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消耗品たちの八月十五日  作者: 河野靖征


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 どれほど眠りつづけたかわからない。血生臭い息苦しさに目覚めたときは、寿は、闇の中へ封じこめられていた。

 頭が割れそうに疼いて、耳鳴りがひどかった。意識は、どうやらはっきりとしているらしく、体にはどこも痛みを感じなかった。

 寿は、少しの間、そのまま動かずにじっとしていた。体のどこにも痛みがないということは、これは余程の重傷を負っているか、それとも無傷かである。

 まず両手の指を動かしてみた。どうやら、腕は大丈夫のようである。今度は足の爪先に力をいれてみた。これも大丈夫のようであった。自分の体に圧し被さっている部下の屍を押し除けて、顔をまさぐって腹をまさぐってみた。五体は、どうやら無傷のようである。幸運の女神は、どうやら、寿に味方したようであった。

 仰向けのまま、天空を見上げたが、眼が(かす)んでいるせいか、天空一面は灰色に濁っていて、そこは太陽の光さえも通さぬほどの分厚い雲で覆われていた。

 寿は、敵を警戒して、そのままの姿勢で耳を澄ました。

 陣地には、物音らしいものは何一つ聞こえず、薄気味悪いほど鎮かであった。その限りで判断すれば、戦闘は、どうやら終わっているらしく思えたが、戦闘が終わっているかどうかは、自分の眼で確かめるまで、安易な判断は禁物であった。

 寿は、半身をそっと起して、まず翳んだ眼を水筒の水で洗い、土砂でジャリジャリする口を(すす)いだ。

 軍衣の右肩から脇にかけてベットリと血が染み着いていたが、これは寿に折り重なった屍兵の血であった。

 塹壕を見渡すと、自分たちの陣地は無残にも崩されていて原形をなくしていた。

「……有働……」

 傍にいたはずの有働がいないのに気づいた寿は、小声で呼びながら、転がっている屍兵の一つ一つを確認した。

 有働は、しかし、なぜかいなかった。

 もしかして爆風で飛ばされたか、それとも砲弾で粉砕されたかのどちらかであるが、それにしてはおかしかった。自分と同じように爆風で飛ばされたのであれば、有働は身近に転がっているはずで、もし砲弾の犠牲になっているのであれば、当然ながら寿も生きてはいない道理なのである。

「有働!」

 寿は、敵を警戒して囁くように叫んだ。

「有働!」

 もう一度呼んでみたが、返事はない。やはり爆死したのかと思うと、寿の胸に、深い絶望感が一度にこみ上がった。

 肉片も残さずに死んでしまったのなら諦めるより仕方がないが、寿は、しかし、諦めきれなかった。死んでしまったのなら、せめて死んだという証明が欲しかった。遺品でも肉体の一欠片でもいい、拾ってやりたかった。

 寿は、有働の名を呼びながら、土砂に半分埋まって折り重なっている屍体を一つ一つ引き起こして調べた。粉砕されていても、有働の欠片はどこかにあるはずである。

「有働、生きとるなら、返事をせい!」

 捜しながら、殆ど泣き声に近い声で呼びつづけた。

「有働。有働はどこか!」

 いくら呼んだところで、死んだ者に答える口はない。有働は、やはり死んだのだ。

 絶望と同時に、そう諦めかけたとき、地の底から呻くような声がした。

 ――誰ぞ、生きとる者がおるとか!

 寿は、折り重なる屍兵を引き起こしてその声を辿った。

「どこか? どこにおるとや。おい、官姓名を言え! 助けちゃる。きさんは誰か!」

 声の主は、折り重なった屍兵から聞こえたように思えた。

「どこか。返事をせい!」

 もう一度声をかけた。

 すると、

「ここです、班長殿」

 と、屍兵がまた答えた。

「早く、上の奴をどけてください」

 寿の顔が俄かに明るくなった。

「有働、きさんか?」

「そうです。早くどけてくれませんか。この野郎、重くてしょうがねえや」

 有働の巨体は、どういうわけか、九尺も離れた場所まで飛ばされていて、これも仲間の下敷きになって、土砂に埋もれて奇跡的に無傷で生きていた。折り重なった仲間の屍や転がった背嚢で出来た僅かな空間が、幸運にも有働の窒息を防いだのである。

 土砂を掻き払い、屍兵を掘り起こすと、そこから泥まみれになった顔が出て来て、無精髭がニタリと笑った。

 途端に寿の顔が崩れた。

「きさん、生きとったとなら、なんでもっと早よう返事ばせんとか。このばかたれが!」

 と、有働の肩を小突いた。

「遠くで声が聞こえたんで、敵兵だと思ったんです」

「まァよか、それよりきさん、どこも怪我はないか?」

「耳んなかがね、ガンガン鳴っています」

 と、半身を起こして体をまさぐった。

「……どこも……異常はないようです」

「お前は死んだ思うて、オイは力ば抜けたばい。よかった。無事で、よかったたい」

 と、顔をクシャクシャにして歓んだ。

「戦況は、あの、どうなりましたか?」

 有働は大きな眼玉を泳がせた。

「待っとれ。いま確認する」

 寿は、崩れた塹壕から顔を覗かせて、外を窺った。

「やけに鎮かけんが、どうやら終わったごつあるようたいの……」

「敵はいませんか?」

「見て来る」

 と、寿は塹壕から這い上がった。

 その途端、戦闘のあまりの凄まじさに総身の毛が逆立って、体内の血液が濁流のように引いて血の気を失った。

 陣地は、ものの見事に潰滅されていた。どの戦闘壕も殆ど形を残しておらず、夥しい血を吸った大地には、誰の者かわからない腕や足が飛び散っており、一帯は、死屍累々と化した地獄の惨状そのものであった。有働と自分が生きているのが嘘のように思えた。

 有働の許に戻ろうとして、塹壕を下りて歩きかけようとすると、下から血まみれの手が伸びて来て、寿の脚絆を掴んだ。

 見下ろすと、か細い声が手を差し伸ばしていた。それは野下であった。

「……班長殿……」

 寿は野下を抱え起こした。

「きさんも生きとったか。よかった。よかったのォ」

 と、肩を抱き締めようとして、俄に眉間に皺を寄せた。

「肩か?」

「……やられました」

 野下は細く笑った。

 寿は、血に染まった野下の軍衣を脱がせて傷口を調べた。診ると、これは砲弾の破片でやられたのではなく、銃弾による右肩の貫通銃創であった。多少の出血はあるが、止血さえすれば助かる。火薬で傷口を焼けば、そこを殺菌して止血や化膿は防げるが、いまはその余裕はない。

 寿は、応急処置に、野下の軍衣の内隠しから包帯包を取出して、(しよう)(こう)ガーゼを傷口に当てがった。

「傷口ばしっかりと圧えとれ。あとで手当てばしてやる。有働!」

 と、有働を呼んで、

「この様子じゃと、まだほかにも生存者がおるかもしれんばってん、調べてくるから、こいつを頼む」

 言い残して、寿は、塹壕を這うように低く声をかけた。

「生きとる者はおらんか。返事をせい。助けちゃる」

 すると、塹壕の端から、戦死したはずの赤羽の巨体がムクリと起き上がった。その隣で、曳田も無傷で生きていた。

 関西訛りの高丸が、どういうわけか、軍靴と巻脚絆を焦がして斜面を這い上がって来た。

「お、きさんも! よかった」

 寿は、泥まみれの笑みを浮かべた。

 川尻分隊は、奇跡的に生き残った六名だけを残して、あとは戦死してしまった。

「有働と野下があっちにおる。そこで待っとれ」

 言って、寿は、ロ号指揮所に駈け上がった。

 ロ号指揮所の幕舎は跡形もなかった。若い見習士官が側頭部を射ち抜いて絶命していたが、軍刀も拳銃も身につけていなかった。自決した死骸から、赤軍兵が戦利品として持ち去ったのである。

 寿は、埴生を捜したが、周辺には埴生の死骸は転がっておらず、桑畑の姿も美祢も見当たらなかった。このことから判断して、二人は、寿を襲ったのちに、見習士官に指揮を押しつけて逃亡を謀ったのである。

 寿は、そこから部隊本部台上の周辺を窺い視たが、その辺りは地形が変わるほど破壊されていた。

 不思議なことに、陣地周辺には、ソ連兵の死体だけが残されていて、あとは移動したらしかった。仲間の戦場処理も行わずに慌ただしく移動したということは、戦場処理班を伴った後続部隊が来るということを意味していた。

 寿は足早に戻ると、男たちに顔を横に振った。

「駄目たい。陣地は完全に壊滅されとる。敵は前進したらしかごつあって、敵兵の姿はどこにもなかばってんが、ぐずぐずしとると、じきに後続が来るぞ」

「あの野郎どもは?」

 有働が訊いた。

「二人ともおらん」

「やっぱり、逃げやがったんですね」

「見習士官が自決ばしとったところをみると、そげに考えてもよかの」

 有働が、泥だらけの顔を、憎々しく寿に向けた。

「生きてるんだか死んでるんだか知りませんがね……」

 と、自分に言い聞かすように呟いて、

「もし生きてやがったら、野郎、見つけ出してぶっ殺してやる!」

 と、塹壕の土を拳で叩いた。

「ロスケは、本当にいねえんですかね、班長殿」

 赤羽が、心配そうに顔を向けた。関特演の()()は、ソ連軍の猛攻撃で、すっかり意気銷沈していた。

「この周辺には、いまのところは姿はないがの、戦場処理もやらんと前進したとじゃ。これは、すぐに後続部隊が来るという証明ぞ。もたもたしとったら危険じゃ。まずは安全なところまで脱出しようたい」

「生存者は、あの、生きている者は、このほかにもいませんかね?」

 と、有働は、眼玉を方々に忙しく泳がせながら軍衣の泥を掃った。

「見てのとおりたい。この惨状で、わしらが生きとるのが奇跡たい」

 そう言ったものの、寿は、赤羽と曳田を本陣に走らせて、高丸と野下をその場に残して、有働とロ号陣地の塹壕を調べた。陣地は非業な死を遂げているが、自分たちのような幸運な生存者が、まだ他にもいるかも知れないと思い直したのである。野下のように、独歩で動ける者がいたら、救けるつもりでいた。

 生存者は確かにいた。だが、それは、どれも動かすことのできない瀕死の重傷者ばかりであった。彼らは、うわ言のように助けを求めて呻いていた。

 そのうちの一人が、血で薄汚れた下士官の姿を見て、幾分元気づいたようであった。僅かに残っている生気を奮い立たせるように半身を起こして、既に土色に変色している顔を向けた。

「お疲れのところ恐縮でありますが、自分はこのとおり、まだ元気であります。戦えます。班長殿、一緒に連れてってくれませんか」

 童顔の抜け切れぬ顔形からして初年兵である。

「補充兵か」

 そう訊くと、負傷兵は歪んだ作り笑いを浮かべた。

「学徒動員であります」

 寿はうなずいた。

 負傷兵は小銃を杖に起き上がろうとして、大量の出血で染まった塹壕に崩れた。右足の大腿から下を飛ばされているのである。包帯布で傷口を縛ってはいるが、呼吸をするたびに傷口から血が滲み出ていて、その死は時間の問題となっていた。

「……その足で歩くのは無理じゃ」

 負傷兵には冷酷な死の宣告であった。

「お願いします。これを杖代わりにすれば、歩けます。迷惑をかけるでしょうが、必ず歩いてみせます。班長殿、一緒に連れてってください」

 負傷兵は、崩れた塹壕から哀願した。

「あれじゃいくらも保ちませんよ。可哀相だけど、引導を渡してやるのが人情ってもんですよ」

 有働が囁くように言うと、寿は、負傷兵から顔を背けて静かにうなずいた。それが適切な判断と考えたのである。

できるものなら救ってやりたいのだ。いま病院へ担送すれば、この学徒の青年は助かるだろう。それがわかっていながら、なにもしてやれないもどかしさに寿は胸を痛めた。

 仕方のないことである。手当の施しようのない重傷者を救出したところで、やがては悶え苦しみながら死なせて野末に遺棄することになる。そうするよりも、この場で引導を渡して、先に逝った仲間のところへ行かせてやるのが、せめてもの情けというものである。

 自分にそう言い聞かせて、寿は掠れた声でこう言った。

「手榴弾……持っとるか」

 相手がその意味を理解するまで、少しの間があった。

「……わかりました……」

 か細く答えて、負傷兵は覚悟の挙手した。

 寿は、胸の内で詫びて、その場を逃げるように離れた。

 暫くして、乾いた爆発音が起こった。寿の足が一瞬縺れるようによろめいたが、その足は、しかし、停まることはなかった。負傷兵が自爆したのは明白だからである。

 寿は、生気のない蝋人形のように白くなった顔を天空に向けた。眼から、一筋の涙が滴り落ちていた。

 陽は、まだ落ちていないはずのそこは、依然として薄墨を塗ったようにどんよりと濁っていて、太陽がどの位置にあるのか判然としなかった。気を失った時間がどれほどであったかは定かでないから、見方によれば、夕暮れのようでもあるし、朝を迎えたばかりのようでもあり、いまにも空が泣き出しそうな雲行きにも見えた。それが、却って心の虚しさを複雑にして、頭のなかを混乱させた。戦闘前夜とは真逆の心境であった。

 生き残って、同じ苦しみを味わうのであれば、どうせなら、土砂降りの、猛烈な(しゆう)()が欲しかった。無意味な戦争で、汚れるだけ汚れたおのれのすべてと、()(ざん)(けつ)()と化したこの凄惨な戦跡を一気に洗い流して欲しかった。

 待たせている野下たちのところへ戻ろうとしたとき、本陣からも同じような爆発音が起こった。赤羽たちも、負傷兵に引導を渡しているのである。

 寿は、その音で我に返った。

「敵の後続が気になる。これ以上は危険じゃ。有働、諦めようたい」

「そうですね」

 有働もそう感じていたようである。薄暗くなりかけた辺りをもう一度見廻して答えた。

「行きましょうか」

 と、行きかけた有働に、

「おい」

 と、寿が呼び制めた。有働が手ぶらであることに気づいたのだ。

「きさん、銃はどげした?」

「銃ですか?」

 と、首を少しかしげて、

「……そういえば、気がついたときには持っていませんでしたから、爆風で吹っ飛ばされたんじゃないですかね」

 平然と答えた。

「オイの銃も爆風で飛ばされた。拳銃は無事じゃが」

「丸腰だと、危険ですね」

「仕方なか。おまんは転がっとるやつを拾えばよか」

 小銃はすぐ手に入った。しかし、肝腎な実包は誰も射ち尽くしており、携帯口糧も食い尽くされて一粒の乾麺麭も残されてはいなかった。

 寿は、携帯天幕も飯盒も爆風で飛ばされていたから、これも屍兵のものを剥ぎ取った。

 赤羽たちが戻って来た。

「重傷者は、手榴弾で自決。生存者は一人もおりません」

 赤羽の報告を受けた寿は、静かにうなずいた。

「糧秣も実包も残っとらん。本陣の糧秣庫に、なんぞ残っとるかもしれん。行って調べてみよう」

 一行は台上に足を向けた。

 途中、池の湧水で水筒の水を汲もうとして立ち寄ると、池は、十数個の死体で埋め尽くされていた。

「これじゃ手の出しようがなかぞ」

 泥まみれになった顔で寿が観念的な笑いを洩らすと、有働がニタリと笑った。

「大丈夫ですよ。見てください、水は地下から湧いているんです。この連中をどかせば、すぐに綺麗になりますよ」

 有働と赤羽が池に入って屍兵を引き上げた。

 池の湧出量が豊富なせいで、屍兵の血は殆ど洗い流されていたから、池は見てる間に澄み渡った。

 有働たちが水を汲んでいる間、寿が野下の傷を診ようとすると、高丸が曖昧な愛想笑いを浮かべた。

「火薬で傷口を焼いときましたさかい、たぶん化膿する心配はないやろ思います」

 高丸の言うとおり、火薬で焼かれた傷口は塞がっていた。

 寿はうなずいて、野下に言った。

「歩けるか」

 野下は、こくりとうなずきを返した。傷口は気が狂うほど痛むが、死ぬことに較べれば、なんでもない傷である。

 寿は、有働から手渡された水筒を受け取ると、一行を促して本陣台上へ駈け上がった。

 本陣は、見事なまでに破壊されていた。

 部隊長と副官が潰滅した望楼の脇で絶命していた。全身に無数の弾痕があることから、二人とも自動小銃で殺害されたのである。

 この二人も、あの見習士官同様に、軍刀も拳銃も持ち去られていた。部隊長は、ほかにはなにも身につけてはいなかったが、銃弾で穴だらけになった副官の将校鞄を調べると、空になったウイスキーのポケット瓶が、バラバラに砕かれて入っているだけであった。

 破壊され尽くした本陣の糧秣庫は、糧秣の類は綺麗に噴き飛ばされていて、一粒の米も乾麺麭も残されてはいなかった。トラックは残されていたが、砲弾で破壊されていて、歪んだ車体からは黒煙が(くすぶ)っていた。

 唯一救われたのは、瓦礫と化した本陣指揮所跡に乾麺麭の袋が三つ転がっていたのと、そこに斃れている二名の兵隊の雑嚢のなかには、これは戦闘配備時に支給されたのであろう、一日分の携帯糧秣と甘味品の羊羹に煙草が一箱づつと、それに手榴弾二個がそれぞれの雑嚢に残されていることであった。二名とも、前後の薬盒に実包が手つかずで残されていることから、この二名は、部隊長と副官の従卒であろうと寿は判断した。

 寿は、屍兵の雑嚢と弾帯を手早く抜き取ると、それを有働に手渡した。

「みんなもなかやろけん、分けちゃれ」

 遠くで、連続的な砲弾の炸裂音が聞こえた。

 炸裂音が方々の山に反響しているから方角は定かではないが、音の響きからして、かなりの弾量が遣われているようであった。

「遜河の中隊ですかね?」

 と、有働が聞き耳を立てた。

「方角はわからんばってんが、かなりの砲撃を受けとるのは確かたい。さ、急ごう。またぞろ同じ眼に遭うちゃかなわんからの」

 寿たちは、足早に陣地を下った。

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