。その兆しが見られないところからすると、外界は、まだ明けていないのかも知れない。
「森の夜明けは遅かけんの、もう少し待ってみようたい」
軽く言い放って済ませた。
芋が焼き上がった。
野下と高丸が、その日の一日分の糧となるジャガ芋三つと、雨の溜まり水を掬って、飯盒で茹でた隠元豆一掴み分と、それぞれの飯盒の蓋に、豆を茹でた残りの湯を分配した。一人頭一食のジャガ芋一個と副食の豆である。いつ開けるともわからない密林である。餓死しない程度を保つには、いまのこれが限度なのである。
男たちは焚火を囲んで、つつましやかな拳ほどの塊を口に運びながら、とりとめのない会話を交わして夜が完全に明け放たれるのを待った。
その会話も、やがて途切れがちになり、随分と長い時間が過ぎた。
森の天蓋は、しかし、いつまでも闇のように暗く、一向に明るくなる気配を見せなかった。
「……おかしいですね?」
痺れを切らした有働が、暗い天上を見上げて呟いた。
「夕べの雨で、まだ空が曇っているとしてもですよ、あれから随分と時間は経っているし、夜明けに向かっているんなら、いくらなんでも、ぼつぼつ天辺が明るくなってもいいはずですがね」
「それもそうだな。昨日はあれだけの青い空が見えていたんだ。雨上がりで空が曇っているにしても、ぼつぼつ空が白んで来てもよさそうなもんだがな……」
赤羽が、暗いその辺りを仰ぎ見ながら相槌を打つと、
「……ちょっと待てよ?」
と、同じように見上げていた曳田が首をかしげて、なにかを確かめるように立ち上がった。
「いつまでも空が暗いってことはだぞ、こう考えられねえか。昨日の雨で空が急に暗くなっただろ? 俺たちは雨を避けるために、急ぎ足でここまで来たよな。ひょっとして、急いでいるうちにだな、いつかの密林のように、森の奥深く入りこんだんじゃねえか? さっきまでは見えなかったが、こうしてよく見ると、森の向うがほんのり見えるぜ。こっちが焚火で手許が明るいから、夜が明けているのを気づかずにいるんじゃねえか?」
この言葉に、寿は、不確かな苦笑でうなずいた。
曳田の推測どおりかも知れない。だとすれば、夜が明けている可能性は充分にあり得るということになり、密生する樹葉のお蔭で、陽光がここまで届かずに、夜明けを見逃していることになる。
寿は立ち上がって、頭上と森を念入りに眼を凝らした。
頭上は、曳田の言うとおり、焚火の明かりを吸いこむほど暗いが、森の向うをよく視ると、先程まで闇に閉ざされていた樹木の幹がうっすらと算えられるのである。
「もしかすると、曳田、きさんの言うとおりかもしれんたい。さっきまで見えなんだ森の向うの木が見えるゆうことは、夜が明けとる証拠たい。ちょっと調べてくる」
寿は、有働を伴って、焚火の明かりから外れない程度の周辺を歩いてみた。
どこもかしこも同じような景色のように思えるのは、樹海の森の共通しているところである。はじめて通るはずなのに、ともすれば、先ほど通った見覚えのある景色に思えたり、一度通ったはずの場所が、今度はまるで別のものに映ったりする。寿がかつて経験した森で、同じ場所を何度も彷徨ったという、この方位感覚を狂わせるこの現象が、樹海の森の恐ろしいところである。
寿は、密生する木立を抜けながら、慎重に天空と森の周辺を窺った。やはり、どこも平均した薄暗い視界である。
寿は足を停めた。これ以上の深入りは危険である。焚火の明かりを見失えば、今度は仲間と逸れることになる。
「これ以上は危なか、連中のとこへ戻ろう」
と、戻ろうとして、ふと前方の樹間の一点に眼を留めて卑屈に笑った。樹木の葉隠れからこぼれ落ちる陽の光が、強烈に煌めいているのである。天空は、晴れているのだ。森が薄暮のように平均的に暗いのは、曳田の推測どおり、密集した樹葉が太陽の光を遮っているせいであった。
「曳田の言うとおりたい。この暗さは、木の葉っぱが太陽の光を遮っとるとじゃ。夕べはあげな雨で周囲が見えなんだばってん、わしらは、深入りばしとることに気づかなんだとじゃ」
「それじゃ、昨日のように、太陽の位置が摑めませんね?」
有働が、暗黒の天蓋を見つめて嘆息した。
「どうします? 太陽の位置がわからなかったら、俺たちがどっちから来たかわかりませんよ」
「そうじゃの……」
と、寿は、もう一度周辺を見渡してから、自分たちの進む方角の見当をつけた。
「わしらは東から来たとじゃ。やけん、取り敢えずは、来たほうの逆の西を暫く歩いて、先の様子を見るより方法はなかやろの」
と、答えをぼかした。それが正しいか誤りであるかの答えは、この森が結果を出すのだ。
一行を引き連れた寿は、曖昧な記憶を頼りに、西とおぼしき方角へ足を踏み入れた。その先には、これまでよりも凄まじい飢餓地獄が待ち受けていることなど、寿は知らずに森の奥へ分け入ったのである。
薄暗い森の頭上で、時折、樹葉が触れ合うざわめきが起こった。不気味とも言えるそのざわめきは、男たちが魔界の森へと嵌りこんだ愚かさを嘲笑っているのである。




