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次の日も、その次の日も、三日を過ぎたその日も、探し求めている獲物は一匹も見つからず、寿たち一行は、樹海からも解放されずに森をさまよった。
それにしても、これほど歩いたのだ。いくらなんでも、森が開かれてもよさそうであった。
それなのに樹海の森は、行けども進めども頑なに進路を閉ざして、寿たちを解放しようとはしなかった。
携えていた糧秣は、とっくに食い尽くしていた。このままでは全員が密林の腐葉土である。
寿は拳銃を腰だめに、眼と耳に全神経を集中させて、忙しなく顔を周辺に動かしながら歩いていた。どんな生き物でもいい、少しでも動くものがあれば、それを仕留めて、食料にしなければならない。
だが、獣が生息している確かな痕跡は感じられるものの、生物らしき姿はどこにも見当たらなかった。突然の森の闖入者に脅威を覚えた獣たちは、森の蔭に身を潜め、息を殺してやり過しているのだ。梢に戯れていた野鳥すらも、寿に銃先を向ける暇を与えず、嘲るように一声を上げて飛び去った。
恨めしそうに梢を見上げた高丸が、力の抜けた溜息を吐いた。
「こんなことになるんやったら、あの陣地に散らばっとった血まみれの乾パンを拾うとくんやったな」
独言を呟きながら頻りに悔やんだ。いまなら、血に染まっていようが糞まみれであろうが、空腹を満たしてくれるものなら、なんでも平気で食えそうであった。
――曳田の阿呆が! あのとき道を間違えなんだら、今頃はどこかの民家か畑で、食いもんを調達できたんや。くそったれ! こんなひもじい思いをせんで済んだんや!
その曳田は、それどころではなかった。空腹と疲労で、落伍寸前に歩いているのである。背後から高丸に白い視線を刺されていることも知らずに、夢遊病者のように揺れながら歩いていた。
森の向うで、尾を曳くように野獣が吼えた。吼え方からして、野犬か狼である。一行と同じように、餓えている野獣たちが、衰弱して弱りきった人間たちが行き倒れるのを、遠くの樹木の蔭で涎を垂らし、牙を剥いて待ち構えているのだ。
暗くならないうちに、どこか適当な場所を探し求めなければならない。そう思いながら、周囲に眼を配って歩いているうちに、寿の足が本能的に停まった。行手の先の視界が、他と較べて少し明るいように見えるのだ。
寿は、眼を細めて窺い視た。
「あれ、どげ思うか?」
「こっちに較べて明るいってことは、もしかして、出られたんじゃないですかね?」
と、有働の疲れきった声が返って来た。
「そげにあって欲しかとこやが、糠喜びはすまい」
そう呟いて、五六歩ほど進んだところで、寿はよろけるように停止の合図を送った。積み重なった腐葉土に、危うく足を掬われそうになったのである。
足下を確かめてみると、そこから先の傾斜が急にきつくなっていて、木立の支えがなければ、寿は辷り落ちているところであった。前方の明かりに気を取られていて、足下まで気が廻らなかったせいである。危ないところであった。
寿は、傾斜のぎりぎりまで歩み寄って、下方の明るさを眼で測ってみた。
周囲と較べると、下方は樹木に遮られてはいるが、そこからこぼれ出る光はあきらかに明るさを増している。だとすると、あの先には、なんらかの視界が開かれているということである。
寿の顔に、確信の表情が浮かんだ。
「有働、出られたかもしれんばい。向うがあげに明るかゆうごつは、あの先は視界が開かれとる証たい」
「もしそうだったら、その先に、民家か畑があるといいですね」
有働の声に、寿もうなずいた。
民家でも畑でもいい、餓えを凌げるのであれば、多少の危険があっても行くべきである。
「とにかく下りてみよう」
一行は、斜面を滑るようにして下りると、その先の背丈ほども生い茂る葦の穂を掻き分け、切り立った断崖の縁に立った。
男たちの顔に、幾日ぶりかの安堵の笑みが、こぼれ落ちていた。遂に、飢餓の地獄を抜けたようなのだ。三昼夜、殆ど飲まず食わずでさまよい歩いたその向うには、餓えた男たちを歓ばせるに足る大地が拡がっているのである。太陽は西の山蔭に姿を没していたが、眼下の向うは、まだ夕日の残光で視界は利いていた。山の稜線からこぼれる残光に浮かび上がっているそこには、まぎれもない緑の部分があった。それが畑かどうかは判然としないが、とにかく地獄からは解放されたのである。
寿の顔には、しかし、希望と失望の色が同時に滲んでいた。見渡す限り、眼下には、道路らしきものも人家も見当たらないのである。あの緑に染まった大地の部分が、畑ではなくただの草原であるならば、当然のことながら、人家がある見込みは殆どないと考えねばならない。
寿は、絶望と希望が入り交じった複雑な笑みを浮かべて、その場にしゃがみこんだ。
「地獄のジャングルを抜け出たまではよかったが、あれじでは、の」
と、眼下の状況に首を振った。
「諦めるのはまだ早過ぎますよ。とにかく出られたんだから、あすこまで下りてみましょうや。もしかしたら、あの青いところは畑かもしれねえし、その向こうには民家があるかもませんよ」
有働に促されて、寿は、いよいよ重くなりはじめた尻を持ち上げた。
一行は、崖伝いに暫く移動し、緩い斜面を探し求めて、腰まで生い茂った雑草の群れを抜けて麓へ下りた。
その麓まであと少しのところまで下ったとき、高丸が頓狂な声を上げた。
「班長殿、あれ、ひょっとして、ほんまに畑とちゃいますやろか?」
その声に振り向くと、少し開けたところで高丸が指をさしていた。
「あれですわ。いまは山の蔭になって見づろおますけど、あの突き出た雑木林の手前の浅黒い土。ほら、あの小屋、見えまっしゃろ。なんの小屋かわかりまへんけど、あれがあるゆうことは、あの近所には農家がありますねんで。それに、あの小屋の辺りから手前の青いところ、あれは、やっぱり畑ですわ。それで、その向う側の山の裾、あれはたぶん農道でっしゃろな、それに沿って、そこには川が流れとるんですわ」
崖を大きく迂回しているから、先程とは見る角度が変わっている。それに、その辺りは既に山の蔭で薄暗くなっていて、寿の眼にはまだ遠すぎて判然としなかった。
遠目の利く高丸には、それが手に取るように見えているようであった。
寿は、高丸のところまで行って眼を凝らした。
なるほど、そう言われて見ると、そのようにも思える。突き出た林の辺りのそこだけが褐色に濁っていて、その手前の緑彩を畑と見れば見えなくもなかった。
「なんの畑かわかりまへんけど、畑でっせ!」
と、高丸の声は、自信に満ちて弾んでいた。
首を伸ばして眼を細めていた有働も、
「……ほんとだ。小屋もありますよ」
声を弾ませると、生気を蘇らせた男たちの顔が、一斉に明るくなった。
「人間の手が入っているってことは、食い物もあるってことだもんな」
曳田の眼が輝いた。
「ここからやと確認のしようがなか。もう少し行ってみることにしようたい」
一行は、疲れを忘れて斜面を一気に駈け下りた。
高丸の眼は正確であった。銃を腰だめに用心深く暫く進むと、高丸の言ったとおり畑に行き当たった。トウモロコシ畑であった。一行は、歓声とも呻きともつかぬ声を上げて、人間の背丈ほどに成長しているトウモロコシ畑へ駈けこんで、房をもぎ取って皮を剥ぎ取った。剥ぎ取ったが、整然と粒を並べているはずのその房には、まだ果肉らしい粒はつけておらず、生臭い匂いを発しているだけであった。
男たちは、それでも空腹に勝てず、それを毟り取って貪り食った。
「うめえ!」
と、曳田が頓狂な声を上げた。果肉はつけていないが、芯は柔らかくて甘みがあった。
「助かった……」
と、数日ぶりに胃の腑を満たした赤羽が、腹をさすって感嘆の声を上げた。
「これほどの畑なら、ほかにもなにか植えていませんかね?」
食い物があると認めたら、野獣の胃袋は貪欲である。ゴリラの巨体が首を持ち上げて周辺を見渡した。
「人影はありませんし、もうちょっと先へ行ってみませんか。もっとましなものがあるかもしれない」
腰を上げた有働が寿を促して農道へ上がった。
そこには、農道と並行して、涼やかな谷川のせせらぎが男たちを迎えていた。
一行は、小川で干上がった喉と水筒に水を補給すると、再び農道を用心深く歩いた。
二三百メートルほど進んだところで、別の畑が待ち受けていた。菜園であった。そこには青々と葉を茂らせた隠元豆が、いまが旬とばかりに実をたわわに膨らませていた。
男たちは、今度は菜園に入って、豆を雑嚢に詰めるだけ詰めこんだ。
「これで、何日かは飢える心配がなくなりましたね」
「天与の恵みとはこンこつたい」
と、周辺に眼を配りながら豆を雑嚢に採り入れていた寿は、ふと前方の林に眼を細めて手を止めた。林の僅かな隙間から、ちょうど人の背丈ほどの土塀のようなものが見えたのだ。
「あの林の奥に、なんぞ見えるね?」
と、眼の利く高丸を呼んで、みんなの視線を林に向けさせた。
「塀のようなものとちがいますやろか?」
高丸が答えた。
「わしもそげに視た。ゆうことは、あの向こうには農家があるゆうことぞ」
生い茂った雑木が邪魔をして、それ以上はわからない。
「ここからやと、あすこの様子がわからん。豆ば拾うたら、あすこへ廻ってみよう」
豆を採り終えた一行は、万一に備えて農道を歩くことを避け、腰が痛くなるほどの屈伸で隠元畑を抜けて、その畑の縁から林の奥を窺った。
その向うには、七八軒ほどの粗末な藁葺き家がひっそりと建ち並んでいた。
「人の姿がありませんよ。やけに静かだ」
有働が囁いた。
「そげなはずはなか。これほどの農地を持っとるとじゃ、無人のはずはなか。もしかすると、別の畑へ出向いとるのかもしれんたい」
「でも、もうすぐ夜ですよ」
有働の言葉に、それもそうだと寿はうなずいたが、用心に越したことない。
「もうちょっと待って様子を見よう。もし別の畑に出向いとるとなら、もうすぐ帰って来るはずたい」
周囲が薄暮になるまで待ってみたが、帰って来る気配はなかった。
「物音がしねえからわからなかったが、あの小屋は水車小屋だったんですね。それに、連中が帰って来る気遣いはありませんよ。あすこまで行ってみましょうよ。あすこなら、村の中の様子が一目ですよ」
寿は、拳銃の弾倉を改めて安全子を開いた。
「よし、みんな薬室を改めとけ。わしらが援護ばするけん、まず赤羽と有働、きさんらはあの小屋まで走ってわしらの援護をしろ。行け」
赤羽と有働は、農道を一気に駈けて、隙間だらけの壊れた水車小屋に身を移して、後続に合図を送った。
あとにつづいた男たちは、民家からの抵抗もなく、難なく水車小屋へ身を移した。
壊れた水車の隙間から外を窺っていた有働が、合流した寿に首を捻った。
「やっぱり人っ子一人見当たりませんね。連中、別の畑に全部出向いたにしても、年寄りとか子供ぐらいは残しているはずですがね。それとも寝てるんですかね?」
「陽が落ちたばかりだぜ、もう寝てるんか?」
曳田が返した。
「満人の百姓は寝床が早いんだよ。だからガキばっかり増えるんだ」
有働が答えた。
「それにしても、おかしかぞ?」
寿は、畑と民家へ交互に視線を動かして、独言のように呟いて首をかしげた。
「……もしかすると、戦闘の巻き添えを避けて、どこか安全な場所へでも避難したのではないでしょうか?」
野下が呟くように言った。
「それならよかけんがの、わしのおかしかとは、あの畑の状況たい」
男たちは、顔を揃えて振り向いた。トウモロコシ畑を挟んだ隠元畑の境目からは、褐色の大地が拡がっているだけである。寿は、その大地に不信を抱いたのである。
「あれはジャガ芋畑たい」
「えッ、あれ、芋ですか?」
有働が眼を丸めた。
「よう視てみ。ジャガ芋の屑がぎょうさん転がっとるやろもん。おかしかとは、その芋の掘り方たい。芋ば掘るにしてもぞ、なんぼなんでも、百姓はあげな無茶な掘り方はせんやろも……」
言われてみれば、確かに不自然であった。汗を流した作物を、自らの手で、無差別と思える乱雑な収穫をするはずがない。
寿は、人家からの脅威が薄れたことを確認した上で、水車小屋を出てジャガ芋畑に侵入した。
案の定である。畑は何者かに荒されるだけ荒されて、掘り出された未熟な塊茎が広範囲に散乱していた。
誰の眼から見ても、それは小人数の仕業ではなく、大規模な集団が盗掘したことを、畑一面が無言で証明していた。高丸が指摘した褐色の大地は、このためだったのである。
「軍隊の仕業じゃの、これは」
と、寿は、夥しい軍靴の鉄鋲跡を視て言った。
「て、ことは、やっぱり、ここの連中逃げたんですね」
「それならよかばってんが、こげな有様やと、ここの連中、ただでは済んどらんの」
「行って様子を見ますか?」
「待てよ」
と、曳田が横から口を出した。
「行くのはいいがよ、いきなり物蔭からズドンはねえだろうな。え。それよりよ、俺たちもこいつをかっさらって、早いとこずらかろうぜ」
浮足立った曳田の顔を見て、寿は確信したように答えた。
「そげな心配は要らんたい。もし村の者がおるとなら、わしらが姿を見せた時点でなんらかの反応があるはずたい。野下、小屋のなかに手頃な背負い籠ばある。お前は高丸と転がっとる芋ば拾い集めてくれ。もうじき足下が見えんごつなるけん、足下が明るか、いまのうちにやれ。それくらいはできるな」
野下は幼子のようにコクリとうなずいた。
「ほかの者はオイと来てくれ」
寿は、小川沿いを進んだ。どこかに、畑と農家を結ぶ橋があるはずである。
その橋は、四五十メートル先にあった。丸太で組まれただけの、荷車一台がやっと通れそうな粗末な橋である。
それを渡ろうとしたとき、寿の怖れていたことが現実となって眼に飛びこんだ。橋の下に、首を刎ねられて膨れ上がった上半身裸の男の死体と、腹を抉られた全裸の女の死体が捨てられているのである。
惨殺されて、どれほどの時間が経っているのかわからないが、腐敗も死臭も漂っていないのは、谷川の冷たい清流に洗われているせいであろう。
曳田は、その光景に、さきほど汲み入れた水筒の水を慌てて棄てると、食ったものを全部嘔き出した。
橋の中央には、どす黒く濁った血痕が不着していて、刎ねられた男の首が鮮鋭な斬り口であることからして、これは鋭利な日本刀で斬首されたものである。軍刀を佩刀した、腕に覚えのある下士官以上の仕業であることは、寿には容易に読み取れた。
橋の袂に(たもと)女の着衣が散乱して全裸であることから、女は、複数の男たちに輪姦されて惨殺されたのであろう。
水中に横たわって眼を見開いている女の眼は、怨念の迸った凄まじい眼光が放たれ、長い黒髪は、川藻が揺れ動くように水中で揺れていた。背筋が凍りつく、ぞっとする光景であった。
「この状況だったら、村の連中は皆殺しですね」
修羅場に慣れている有働でさえ、さすがに眼をそむけた。
小さな集落へ近づくにつれて、吐き気をもようす死臭が鼻を衝きはじめた。
曳田は、その間、ずっと嘔きつづけた。
寿は、破壊された土塀の隙間から、そのなかを窺った。その光景を見た途端、堪えていた嘔吐が一気に衝き上がって、胃の腑を搾るだけ搾って、胃の腑に詰めているものを全部嘔き戻した。土塀の内側は、猟奇的な惨劇が繰り広げられているのである。
農民は皆殺しであった。夏の強烈な日差しの下で腐敗が進んでいることから、犯行が行われてから少なくとも数十日は経っているらしいことが推測できたし、菜園やトウモロコシ畑が差程も荒らされていないのは、これらはまだ豊満な果実をつけていなかったからである。
農村の住人たちは、飢えた野獣の突然の急襲に、土塀の内側で逃げ惑ったにちがいない。若い女は、着衣を剥ぎ取られて、恥部や腹部を抉られて惨殺されていた。抉られた腹部には、夥しい蛆虫が、腐った人間の肉を食い荒らしていた。頑是ない子供と老人は、一個所に集められて殺されていた。若者らしき男数名が広場の杭に縛られて、胸や腹を挽肉のように潰されていた。これは複数の銃剣による刺突である。橋に捨てられた死体のように、斬首されている者もいた。どれも斬り口に乱れがないことから、これらを斬首した者は、橋の死体を斬った同一人物に相違なかった。
あまりの悪臭に耐えられず、寿は早々に退却を命じた。
畑に戻りながら、寿はうわ言のように罵った。
「狂うとる! あれは人間の仕業やなか。鬼たい。かりそめにも軍刀ば吊るした帝国軍人がやることやなか。ケダモン以下の鬼畜たい!」
「そんな連中に、俺たちが人殺しの教育をされたことも事実ですよ」
有働が言下に、投げ捨てるように言った。
「職業軍人なんて野郎は、軍隊の階級の上に胡坐をかいて悪どく生きてるんです。てめえの都合ばかり考えやがって、気に入らねえと、敵意のない人間でさえああやって平気で人を殺すんです。俺たちは、満人の農民こそ殺しちゃいねえが、それでも匪賊を殺している。それだって日本のおんな子供を無碍に苦しめるから、それを護るために仕方なくやっちまったんですがね、それだって個人的には心底から連中を憎んでいるわけじゃなかった。でもね、考えてみりゃ、それもおかしな話なんです。だって、軍隊は頼まれもしないのに、勝手に連中の縄張に入りこんで、まるで、てめえの所場のような顔をして満人を見かじめたんです。やくざだって、見かじめ料を取るときゃあんな馬鹿な真似はしませんよ。あんなことをしたら、自分の頸を絞めることになるのを知っているから、筋だけはちゃんと通しますよ。そんな筋を通さねえ日本の軍隊を、連中が甘い顔をするはずがないんです。誰だって、自分家に他人が無断で上がりこんで、卓袱台の飯を勝手に食ったら怒るでしょ。連中に言わせりゃ、俺たち日本人全部がそれなんです。この部落を襲った連中と俺たちは、奴らに言わせれば同類の五十歩百歩ですよ」
有働の言いたいことは、充分に的を射ていた。
歯に衣を着せぬ有働の言葉に、寿の顔が硬くなったが、これは、有働が寿を批判したのではないことはわかっていた。それだけに、有働のもっともな言葉が、寿には電撃的衝撃となって脳裡を強かに打ち叩いたのだ。
なにも好んで職業軍人になったわけではないが、某の殺人を命令する立場に身を置いているのは事実で、戦争が終わらない限り、いまもその末端の一人であることも事実なのである。ただ、自らの意志で殺人を奨励しているのではなく、軍隊の思想体系、つまり虚構の大義に否応なく従わされているという意識が、自分が殺人の実行犯であることの意識を希薄にしていたのを、やくざな有働の言葉が眼醒めさせたのである。
寿は、野下たちのところへ戻りながら、絶望的観念に囚われていた。
この北満の大地を歩いているのは、必ずしも寿たちのような分別を持った敗残兵だけとは限らないのだ。この満人部落を襲ったように、狂気と化した戦闘部隊がまだ存在しているのである。だとすれば、この先も、完全武装した部隊の手で、このような凄惨な殺戮や強姦略奪が行われていると考えなければならない。このことは、取りも直さず、寿たち少数の敗残兵の前途は、生きるか死ぬかの瀬戸際に置かれているというより、絶望的であると考えねばならなかった。現地民を無意味に殺傷しないにせよ、寿も、同じように他人の畑を漁りながら歩いているのだ。有働が言ったように、ジャガ芋一つ盗むのも、人を一人殺すのも、何世紀ものこの大陸に根づいている土着の民族からすれば、罪の大小など問うところではないのである。彼らが、血と汗で拓いた貴重な土地と生活を掠奪した日本人は、総じて極悪非道の侵略者以外何者でもないのだ。彼らは、だから無条件に日本人を憎み、怨んでいるのである。そのような日本人を、いや、そんな日本軍の兵隊をである、現地民は簡単に赦すはずがないのだ。もはやこの先をどう生き延びるかではない。寿たちの生死の選択権は、彼ら勝者が握ってしまっているのである。
「怒ったんですか?」
と、有働は寿の顔を窺い視た。口を閉ざした寿の硬い表情に、無神経に言い過ぎたと気が咎めたようである。
「あの、別に班長殿を悪く言うつもりはなかったんです。すみません」
ペコリと頭を下げた。
「……わかっとるたい。気にせんでんよか」
声は抑えたつもりであったが、有働に向けた顔はまだ複雑に歪んでいた。
畑では、高丸と野下が、水車小屋に残されてあった背負い籠を持ち出して、それにジャガ芋をてんこ盛りにしてへたりこんで待っていた。赤羽と曳田が、先程の嘔き気を忘れて歓声を上げた。
「上出来だ! これだけありァ、当座の心配はないぜ」
飢餓のあとの僥倖である。眼を輝かせた二人は、籠のなかの泥まみれになったジャガ芋を手にして、それを軍衣で拭って囓りついた。
だが、その途端にすぐに嘔き出してしまった。
「こいつは薩摩芋のようなわけにはいかねえな。焼くか煮るかしねえと、生じゃとても食えたもんじゃねえや!」
赤羽が悲鳴を上げた。密林の飢餓の彷徨では、空腹のあまり、食えるものなら、それこそ、なんでも口にできるはずであったが、文明の食生活に慣れ親しんだ胃の腑は、天与の糧を、容易に受けつけようとはしないようであった。野生動物の消化器官のように順応させるには、これまで生きて来た文明の時間のほうが長すぎたようなのである。
それを有働が、そんなことなどお構いなしに、獣のようにガツガツとジャガ芋を貪り食いながら軽く言い放った。
「なに言ってやがる。こいつだってれっきとした食い物なんだ。犬や猿だって腹が減りゃ囓るんだぞ。生だからって、食えねえはずはねえんだ。贅沢は言わねえもんだぞ」
曳田が、うまそうに食っている有働の口許を見つめながら訴えた。
「班長さんよ、どこかで火を熾してさ、温けえ芋を焼いて腹ごしらえをしようよ」
寿は、手に弄んでいたジャガ芋を籠に戻した。
「そうたいの。村の連中には、こいつは無用になったけんが、わしらにゃ大事な命の糧たい。それに、もうすぐ森の中は闇になる。どこぞで野営ばして、体力をつけよう」
寿は、もうすっかり暗くなっている森の道へ一行を導き入れた。丸い月明かりが救いであった。
道の天空は開けていて、そこには丸い顔の月が道を朧に照らしてくれていた。その行く手には、夥しい軍靴の鉄鋲が、寿たちの目指す方向へ刻まれてあった。
寿は、その軌跡を視て、来た方角を顎で示した。
「こっちへ行くと、何日目かでソ満国境たい。この村を襲った連中は、そこから来て、この部落で糧秣を強奪ばして、この道を南へ逃げたとじゃの。わしらも、どこぞ安全な場所ば見つけて、そこで野営ばして、明日はこれを辿ることにしよう」




