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消耗品たちの八月十五日  作者: 河野靖征


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 有働の懸念した開拓団は、無事ではなかった。

 孫呉百二十三師団隷下の部隊は、近郊に居住する軍人家族と軍属を含む一部邦人の保護は確かにいち早く果たしたが、遠隔地に居留する開拓団は塵芥同然に見捨てた。

 このため、四家屯の監視中隊に救援されるはずの開拓民たちは、中隊からも見放されたために、その瞬間から、悲惨な運命を背負わされる結果となった。軍隊に見捨てられたと気づいたときには、既に、戦火の渦中へ置き去りにされていたのである。

 開拓団の婦女子たちは、頼りとする男たちを軍隊に取られているために、男としては用済みとも言える、殆ど役に立たない老人を立てて、持てるだけの荷物を背負って内陸部へと逃避を開始した。

 あの匪賊の一連の襲撃で、これまで考えもしなかった満人の怖ろしさが骨身に染みている開拓団の一行は、匪賊や満人たちからの迫害を恐れて、人目につく公道を歩くことを避け、それらの眼に触れない森の(みち)を択んだ。この選択が、開拓民たちを地獄へ陥れる結果となった。

 森を知り尽くした地元の(しよう)()でさえ深入りを怖れる密林である。開拓民の避難民たちは、森に入ってすぐに樹海に嵌まってしまった。持ち出した僅かな食糧は忽ち食い尽くしてしまい、飢えと渇きによる衰弱で、当然ながら虚弱な者から斃れて行った。

 誰も援けようとはしなかった。誰もが歩く気力すら失っているのだ。手を出せば、自分も共倒れになることを、実物が体に教えたのである。

 空腹に耐えきれず、母親に食い物をねだって泣きじゃくる幼児は、敵に声を聞かれるからと、周囲の露骨な罵りと白眼に脅迫されて、子は、唯一頼みとする母親の慟哭の泪のなかで口を閉ざされた。

 一日ごとに、数が減った。弱り切った体では、仲間を追うことができずに落伍するのである。

 最後まで頑張りつづけた民子と晴恵も例外ではなかった。

「もう駄目、歩けないわ……」

 晴恵が弱り切った声で大樹の根に崩れた。

「なに言ってるのよ。ここまで頑張って来たじゃないの。ここでへばったら、それこそ、なんのために歩いたか意味がなくなっちゃうわよ。この森を抜けたら、きっとどこかに村か街があるはずよ。そこには日本人もいるかも知れないし、保護される安全なところもあるかも知れないわ。だから、ね、頑張って歩くのよ」

「なかったら、どうするの」

 晴恵が、少し尖った言い方をした。歩き疲れて、投げているのだ。

「そう信じて歩くのよ!」

 苛立った民子は、晴恵を叱咤して、強引に晴恵の手を引き上げた。

「なに弱気吐いてんのよ。しっかりしなさいってば! いまここで哭を上げたら、あんたの愛しい人とは永久に逢えなくなっちゃうわよ。あんた、それでもいいの!」

「……お願い……後生だから、少しだけ休ませて、少し休んでからあんたのあとを追うわ……お願い……」

 晴恵は、またへたりこんで、そのまま眠ってしまった。

 民子も疲れ果てている。正直なところ、晴恵の面倒を見るのも限界であった。

「わかったわ。じゃそのまま休んじゃいなさいよ。あんたと一緒に、あたしもそうしたいけれど、あたしは休むわけにはゆかないのよ。こんなところでへばって、たまるもんか! どんなことをしてでも、あたしは孫呉の駅に行かなければならないの。駅まで行って、そこから内地へ帰って、亭主の帰りを待たなくっちゃ……いい。あたしは行くわよ、晴ちゃん、少し休んだら、いいこと、あたしのあとを追って来るのよ。駅で待ってるからね」

 民子は、無表情に晴恵をその場に棄てると、夢遊病者のように揺れながら、森の奥深くへと姿を消した。


 寿が案じた松月の珠代と冬美の消息については、唯一の手懸りとして、寿たちがシベリアの抑留から解放されて舞鶴港へ帰港した際、無事に復員した祝いをするために駅前の食堂へ立ち寄った折、弟の帰還を毎日のように出迎えに来ているという、地元で教員をしている中年の男とたまたま相席となり、その彼が、過去の自分の体験を語ったことから、その話に出てくる名前のそれが珠代と冬美であることを奇跡的に知る唯一の情報となった。

 その二人の足跡は、その教員が語ったところによれば、こうである。

 極東ソ連軍の侵攻と同時に松月は閉鎖され、店主以下の従業員は後方へ逃避したが、珠代と冬美はそのまま残って女子挺身隊員となり、野戦病院の看護助手要員として従軍したとのことであった。

「私は、当時、(あい)(くん)の独立混成第百三十五旅団の隷下の勝武屯の監視中隊にいましたが、ちょうど朝食ちゅうのことでした。いきなりカチュウシャが飛んで来ましてね、なにをする時間もないまま中隊は全滅して、私は側頭部を負傷しましてね、近隣の野戦病院の幕舎へ一旦担送されて、それから孫呉へ送られたんです。ところが、その二日後に、孫呉の幕舎もやられましてね。生き残った私たち独歩患者は、軍医の指導で後方へ移動したんです。彼女たちとは、その道中で……」

 と、そのときの記憶を呼び起こしながら、昨日の出来事のように淡々と語りはじめた。

 その珠代と冬美は、生き残った傷病兵十数名と看護婦二名に女子挺身隊数名に混じって、軍医大尉の指導下で後方へ避難した。

 傷病兵を抱えた一行は、整然と隊伍を組んで進むというものではなかった。携帯していた僅かな糧食も割愛しながらどうにか食い繋いで来たが、それも三日目にして尽き、それ以後の二日間は水だけで歩いていた。疲労と空腹が追い打ちをかけて、その姿は、もはや生きた屍の体となり、さらにこの逃避途中に悲劇が重なった。

 空腹と疲労で(しよう)(すい)しきった女たちは、それでも傷病兵に肩を貸し、励まし、縺れるように歩いていたが、空腹に勝てるはずもなく、いったん傷病兵が崩れると、助け起こす気力もなく、放心状態となってその場にへたって動けなくなった。

 珠代と冬美は、若いからか、それとも、自分たちが娼婦であることの蔑みを受けないための意地からか、他の女たちよりも気丈に振舞ったようであった。

 負傷兵を肩に支えて、路肩にへばった女たちと傷病兵を叱咤した。

「いつまでもそんなところにへばってないでさ、歯を食い縛って、頑張って歩きなさいな。これくらいのことでへばっちゃ、銃後を護っている内地の大和撫子に嗤われるよ。兵隊さん、あんたたちも日本男児なら、しゃきっとしな。その体で女を抱いたときのようにさ!」

 珠代の額は、もう噴き出る汗がなくなったかのように干涸らびていた。

「あたいらだって、必死に歩いてんだよ。一日や二日おまんま食べなくたって、男なら、そのくらいの力はまだ残ってるだろ。関東軍の必勝の信念はどこへやったのさ!」

 冬美が吐き捨てるように言うと、冬美の肩に寄りかかった若い男の手が急に離れた。

「俺……歩きます」

「あんたはいいの。あんたは、片足を負傷して不自由なんだから」

「もう一本松葉杖があるといいんだがな。でも、なんとか頑張って歩きます」

 物腰からして初年兵である。冬美は、若い男の体を引き寄せた。

「いいのよ。あんたはあたしの肩にしっかりと摑まってなさい」

「すみません。お世話になりっぱなしで」

「いちいち気を遣ってちゃ、いつまでも傷は治らないよ。本当に困ったときは、お互い様って言うじゃないさ」

 軍医が、よろよろと歩み寄って来て言った。

「……みんな、辛いだろうが元気を出すんだ。いま停まったら、完全に動けなくなるぞ。あと半日も行くと、国道か県道に行き当たるはずだ。その辺りには、日本の開拓団もある。そこまで行けば、食糧も手に入るだろうし、充分な休養もとれる。だから、頑張って歩くんだ」

 指揮官は、()()(しゆん)(じゆん)も許されない。自信ありげに言い切ると、背を向けて歩きはじめた。女たちも傷病兵たちも、大地に根を張りかけた重い腰を上げた。

「行くわよ。頑張ってね」

 珠代と冬美は、傷病兵を抱きかかえるようにして、真っ先に軍医のあとを追った。ここで哭を上げたら、(ひね)た娼婦の空威張りはどこへやったのかと、それこそ、周囲から嘲笑を浴びせられかねないのだ。

 先頭を揺れながら歩く軍医は、これは正規の軍医ではなく、民間からの徴用医師であった。

 四十代前半のこの医師は、医学者としては風変わりな男であった。この男、同胞の日本人からは診料も投薬料も遠慮なく取るが、満人からは、謝礼として差し出される某かの作物を受け取ることはあっても、金銭を請求することはしなかった。なぜならば、彼らは、日本人の抑圧下で生活がままならず、その日を食うのがやっとの民だということを知っているからである。したがってこれらの人々からは、満人差別をしない日本人の有難い医者と慕われて信頼されていた。このことから、自分は民間医であることの良識が優先して、いまの自分が、軍隊に属する軍人医である立場を希薄にしているのである。

 つまり、軍医ではなく、一民間医の常識として考えると、赤十字に対しては、何人も危害は加えないであろうことを過信してのことと、公道ならば、その沿線には日本人も満人の農家も多く、食糧も友好的に調達可能であろうという希望的観測が、この民間医の意思を動かしているのと、いまは、中国全土の人々から憎まれている軍隊に加担しているという意識と、戦争が苛烈になった有事のいまは、状況が一変していることなど、この医師は考えもしていなかったのである。このことは、不幸なことに、辺鄙な国境線の野戦病舎を転々としていたために、満人たちの日本人に対する感情が激変していることなどまったく知らずにいて、一夜にして、日本人と満人の立場が逆転していることも知らずにいたのである。このために、危険を感じた日本人居留民たちは、現地民の迫害を恐れて、既に住み慣れた土地を放棄していることも知らず、あれほど友好的であった現地民が、掌を返して反日感情を剥き出しにしていることさえ知らずにいたのである。知り得るべきはずのものを知らずに、それを知ったときの精神的落胆の分量を、この医師は、自らの才知で計るだけの能力は持ち合わさなかったようである。自分の選択に誤りがあることに気づいたときには、率いる一行の運命を窮地に陥れていた。軍医の一行は、食糧にありつけるどころか、逆に現地民から石で追われる結果となったのである。

「……国際条約も、ここの連中には通用しないようだ」

 軍医は、唇を噛み締め、汗と埃で汚れた白衣の肩を震わせた。軍服も軍刀も身に着けていないことが、せめてもの救いであった。

 珠代の肩に手を乗せて歩いていた三十代前半の補充兵らしき一等兵は、疲労の色がありありと浮かんでいる珠代を気遣って手を離した。兵隊らしくなく、どことなく品を備えた男である。

「長い時間、あんたには随分助けられた。あんたのお蔭で楽になったよ。この分なら、どうにか独歩で行けそうだ」

「ほんとに大丈夫? さっき、あたしがあんなことを言ったもんだから、無理して、あたしに遠慮してるんじゃないの?」

 男は、珠代を見て微笑んだ。

「いや、いいんだ。あんたも疲労と空腹で大分まいっている。ここ二日間は水ばかりで、腹には消化するものを殆ど入れていないんだからね。身軽になったほうがいい」

 それでも珠代は、男の腰に手を廻したまま離さなかった。傍から見れば、珠代は傷病兵を支えるというより、頼りきった男に身も心も預けて、縋りついて歩いているようであった。誰に、なんと言われても構わなかった。傍にはそう映ったとしても、珠代は平気であった。こうして誰かを支えながら歩いているほうが、若い珠代には心強いのである。

「……でも、おなかが空くって辛いものね」

 と、珠代がぽつりと呟いた。

「みんなはどう思っているか知らないけど、あたしはあんな商売してたけどさ、おなかだけは空かせることはなかったわ。兵隊さんもそうだったでしょ? 三度のおまんまだけは、欠かさずに食べていたんだから……」

 男はうっそりと笑った。

「そう思うかね。私たちは、しょっちゅう腹を空かせていた記憶しかないがね」

「でも、三度のおまんまは食べてたんでしょ?」

「そりゃそうだ。餓死しない程度の給与は与えられたさ。生かしておかないと、いざというときに働かせることができないからね」

「そんなに悪かったの?」

「あァひどいもんだったね。本来与えられるはずの兵食の定量がだよ、それが半分近くにまで減らされては、ひもじくないはずはないさ」

「そんなときはどうしたの?」

「どうすることもできないさ。いまのように水を飲んで、胃袋をごまかすだけさ」

 食い物の話をしても、空腹が癒やされるわけではない。逆に募るばかりである。それに気づいた珠代は、話の矛先を変えた。

「牧さん、て、言ったわよね。牧さんは、内地ではなにをしていたの?」

「日本海側の、舞鶴の近くの朝来てとこの小さな町でね、教鞭を執っていた」

 珠代が、ちょこっと首を傾げた。

「……キョーベンって?」

 牧は、珠代の横顔に淡く笑った。

「あんたたちの言う、学校の先生だよ」

 珠代は、あァ、と、うなずいた。

「そうなの……」

 と、うなずいて、急にクスと笑った。

「白墨しか握ったことのない学校の先生に鉄砲を持たせるんだから、無敵関東軍もおしまいね」

 今度は牧が唇だけで笑った。

「まったくだ。私もね、まさかこの齢で軍隊に取られるとは夢にも思わなかった」

「……家族はいるの?」

 牧は静かにうなずいた。

「早く逢いたいでしょ」

「……」

 珠代は、黙っている男の横顔を窺った。

「どうしたの?」

「いや、あんたも知っていると思うけど、去年から今年にかけて日本の主要都市が大々的な空襲に見舞われただろ。私の町には海軍の軍港があるから、それがちょっと気になってね。無事でいてくれればいいんだが……」

「便りはないの?」

「私は、辺鄙な国境線を転々と盥廻しされたからね。それに、仮に便りがあったとしてもだね、肝腎なその手紙が届いたときには、受取人はもうそこにはいないんだよ」

「じゃ、一度も届いていないの?」

 牧は顔を横に振った。

「二度ほど届いた。黒河の近くの神武屯の部隊にいるときにね。かれこれもう一年近く前のことだ」

「神武屯なら、あたしもいたことがあるわ。孫呉に来るまでのほんの少しだけどね」

「あんたも、随分と苦労した口だね」

 珠代は、遊女特有の粘った笑いを浮かべた。

「仕方がないわ。貧乏百姓の子沢山に生まれたんだから」

「あんたの里は?」

 そう問われて、珠代は、どこか遠くを見つめるようにして答えた。

「……あったわ。十五の歳まではね、姉もあたしも。あと弟と妹がいるけれど、みんなどうなったんだか……」

「音信不通ってことかね?」

 珠代は素気なく首を振った。

「知らないわ。だって、便りを出したくても、あたしは冬ちゃんのように読み書きがろくにできないんだもの。知りようがないじゃない」

「その人に頼んで、代筆して貰う方法もあったんじゃないのかね」

 珠代は弾くように笑い飛ばした。

「駄目よ。父も母も、先生のように読み書きが達者じゃないし、それにさ、あたしたちのような女がいるあんなところで、そんなこと気軽にできるはずがないじゃないの」

 牧は、愚問した気まずさから一瞬言葉を見失ったが、すぐに話を切り替えた。

「……それにしても、腹が減った上に、こう暑くちゃどうにもならんね。喉が渇いたろ。私のでよければ、これを使いたまえ」

 と、生温くなった水筒を差し出した。珠代の水筒は、とうに干上がっているのを知っているのだ。

「いいの?」

「ああやりたまえ」

 そう言って、周辺を見廻した。

「それにしても、この辺りは豊かな農耕地帯だ。見たまえ、あの黄色いところはカボチャ畑だよ、花を咲かせているんだ。手前の畑は、たぶんジャガ芋畑だろう。カボチャを収穫するにはまだ時期尚早だから、ジャガイモならいまが旬だろう。その給養を()れば、我々の体力は忽ち恢復するんだが、如何せん、我々には指一本触れることの許されない畑だから、どうにも手が出せないのが残念だ。ま、この先にも、農作物用の水路の一つや二つはあろうさ。その水路に泳ぐ小魚や水を掬ったくらいで、よもや(くわ)(かま)で追われることはあるまいさ」

 珠代は、遠慮がちに水筒を受け取ったが、その気持ちとは裏腹に、喉は歓喜の音を鳴らした。


 珠代たちの一行は、現地民の集落を通るたびに唾を吐きかけられ、鍬や鎌で威嚇され、石で追い払われた。自分たちの領土を強奪した日本人には、くれてやるものなどは何一つないというのである。相手に殺意がなかっただけでも幸運と言えた。

 一行は、そうした現地民たちの嫌がらせに耐え忍んで、空腹と疲労を抱えながら、当てのない救いを求めてひたすら南下をつづけた。

 軍医は、土色の顔を突き出し、揺れながら歩いていた。自分では気丈に歩いているつもりなのに、歩幅は小さくなるばかりであった。

 食料の援助もない悲壮な逃避行に、軍医は、何度も満人の菜園に忍び入ることを考えたが、それを実行する知恵はあったが、勇気がなさすぎた。いや、勇気はないわけではなかった。それを示さなかったのは、人命を守る医者として患者の危険を優先したのと、捕まって、満人に自尊心を傷つけられるのを怖れたのである。だから、そのたびに思いとどまり、足を停めることもしなかった。停まれば、空腹に負けて完全に動けなくなることを、医者の知識で()(しつ)している。だから、手を差し伸べてくれる救世主が現れるまで、灼けつく陽光の下を歩くより方法がなかった。

 その太陽が中天に差しかかろうとしたころ、赤軍の長蛇の機甲部隊が、驚愕する白衣の存在を無視して通過した。向かう方角は一行と同じ南である。

 機甲部隊の捲き上げる砂埃に慄き(おのの)ながら、一行は路肩に立ち竦んで見送った。

 関東軍が、これほどの機甲部隊を備えていたならば、自分たちはこんな苦労をせずに済んだであろうと思われるほどの、それは、もう脅威などというものを超越した夥しい数であった。

 牧の話では、この機甲部隊は、極東ソ連軍第二赤旗軍の主力部隊の一部で、頑強に抵抗をつづけている璦琿や孫呉の陣地を後詰の部隊に任せて、満洲中枢部へ突き進んでいる部隊とのことであった。

 その機甲部隊は、赤軍の脅威に怯える一行を横眼に、まるで一分一秒を競っているかのように、それも敵の赤十字など構っている余裕も暇もない素振りで、夥しい砂埃を舞上げて一行を埃まみれにして消え去った。

 何事も起こらなくて胸を撫で下ろした一行は、捲き上がる砂埃のそのあとを再び歩きはじめた。

 暫くしてから、幌の張られた一台のトラックが、前の機甲部隊を追うように猛スピードで一行の傍を通過した。

 だが、そのトラックは、十数メートルほど通過して急停車すると、今度は後退して来て、一行の前途を断ち塞ぐようにして停まった。

 荷台の後部の幌が開かれ、そこから赤ら顔の赤軍兵数名の顔が、まるで珍しいものでも見るように雁首を並べた。

 軍医の一行は、総身の毛を立てて路傍に立ち竦んだ。

 赤軍兵は、ニヤケた眼で、一行をなめ廻すように見定めると、そのうちの、酒で赤面した兵士が、荷台の奥に姿を消すと、手提げ袋ほどの大きさの麻袋を取り出して放り投げた。

 袋は、冬美の足下に落とされた。

 赤軍兵は、冬美に指をさして顎をしゃくった。その素振りから、それをやるから受け取れと言っているらしかった。

 冬美は、珠代に促されて、それを拾って口を開いた。その途端、冬美の硬くなっていた表情が急激に弛んだ。袋には、日本軍から戦利した乾麺麭がギッシリ詰まっているのである。

 袋は、全部で三つ落とされた。本来は自分たちの私物ではないから、それをくれてやっても、彼らには腹は痛まないのである。

 赤軍兵がその袋に指をさして、今度はその指を傷病兵たちへ廻して、

「ダワーイ、ダワーイ」

 と、両の手をしゃくって、手を口許に当てて食べる仕種をして見せた。みんなで分けて食えと言っているのだ。

 珠代と冬美は無論のこと、誰もの顔が明るく揺れ合った。まさに救世主であった。あの驚愕的火力で侵攻し、赤毛の鬼畜と蔑視する異国人とは思われぬほどの、それは意外な人情に触れた瞬間であった。

 赤い国と雖も、悪い人間ばかりではないのだ。赤軍にも人間を人間として扱う兵士がいるのだ。誰もの顔が、神仏崇拝に似た眼差しを送ったのは言うまでもない。

「スパシーボ。スパシーボ」

 と、軍医は、片言のロシア語で礼を述べ、何度も頭を下げて合掌すると、その場で一行に大休止を命じた。

 女たちは、一掴みの乾麺麭を傷病兵に配った。この数日間、水だけで歩いて来た傷病兵たちは、歓喜の声を上げると、路傍の其処此処に崩れるように腰を下ろして、硬い乾麺麭を無心に頬張った。

 白衣の女たちも、軍医を囲んで、まるで宝石でも扱うかのような眼差しでそれを見つめて、乾麺麭を口にした。

 トラックの荷台では、赤軍兵たちが、ウォトカの瓶を廻し呑みしながら、貪り食っている白衣たちの姿に好奇な視線を送っていた。

 その視線の先の若い娘の一人が、これは単に感謝の意を表したに過ぎなかったが、何気なくトラックに顔を向けて、赤軍兵に愛想笑いを洩らした。

 これが悲劇の引金となった。

 赤軍兵は、それを合意と受け取ったか、それとも頃合いと見たか、互いの顔を見合わせてニヤリと笑うと、トラックからヒラリと飛び降りて、女たちの前に巌のように立ちはだかった。

 女たちは、動かしていた口を止めて、石のように硬くなった。

 赤軍兵の一人が、

「ダワイ!」

 と、出し抜けに自動小銃をしゃくった。 

「ダワイ!」

 と、別の兵士がもう一度自動小銃をしゃくって叫んだ。

 女たちは、食っている場合ではなくなった。乾麺麭をその場に投げ出して一塊に固まった。

 異国の救世主は、神の仮面を被った暴漢だったのだ。

 強い酒で赤鬼のように赤面した兵士は、珠代と冬美の前に歩み寄ると、冬美の胸の膨らみにいきなり自動小銃の銃先を押しつけて、ニタリと笑った。同じ白衣を着ていても、垢抜けた体つきは赤軍兵にもわかるのである。

 この赤鬼は、最初から冬美に眼をつけていたらしく、善人の神のような顔をして袋を投げた男であった。

 性欲に渇望した男の眼は、万国共通のようである。牝の匂いを嗅ぎ廻る犬ように、冬美の体を上から下へなめるように見て、分厚い手で冬美の胸を鷲掴んで煙草のヤニで汚れた歯をニッと剥いた。

「……お前は、ふくよかないい体をしているな。いいだろう。食い物の代価は、その豊満な肉体で払って貰おうじゃないか」

 言葉は通じなくとも、なにを意味しているのかは冬美にはわかった。

 冬美は、もう白衣の天使でいる必要はなくなっていた。臆しもせず、兵士の手の動きにまかせて、性欲に飢えた男の顔を、冷ややかな娼婦の眼で見つめていた。

 若くして、珠代と満洲大陸を流転した冬美には、この程度の男は扱い慣れているのだ。

 赤鬼の兵士は、冬美に自動小銃を押しつけて、「ダワイ、ダワイ」を繰り返しながら、冬美を白衣の群れから引き離した。

 軍医は、冬美を護ろうと精一杯の抵抗をしたが、それはほんの一、二動作のことでしかなかった。聴診器とメスしか持ったことのない男の体は、赤鬼の分厚い鉄拳の一撃で、簡単に路傍へ叩き崩された。

 女たちの間から、戦慄の悲鳴が涌き起こって、傷病兵たちも口々に騒ぎはじめた。

 突然、赤鬼の自動小銃が()えた。空に向けて威嚇したのだ。一行は水を打ったように鎮まった。

 赤鬼が冬美を連れ去るのと入れ替りに、今度は別のが出て来て、これも卑猥なまなこで女たちを一通りなめまして、その兵士は珠代の背を押した。

 牧は、珠代を庇おうと自分の体を珠代の前に被せたが、負傷した体では、体格の優れた相手に対して適うはずがなかった。仮に負傷していなかったとしても、女一人を護りきることは不可能であった。赤軍兵の片腕一本の腕力で簡単に引き離されて、牧は、紙風船のように路肩へ突き飛ばされて崩れ落ちた。

 珠代を手にした兵士は、牧に一瞥をくれてニタリと嗤うと、珠代の胸の膨らみを視てヒューと口笛を鳴らした。

「この女もかなりのものだ。いまのお前ではこの女を可愛がってやることができんだろう。代わりに俺が可愛がってやるから安心しろ」

 戯けた仕種がそう言っているように見えた。

 女たちは、互いの体を寄せ合って怯えるしかなかった。

 その間、別の赤軍兵数名が、負傷兵の持物を物色していたが、それらは誰もめぼしい物を持っていないことがわかると、腹癒せに空に銃声を響かせて、怯える女たちのなかから先程の若い娘を引き出して、軽々と抱きかかえて荷台へ(ほう)り上げた。

 荷台から新たな戦利品を手にした歓声と、口笛と、娘の悲鳴が同時に沸き起こった。

 トラックは、娘の悲痛な叫声をあとに曳きながら、彼方へと走り去った。


 太陽が中天に達したところまで軍医の一行が進んだとき、路傍に、上半身裸の女の遺棄死体が一つ転がっていた。

 その死体は、珠代でも冬美でもなく、それは挺身隊の娘であった。

 娘の頭部や上半身には打撲傷が見られ、(うつ)(けつ)していることから、最初は、陵辱されたのちに、走行中のトラックから投げ出され、その強烈な打撲でのショック死と軍医は直感したが、下半身の着衣が乱れていないことと、娘の口に含まれた血液を()て、娘は殺されたのではなく、赤軍兵に陵辱される前に、なんらかの形で、男たちの隙を衝いて走行中のトラックから飛び降りたものの、逃げ切れない恐怖に耐えきれずに、舌を噛み切って自決したものと診断した。

 年嵩の女が、自分の着ている白衣を脱いで、娘の遺体にかけてやった。

「……この()は、両親を早くから亡くしてね、たった一人のお兄ちゃんも軍隊に取られて、この娘は、誰も頼れずに独りぽっちで生きて来たのよ……」

 女は、娘の髪を撫でながら、顔を烈しく振って()(えつ)した。

「戦争が終わったら、お兄ちゃんの帰る場所がなかったら困るから、あたしがお兄ちゃんの帰りを故郷で待ってやるんだって、それだけを生甲斐に、この娘は頑張って生きて来たのよ。その娘が、なんでこんなひどい仕打ちをされなきゃならないのさ! この娘が、いったいなにをしたっていうのさ! なんで、こんないい娘が殺されなきゃならないんだい! チキショー、人でなしのロスケ野郎!」

 女たちの悲痛な嗚咽が一頻りつづいた。

「ほかの二人を捜そう」

 と、軍医が腰を上げると、眸を赤く腫らした年嵩の女が、憎悪に満ちた眼を軍医に向けた。

「およしなさいな軍医さん。捜しても無駄ですよ。あの人たちはね、あたしたちやこの娘とは別の世界に住む女なんですよ。その証拠に、そこら辺に捨てられていないところを見ればわかるじゃないですか。今頃はね、軍医さん。軍医さんが心配しなくても、あの二人はロスケとうまくやっていますよ。この娘のことなんか忘れてさ。缶詰か黒パンなんか貰って、面白おかしくロスケといちゃついて腹一杯食べていますよ。ロスケに体をくれてやった代償に……」

 言い終らぬうちに、女の襟首が引き上げられ、頬桁が鮮やかな音を立てた。

「いい加減にしろ!」

 怒声を浴びせて平手を飛ばしたのは、軍医ではなく、牧であった。

「その二人に助けられた恩義を棚に上げて、なんてことを言うんだ! あんたもあの二人も、どんな生き方をしていようが同じ日本人じゃないか。あの二人と、いまのあんたと、いったいどれほどのちがいがあるって言うんだ!」

 年嵩の女は、その場にしゃがみこんで、両手で顔を覆って泣きじゃくった。

 誰が憎いというのではないのだ。この場合は、世間からはみ出された娼婦がのうのうと生き残って、無垢で純粋に生きようとしている者がむごたらしく死んで()く、その矛盾と不平等が、この年嵩の女にすれば、たまらなく悔しくて、無性に腹が立つのである。しかし、その一方では、あの娼婦たちを羨ましく思うのも事実であった。なぜならば、あの女たちのように、若さと張りのある透き通るような肉体が自分の身に備わっていたならば、こんな苦労をする必要はないのだと、そうも考えるからである。そう。同じ苦労をするのならば、いっそのこと赤毛に身を委ねて、それこそ、美味いものをたらふく食べながら生きるその途を択んだほうが、いまよりもずっと楽な生き方ができそうなのである。一皮剝けば、いまの自分も、あの民子たちと大差はないのである。

 そうしないのは、と言うより、そうしない理由は、四十路を曲りきった今日までそうする必要のない生活がこの女を支えていたのと、いまさら身を落とそうにも、珠代や冬美のような若々しい肉体を持ち合わせているわけではなく、くたびれかかった肉体と歳相応の皺が刻まれているだけで、一文の値打ちもないことを悟っているのである。

 だからこそ、その悔しさと、どうにもならないもどかしさが、珠代と冬美に対して異常なほどの嫉妬となり、それを無上の怒りに変えることによって、かろうじて精神の平衡を保っているに過ぎないのである。それだからこそ、自分自身が情けなくもあり、腹立たしくもあり、無性に悲しいのである。

 牧は、女の震える肩にそっと手を置いた。

「手荒な真似をしてすまなかった。謝るよ。私は、あんたが憎くてあんなことをしたんじゃない。この娘さんも、あの二人も、私たちは護ってあげることができずに不幸な結果に終わらせてしまったが、だからといって、誰を憎むわけにはいかんのだよ。憎むべきものは、この戦争を引き起こした連中なんだ。その連中が、我々人間のすべての生活を歪めてしまったんだ。この娘さんもあの二人も、いや、戦争の犠牲になっているすべての民族が犠牲者なんだよ。この戦争は、おそらく日本が降伏することで終わるんだろうが、一秒でも早く負けて終わったほうがいいんだ、こんなもの……」

 牧は、無惨な姿になった娘の亡骸を見つめた。

「……解放軍のはずの軍隊がこんな有様ではな。スターリンの社会主義体制も、これではファシズムの国家と大差はない」

 牧の傍で、軍医は静かにうなずいた。

「確かにそのとおりだな。あれほどの機甲部隊が通過したということは、たぶんこの満洲全域はひどいことになっているだろうな。この先も、このような事故が起こるかもしれん。充分気をつけることだな」

 軍医は、自分自身に言い聞かせたつもりだったが、気が昂ぶっている牧は、そうは受け取らなかった。他人事のように聞こえたのだ。

「どう気をつけるというのかね。あんたがその眼で目撃した、眼の前のこれが現実なんだよ。軍隊は、あんたたち赤十字や我々を見捨てたんだ。それにたぶんじゃなく、確実にだ。こんな状態だと、関東軍も満洲国も既に瓦解している。つまり、我々の縋る場所は、もうこの満洲からは消滅しているんだよ」

 牧は、砂埃の消えた道路の彼方を見据えて言いきった。

 軍医は、この負傷した一等兵に反問する力もなく、うなずいて、年嵩の女の肩にそっと手を置いた。

「この娘さんを、あの静かな森へ葬ってあげよう。君、差し障りがなかったら手伝ってくれんかね」

 と、牧を促して、娘の亡骸を抱きかかえて、すぐ近くの疎林へ向かった。

 女たちは、一塊となって、軍医たちのあとを追った。

 娘を埋葬し終わったときは、灼熱の陽光は天地を焦がす勢いで中天に(さん)々(さん)と輝いていた。

 一息ついた女たちは、昼食の口糧を傷病兵たちに配ろうとしていた。

 それを、牧がやんわりと戒めた。

「みんなはもう食っているよ。それにまだ先が長いんだ。腹一杯食いたいだろうけど、せっかく手に入った食料だから、できるだけ節約したほうがいいよ」

 そう言って、軍医に向き直った。

「日中だと、また同じ結果になりかねん。どうです軍医殿、行軍を夜間に切り替えては。ここまでの行程でみんなもだいぶ参っているし、娘さんを葬ったここなら赤軍も気づかんだろうし、満人が気づいたとしても見逃すだろうと思うんだか、どうでしょうな、葬ってからでは遅いかもしらんが、死んだ娘さんの通夜にもなる」

 軍医は、灼熱の中天を仰ぎ見て、小さくうなずいた。

「それがよさそうだな」 

 と、同意を示した。

 ちょうどそのころ、日本本土から外地戦線の各方面に向けて、終戦の詔書を淡々と読む天皇の声が、雑音とともに海を越えて、満洲全土の虚空を突き進んでいることなど、この一行は知らぬことであった。

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