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消耗品たちの八月十五日  作者: 河野靖征


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 火焔で焼かれた森は、至るところガソリンの臭いで充満していて、薙ぎ倒された樹木がまだあちこちで燻っていた。寿たちが踏み入れようとしている南へとつづく細長い平原は、砲弾の弾着痕を避けた戦車の夥しい軌跡が、蛇行するように延びていた。

 寿は、消え去った敵が残したその(わだち)を辿るように、森の裾野を進んだ。

 少し進んだところで、寿は右手を上げて、一行の足を停めた。森の縁の焼け跡に、上半身が判別できないほど焼かれた二つの焼死体が眼に入ったのである。

 歩み寄って視ると、二人とも軍刀を提げているが、軍装からして一人は将校で、もう一人は下士官であった。

 不自然なのは、この二人の下半身が綺麗に焼け残っており、上半身は判別不可能なほど、まるで木炭のように黒く焼け焦げていることであった。

 森の火焔に捲きこまれたのであれば、二人とも全身が焼け焦げているはずである。このことからして、この二人は、いったん森に身を隠したものの、迫り来る火焰に恐れをなして元の場所へ反転したところへ、待ち受けていた火炎放射器が二人の上半身を襲ったものと判断した。

「これ、あの二人ですね」

 焼死体の背格好から、有働がズバリと言い当てた。

 寿も、これは埴生と桑畑に相違ないと肚ではそう思ったが、その先に転がっているもう一つ別の死体に遭遇するまでは、まだ半信半疑であった。

 その別の死体は、ほんの七八メートル進んだところの木の根にあった。それは、戦闘さ中に行方をくらませた美祢であった。

 美祢は、樹木を背にして銃口を口に咥え、眼を見開いて自決していた。

「あの元伍長の上等兵ですよ」

 有働が言った。

「目的を果たせなかったから、こんなところで自殺したんですね」

 寿は、なにも答えずに、美祢の所持品を調べはじめた。遺品らしきものがあれば、遺族に届けてやりたいと思う気心からである。

 だが、それはすぐに諦めた。遺品を抜き取ったところで、この先、自分がどこまで生きていられるかどうかわからないからである。

 雑嚢にはなにも残されてはいなかったが、胸の隠しから、二つに折りたたまれた萎びた封書が出て来ただけである。

 その封書を開いて読み終えた寿は、それを胸の隠しに戻して静かに言った。

「おんしの遺品を遺族に届けてやりたかとやが、オイもこの先、どげになるかわからん身たい。勘弁しちゃりない」

 横たえさせて両眼を閉じさせると、小銃を墓標代わりに立ててやった。

「自決ばした、これの真意はわからんばってんが、こいつは、ある意味では目的を達成したのかもしれんたい。あの二人の顛末を、自分の眼で確認したはずやけんの。後方へ退がろうとしたんやろけんが、あれだけの敵ば眼前にしたとじゃ、一人じゃ逃くるごつはでけんと、そげに覚悟ばして銃口を咥えたとじゃ。懇ろに葬ってやりたかところやが、そげな時間はなか。このままにしておくしかなか」

 一行は、美祢をその場に残して、森の裾野を南へと向かった。

 有働は、もの言いたげに、寿の顔を気にしながら歩いていた。美祢の自決を眼にしてから、急に寿の面相が険しくなったことから、口を開いていいものかどうか迷い詰めているのである。寿は、有働のそれに気づいていたが、知らぬ顔で捨て置いていた。

 暫く歩いているうちに、とうとう我慢しきれなくなった有働が、思いきったように顔を寿に向けた。

「さっきのあれ、手紙でしょ。あれ、なんて書いてあったんです?」

 と、訊いた。

 気になっているのは有働だけではないらしい。振り返ると、一塊になって歩いている他の男たちも、好奇の眼を向けていた。

「ね、教えてくださいよ」

 粘り着く有働に、寿は、突き放すように言った。

「そげな詮索は無用じゃ。ただ一つ言えることはの、あの曹長が死んだいまとなっては、あの封書も無用の代物ばなったゆうことたい。やけん、もう忘れろ」

 寿には、どうでもいいことであった。美祢のあれは、あれで終わったのだ。それよりも、これから向かおうとするその先が問題であった。

 寿は、南の遠くに細く開いている地平線に眼を細めた。

両翼の森に挟まれて、干上がった大河のような平原は、まるで涯てがないかのように、南とおぼしき方角へ延びている。月明かりの視界の範囲には、極東ソ連軍の機甲部隊が残した軌跡以外は、変化らしきものはなにも見当たらなかった。このまま進んでも、危険はないかのように長閑なのである。

「なに考えているんですか?」

 と、有働がまた訊いた。

「ん。この様子じゃと、わしらの想像を超える部隊が通ったとやの。視界の範囲にはなんもなかけんが、もしかすると、この先は油断でけん状態かもしれんたい」

「だったら、森を歩きませんか。この森の少し入ったところを並行して歩けば、野ッ原を外すこともないし、外の状況もわかるでしょ。ね」

 寿は、すぐには答えなかった。

 森は、一時的に身を隠す分には確かに有利であるが、樹木の生い茂った森はそう都合よく歩かせてはくれない。足場を択びながら迂回しているうちに、知らぬ間に深みに嵌まってしまうのである。日中でも、森は夜の(とばり)を下ろしたように薄暗いのである。その森へ迂闊に踏み入れば、それこそ、死を覚悟しなければならない。

「もうじき陽が落ちる。夜の森を歩くのは危険じゃ。もう少し歩いて、この先の状況を確認してから判断しよう」

 森の裾野を暫く歩いて、敵性のないことを確かめると、寿は森に入って、平原からは死角になる場所を択んで夜営することにした。

 その場所で、手元がまだ明るいうちに天幕を広げて、掻き集めた食料を公平に分配した。節約しても、一人当たり二日分を満たさない糧である。

「これで全部じゃ。この先どげなこつが起こるか見当もつかんし、食糧がいつ手に入るやわからん。やけん、充分節約をせんと、餓死するごつ羽目ンなるぞ」

 そう言って、寿はこれからの前途について口を開いた。

「まず最初に断わっとくけんがの、これからわしが言うことは、わし一個人の考えやけん、もし、わしの考えに同意でけん者は遠慮は要らん。自分の意思で別行動をとるなり考えてくれ。途中で意見が割れて啀み合うより、いまこの場で別れたほうがお互いのためやけんの」

 そう前置きしてつづけた。

「これから先のことやが、わしは、この有働と行動しようと思うとる。目的地まで、莫大な距離と日数をかけて歩くことになるが、内地へ帰るにはそれしか手段はなか。ただし、そこまで無事に行き着けるかどうかは、やってみての結果たい。もしお前たちが、わしと行動をともにするとなら、わしらは一致団結せにゃならん。途中で意見が割れると、忽ちわしらの行動は乱れるごつなるけんの。余程の覚悟と固か団結ばしてかからにゃ、この行程の踏破は難しかぞ。その理由の一つは、今朝のソ連軍の侵攻で、ソ満国境以南の関東軍は崩壊しとると考えにゃならん。つまり、わしらは敗残兵になったのと、友軍の援護が一つも期待でけんゆうことと、極東ソ連軍の制圧下で、満人全部を敵に廻して歩くゆうことたい。それに加えて、これがいちばんの問題やが、敗残兵はわしらのほかに、何千といるはずたい。それらは一斉に本土を目指して南下をしとると見にゃならん。満人たちもこれを想定して、食糧を奪われんごつ武装化して、警戒も厳重になっとるはずたい。その敵の脅威を(かわ)しながら、わしらは糧秣を確保せにゃならん。このほかにも、まだいろいろ問題を抱えることになるやろが、これだけは頭に置いて歩かにゃならんいうことたい。つまり、これから先の満人部落や街は、わしら敗残兵は、一歩も足を踏み入れられんいうことぞ。腹が減ったからゆうて、ノコノコ出て行って民家の軒ば叩いても、貰えるのは鉛の馳走ぞ。よほど肚を括らにゃ、この逃避は絶対不可能ぞ」

 寿は、言葉を区切って、男たちの反応を窺った。男たちは、眼を伏せたまま、黙って聞いていた。

「わしが考えるには、主要な幹線道路は、鉄道も含めてやが、ロスケと支那の赤旗(中国共産軍)で封鎖されとるか分断されとるかして、これらの公道はまず歩けまい。仮に、日本の開拓団があったとしても、それも満人に掌握されとる可能性も考えられる。そげな状況やと、わしら敗残兵は寸分も歩けんごつなる。へたばすると、各個戦闘になって、わしらは全滅するかもしれん。やけん大けな集落は避けて、満人の土地を少々荒らすことになるばってんが、食糧の調達し易か非武装地帯を(えら)びながら、と言うても、こればっかりは現地で確かめるまではわからんが、取り敢えずは、鉄道を辿って北安へ向かう」

「北安? 朝鮮じゃねえんですかい」

 と、口を開いたのは曳田である。

「そうたい。いま考えられるのはその途しかなか。以前、大連から孫呉までの距離がどれほどあるかと、前の中隊で同期やった准尉に、満洲の地図を見せて貰うたことがあった。そのお蔭で、大まかな地理を知ることができたが、孫呉から大連までは、ざっと三百八十里(一五二〇キロ)ある。孫呉から北安までは概ね四十五里(一八〇キロ)程度たい。オイの記憶が正しけりゃ、()()(びん)からは、南満経由で朝鮮へ抜ける鉄路が何本かあるが、どれも廻り道になる。新京の先の()(へい)まで出ると、朝鮮国境の通化へ抜ける鉄道がある。それが朝鮮への最短となるが、内地へ渡るには、その鉄道を経由して朝鮮の国境を越えにゃならん。つまり、そこから内地へ渡るのがいちばんの近道たい。やけんが、如何せん鮮満国境は金日成とかの反日地盤やそうなけん、平時でも、わしら日本人は危険が多すぎて通れまいゆうこつたい。そげなこつやけん、わしらのとる途は、必然的に大連までの一本の鉄道に絞られるゆうことになる。同じ危険を冒すとなら、満洲内陸へ向かうほうが、まだ日本人の残留者も多かろうごつあるし、朝鮮よりも危険は少なかろうと思うとじゃ。それで大連を目標として、まずは北安へ向かうと言うたとじゃ」

「でも、このままの姿だったら、俺たちが日本兵だってことはすぐにバレますよ」

 有働が顔を上げた。

「そのとおりたい。このままの恰好で歩き通すのは絶対不可能たい。オイが満人の土地を少々荒らすことになる言うたんは、じつはそれも含んどる。この先には、開拓団の集落も満人部落もあるはずたい。そこで民間人ば服を人数分調達する。場合によっては盗みを働くことになるかもしれんが、とにかく、わしらは四家屯の開拓民に化ける。支那語が話せんでも、これなら開拓団の百姓として歩けると思うんじゃ。相手も、非戦闘員の百姓には必要以上の敵対感情は持たんじゃろ。そりゃ多少の迫害を受けるのは覚悟せにゃならんが、殺されることを思えば、それくらいの辛抱はでけるゆうもんたい。そうやって北安まで行きゃ、そこでなんらかの情報も入るはずたい」

寿は、ここで言葉を切って、もう一度反応を窺った。

 男たちは、依然と口を噤んだまま、視線を落として聞いていた。未知の逃避行に、これといった策など、誰も持ち合わせてはいないのである。

 寿はつづけた。

「しかしの、そげ言うもんの、この先がどげになっとるか、それが皆目見当がつかんゆうことたい。この原っぱを南へ辿って行くのはよかばってんが、その先は、きさんらも視たやろ、おそらくソ連軍でいっぱいやろし、敵の後続部隊があるとすれば、おそらくこの平野を頻繁に通過するはずたい。そのたびに森へ潜る羽目になるが、安全を考えるとそれも仕方なか。いずれにしても、もうじき夜になる。今夜はここで……」

 と、そこまで喋った寿に、高丸が急に半腰を浮かして囁いた。

「なんや、あの音は?」

 高丸は耳を(そばだ)てた。

「戦車の音でっせ、あれは! 後続の機甲部隊が来よったんですわ!」

 男たちは雑草に身を伏せた。

 ディーゼルエンジンらしき唸り音が次第に近づいて、やがて男たちの眼の前を、戦車をはじめとする重砲の牽引車や装甲車、兵を満載したトラックの夥しい機甲部隊が通過をはじめた。

 男たちは、それを、息を殺して見守った。

 極東ソ連軍のそれは、ありったけの部隊を総動員したかのように(えん)々(えん)とつつづき、まるで切れ目がなかった。

 最後の一台が、軽快なエンジン音を上げて通過したときは、辺り一面は完全に闇に包まれていた。

「これじゃ動きようがねえな」

 有働がぼそりと言った。

「あの様子だと、班長殿が言ったように、この先は敵さんでいっぱいですね。もしかすると、すぐ先で夜営してるかも知れませんよ」

 これには否定のしようがなかった。いまの機甲部隊を見ても、この平原の前途には、どう見積っても安全な場所などなさそうである。

 寿はうっそりと笑った。

「これではっきりしたばい。つまり、わしが狙いばつけた鉄道も、敵さんの手に押さえられた可能性が高いと判断して間違いなかの」

「どうしますか?」

 曳田が訊いた。

 逃避は、たったいま開始されたばかりである。その矢先に、絶望的な脅威が眼の前を通過したから、曳田の顔は、闇のなかで蒼くなっていた。

「どげするかの」

 寿は、立ち上がって、機甲部隊が闇に消えたほうへ眼を据えた。

 眼前を、それも誇らしげに通過した敵の膨大な戦力を、寿は改めて眼窩の奥に焼きつけて、背筋に、言い知れぬ新たな戦慄が走った。

 関東軍特別大演習以来無敵を誇った関東軍は、蓋を開けてみたら、それは、ただ単に虚勢を張っていたに過ぎない張子の虎であったことを、寿は、否応なく知らされるのである。

 ――どげするか!

 このまま森を進めば、確かに敵との接触は避けられる。だが、生命を繋ぐ保証はどこにもない。

 思案した挙句、寿は、最初にきめていたこの平原を進むことを決断した。この先、いかなる危険があろうと、生命を維持しながら目的を達成するには、人間の息吹の側面を掠め歩く以外、生き延びる選択肢はないのである。

 寿は、男たちに言った。

「わしらの夜営は中止じゃ。これから夜間徹宵でこの森の裾野を歩くことにする。ここまで生き延びたとたい。敵さんがどげな方向へ進んどるか、それを確認しようやなかね。日中は森で休養ばして、夜中に歩いて、わしらは敵のケツば追う。同じ南へ向かうにしても、食いもんの調達見込みのなかこげな森を歩くよりも、敵さんのケツをなめるほうがまだ安全かもしれんけの。それに、連中の通過した周辺には警戒の手を緩めた農家や畑があるはずやけん、食糧の調達も可能じゃ。それらの畑を漁って進めば、一応飢える心配だけは解消するゆうもんたい。ただしぞ、これはあくまでも順調に物事が運んでの話ぞ。行く先々の集落という集落が蟻一匹通さんほど警戒が厳重やと、わしらの前途は否応なく森に向けられる羽目になる。さっきも言うたように、わしらのこの先がどげな状況になろうとも、生きて北安に行く必要がある。きさんたちゃどげするか? あの戦闘状況で判断する限りやと、満洲も関東軍も完全に消滅ばしとる。やけん、わしらは、もう兵隊でも上官でもなか。わしに対する遠慮は無用たい。わしと行動をともにするか、それとも別行動を取るかの選択は、もうおんしたち個人の自由ぞ」

 寿は、なにも見えはしない闇の彼方の一点を見つめた。

 大連――そこまでの道程は、何という途轍もない未知の(へだ)たりであろうか。それは、まさに、死と抱き合わせの無謀な旅路である。それでも行かなければならない。故郷へ帰って、これまでの失った時間を取り戻さなければならないのだ。

 短い沈黙のあと、

「班長殿となら」

 と、ここでは最年少の野下が口を開いた。

「班長殿と一緒なら、私は、どんなことでも耐えられるような気がします。一緒に連れてってください」

 負傷のためか、か細い声であったが、毅然とした口調で同行を希い出た。

「わても同じだす。一緒にお願いします」

 仲間内ではいちばん最年長の補充兵高丸が、野下に相槌を打つように進み出た。

 ソ連軍のロケット砲撃が開始された直後、塹壕の最後尾に位置していた高丸は、いち早く塹壕を飛び出して斜面の手前に突き出た岩の蔭に身を隠した。寿が桑畑曹長と会話したあの岩である。

 高丸は、岩蔭に身を跼めて砲撃が熄むのをじっと待ちつづけたが、しかし、森への砲撃は一向に鎮まる気配はなく、むしろ、このままの状態で岩蔭に潜んでいること事態が危なくなった。森を焼き尽くす火焔が、岩蔭に潜む高丸の姿を、煌々と暴露しているのに気づいたのだ。

 陣地の眼を気にした高丸は、塹壕へ戻るべきか逃げるべきかを一瞬戸惑ったが、思考よりも、体のほうが敏捷であった。気がついたときには、既に斜面を駈け下りていて、森に燻っている倒木に身を匿していた。森へと無意識に走ったのは、眼前の森への砲撃が下火になったのを本能的に読み取ってのことと、次には、陣地一帯が凄まじい集中砲火を浴びるだろうことを予測しての、殆ど動物的勘による行動であった。

 砲撃の最中、高丸は、燻る倒木の幹に身を横たえて、怯えながら砲撃が()んでくれるのを祈った。

 砲撃は、しかし、一向に熄む気配がなく、それどころか、高丸の至近で頻りに炸裂し始めていた。

 このままだと危険である。この状態で陣地への集中砲火が開始されれば、十中八九、高丸の行き場は定められることになる。いまのうちに、安全などこかへ移動しなければならない。

 高丸は、逃げ場を求めて周辺を見廻した。

 森の奥の大部分は、まだ火の手に勢いがあったが、森の中腹部分の火焰は鎮火し始めて、黒々した大地が顔を出していた。

「あすこや!」

 本能的にその場所を見定めて、高丸は腰を浮かした。

 その直後である。陣地一帯が轟音に包まれて高丸の足下が激震した。砲撃の鉾先が、森から陣地へと向けられたのだ。その凄まじい砲撃は正確無比と言ってもよく、高丸の眼で視る限りでは、本陣は瞬時に形態を変えたように思えたほどであった。

 高丸は、仲間のことは諦めていた。本陣があれほどの集中射を喰らったのである。次には周辺の陣地が襲われるだろう。そうなれば、仲間は誰一人として生き残ってはいないはずである。

 激烈な集中射の何弾かが、高丸の周辺にも襲って来た。座標を誤ったか、それとも気紛れを起こしたかである。

 高丸は、その場所から一歩も離れることができず、どこで炸裂するかわからぬ砲弾に怯えながらその場に身を(すく)め、ただじっと成り行きを窺うしかなかった。

 森の先端附近で、突然、赤い焔が横に走るのが高丸の眼に飛びこんだ。

 鼻を衝くガソリンの臭いが、熱風で巻き起こった風に煽られて流れて来た。

 その光景を眼にした高丸の全身が瞬時に凍りついた。

 先程来から高丸の至近で炸裂していた砲弾は、単なる座標を誤ったものでも気紛れでもなかったのだ。敵の戦車は森の樹木を砲弾で噴き飛ばし、鋼鉄の巨体で雑木を薙ぎ倒しながら進撃路を開いているのである。戦車のあとには、火焰放射器が、森を念入りに焼き払いながらつづいていた。

 逃げ場を失った高丸は、捨て身で倒木の幹に身を張りつかせた。もうお終いである。敵が見逃してくれない限り、これで自分の運命は(きわ)まったと思った。あの神経質なほど念入りに森を焼く火炎放射器は、蟻一匹の動きさえ見逃さないだろう。何十噸もある戦車が、高丸の潜む倒木を無慈悲に踏み砕くのだ。それと同時に、高丸の肉体は挽肉のように簡単に潰され、火炎放射器で炭になるまで焼かれて死ぬのである。それも、もう時間の問題となった。

 戦車が、地鳴りを上げて迫って来た。

 高丸は、眼を閉じて、歯を食い縛った。

 凄まじい地響きを立てて、戦車が高丸の潜む倒木を掠めて通り過ぎた。火焰放射器が高丸のすぐ傍を通ったが、これもまるで高丸を無視したかのように、放射器から滴り落ちるガソリンの残り火を高丸の周辺に撒き散らして通り過ぎた。敵は、七八十センチそこそこの倒木の蔭に潜む、高丸を見逃したのだ。

 突然、高丸の足が燃えはじめた。滴り落ちたガソリンの一滴が脚絆に燃え移ったのだ。脚絆の焼け焦げる臭気が鼻を衝いたが、焼き殺されることに比べたらなんでもないことである。熱さを堪えて軍靴を擦り合わせて火を消した。

 発見されなかった安堵に浸りながら、長い時間、高丸は身動き一つせずに、物音が鎮まるのを待った。その間、火焔に包まれた樹木がバチバチと弾けていた。

 やがて戦車の砲撃が断続的になり、森に侵入した赤軍兵の集団も通り過ぎて、ハ号陣地からの銃声音も聞こえなくなった。ハ号の仲間たちはみんな死んだと思った。

 高丸は、倒木から頭半分を起こして周囲を窺った。

 熾烈な戦闘は、既に終盤に近づいているらしかった。

 鎮まり返った本陣には、敵兵が次々と登り詰めて、戦闘壕に潜む残存兵を、バズーカが、手榴弾が、自動小銃がとどめを刺していた。その光景を、焦げた倒木の蔭から、高丸は息を殺して見つめていた。

 森の先端を窺い視ると、そこには黒い歩兵集団が、新たに侵入していた。主力の歩兵部隊である。その辺りはまだ遠かったが、樹木も雑草も戦車で踏み荒らされ、なぎ倒されていて、どこからも視界が利いて、動こうにも向こうからは丸見えであった。迂闊に動けば忽ち敵に発見されて、マンドリンとかいう自動小銃で蜂の巣である。

 高丸は、落ち着きなく周辺に眼を泳がせて、そこからの脱出の好機を窺っていた。火炎部隊が本陣へ消えるのを待ってから、森の奥へ逃げる算段をしたのだ。

 その時間は、しかし、途轍もなく長かった。

 燻る森の火煙のなかを、牛歩のような足取りで進む火炎兵を見送りながら、高丸は、その遅鈍さに苛立った。早く消えてくれないと、新たな脅威が間近に迫っているのである。忍耐も、もう限界を越えようとしていた。

 いま移動しなければ、万事を窮する。高丸は、思い切って腰を中腰に浮かして、躍進に入ろうとした。

 そこへ、歩兵の主力部隊から、ハ号陣地へ向けて自動小銃が唸りを上げた。視ると、陣地の先端に仲間の影が幾つか眼に入った。諦めていた仲間が、まだ生き残っているのである。

 遠くの森の向こうから、これは火焔部隊の兵隊であろう、口笛や黄色い歓声を上げた。

 そこへ、本陣台上から甲高い笛の音が連呼した。

 牛歩のような鈍い足取りで進んでいた火炎部隊の群衆が、その笛に吸い寄せられるように、慌てて本陣のほうへ駈け去って行くのが見えた。

 森のなかは、新たに侵入した主力の歩兵集団だけとなった。ハ号に気を取られているお蔭で、部隊は停止していて、それに集中しているようであった。

 それを好機と考えた高丸は、森を飛び出して、なぜか仲間のいる塹壕へ一気に駈けた。斜面の土を掻くようにして、塹壕まで、あと五六メートルのところまでよじ登ったとき、陣地に爆発がつづけざまに起こった。高丸の体は、その一弾の爆風とともに斜面へ弾き飛ばされ、そこに張り出している灌木のなかに叩きこまれた。

 誰かが叫ぶ声で我に返ったとき、高丸は咄嗟に敵兵がいるものと思い、灌木のなかで息を殺して耳を澄ませた。そのとき、灌木に引っかかっている屍兵と眼が合った。白眼を剝いたその顔は、砲撃がはじまるまで自分の傍にいた大工見習いの戸川であった。戸川は、胸を射ち抜かれていて、右手首を飛ばしていた。

 また声が聞こえた。それは明瞭な日本語であった。用心深く斜面をよじ登ると、塹壕には、分隊長と赤羽の姿があった。曳田の顔も見えた。塹壕の向うにも人影があった。それは有働と野下であった。

 高丸は、斜面に仰向けになって胸を撫で下ろした。

 ――助かったんや! わいが気絶しとるあいだに、なんもかも終わってしもてたんや!

 無神仏、無信心を貫いて、自分以外を信じることのなかった高丸は、拝んだことのない神仏に、はじめて手を合わせた。すぐ眼の前で砲弾が炸裂したというのに、五体健全で生き残ったのである。

 ――これは奇跡なんか言うもんやない。きっと神さんがわいを護ってくれはったんや!

 顔を擦り傷だらけにした高丸は、全身を(すす)でまぶしたような姿で、斜面からひょっこりと寿の前に姿を現した。

 寿は、高丸の生存に手放しで喜んだが、高丸のほうは、寿たちの無事をこう思っていたのである。

 ――あんたら、どんな手段で生き残ったか知りまへんけどな、わいには神さんがついとるんやで、神さんが。そやさけ、わいは、もう死ぬことはありまへんで!

 煤で汚れた被服と焦げた脚絆が、むしろ、高丸は誇らしく思っていた。

 そう。手段はどうであれ、高丸は生き延びたのである。だから、こうして生き残った以上は、どうあっても生きて内地へ帰らなければならないと思った。女房と二人三脚、汗と涙で築いた財産と家族を護らなければならない。

 その高丸の執念とも言える思いが、こう言わせた。

「わいは歳を食うとりますよってに、皆はんより体は敏感に動きまへんけど、五体はしっかりしてま。ほんまやったら、わいみたいな軟弱な兵隊はとっくに死んどるところを、わいは神さんに助けられたんだす。もう死ねしまへん。いや死にまへんで。期待通りの役に立たんかもしれまへんけど、みんなの足を引っ張らんようにして、わいは一生懸命働きますよってに、班長殿、あんじょう頼んます」

 殆ど見えない闇のなかで、高丸は、寿を覗きこむように見て哀願した。

 寿は、このついでに、気になっていた高丸の脚絆がなぜ焼け焦げているのか尋ねようとしたが、しかし、それはもうどうでもいいことだと考え直して捨て置いた。

「俺も班長殿と一緒に行動しますよ。兵力は一人でも多いほうが心強いってもんだから……なァ曳田の」

 と、赤羽が曳田に同意を求めたが、黙ったままの曳田がうなずいたかどうかは、闇が隠して誰にもわからなかった。

「多数決だ。これできまりましたね」

 と、有働が曳田の答えを待たずに断を下すと、寿は、

「いや、まだじゃ。曳田、きさんはどげな?」

 と、訊き質した。

「……行くってきまったんなら、俺も行きますよ」

「わしの考えに異存はなかとじゃの」

「……ねえです」

 曳田の同意の返事に、寿は闇のなかでうなずいた。

「よし。みんな一緒に行こう。どうせいっぺんは棄てた命たい。その命がどこまでつづくか、行けるところまで行ってみようたい。ただしじゃ、その前に、もいっぺん念ば押しておくばってんが、途中どげなこつが起ころうとも、勝手な判断や単独行動は絶対ならんぞ。よかの?」

 男たちは口を揃えて返事をした。

「これからは強行軍になるけんの。夕べはろくに眠っとらんし、少し体を休めたほうがよかばってんが、そげな暇はなかぞ。腹ごしらえばして、早々に出発しようたい」

 一掴みの乾パンと缶詰を腹に詰めて、男たちは出発した。

 殆ど闇に近い状態での森の裾野を暫く歩いていると、夜空が晴れて、顔の半分欠けた月が雲間から顔を覗かせた。

 平原の大地に、先程の機甲部隊で黒々と抉られた軌跡が月下に朧に浮かび上がった。

 その軌跡は、行手のなだらかな丘を登っていて、その向うは、漆黒の闇に閉ざされていた。

「この轍、俺たちの安全な道案内をしてくれるといいですがね」

 と、有働が呟いた。

「そう願いたいとこやが、行き着いてみたら、敵のど真ン中ゆうこともあり得るけんの」

 そう言いながらも、寿は、夥しい戦車のキャタピラやトラックのタイヤで抉られた軌跡を追った。目的を果たすには、どうしてもこれを辿って、この眼で、自分たちの前途を確かめなければならないのである。

 一晩歩いて、行手に一本の樹木さえない緩やかな上りの稜線が視角に入ったとき、夜が白々と明け放たれた。

 高低差が極端でないから、山や丘を登っているという感覚は殆どなかった。一行は、さほどの疲れもなく、稜線に到達した。

 だが、男たちの足は、そこで釘つけになってしまった。寿の冗談が現実になったのである。一行は、慌てて藪に身を潜めた。

「敵さんの夜営は予測の範囲じゃが、まさかこれほどまでとはの……」

 寿は、眼を細めて苦々しく笑った。

 斜面を下った先には、師団単位と思える大機甲部隊が集結しており、行手の平原を塞ぐように、それこそ鼠一匹も通さぬ隙間もないほど、車輌と天幕が、まるで国境線の防壁のように、両翼の森まで張り巡らされているのである。

 朝食の準備なのか、比較的大きな幕舎には、炊煙らしき白煙が立ち昇っていた。

「冗談も、こりゃうかうか言えませんね」

 有働の無精髯も苦々しく歪んだ。

「凄え数だな。戦車や装甲車だけでも相当なもんだぞ。あっちもこっちも天幕で塞いじまって、ロスケが五万といやがる。あれじゃ進みようがねえな」

 赤羽が眼を丸めて呻った。

「あの様子だと、敵さん、当分動く気配はなさそうだぜ」

 と、曳田が返した。

「昨日の戦闘部隊と、ゆンべの後続部隊が合流ばしたとやろうが、それにしても、どう単純に見積っても、一箇師は悠に超えとるばい。それに、あの様子じゃと、昨日や今日天幕を張ったとも思えん。もしかすると、あすこが敵さんの兵站拠点かもしれんの?」

「こんな辺鄙な、野ッ原のど真ン中にですか?」

 有働が怪訝な顔を向けた。

「兵站は、戦闘状況で駐屯地も移動するけんの。それしか考えられん」

「それなら、こことは別の道もあるってことでしょ?」

「あの向うのどこかに、別の道があるとやろ」

「それじゃ、前には進めないってことですよ。ここまで来たってのに、拙いことになりましたね」

 寿は、森の裾野伝いにもう少し下りて、その先の周辺を窺おうと考えたが、すぐにそれは無駄であることに気づいて諦めた。

 昨日の戦闘でもそうであったように、あれほどの大機甲部隊である。道がなくても、それを拓くことぐらいは簡単にやってのける資材は揃っているのである。

 寿は、肉眼で見える範囲を念入りに観察しようとしたが、生憎距離が遠すぎるのと、天幕や車輌等々でその先の視界が遮られて、漠然とした状況でしか摑めなかった。

 ただ一つだけ明瞭なのは、夥しい数のドラム缶らしきものや、大小の木箱の類が山積みされていて、そこには様々な車輌が頻繁に入れ替わって物資の補給を受けていることから、そこは極東ソ連軍の兵站部であることに間違いなさそうであった。

 補給を受けた部隊は、順番が廻って来るまでの間、天幕のなかで休息しているようである。いずれそれらの補給部隊は、慌ただしく前線へ向かうのであろうが、それにしても、平原の直中に一つの小さな街が出現したかのようであった。

 社会主義革命を成功させた偉大な大国であることの厳然たる誇りと優越が、そこには満ち溢れていた。一個の消耗品として限られた物資のなかで戦わされた関東軍兵士には、とても望むことのできない(うらや)むべき軍事力の庇護がそこに展開されていた。

「あれじゃ手も足も出せん道理たい……」

 寿は、冷ややかに、それも観念的に笑うしかなかった。

「夜を待ちますか」

 有働が溜息混じりに呟いた。

「いや、待つだけ時間の無駄たい。あれが兵站基地とわかった以上、あれは動くまいけんの」

「それだったら、この森を抜けるしか方法はありませんよ。ね、思い切って森を抜けましょうよ。森の奥にさえ入りこまなきゃ、いつでも元に戻れるはずでしょ」

 寿は、樹海の森と、敵の場所を交互に見定めた。

 そこからは、忙しく行き交う運搬車のディーゼル音に混じって、補給の合図の甲高い笛の音が虚空に錯綜していた。

 もう一度、森を視た。

 森を歩くのは、賢明な策でないことは百も承知である。だが兵站部のあの音を頼りに深入りさえしなければ、この場はどうにか切り抜けられそうに思えた。ここまで来たのだ。いまさら振り出しに戻すには、少々時間をかけ過ぎている。

「仕方がなか。そげするか」

 気の重い決断であった。

「お前の言うとおり、できるだけ浅かとこば進みゃ抜けられんごつなさそうじゃ」

 一行は、腰の高さまで生い茂った雑草を掻き分けて、森へと足を踏み入れた。

 森に足を踏み入れて四五十メートルも入っただろうか、それまで腰の高さまであった雑草の類が急に背丈を低くして、その奥は腐葉土の絨毯と化していた。

 周辺を見渡すと、そのはずである。鬱蒼とした樹木の葉が天蓋となって陽光を遮っている。そのせいで、雑草は無論のこと、湿った樹木の幹に張り着く苔以外、植物に類する生育は許されてはいないのである。

 寿は、まだ誰にも踏まれたことのない、ふわふわとした弾力のある腐葉土を踏み締めて進んだ。

 勝手気儘に枝を張る樹々を潜り抜けて歩くには少々難儀を要するが、森を迷わずに進むには、多少の危険を伴うが、平原に近い地帯を択んで、兵站部が発する騒音を外さずに進むしかない。それさえ誤らなければ、森の迷路に嵌ることはない道理である。

 だが、外界の音を頼りに暫く進んでいるうちに、間の悪いことに、敵の天幕が森の奥深くまで入りこんでいて、それを避けるには、さらに森の奥深く迂回しなければならなくなった。

 寿は、迂回しようと、森の奥へ進入しかけたが、その先の森は、白昼なのに、まるで夜の帷を下ろしたかように暗く、万一を懸念した寿は、いったん元の場所まで退がって様子を見ることにして、男たちに後退を命じた。これが、思わぬ事態を招く結果となった。

 戻るときは、逆の縦列となった。

 殿を歩いていたのが曳田であったから、その曳田が先頭を歩く番となった。

 暫く進んだところで、曳田が急に立ち停まった。

「おかしいな?」

 と、呟くように言って、曳田のあとにつづいている赤羽をかえり見て首を捻った。

「これはよ、さっき俺たちが踏み荒らした跡だよな」

 赤羽が首を出して、踏み(しだ)かれた跡を視てうなずいた。

「俺たちしかいねえんだから、そうだろ」

「だとしたら、おめえ、変だぜ?」

 と、曳田はまた首を捻った。

「俺たちはよ、さっきは向うからこっちに向かって来たんだよな、それも、いまみたいに縦列でだ。だったらだぞ、それが、なんであすこで二つに分かれて、ここで一本になってるんだ?」

 その先を視て、赤羽も首を捻った。

「確かに変だな? 誰かが通って踏み荒らした道だとしても、それなら、来るときに気づいているはずだからな」

「……俺たち、どっちの道から来たんだ?」

 そこへ寿が来た。

「どげしたとか?」

「いえね、あれですよ」

 と、赤羽が指をさした。

「おかしいと思いませんかい、あれ?」

 その先を視て、寿は、絶望的な笑いを滲ませた。先頭を歩く曳田が、戻る道を見誤ったらしいのだ。

「ありゃ獣道たい」

 と、言いきった。

「猪か、それともノロジカかわからんばってんが、四つ足の類が通ったあとたい。わしが歩いとるときにはなかったもんたい」

 そう言われても、獣道など見たこともない二人は、半信半疑のまなこでそれを見つめて首を捻った。

「これは獣道ゆうての、この森に棲む獣が、毎日のように通うてできたもんたい。つまり、獣はきまったところを通る習性があるけん、こげん(あぜ)(みち)ができるとじゃ」

 それを聞いても、曳田は、まだ得心がゆかなかった。

「だけどよ、これが獣道だとしたらよ、班長さんもこれを歩いたことになるぜ? だってよ、俺ァそれを辿って戻って来たんだから」

「いや、そうとは言いきれんばい。わしは曠野の縁の木立の間を抜けて来たとじゃ。こげな歩き易か獣道があったら気づかんはずはなか」

 言って、寿は少し踏みこんで、二つの獣道を確かめた。

 どの道筋も綺麗に踏み(なら)されて、整然と森の奥へとおぼしきほうへ向かっている。森に詳しい者なら、これは人間の足跡でないことは一眼で見分けるが、森を知らない者が見れば、それは恰も人間が通った畦道と考えるのは至極当然であった。

 それをわかっているから、寿はやんわりとこう言った。

「きさんのせいやなか。戻る途中に偶然これに当たって、それをわしらのもんやと信じて来ただけたい。気づかんで当たり前たい。山師でさえ迷うとやけんの」

 と、自分が先頭に立たずに慎重を欠いたことを後悔しながら、複雑な面持ちを森に泳がせて耳を澄ませた。外界からの笛の音は? その騒音は、そこから移動した分だけ遠くにあった。

「仕方なか。ひとまず反転したところまで戻ろう」

 寿は、反転した場所まで引き返すことにした。

 このまま進むよりも、笛の音を頼りに戻ったほうが、深みに填まらずに平原に出られるはずである。

 寿は、慎重な足取りで、自分たちの足跡を辿った。

 だが、狭い島国の森で培った寿の経験など、広大な大自然の密林には通用するはずがなかった。

「いったい、どうなっているんですかね」

 玉のような汗を額に浮かばせた有働が言った。

「おかしかの」

 森に欺かれてしまった寿は首をかしげた。

「こいつを辿りゃ、簡単に元ば戻れるごつ思うたとやが、こげな場所は通らなんだはずたい……」

 周辺を見渡すと、どれも同じような景色と薄暮のような明るさである。

 寿は、辺りを見廻して耳を澄ました。

 先程まで聞こえていた兵站部からの騒音も笛の音も、完全に聞こえなくなっていた。そのことから判断して、もしかすると、これは森の奥へ入りこんだのではないかという不安が募り、いったんは進むことをためらったが、しかし、森の出口はこの周辺のどこかに必ず開かれていると内心で信じていたし、早く出たいという誰もの焦りに煽られて、寿は、さらに先へ歩を進めた。

 このとき、寿がもう少し冷静な判断を持ち合わせていれば、進路を誤らずに済んだのである。

 一行にとっては不幸なことに、兵站部は休憩時間に入ったために、作業を中断して一切の騒音を消していたのである。十分後に作業が開始されたときには、一行は、既に音の届かぬ山深いところを歩いていた。

「それにしても、班長殿、どこを見ても薄暗くて、みんな同じ景色ですよ。これじゃどこをどう歩いているか、さっぱり見当がつきませんね……」

 水を浴びたような汗を被服に滲ませた有働が、軍衣の袖で額の汗を拭って溜息を洩らした。

「さっき、でかい岩を横切ったでしょ。そこまで引き返しませんか。この分だと、すぐに暗くなりますよ。あすこにはちょっとした広場もあったし、陽が落ちても野営できますよ。そこで先を考えましょうや」

「そげするか」

 と、呟いたものの、寿は考えこんだ。

「……しかし、そげにしても、おかしかたい。この近辺のどこかに、必ず出口があるはずなんじゃがの」

 一行は、再び踵を返した。

 だが、一行は、今度はその岩へさえも辿りつくことができず、進めば進むほど、密林の迷路に嵌ってしまった。

「迷いましたね」

 有働が呟いた。

「……迷うたの。簡単に出らるる思うたばってんが、甘かったばい……」

 寿の苦痛に歪んだ顔が天空を仰いだ。

「ほんの、すぐそこのはずだと思ったんですがね、いったい、この森はどうなっているんですかね?」

 高い樹木の天空には、灼熱の陽光が密林を焦がす勢いで燃えているはずである。それなのに、方位が皆目摑めない。自由気儘に繁茂した樹木の葉は、見知らぬ闖入者のことな素知らぬ顔で陽光を遮蔽して、行く手は、まるで宵闇のようであった。これでは太陽の位置を特定するのは困難である。まごまごしていると、森は、すぐに足下も見えぬ闇と化すのだ。

「どこを歩いても同じなら、どうせなら、もう少し行ってみませんか」

 有働が半ば投げ遣りになって言った。

「明るいうちに行けるところまで行けば、厭でも答えは出るんです。出口だって見つかるかも知れない。とにかく、行くだけ行ってみましょうや」

 言って先に動いた。

 策を見失った寿も、仕方なくそれに従った。

 森が夜の帷を下ろしはじめるころまで進んだが、出口はとうとう見つからなかった。これ以上は、夜目と鼻の利く夜行性動物以外歩くのは危険である。

 寿は、偶然行き当たったブナの大樹の根元に比較的広い場所があったので、その場所で野営することにした。

「火を()いちゃいけませんか?」

 と、有働が言った。

「冷えてきやがった」

 真夏の熱気をたらふく吸収した森の樹木は、夜になると、今度は底冷えする冷気を吐き出しはじめたのである。

 寿は、周辺に耳を澄ませてから火を焚くことを許した。

「深い森たい。よもや敵に発見さるることはなかろうけん、焚いてもよかばい。獣除けにもなる。きさん高丸と焚き木ば(あつ)めてこい」

 二人は、周辺に転がっている枯れ枝を拾い蒐めて、携行している天幕を火の周りに敷いた。

 冷えこむ体には火は有難いものである。敗残兵たちは焚火を囲んで、乏しい携帯口糧を開いた。

 焚火の熱気で顔を赤らめた曳田が、(てのひら)に載せられて揺らめく(かん)(めん)(ぽう)をしみじみと見つめてぼやいた。

「戦をしねえ後方の奴らはだぞ、今頃は安全なところへ逃げてよ、可愛いスーちゃんと温けえものをたらふく食ってやがるんだろうな。俺たちはこんなところでよ、歯糞にもならねえもんを食っているというのによ」

「関東軍の物資さえ充実してりゃ、こんな思いはしなくて済んだんだ! それを丸太の擬砲なんか置きやがって!」

 赤羽が怨みのこもった呪いの声を発した。

「……関東軍は、ほんとに負けたのかな?」

 と、曳田が不安気に呟くと、赤羽が吐き捨てるように言いきった。

「きまってるじゃねえか。こっちは丸太の()(ほう)、あっちはロケット弾だ。あれほどの装備を備えた奴に勝てるわけがねえ!」 

「だったらよ、南方や沖縄を潰された日本の内地も、もしかすると同じことになってるんじゃねえか? アメ公も相当なもんだっていうぜ」

「あっちはビフテキ、こっちは乾パンの差だ。脂がこってり乗った肉をたらふく食ってりゃ、ガキでも強くなるのは当り前だ」

 呟いた赤羽の声は弱々しかった。

 それを上目遣いに聞いていた有働が、

「ビフテキで思い出しましたがね、班長殿」

 と、焚火の火をいじりながら、

「あの松月にいた冬美って女、憶えていますか」

 と、呟いたものだから、それを耳にした赤羽たちの顔が急に明るくなって、一斉に有働へ眼を向けた。

「あァ憶えとる。若いが、頭のよかごつ、しっかりしたおなごやったばい」

 有働は、女を想い出して含み笑いをした。

「あの女、見かけは細い体でしたが、おっぱいは豚まんのようにふんわりとして、あそこは巾着のように締まっていた。いい女でしたよ」

「そんな女がいたのか?」

 曳田が声を弾ませて割りこんだ。

「あァ、俺には勿体ねえくらいの、いい女だったよ」

「それで、どうだった?」

 と、これも焚火で顔を上気させた赤羽の眼が、爛々と輝いた。

「口じゃ言いようのねえいい女だったよ。四家屯の監視哨へ行く前の晩だ、その女を一晩借り切って、呑んで、一晩じゅうやりまくった。あの女とは、あれが最後になっちまったな……」

「チキショー、貸し切りたァ豪勢にやりやがったな。こちとらァ一発やったらかねがなくなっちまって、あの晩は膝を抱えて五尺の寝台だ」

 曳田が、口惜しそうに呻った。

「いまなら、どんな女だって文句は言わねえぞ、この森を出て、娑婆に戻ったらやりまくってやる!」

 と、両膝を抱き締めて、反るように体を揺らした。

 その男たちに、寿が厳しく釘を刺した。

「おなごの話はなんぼでんしてもよかが、きさんらに一つだけ忠告をしとく。これから先、たとえ民家があっても、おなごには手ば出しちゃならんぞ。勝手に軍袴の釦ば外したら、わしが許さん。よかの」

「女のほうから股を開いても、ですか?」

 有働が不服そうに反駁した。

「阿呆。きさんらのような薄汚れた敗残兵に、はいどうぞと素直に股を開くおなごが、どこの世界におるか!」

 と、眼を尖らせると、赤羽と曳田が互いの被服を見合ってにが笑いを浮かべた。言われてみれば、なるほどもっともなのである。

 寿は、硬い表情を崩さずにいたが、内心では男たちを羨ましく思っていた。こんな状況に陥っていても、女だけは決して忘れない。寿とて同じである。女房の存在があるからこそ、決死の覚悟で生き延びようとしているのである。ただ、軍隊の階級こそ捨ててはいるが、自分がこの男たちの指揮を執っているという自覚が優先しているせいで、男たちのように露骨な振舞いができないだけである。

 それがこう言わせた。

()()へ帰って娑婆のおなごが抱きたかとなら、まずこの森を抜け出す策を考えることじゃ」

 すると、有働が、さらりと言ってのけた。

「なあに、この森だって地球の涯までつづいているわけじゃありませんよ。いつかは出られます」

「糧秣はどうするよ? この分だと、明日は危ねえぞ」

 曳田がそう答えと、有働が鼻で嗤うように言った。

「腹を空かせる生き物は俺たちだけじゃねえんだ。鳥も獣もこの森に棲んでるんだ。銃さえありゃなんとかなる」

「そりゃそうだがよ、だけどそう都合よく行くかな……」

 と、曳田は言葉を切って、すぐに言い足した。

「だってよ、獣道てえやつは確かにあったがよ、ここに来るまでに、俺ァ獣一匹見なかったぜ」

「いなきゃ、探すまでさ」

「どうやってだ?」

「そりゃ、お前、そのときは班長殿に考えて貰うさ。班長殿は狩りの名人だ。ねえ班長殿」

 寿も、じつはそれを考えていた。獣道があるということは、この森には確実に生物がいるという証である。警戒心の強い獣は、未知との遭遇を怖れて姿を現さないだけである。ただ、それが頭を痛める問題であった。

「有働もみんなもよう聞け。この森には、有働の言うように獲物は確かにおる。奴らは、わしらより眼も鼻も利く警戒心の強か生きもんたい。わしら人間の臭いで、滅多なごつ姿は現さん。明日からはオイも注意して歩くが、全員で森の周辺を警戒して歩いてくれ。ただし、少しでも動くもんがあったら、無闇に声を出しちゃならんぞ。奴らは敏感やけん、それだけで姿ばくらますけんの。よし、おなごの話はそのくらいにして、今夜は体を休めておけ。明日は、きつか行軍になりそうやけんの」

 男たちは、その場に寝転んだ。

 寿は、先程から膝を抱きかかえて、ぼんやりと焚火の炎を見つめている野下に眼をやった。

 野下は、初年兵のときから、寿の班で起居した唯一の兵隊である。多くの部下を死なせてしまったが、野下が生き残ってくれたのがせめてもの救いでもあった。

『おふくろが病気なんです』

 以前、弾薬庫勤務の際に、野下が寿にそう打明けたのを思い出した。

『おふくろは、自分の帰りを待つために生きているようなものです。だから、除隊をして、自分がおふくろの面倒を()なければなりません』

 哀しげな眼差しを寿に向けて、そう言ったのが、ほんの数日前のことのようであった。

 軍医として南方へ徴用された父親の消息は、その後も不明のままのようである。仮に、消息を報せる便りがあったとしても、いまの野下のところに届きはしないのである。

 地方では、不自由のない暮らしがあるにせよ、夫の安否を気遣い、我が子の無事を祈りながら病床に()している孤独な母親を思うこの青年を、寿は、なんとしてでも母親の許に帰してやりたいと思った。

「傷の具合はどげな?」

 そう訊くと、野下は、顔を上げて無理な作り笑いを見せ、

「高丸のお蔭で、いまのところ出血はありません」

 と、うそぶいた。先程から傷口が疼いているとは、口が裂けても言えないのである。

 寿は、消えかかりそうになった焚火の火をいじりながら、うなずきを返した。

「起きとると傷ば障るけん、いまのうちに、体を充分休めるとぞ」

 言いつけて、寿も有働の横に寝転んだ。

 無邪気なものである。有働は、女の夢でも見ているらしく、小銃を抱いて寝息を立てていた。

 寿は、雑嚢を枕代わりに両の手を後頭部に当てがって、焚火の灯りに揺れるすぐ真上の樹木の葉を見つめて、まだ見ぬ我が子の顔を思い浮かべた。

 男であれ女であれ、今頃は、ヨチヨチと独り歩きをはじめたころである。そう思うと、残した家族の顔が次々に浮かんでは消え、そのあとで、どんなことにも愚痴一つこぼさない女房の顔が浮かんだ。あれには、苦労のかけどうしであった。どうしているか? みんな達者であろうか?

 様々な顔が浮かんでは消え、やがて、戦闘前夜以来殆ど一睡もしなかった疲れが一気に襲いかかって、寿は泥のように眠った。

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