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消耗品たちの八月十五日  作者: 河野靖征


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 陣地に到着したのは、翌日の早朝であった。

 本来なら、夕刻時限には到着しているはずのものをわざと遅らせたのは、前と同じように、夕刻や夜間に到着したところで、編入部隊には、ろくな対応をしないことを承知しているからである。

 陣地は、ちょうど将兵の朝食が終わったころで、兵たちは、戦闘配備のまま、塹壕の其処彼処で寛いでいた。

 この部隊は、遜河沿岸より国境線に近いところの小山に陣を構えていて、敵が遜河を渡河する前に叩いて、孫呉への進行を阻止しようという第二線の火点として、遜河北西の北孫呉で新制された第八八四二部隊が守備に就いていた。

 陣地は、正面から見る分には、どこにでも存在する地殻が盛り上がった禿(はげ)(やま)のように見えたが、これを側面から見ると、歪な瓢箪を逆さまにしたような形をしていて、陣地後方の遜河へとつづく細い平原への関所のような形で聳え立っていた。

 このことから、陣地将兵は、部隊番号があるにもかかわらず、()()()()などという不吉な数字を嫌って、日本の逆さ富士に(なら)って、逆さ瓢箪山陣地と呼称していた。

 敵前に当たる陣地正面の黒龍江沿岸までは、およそ二十キロ強である。黒龍江の周辺には、数キロ単位の湿原が点在しているが、あとは四家屯の開拓団のような高低差のある、遮蔽物のない固く締まった地盤の荒野が行く手を拡げていて、その敵前を睨むように陣地は構築されていた。なにも知らない者が、と言うより、遠くから見る限りでは、関東軍の威風堂々たる堅固な陣地に映った。

 だが、その実態はそうではなかった。陣地台上へ登るにしたがって、鞏固なはずの陣地の様相が徐々に暴露されはじめた。

 まず愕いたのは、火砲らしきものは据えられてあるが、それらはすべて迷彩色に塗られた丸太の擬砲で、戦闘に不可欠な火砲は、どこを探しても一門も存在していないことであった。陣地に配備されてある唯一の火器を挙げるとすれば、射程距離六百七十メートルを誇る八九式重榴弾を発射する擲弾筒である。だが、これは、歩兵戦では絶大な威力を発揮するが、鋼鉄を纏った敵の戦車を撃破する兵器としては、殆ど無価値に等しい代物であった。

 陣地は、この擲弾筒十二筒を主軸として、重・軽機関銃中隊一個に、あとは五発装填単発式の九九式歩兵短小銃を携える中隊二個という、強大な敵を迎え討つ陣地にしては、じつにお粗末なものであった。

 兵力こそ一個大隊だが、たったこれだけの武力で、重砲やロケット砲の重火器を備えた敵の機甲部隊をどうやって撃滅するというのか、部隊本部のある陣地台上に足を踏み入れた寿は、対岸遙か向うの、まだ見知らぬ敵の脅威を想像して、いつかの夜、耕介の居室で交わした会話を蘇らせていた。

 耕介の話によると、ソ連軍の装備は、我が関東軍の数倍もの火力を誇る大機甲部隊だそうである。それが事実であるならば――実際はそうであったが――この程度の火力で迎撃したところで、巨像の腹に石ころを投げるに等しいものだと思った。

 この陣地を築城した参謀は、この程度の装備で強大な敵を撃滅できるとでも考えたのか、それとも、日本陸軍の伝統的戦術の白兵戦をもってすれば、我が軍の勝機は簡単に摑めるとでも信じたのか、あるいは、単なる捨駒の楯としただけのものか、寿は司令部の真意を計りかねた。

 もし耕介がこの場にいたならば、この劣弱な装備にどう反応したであろうか。(がい)(たん)した彼は、こう呟くだろう。

『こげな丸太ン棒ば並べたところで、勝算のなかごつことは子供でもわかろうがくさ。敵の過小評価も甚だしか、まっこと無為無策としか思えん築城たい。これで部隊長がどげな奮戦ばするか見たかもんやが、ま、その前に、敵の膨大な火力ば浴びて、おそらく奮戦する余裕はなかろうたい。寿、お前の命運も、どうやらこれで(きわ)まったの……』

 この陣地に、重砲はともかく、せめて山砲か対戦車火砲でも装備されていて弾量も豊富に備蓄されていれば、同じ負けるにしても、陣地の戦闘詳報は、事実とは多少異なったものに書き換えられたはずである。丸太の擬砲を据えなければならぬほど、日本の国力は逼迫しているのか!

 寿は、やがては陣地一帯が劫火に(さら)されるであろうその場所に立って、傍の有働に観念的な笑みを浮かべた。

「有働、わしらの人生も、どうやら、ここが終点のようじゃの」

 と、洩らすと、自分以外のことは無関心な有働も、これには、さすがに髯面を歪ませた。

(はじ)きもしない丸太の大砲を列べているんですよ、こんなものでいくら頑張っても、絶対勝てっこありませんよ」

 と、滅多に見せたことのない硬い表情で言いきった。

 寿は、うしろに控えている分隊に振り向いて、

「ちょっと部隊本部へ行って来るけん、きさんらは、そこら辺で休んどれ」

 言いつけて部隊本部へ入った。


 本陣の部隊長室には、両腕を組んで机上に両足を丸投げにした部隊長が、傍らに立つ副官の中尉と談笑していた。

 この部隊長は、これはあとで知ったことだが、北支戦線での戦闘経験があるという自尊心の塊で、将校としての表面は一応繕ってはいるが、北支でどれほどの働きをしたか、それは詮索せずとも本人自らそれを暴露させた、見るからに軍隊の悪臭を軍服に染みこませたような大尉であった。

 一方の副官は、これは予備役らしく既に中年域に達していて、馬のほうが見間違えるほどの馬面で、(あい)(くん)からの増加将校であった。

 部隊長は、節度ある室内礼をした薄汚れた下士官を蔑むように視て、それでも姿勢を崩さず、軽く顎をしゃくって答礼した。

「申告いたします。川尻軍曹以下十五名は、孫呉第三十一連隊より第八八四二部隊へ転属を命じられ、ただいま着任いたしました」

 部隊長は、絡めている両脚を組み換えて、また顎をしゃくった。

 副官が一歩踏み出て言った。

「孫呉の三十一連隊と言ったな」

「そうであります」

「お前ら、敵がすぐ眼の前に迫って、これから一兵でも必要とするときに連隊を追い払われたんか。察するに、お前らは余程の厄介者揃いか、それとも役立たずと見えるな」

 副官は嘲るように鼻で笑った。

 それを寿は、憮然とした面持ちで見返していた。

 大尉が、副官の顔を自分に近づけさせて、小声でなにやら呟いたが、寿には声は届かなかった。

 副官が、その位置から顔を向けて言った。

「ところで軍曹。お前たちの装備はどうか?」

「弾薬は、各箇定数であります」

「糧秣は?」

「携帯口糧を一日分であります」

 うなずいた副官は、意外な顔をして部隊長を視た。

「転属の編入部隊にしては充実しているな」

 と、部隊長は、寿をうさん臭そうに見つめて、卑屈な笑いを洩らした。

「連隊の命令とあれば、追い帰す理由もありませんな。装備が充実しているなら、問題はないと考えますが」

 と、副官が大尉に言った。

「原隊から捨てられた部隊と雖も、このまま野放しにするわけにもいきません。仕方がありませんな。この際、瓦礫も陣楯の一部です。命令どおり、この軍曹の申告を受理してやってはいかがですか。ただし、我が陣営には転属部隊を養うほどの余裕はありませんから、我が部隊と切り離して編制外として扱ってはどうですか」

 それならば、部隊の負担も責任も軽くて済みそうである。

 部隊長は、少し考えて、

「そうするか」

 と、寿を見据えたまま言った。

「よかろう。軍曹、お前たちを我が陣営に受けてやる。ただしだ、編制外としたからには、我が陣営はお前の部隊とは一切関わりはない。したがって、お前の部隊に関しては一切関与しない代わりに助勢もしない。そう心得ておけ」

 と、一方的に言い放った。

 ――そげな馬鹿な話がどこにあるとや! 勝手にやって、勝手に死ねゆうのか!

 寿は、一歩踏み出してかかとを打ち鳴らした。

「お言葉ばでありますが、部隊長殿、助勢しないということはどういうことでありますか」

「いま言ったとおりだ」

「冗談じゃない! それでは我々を陣地内で餓死させることではありませんか!」

 寿は反駁した。

「黙れ! 我が部隊に対する他隊の(よう)(かい)は許さん!」

 副官の怒声に、寿は、臆することなく食い下がった。

「口出しやなか、オイは意見具申ばしとるとですたい中尉殿。万一長期戦になった場合はどげするか、弾薬も糧秣の補給もなか状態で、どげして持久抗戦ばやっとか、それをお聞きしとるとです」

 副官が眼尻を尖らせて詰め寄ろうとすると、部隊長がそれを制めて言った。

「軍曹、その必要はない。情報によると、敵は早ければ明日未明には我が陣営に到達することになっている。したがって持久抗戦はない。糧秣は一日分で充分だ。弾薬が足りなければ、我が皇軍には、最後の一兵まで戦い抜く、必勝の信念である肉迫戦法がある。貴公はその信念でかかればいいのだ」

 ――なんば抜かすか! おいはそげなもんは考えとりゃせんのじゃ!

 罵声が喉まで出かかったが、編成外の言葉を思い直して俄に別の考えが浮かんだらしく、それ以上の抗弁は控えてあっさりと退き下がった。

「……わかりました」

 と、軍靴のかかとを打ち鳴らした。

 副官も部隊長も、相手が簡単に退き下がったことで、一応は満足したようである。

 部隊長が副官に訊いた。

「あすこの状況はどうか」

 馬面の副官中尉は、蹄で台地を叩くように長靴を打ち鳴らした。

「昨日の状況で、取り敢えずは現状のままにしておりますが、整備して擲弾筒の一個分隊を前衛として就けようと考えております」

 そう答えると、部隊長は、副官に含み笑いを投げた。

「それには及ぶまい。ちょうどいい、この軍曹の部隊をそこへ就かせろ」 

「お、そうですな。そういたしますか」

 と、返しておいて、

「念を押すまでもあるまいが、軍曹、敵は明日払暁にも侵攻して来るとの情報が届いておる。編制外と雖も、つまらん負け犬根性を起こしてはならんぞ。お前も既に承知のとおり、陣地四方には鉄条網が幾重にも張られて、要所には監視の銃眼が光っておる。それを意識しておくことだ」

 と、威嚇めいた笑いを浮かべた。

「わかっとりますたい。オイは鉄条網ば破って、コソコソ逃げるほど臆病でも馬鹿でもなかですけん。離脱ばするときゃ、堂々と営門から出さして貰いますたい」

 厭味と本音を混ぜて答えると、寿は姿勢を正した。

 その顔には、軽蔑と嘲りが満ち溢れていた。敵に対しては無防備同然だが、内部に向けた威圧だけは絶大な脅威を誇示している。その愚かさを笑うよりも、むしろ、あまりの軽薄さが情けなかった。

「副官、早速配備だ」

 と、部隊長は、依然と机上に脚を投げ出したまま命じた。

 副官は、そり返るように蹄を打ち鳴らして、

「こっちだ」

 と、面倒臭そうに馬面をしゃくった。

 部隊本部舎後の望楼まで来ると、副官が、

「あれだ」

 と、馬面の顎で陣地下方を指した。

 その先は、陣地最下段の小さな丘、つまり逆さにした瓢箪の口に当たる突角であった。

「昨日の空爆でな、多少の損害を蒙っておるが、あれを速やかに復旧して守備に就け」

「空襲ば受けたとですか?」

「と言うより、あれは偵察だな。こっちの装備云々を確認するための飛来に過ぎんが、敵さん、挨拶代わりに手投げ弾を落として行きやがった」

「損害はそれだけですか?」

「配備の分隊を就ける前だったから被害はない。一部の壕が破損しただけだ」

「部隊長殿は、先程、明日未明にも敵が侵攻して来ると言われましたが……」

「情報では、敵の主力は、現在黒龍江の渡河準備をしているとのことだ」

「では、ここまでは時間の問題だな」

 と、呟いたのは、うしろに控えた美祢上等兵である。

「敵さん次第で、早くて今夜半か……」

 それを聞いた馬面の副官が、ヒンと薄ら笑った。

「昨日は空屋の塹壕で難を免れたが、しかし今度はそうはいかんぞ。余程肚を据えておかねば、お前たちは戦う前に玉砕することになるぞ」

 ――それを言うなら、玉砕はきさんらたい。オイはそげな馬鹿な真似はせんのじゃ。

 と、寿は肚の内で嘲って、

「わしらは編制外の()()もんですけんの。わしらが戦うも退くもどげにしようと、ここの部隊には関係のなかごつことですけ。ま、邪魔だけはせんように勤めますたい」

 と、臆面もなく言ってのけた。

「さっきの言葉どうりと言うのか」

「そげなこつは戦況次第ですたい。もうこれまでと判断したら、後退持久戦に切り替えるかもしれんですがの」

「ここには死守命令が出されておる。戦場離脱は、軍曹、極刑だぞ」

「死守命令?」

 寿は一笑した。

「わしはそげな命令は受けとりません。わしらはたったいま編成外ばなったとですけん、わしに命令を出すとなら、連隊の命令どおり、わしらをあんたの部隊へ編入してからにしてくれんですか。なんなら、連隊長へ、このことを報告してもよかですが」

 軍隊では、上部機関から命令を受けたものに関しては、たとえ現地の最高指揮官であろうと、勝手に命令を変更することはできない。これを無視すれば、上部に対しての抗命となる。部隊長と副官は、そこからは眼の届かない最前線であることを利用して、弾薬と糧秣を惜しむあまり、寿の分隊を独断で編成外としたのだ。つまり、自分たちの上部機関である連隊の命令を忌避したことになる。寿がこれを指摘したから、副官のほうが、逆に藪蛇となってしまったのである。

「勝手にしろ!」

 副官は吐くように言って、蹄で台地を蹴りながら戻って行った。

 その後姿に、寿は冷ややかな視線を送って、部下を促して陣地を下りた。

 下りながら、今度は注意深く観察した。

 陣地前方六百メートル四方には対戦車防禦壕が掘られて鉄条網が張り巡らされてあったが、はたして、これがどれほどの防禦効果が期待できるか、寿の眼には疑わしいものがあった。

 陣地の構造は、瓢箪に例えると、いちばん瘤の大きい台上からイロハ順に構築されていて、各個の戦闘壕は交互の棚田状に配備されていた。しかし、肝腎な壕は散兵壕ではなく、どれも蛸壺のように独立していた。

 台上の望楼から各陣営の指揮所間には電線らしきものが引かれてあるところから、これは本陣との通信用の発電式有線電話が引かれているのである。

 本陣のイ号とロ号の丘の谷間には溜め池らしきものがあり、風もないのに水面が陽光に煌めいていた。その池の水が地下からの湧水であることがわかったのは、池の側を通った際に、あまりにも水が澄んでいたのと、池の其処此処に地下からの清水が噴き出しているのを見てからである。風もないのに水面が煌めいていたのはこのためであった。

 水汲み場が設けられていることから、飲用には差し支えないのである。

「それにしても、こんな場所に、うまい具合に湧き出たもんですね」

 水筒の水をゴボゴボと鳴らしながら、有働が言った。

「ここは黒龍江と遜河に挟まれた地形だからな。たぶん、その関係でこの下に水脈があるんじゃないか?」

 美祢が受けて、これも水筒に音を立てた。

 新しい水を水筒に入換えた分隊は、ロ号壕の丘を登り切ってそこの幕舎を横切ろうとしていた。

 そのとき、ロ号幕舎から声がかかった。

 ロ号幕舎の前に、無精髯を伸ばした将校と、長身で体格の優れた強面の曹長が雑談していて、声をかけたのは曹長のほうであった。

 曹長が寿のほうへ歩みかけると、無精髯の将校が曹長を呼び止めて、小声でなにやら話すと、曹長が、

「ちょっと待ってろ」

 と、薄汚れた分隊をうさん臭げに(いち)(べつ)して、慌てて幕舎に姿を消した。

 二人は、幕舎のなかでなにやら話をしたのち、出て来た曹長は、寿と分隊員を交互に視て、寿に訊いた。

「さっき部隊本部から連絡を受けたが、孫呉の三十一連隊からの部隊とはお前たちか?」

「そうです」

 寿は、わざとぞんざいに答えた。上官に対する礼式を欠いたのは、曹長のほうが若い年次だからである。

 うなずいた曹長は、放置されたままの塹壕に顎をしゃくった。

「お前たちの陣地はあれだそうだ。着いて来い」

 と、曹長が案内役となって先に下りて行った。

 ハ号と称される陣地は狭かった。分隊員たちは、その場所へ立つなり露骨に罵った。

「なんでェこりゃ。まるでモグラの巣穴の残骸じゃねえか。明日にゃドンパチがはじまろうってときによ、この穴を掘り返せってのか!」

 赤羽である。

「ここは敵前の突角だからな。だから、誰も就きたがらねえところに、俺たちを廻しやがったんだ!」

 と、曳田が返した。

「宿無しの俺たちを、てめえらの捨駒に使おうって寸法かよ。くそったれが!」

 と、木津が土を蹴り払った。

「軍隊ってとこはどこも同じさ。転属や編入者のよそ者は、まるで犯罪者のように色眼鏡で扱いやがる」

 分隊の蔭から吐き出すように言ったのは、監視中隊から棄てられた編入者美祢上等兵である。

「俺たちは、鴻毛よりも軽い一個の消耗品だからな。あの台上や戦闘指揮所でお高く澄ましているお偉方は、俺たちをその程度にしか思っちゃいないのさ。だから、俺たちを虫螻みたいに、簡単に使い捨てやがるんだ」

 美祢は、曹長の後姿に、わざと挑発的な視線を刺して反応を窺ったが、曹長は聞こえぬ振りをきめこんでいるらしく、黙っていた。

「それならそれでよ、俺たちも考えようじゃねえか」

 と、曳田が受けた。

「俺たちァよ、そのお偉方にさんざん振り廻されて、今日までこき使われたんだ。おめえの言う使い捨ての消耗品としてな。匪賊討伐でよ、俺たちァ心身とも擦り切れて、もう使いもんにならねえ体になっちまったからな。だからよ、今度は消耗してねえ連中に働いて貰おうじゃねえか。俺たち以外の関東軍兵士諸君は精鋭だそうだからな、その連中がどんなお働きをするか、そのお手並みってやつをだ、俺ァ敵前に背を向けて、この二つの眼でよ、ここからとっくと拝見させて貰うぜ」

「見物も戦もやりたかァねえや。俺ァここから逃げ出したくなったぜ」

 木津が白眼で返した。

「そのくらいにしておかんか」

 と、曹長が軽く誡めた。

 この分隊がどのようにしてここに送られたか、この兵隊たちの会話から、曹長は敏感に読み取って、察しがついたようであった。

「お前たちの働きは勲章ものだが、無駄口はそのくらいにして、これを速やかに完了して配備に就くことだ。ぐずぐずしとると、すぐに陽が落ちるぞ。念のために、お前たちに一つだけ忠告しておくが、ここは暢気な二線部隊じゃないぞ。敵の狙撃手がわんさといる国境の最前線だ。両翼の森を見ろ。どっちも何事もなく平穏に見えるが、日没時は特に注意しろ。いまのように、ヘラヘラと無駄口を叩いたり、気を弛めて妄りにそこら辺をうろついたりすると、一発で頭をブチ抜かれるぞ。これまでに三名の動哨が日没時に狙撃されているからな、急がないと、お前たちの誰かに犠牲が出るかも知れんぞ」

 男たちは、互いの顔を見合せてそれきり黙ってしまった。

 崩れた塹壕に入って、部下たちに言いたい放題言わせながら土をいじっていた寿が、そこから顔を上げた。

「よし、みんな作業開始じゃ。ただし、わしらの壕は、他の陣地のように蛸壺ではなく、散兵壕として掘る。塹壕の幅は、お前たち一人が迅速に移動できる幅、つまり、お前たちの肩幅二つ半。それより広くても狭くてもいかん。すぐにかかれ」

 男たちは、背嚢に(ばく)(ちやく)している各自の小円(えん)()を抜き取って塹壕に飛び下りた。

 それを見届けてから、曹長は寿に声をかけた。

「話がある」

 と、寿を分隊から引き離すようにして、陣地後部の窪地へ導いた。

 有働は、いったん円匙を手にしたものの、それに気づいて、円匙をその場に放り投げると、寿のあとを追って勝手について行った。

 木津が、それに眼を尖らせた。

「なんでえあの野郎、てめえ一人が副官気取りでいい気になっていやがる!」

「放っとけよ、馬鹿は死んでも直らねえんだ」

 曳田が突き放すように嘲った。

 曹長は、窪地に突き出た大人二人分を隠す石碑のような岩の蔭に寿を導いて、それを台上からの遮蔽物にして、鍛えられた長身を折って、寿の前に腰を下ろした。

 岩を蔭にして胡坐を組んだ曹長は、

「さっきの狙撃手の話な、あれは連中を引き締めるための方便だ。狙撃される心配はないが、見てのとおり上下間の視界の利いた陣地だ。上から誰が睨んでいるとも限らん。お前も坐れ」

 ()()のように突っ立っている有働を促してからニタリと笑った。

「お前は連隊からの転属と言ったが、本当は四家屯の中隊からだろ?」

 出し抜けに訊いた。

「さっき兵隊がぼやいていたが、あすこでは大々的な匪賊討伐が敢行されたそうだが、お前たちもその組か?」

 四家屯の監視中隊が匪賊討伐の功績を大々的に上げたことは、ここにも耳に届いているのである。

「じつはそうたい。参加組というより、わしらが主力でやったとたい」

 と、寿がぞんざいに答えると、曹長は、愕いたようにうなずきながら(うな)った。

「夕べ、ロスケ側のボヤルコヴォ対岸から砲撃を喰らって、そこの守備隊は全滅したそうだ。それを受けて二線部隊も強化されているが、お前ら、それでも出されたんか?」

 と、曹長は、不思議そうに訊いた。

「そいつはご苦労だったな、と、言いたいが、残念ながら、どうやらここが終着点になりそうだぞ。明日には、こっちの方面にもロスケが侵攻して来るとのことだ。ところで、お前の名は?」

 と、訊かれて、寿が名を告げると、曹長は、寿の顔をしげしげと視て、桑畑と名乗った。

「それにしても、お前ら、よっぽどの正直者だな」

「そりゃどげん意味な?」

「考えりゃわかることだろうが。いいか、ソ連との戦闘は昨日九日の零時に開始されたんだ。黒龍江の国境線からここまでは三十キロもない距離だ。敵さんの渡河が終わって準備がととのったら、一時間も経たんうちにこの方面もロスケの機甲部隊がわんさとやって来る。お前たち転属部隊はな、謂わば、どこの部隊も歓迎されんのだ。転属先で戦闘がおっぱじまったら、真っ先に突っこまされるのはお前ら転属部隊の厄介者だということを考えなかったのか」

「厄介者だと!」

 と、横から有働が眼玉を尖らせた。

「俺たちゃ匪賊を討伐した戦勝部隊だぞ! そんな勝手な真似なんかさせねえぞ!」

「力むな、一等兵。連隊や四家屯の中隊ではお前の年次が通用したかもしれんが、ここではそんなものは通用しないぞ」

 曹長は鼻先で言葉を突き返した。この曹長は、体格の優れた有働の態度と面構えだけで、有働を年次の古い兵隊と勘違いしたようである。

「バックを何本食ったか知らんが、お前も古参兵なら、転属の居候部隊がどういう扱いを受けるか、そのくらいはわかっとるだろうが」

 有働を蔑むように視て寿に顔を向けると、曹長は、これから寿が考えようとしていることを見透かしたように、一気にまくし立てた。

「そんなことより、お前ら、なんで逃げなかった。敵前党与逃亡の罪を怖れたんか? そんなものはお前、いまさら怖れることはないんだ。孫呉の司令部は北安へ後退したという話だぞ。そんな状況で、軍法会議もあるもんか。仮に逃亡途中に万一友軍の部隊に接触したとしてもだ、軍曹のお前なら、理由はどうにでもでっち上げられるんだ。それを巧く利用してだな、俺だったら、この好機を利用してだ、戦闘のほとぼりが冷めるまでどこかの山村に籠城して待機だ。右にするか左にするかは、そのときの状況判断ですればいい。考えてみろ。陣地のこんな装備で戦っても先は見えている。戦闘がはじまれば、この陣地の指揮系統は瞬時に崩壊する。俺はな、この陣地は三十分も保てばいいとそう読んでいるんだ。お前も、この陣地の装備がどんなだか、その眼で視ただろ? あれがいまの関東軍の戦力なんだぞ。部隊長は粋がっているがな、どうせ負け戦だ。運がよけりゃ何人かの兵隊が生き残るだろうが、これは生きて虜囚の辱めを受けずだ。自決するか、それを恥としない奴は手を挙げて射殺されるかだ。どっちにせよ生きちゃいられない。それをお前、馬鹿正直に、お国に忠義立てすることはなかろうじゃないか」

 寿は、顔色を読まれないように、皮肉の一言を返した。

「そう言うあんたはどげな?」

 曹長は、台上をかえり見て、ふてぶてしく笑った。

「昨日の敵さんの御飛来で考えはしたがな、敵機は挨拶代りにここを抉った程度で、それもすぐに終わりやがった。俺が睨んだところ、あれは偵察機だな。お蔭で逃げそびれて、このとおり元の木阿弥ってわけさ。ま、慌てることもなかろうさ。いまの俺に直接累が及ばない限り、いまのところは安泰だからな」

「つまり、あんたは頃合いを窺うとるゆうわけか」

 曹長は、うなずく代りにニタリと笑った。

「お前ら、敵さんの火力がどんなだか、まだ本当の凄さを知らんだろうが? 俺が初年兵のとき経験したノモンハンがそうだった。あのときの日本軍は、世界最強の精鋭を誇っていたが、それでもロスケには歯が立たなかったんだぞ。あの砂漠で、厭というほどロスケの火力を見せつけられて、部隊は俺だけを残して全滅した。いまにロスケの総攻撃がはじまったら、俺の経験からして、さっき言ったとおりだ。ここは瞬時に片がつく」

 この曹長が、あのホロンバイルの地獄の戦場をどう生き抜いたか、それは寿にはどうでもいいことである。しかし、曹長の言葉には寿も同調ところがあった。極東ソ連軍と会戦すればどうなるか、この陣地の装備が明白に示しているからである。

「それで、あんたはどげするとな?」

 と、寿が訊き質すと、曹長は、守備範囲の我がロ号陣地をチラと視て、

「今朝の情報だ」

 と、寿の顔に声を抑えた。

「それによるとだな、敵の主力の一部は、ボヤルコヴォを明日にも渡って、この正面を突いて遜河方面へ通過するそうだ。つまり、明日には、ここら一帯は血の惨劇になるってことだ。だから戦闘がはじまったら、俺は小隊の指揮下を離れて単独行動を取ることにする。どうだお前たち、一口乗って俺と組まんか?」

「一口乗るって、いったい、どういうことです?」

 曹長の唐突な言葉に、有働が、焦点の定まらない眼差しを寿に向けた。

「戦場離脱ばするお誘いたい」

 寿が嘲笑混りに返すと、曹長はニタリと口許を歪ませた。

「その言種はよくないぞ。後退持久戦のための転進と割り切りゃいいのさ」

「そう言うことか」

 と、有働が(ひとり)(ごと)を呟くように、虚空に眼玉を剝いた。

「どっちだって同じことだ。早い話が、てめえの仲間を見捨てて、自分だけ逃げようって寸法じゃねえか」

 曹長はムッとした顔を有働に向けたが、それも一瞬のことであった。含みのある笑いを返して、こう言った。

「こういうことはな、一等の()()さんよ、少数行動に限るんだよ」

「それなら曹長殿、てめえだけでやればいいじゃねえですか。俺たちは、仲間を見捨てるわけにはいきませんよ。ねえ、班長殿」

 寿が深くうなずくと、曹長は、口許で黒々と笑った。

「戦友愛の篤いのは大いに結構だがな、よく考えてみろ。さっきも言ったが、お前たちは、この部隊では歓迎されんよそ者なんだぞ。お前たちにはまだ正式の命令が下達されておらんようだが、今夜にでも下達されてどこかの小隊に、いや俺たちの小隊に編入されでもしたら事だぞ。つまらん将校の指揮下に置かれたら、仲間の面倒どころか、自分の命を幾つ抱えていても足りないことになるぞ」

 寿は、これもうなずきを返して鼻先で笑った。

「軍隊ゆうとこはどこでも同じたい。将校ゆう奴は独善的恣意の塊で、その上身勝手やけんの」

「うちの小隊長は別格だぞ」

 と、曹長が苦々しい顔で受けた。

「あいつは将校なんて器じゃない。まるでチンピラだ。いやチンピラならまだどうにかしようがあるが、知的に階級権力を楯にしやがるだけに、始末が悪い」

 寿は、そう遠くない過去を想い起こして、またうなずいた。その将校の恣意のために、耕介と通堂軍曹を外地戦線へ追いやったのだ。

 その苦い想いが、こう訊いた。

「あんたの隊長はどげな奴ね?」

 訊き質すと、曹長は、

「どんな奴かもあるもんか」

 岩を背に腕組をした曹長は、憮然とした面持ちを寿に向けた。

「奴は、この先の(あい)(くん)の部隊から転属して来たんだが、とにかく陰険な将校でな。俺たち下士官がロスケよりも憎んでいる奴だよ」

「その隊長の名は?」

「埴生って名だ。知っとるか?」

 その名を聞いた途端、鈍器で頭を殴られたような衝撃を受けた。もしそれが寿の知っている男なら、癌の痼りのように、脳髄にまで蔓延(はびこ)っている名である。

 寿は声に出さず、肚の底で呻った。

 ――そうやったとか、あのとき、幕舎に消えた髯面の将校がおったとやが、あれが埴生やったとね!

 有働の眼玉が、なにか言いた気にギロリと寿に向けられたが、寿の眼が険しくなっているのを視て、この場は拙いと判断したか口を噤んだ。

 寿は、相手に感情を気取られぬように、さり気なく戦闘指揮所の辺りに眼を配って、それから訊いた。

「その隊長が、どげかしたとや?」

 とぼけると、曹長は、寿の鼻先にまで顔を近づけて、囁くように声を落とした。

「聞いた話だがな、なんでもあの隊長、以前いた連隊で新任の伍長に半殺しに痛めつけられて、瀕死の重傷で病院へ担送されたそうだ。入院下番すると、原隊復帰せずにそのまま璦琿の部隊へ転属になったそうだがな、どうやら、そのときの恨みがまだ根を張っているらしくてな、いまだに古参兵や下士官に因縁をつけては見境なしに制裁を加えやがる。まったく陰険な将校だぞ」

「あんたも、やられたその一人かの?」

「俺は小隊の副長だからな、それはないが……」

 曹長は口籠もった。

「……だがな、噂はまんざらでたらめではなかったぞ。現に、蔭で下士官がやられているのを、俺はこの眼で何度も目撃している。俺も長いこと軍隊に居坐っているがな、あんな愚劣な将校は見たことがない。お前らも、その連隊の元麾()()なら、この話は聞いたことがあるだろ?」

 寿は、否定も肯定もせずに、あの弾薬庫でぼやいた矢部伍長を想い出していた。

 そう。あの夜、矢部の忠告を真剣に受け留めていれば、あのような不祥事には発展しなかったのである。

 それをいまさら悔やんだところで遅いが、(たち)の悪い因縁というものは、陰湿で、それでいて執拗で根深く、いつまでも取り()くようである。

 あの一件は、既に解決していると信じたのがそもそもの誤算であったのだ。悪縁は、この期に及んでまでも絶ち切れてはいなかったのである。寿の胸の内に、どす黒い陰惨な嵐が吹きはじめていた。

 曹長の口走ったそれが、寿の知る宿縁の埴生であることは、もう疑う余地はなさそうであった。その裏付として、寿にも思い当たる節があった。

 それは、部隊本部で到着の報告を済ませてロ号指揮所に通りかかった折、普通ならば将校が出て来て、分隊指揮官である寿に実行報告をさせるはずのところを、あの将校はそれを避けるように幕舎へ身を隠して、曹長を幕舎へ引き入れて不可解な行動を取ったことである。

 体面や面子を重んじる他の将校であれば、兵隊の前でそのようなことはまずしないものだが、埴生ならうなずけるというものである。その程度のことは、なんら恥辱とも思わない男だからである。それにこの曹長の一連の話にも、うさん臭い含みが匿されているように思えはじめていた。

 疑えばきりがないが、この曹長が初対面の寿に、いきなり戦場離脱の話を持ちかけたのが、そもそも不審であったし、曹長を幕舎に引き入れた埴生の挙動も不可解であった。つまり、寿の存在を気づいた埴生は、この曹長になにかを話し、なんらかの指示を与えたにちがいないのである。

 それが曹長の口走った離脱計画のなかに匿されているのか、その疑念はまだ漠然としているが、その根拠は、こう思えるのである。

 それは、正常な思考の兵隊であれば、戦場離脱や脱走などという危険な言語は、たとえこれが冗談にせよ、軽々しく口にするものではないからである。もしこれが他の兵隊や将校の耳に漏れたりすればどういうことになるか、下士官ならば、その怖さを充分知っているはずだからである。

 このことから、自分の身が忽ちにして破滅する危険な計画は口が裂けても口外しないものであるし、そのような企みは、単独か、同じ考えを持つ極少数の仲間で極秘裏に画策するものである。

 それをである。戦闘部隊の中核であるはずの陸軍曹長が、敵前の最前線ともあろう場所で、それも初対面の寿に得々と喋ったのである。

 寿は、相手の眼の表情を見守りながら、それでいて眼窩の奥では、相手の肚の底に匿されているはずの企みを読み取ろうと、曹長の眼を静かに見据えていた。

「つまり」

 と、寿は言った。

「その埴生ゆう奴が、あんたの小隊長ゆうわけたいの」

 桑畑は、深々とうなずいて見せた。

「拙いことになりましたね、班長殿」

 と、有働が寿の顔を覗きこんで、挿まなくてもいい口を挿んだ。

 有働にしてみれば、これは極めて自然に衝いて出た言葉であったが、これが思わぬ方向へ転じる羽目となった。

「拙いとは、どういうことだ?」

 桑畑の眼窩が一瞬ギラリと光った。

 寿は、有働の顔を睨みつけるように見て、

「いや、別に大したことやなか」

 と、空惚けたが、有働は、それを寿が謙遜したと意味を履き違えて、眼玉を爛々と輝かせて得意気にこう言った。

「いえね、班長殿はぼかしていますがね、その隊長と班長殿は、特別な因縁で繋がっているんですよ」

 寿は舌打ちをして有働の肩を突いた。

「やめんか、ばか! 出しゃばって、つまらんことを喋るんやなか! きさんは黙っとれ」

「だって、隠したって、班長殿がここにいることはすぐにバレますよ。こういうことはね班長殿、早めに野郎の先手を取るほうが勝ちなんです」

 寿は、有働をこの場に置いたことを悔やんだが、あとの祭りと諦めて、ただ呆れた笑いを洩らすしかなかった。

「こげんことはの、先手とか後手とかの云々やなか。なんもきさんが喋らんでも、こげな狭い陣地たい。知れるのは時間の問題ゆうことは承知たい。……しかし、きさんが喋ったからには仕方がなか」

 寿は、開き直った顔を桑畑に向けた。

「曹長、こいつの言うとおり、オイが埴生少尉、つまり、あんたの隊長を病院ば送った張本人たい。指揮班に戻ったら、このことを、あれに報告してもよかぞ」

 桑畑曹長の半信半疑の眼が、二人の間を忙しく動いた。

「しかし、あれはお前、やったのは伍長だと、俺はそう聞いたぞ?」

 これに答えたのは有働である。

「そのときは、班長殿は伍長殿だったですがね、この班長殿なんですよ」

 桑畑は少々愕いたようである。寿をまじまじと視て、感嘆の声を洩らした。

「世の中の一秒先はわからんって言うが、こりゃまたどうしたことだ。抗命の罪を犯した下士官が、あろうことか軍曹殿に昇進とはな。これが本当の話なら、これを知った隊長は、お前に抱きついて感涙の抱擁だぞ」

 半分は信じたらしくあったが、あとの半分は、まだ疑念を色濃く残していた。

 事情を知らない曹長が疑うのも道理である。抗命の罪を犯した兵隊は、天と地が逆さまになろうとも、絶対に進級するはずがないのである。

 その疑いの眼差しがこう言った。

「しかし、腑に落ちんな。将校を半殺しにするほどの抗命を働いた兵隊はだぞ、本来なら降等されて、敵前ならば即刻銃殺刑か、運がよければ陸軍刑務所に送られるかだ。仮にそれを免れたとしてもだな、今頃は最前線に送られて敵弾の楯になっているかだぞ。それが……いや、それでよくもまァ軍曹に昇進したもんだな?」

「きめたのは軍隊たい」

 寿は素気なく返した。

「そりゃそうだが……」

 と、桑畑は、まだ得心のいかない顔をしていたが、その懸念はすぐに打ち消した。

「ま、そんなことはどうだっていいことだ。こんなことをいちいち報告したところで、いまさら俺の点数が上がるわけじゃない。そんなことより、もしそれが本当だとしたら、こりゃお前、生簀の鯉どころじゃないぞ」

「それは百も承知たい。なんらかの動きは……いや、もう既に動き出しとるかもしれんばってんが、そのときは肚ばきめるたい」

 と、無精髯を撫でながら、

「オイの眼ン玉も(もう)(ろく)ばしたもんたいの、あれが髯面ゆうせいもあったが、そげにしても、あれが埴生と気づかなんだとはの。あれのほうは、オイのことを気づいとるゆうのに……」

 唇がどす黒く歪んだ。

「俺だって気がつきませんでしたよ。赤羽や曳田だってそうです。あの少尉とこんなところで出会うなんて、誰も頭から思っちゃいませんからね。それに、いまさら昔のことを引っ張り出して咎めようたって、咎めようがありませんからね。それで引っこみやがったんですよ。あの野郎、いまに蔭でコソコソやりますよ。でもね班長殿、そんなことは俺が許しませんよ。少しでもおかしな動きをしやがったら、俺が野郎をバラしてやりますよ」

「きさんはおとなしゅうしとれ」

「てことは、なにか考えていることがあるんですか?」

 有働の眼玉がギョロリと寿に動いた。

 桑畑は、二人のやり取りを、眼に焼きつけるように聞いていた。

「いまは、まだなにも考えとらん。あれの出方次第たい。やけん、お前も、じっとしとるとぞ」

「でも、おかしいとは思いませんか?」

「なにが?」

「だって、いつものあいつなら、将校の権限を引っ提げて真っ先に出て来るはずでしょ。それをおとなしくしてるんですよ。野郎、肚でなにかを企んでやがる証拠です」

 それも承知である。ここは規則で固められた後方の営舎ではない。秘密裏に物事を行うには、ここは有利な最前線の現場である。埴生のことだ。手法を変えて某かを仕掛けて来るにちがいない。

 寿は、しかし、そのこととはまったく別のことを言った。

「あれも幹候上がりとはいえ、れっきとした将校たい。過去を掘り返してまで、いまさら馬鹿なことはせんやろたい。ひょっとすると、あのことは、もう綺麗さっぱり忘れて、本人は意外と気にしとらんかもしれんばい? わしらの考え過ぎゆうこともあるけんの」

「そりゃそうかも知れませんがね、野郎の、あの陰険な性格なら、小汚い野良猫の手だって使いますよ」

 有働は何気なく言ったが、これは桑畑の心中をブスリと刺したようである。桑畑の視線が二人から外れて、一刹那虚空へ逃げた。

 その一瞬の動きのなかに、相手の陰湿な本音が影を現したのを、寿の眼は見逃さずに捉えていた。

 もうこれ以上の会話も詮索も無用である。寿は、終止符を打った。

「ま、いまのとこは、そげゆうことにしておいてたい、つまらん考えや詮索はせんことぞ。なるときには、なるようになるくさ。さ、わしらは作業じゃ」

 桑畑も、ここら辺りが退き際と踏んだようである。

 白々しい顔で両膝をポンと叩いた。

「さてと、ぼつぼつモグラの巣穴にでも戻るとするか」

 三名は揃って腰を上げた。

 曹長は、蟻のように列んで作業をしている兵隊の群れに眼をやって、

「まったく、兵隊の誰かが言うとおりだな。モグラの巣穴とはうまい表現だ」

 冗談を飛ばすと、

「それじゃ」

 と、軽く挙手をして戻って行った。

 その後姿に、有働がボソリと言った。

「軍隊じゃ徹底した馬鹿になるか、それともずる賢い奴でないと生きられないっていいますけど、あいつはどっちなんですかね。なんだか、いけ好かねえ野郎ですね」

 寿は意地悪く嗤った。

「きさんはどっちね?」

「なにがですか?」

「馬鹿か、ずるか、どっちね」

「俺ですか? 俺は、その、つまり、どっちですかね?」

 とぼけた有働の顔に、寿の険しい眼が向けられた。

「中途半端は、もっと始末が悪かぞ」

 そう皮肉を返すと、有働がキョトンとした眼で訊いた。

「誰のことです?」

「阿呆、きさんのことじゃ!」

 と、有働の軍帽の星を指で突いた。

「有働、これだけは憶えとくとぞ。見知らん奴と話ばするときは、相手をよう視て、その上で言葉を選んで喋らにゃならんぞ。あげな奴には、特に気を弛めちゃならん。もしかすると、あいつは、わしらンごつ全部知っとるその上で、やんわりと探りば入れに来たかもしれんけの。気を許して、無闇にペラペラ喋りよると、掘らんでもよか墓穴ば掘るごつ羽目になる。つまり、いったん口にした言葉ゆうもんは、そう簡単に訂正できんゆうことたい。へたに言訳ばして訂正すると、今度はそれを訂正するために、つまらん言訳や嘘を重ねて、最後には自分で自分の首ば絞めるごつなる。これからは慎重に考えて、きさんの肝に銘じることぞ」

 そこまで言われて、有働は、はじめて自分の軽率さに気づいたようである。寿に向けて眼玉をしょぼつかせた。

「てことは、あの野郎、少尉のスパイってことですか?」

「いまはなんとも言えんばってんが、そげに考えたほうが悧巧のようたい」

「……すみません」

 有働は、咎められたガキ大将がそうするように、軍帽を掻き毟るように撫でた。

 有働を促して塹壕の作業に戻る際、寿はロ号指揮所の斜面をかえり視たが、そこには、もう曹長の姿はなかった。

 有働が、ロ号陣地をしげしげと見つめて、訊いた。

「さっき曹長の言った脱走計画って、あれは本音でしょうかね?」

「本心かどうかは、蓋ば開いたらわかるたい」

「あの野郎、もしあの少尉とグルだったら、油断できませんね」

「心配せんでよか。わしらがへたに動かん限り、あれも動けん。大丈夫たい」

 そう言って行きかけて、振り向いた。

「それより有働。もう一日分か二日分、いや当面の糧秣を確保せにゃならんの」

「糧秣ですか?」

 寿はうなずいた。

「空きっ腹抱えて、長距離行軍はできんやろがくさ」

「行軍って、じゃ俺たちもやるんですか?」

 寿は、それには答えずに、こう言った。

「お前、昼飯前に水を汲みに行く振りばして、赤羽と曳田の三名で糧秣庫ば探って来い。誰かに(すい)()されたら、道に迷うたとでもごまかして、その場所を確認するとじゃ。ただし、余分な時間をかけちゃならんぞ。行くときも戻るときも、自然に振る舞うとぞ。曹長と埴生の眼は特に気をつけろ。連中との衝突は無論ごつ、こっちの動きを絶対に気取られちゃならんぞ」

「それはわかりましたけど、でも、なんで探るだけなんです? どうせなら、箱ごとごっそりかっぱらってくればいいじゃないですか」

「いまはいかん。へたに動くと、それこそ奴の思う壺たい。糧秣庫ば狙うのは、陣地配備の携帯糧秣が配られた深夜になってからじゃ」

「……てことは、やっぱり、脱走を考えてるんですね?」

 底光りをはじめた有働の眼玉が、寿の鼻先に迫った。

「ね、そうなんでしょ。はっきり言ってくださいよ班長殿、いつやるんです?」

 と、鼻息を荒くして意気こんだ。

 寿は、ひっそりとしたロ号指揮所の幕舎をもう一度仰ぎ視てから、独言のように言いきった。

「桑畑ゆうあの曹長、あれは埴生とつるんどるのは間違いなかの」

「だったら班長殿、尚のこと急がなきゃなりませんよ」

「慌てることはなか。奴ァわしが安易に動かんことを我が眼で確かめたとじゃ。さっきの誘いは、あれは埴生の指金とオイは睨んだ。つまりたい、次には、わしを誘い出す別の方法が必要になったゆうことたい」

「別の方法って、どんな方法です?」

「喧嘩の専門屋でもわからんか?」

「……全然わかりません」

 と、首を振ったその顔に、寿は嘲笑を投げた。

「考えてみよ。こげな狭か陣地内で事ば起こすと、どげなことになるか、連中は百も承知のはずたい。かとゆうて、わしらはあれらの直属やなかけん、いまの奴らにはこれゆう攻め手もなか。やけん、あと考えられるのは……」

「将校の権限を利用する」

 と、すかさず有働が言葉を掬い取った。

「将校なら、自分の権限で、どんな罪名でもでっち上げられると、ずっと前に班長殿はそう言ったじゃないですか」

「確かにそうやが、それは自分が置かれとる場所と状況次第を言うたとじゃ。連隊ばごつ、将校の自由が認められとるところなら、将校は好き勝手やりたい放題やけんが、ここではそげなわけにゃいかん。誰が、なにをしとるか、部隊本陣や望楼からは一目の狭か陣地じゃ。へたばすると、自分の首ば絞めるごつなる。そげな危険な条件下で事を起こすのは、いくら権限を持っとる将校でも、勇気が要ろうゆうもんたい」

「それもそうですね」

 有働はうなずいた。

「だから、あんな汚い手を持ちかけたんですね」

「そう言うことたい。あと考えられることは、奴は本陣の命令ば利用して、夜間の斥候かなにかにかこつけて、オイを呼び出してどこぞで仕掛けるか、それとも戦闘のどさくさを利用して仕掛けて来るかのいずれかたい。つまり、白昼は動かんゆうことたい」

「てことは、今夜が山ってことですか?」

 寿は小刻みに幾つかうなずいた。

「国境線が簡単に突破されたゆうことは、明日にはここもそげなる。奴が動くとすれば、今夜か、戦闘間でしかなか」

「斥候に呼び出されたら、どうします?」

「それは心配なか。わしらは編制外の部隊じゃ。命令を聞く必要はなか」

「でも、相手は将校ですよ。いくら編制外といっても、将校の命令は絶対ですよ。(こと)われますか?」

「部隊長はの、自らわしらを突き放したとじゃ。やけん、どげな将校やろと、わしに命令する権限はなか」

「それならいいですがね」

 呟くように答えて、有働は陣地に眼玉を巡らせた。

「でも、どうやってここを出ますか? 夜中でも監視の眼がいっぱい光っているんですよ。分隊がゾロゾロ動けば、月明かりですぐにバレますよ」

 寿は、思惑を含んだ眼差しを有働に向けた。

「陣地は、昨日の空爆で緊張しきって兵隊は動揺しとる。それを利用して、連中の心理ば突くとじゃ」

「突くって、どうやって突くんです?」

「戦闘配備が完了しとるゆうことは、既に戦闘教令が発令されとるゆう道理たい。やけん、わしらは深夜をもって突撃先遣隊としてこの陣地を出る。部隊本部には事前に伝令ば走らせて了解を受けたと、そげに衛兵指令に伝えれば、部隊じゅうが緊張しとるどさくさたい、衛兵は誰も疑いは持たんたい」

 有働が、戸惑いの眼を向けた。

「巧く行きますかね」

「部隊長はの、オイの判断にまかせると言いきったとや。いまさら、なんも言えんたい」

 寿は、長閑な炊煙が立ち昇る本陣台上を仰ぎ視て、唇を噛んだ。自分たちは数に入れて貰えない、陣地将兵の昼飯の飯上げの準備がはじまったようである。

 それを見つめながら言った。

「あの部隊長がどげに頑張っても、敵の総攻撃がはじまったら、あの曹長の言種やなかが、この陣地はそれこそ三十分でお終いたい。わしらはその前に、営門から堂々と離脱する。こげな馬鹿げた戦で、犬死は御免やけんの」

「俺だってそうです。同じ死ぬんだったら、娑婆で思いきり暴れて死ぬほうがよっぽど人間らしいです」

 有働は、大きな眼玉で陣地をまさぐるように見廻した。

「でも、見てくださいよ班長殿。ずらかるにしても、それまで、こりゃ暢気にしてられませんよ。上からだと、俺たちの背中が丸見えだ」

 寿は、埴生の指揮するロ号陣地へ視線を移して卑屈な笑いを洩らした。

 誰に言われるまでもないことである。上と下とで睨み合えば、双方の視界の優劣は歴然としている。たとえ有利な条件を与えられたとしても、下に位置する者には分が悪く作られているのだ。

 寿は、苦し紛れに、それをこう返した。

「上から丸見えゆうこつは、こっちからも向うの視界は開けとるゆうこつやけんの。夜は別として、陣地じゅうの眼が動いとる昼間は奴とて迂闊に動けまい。日中は心配なか。それより有働、昼飯で陣地の監視が緩んどるいまが好機じゃ。きさんは、赤羽と曳田にこのことを話して、三人で水ば汲みに行け」

 そう言い渡して塹壕に下りた寿は、野下の横で円匙を取ったものの、すぐに有働を呼び戻した。

 戻って来た有働に、

「水汲みはあとじゃ」

 と、ロ号の斜面に顎をしゃくった。

 その先には、足早に斜面を下ってこちらに向かって来る曹長の姿があった。

 有働は、それに眼を()めて、

「あの野郎、また来ますね」

 と、塹壕へ飛び降りて来た。先程の寿との会話で、二度目の目的は有働にも察しがついたらしかった。

「班長殿がさっき言った、あれですかね?」

「わからんが、ま、そげなとこやろたい」

 寿は、円匙を自分の前の塹壕に突き刺して待ち受けた。

 曹長はズカズカと寿に歩み寄ると、塹壕の寿を見下ろしながら口を開いた。

「軍曹、お前の名は川尻だったな」

 寿は、突き刺した円匙に両手を乗せたまま、挙手もせずにうなずいた。

「ん。川尻軍曹、まもなく国境線への将校斥候が出る。それに加われと、うちの隊長殿がお呼びだ。営門が集合場所だ。すぐに行け」

 と、顎をしゃくった。

 寿の読みどおり、図星であった。寿の口許に、露骨な嘲笑が浮かんだ。

 曹長は、先程来からの寿や部下の上官に対する態度を肚に据えかねているらしく、眼尻に陰険な角を立てた。

「なにがおかしい」

 と、声こそ落としているが、寿を見据えた眼は、怒りを含んだ斬りこむような鋭さを帯びていた。

 寿には、しかし、そのような威嚇など通用しなかった。

「あ、いやの、その程度の使いに、曹長殿自らお出ましやばってん、ちょっとばかり戸惑うただけたい」

 と、臆しもせずに答えて、

「確か、将校斥候と聞こえたばってんが、おかしかの。それは部隊長の命令かの?」

 と、訊き質すと、曹長は、得意げにこう返した。

「急にうちの小隊が出ることになってな、これは小隊長殿の命令だ」

「なら、それはおんしらの小隊がやればよか」

 と、素気なく返すと、曹長は、

「員数が足らんのだ」

 投げ遣りに言い捨てて立ち上がった。

 長身で体格の優れた桑畑曹長は、その強面からして、まるで名刹の山門に立つ仁王像そのものである。それを仰ぐ形になった。

「員数?」

 と、寿は臆面もなく鼻で嗤って、態度も口調もさらにぞんざいになった。

「そげなことはなかばい。員数を揃えたけりゃ、きさんの隊の兵隊を使えばよかことたい。オイはここに配備ばされたばってんが、きさんらの麾下部隊やなかぞ。きさんらとは赤の他人の編成外の部隊たい。部隊長がじかに要請をするとなら話は聞かんでもなかばってんが、きさんの小隊長に顎で使われる謂われはなか!」

 これは桑畑の意表を衝いた。編成外とは考えもせぬことであったから、少なからず驚いたのは確かであった。

 桑畑は、一刹那たじろいだようであったが、これは、ほんの一呼吸の間であった。間近に逼迫したこの現状に及んで、編成外の部隊があろうはずがないと、頭からそう信じこんでいるのである。

 今度は桑畑が鼻で笑った。寿の軽薄な言い逃れと受け取ったのである。

「そう答えれば、俺が簡単に納得するとでも考えたのか。浅知恵だな」

「浅知恵……?」

 寿は小首をかしげた。

「ちょっと待ちない。オイは最前から引っかかっとったばってんが、ひょっとして、ぬしゃ直属の上官からなにも知らされとらんのか?」

 そう問われても、個人のこと以外はなにも聞かされていないから、桑畑には答えようがなかった。

「どういうことだ」

 と、訊き返した桑畑に、寿はニッと歯を剝いた。

「なるほど、そういうことね。ゆうことは、あれもまだ知らんわけたいの。それなら無理もなか。まァよか。知らんとなら教えちゃるばってんがの、わしらは、ここの部隊とは関係のなか編成外の部隊での、この部隊の指揮系統には属しとらんとたい。つまりは、ぬしらとは無関係の赤の他人ゆうことたい。その赤の他人をぞ、それでも部隊長が使いたか言うのなら、副官以下の伝令がオイのところへ要請ば走ることになっとるとたい。わしの言うことが信じられんごつなら、直接部隊本部に確認すればよか。ただし、言うとくけんがの、あの部隊長は、自分の面子をかけても、編成外のオイは使わんよ。その部隊長を飛び越して、一小隊長が独断でオイを動かすゆうことは、これは部隊長に対する越権ぞ。部隊長の面子を丸潰しばすると、きさん、小隊長ともどもこの陣地で息がでけんごつなるが、おんし、それでもよかね」

 桑畑は俄に顔を引き締めた。

「そんなことは、俺は知らん。俺は、ただ小隊長殿の命令を伝えただけだ」

「なら、(こと)わるたい。ぬしらの見え透いた肚は既に読めとるたい。斥候ば装って、どこぞでオイを始末ばする魂胆じゃろ? 伝令ば使わんとぬしが直々来たゆうことが、その証明たい。どげな、図星ばい?」

 寿は、塹壕に差している円匙を引き抜いて、いつでも防戦できるように、それを肩にかけ直した。桑畑の右手が軍刀ではなく、銃嚢にかかっているのが気になったのである。

 寿は、いつ抜き射ちに出るかわからない、桑畑の手を警戒しながら言った。

「言うとくけんが、曹長、そげなもんに従う義務も、命令さるる謂われもなかぞ。わし一個人に用があるとなら、小隊長自ら出向いて来いと、あれにそげ伝えろ」

 桑畑は、手の内を読まれていることに、これ以上は無駄と開き直った。金剛力士が、眼下の邪鬼を睨めつけるような凄味を帯びた眼で、寿を見下ろした。

「貴様、どうやら、噂どおりの変人のようだな。だがな、よく聞けよ。お前とうちの隊長との関係がどうであれだ、敵前で上官の命令を忌避すればどういうことになるか、お前は、それを忘れたわけではないだろうな」

 と、圧し被せるように声を落とした。

 寿は、臆しも怯みもせずに、逆に桑畑に挑戦的な眼光を放った。

「寝ぼけたことを言うもんやなかぞ。オイは、まだ抗命を働いちゃおらん。それに、あの一件はとっくに決着ばついとる話たい。それでも腹の虫が治まらんとなら、きさんら勝手に仕掛けりゃよか。じゃがの、オイとて、黙って殺られるほど間抜けやなかぞ。それをきさんの親玉によう伝えておけ。へたに動いて、返り討ちにならんごつ、気をつけるようにの」

 寿は、肩の円匙の刃を、斜めに寝かせた。少しでも妙な動きがあれば、瞬時に円匙の刃先を振り下ろす構えをとったのである。

 固い地盤を掘るたびに研がれている円匙の尖は、刃物のように鋭く尖っている。その刃が、真昼の陽光をまともに浴びて、不気味な輝きを放っている。相手に対する寿の意思表示は、これだけで充分であった。

 身の危険を感じた桑畑は、大股に一歩退いて、銃嚢蓋の留金を外した。

 それが、塹壕の男たちには危険な徴候と映った。

 数名の兵隊がいきなり塹壕を駈け上がり、叉銃(さじゅう)してある小銃を取って一斉に遊底を引いて銃口を曹長へ向けた。

「曹長さんよ、出しゃばってつまらねえ真似すると、長生きできませんぜ」

 と、赤羽である。

「この場は、早えとこずらかったほうが、あんたの身のためと言うもんじゃねえですかい」

 と、曳田が凄むと、野下から銃を受け取った有働が、いまにも発砲しかねない勢いで噛みついた。

「俺たちゃな、もう何人もの満人をこいつでバラして来てるんだ。てめえ一人バラしたって、こちとらはなんとも思わねえんだぞ! 変な真似しやがると、ぶっ殺すぞ!」

 曹長は、口許を蒼く染めて烈しく片頬を痙攣させた。

「……よし、貴様らにその覚悟があれば、もう言うことはない。せいぜい粋がってろ。貴様らがどうなろうとも、そのときになって吠面を掻いても遅いぞ」

「うるせえ、使いっ走りのひよっこ瓢箪が、でけえ口を(たた)くんじゃねえ! 反対にてめえに言っといてやる。ちょっとでも班長殿に妙な真似しやがると、俺がてめえを生かしちゃおかねえからな。覚えてろ!」

 有働が銃を突き出して哮えた。

「もうよか」

 と、寿は、有働の銃を片手で押さえた。

「桑畑曹長、もいっぺん念ば押しとくけんが、きさんらを怖れるほど、オイも分隊員も腑抜けやなかゆうごつがこれでわかったばい。きさんもわしも、早死するにはまだ若かか歳たい。の、親から受けた折角の五体たい。粗末にしちゃ親に申し訳なかぞ。そやけん、二度とこの壕に近づいちゃならん。話は終わりたい。もう帰りんさい」

 桑畑は、それでも上級下士官の威厳を保とうとして、

「貴様、いい気になりおって。よし、その頸を洗って待っておれ!」

 と、捨て科白を吐いて踵を返した。

 その背に、

「待て、桑畑!」

 と、声が飛んで、塹壕から一人の兵隊が駈け上がって仁王立ちになった。

 これに愕いたのは、呼び止められた当の桑畑よりも、むしろ寿であった。いったん下りたはずの幕が、思いもしない別の幕場へ転じたから、作業をはじめようとした塹壕の眼も、一斉にその兵隊へ集中した。

 兵隊は、そんな塹壕の視線などまったく意に介せずに、

「俺だよ」

 と、曹長に歩み寄り、憎悪に満ちた眼でニタリと唇を歪ませた。

「忘れたか」

「……」

 詰め寄った兵隊は、桑畑の得意とする居合斬りを熟知しているらしく、軍刀に手をかけた桑畑との間合いを計って、相手を見据えた。

「よもやこの顔を忘れたとは言わせんぞ」

 一呼吸の間があって、桑畑の顔が俄に蒼ざめた。

「お前、美祢か!」

 予期しなかった突然の衝撃に、起こしていた軍刀が一瞬ダラリと下がったが、すぐに引き起こして一歩退いた。

 美祢は、その分だけ詰め寄った。

「そうだ。お前と准尉に有難いご褒美を頂戴した、元伍長の美祢だよ」

 この衝撃的発言は、塹壕の男たちをさらに愕かせて、低いざわめきを起こしたほどであった。

「見上げたもんだな。貴様、曹長殿にご昇進か。それにしても、神仏は悪党だけを庇護するものと、俺は随分と神仏を恨んだものだが、どうやらそうでもなさそうだ。こんなに早くお前に会わせて貰えるとはな」

「……」

 美祢は、さり気なく桑畑の左側に廻りこんだ。桑畑の居合いを封じるためである。

「どうした、桑畑。顔色が悪いぞ」

「……お前……南方へ動員されたんじゃなかったのか?」

「そうさ、南方行きの列車には乗ったさ。だが皮肉なことにな、大連の港まで行く途中に急性盲腸炎とやらを起こしてな、途中で奉天の陸軍病院に担送されたが、そこで腹膜炎を併発してひと月だ。そのあとは罪人の烙印を捺されて部隊を盥廻しされたよ。お蔭でこのとおり、いまだに降等されたままの星三つさ」

 美祢は軍衣の襟を立てて見せた。

「……」

「相棒の准尉は、岩郷はどうした? (うだつ)の上がらん伍長の貴様が、軍曹の進級と引き換えに俺を嵌めたように、今度も同じ手口でブリキの星を増やしたか? さっきからの話からして、相変わらず上官に(こび)ってるらしいな」

「……馬鹿を言え。お前には、関係のないことだ!」

 桑畑がその場を逃げるように踵を返そうとすると、美祢がその背に怒声を刺した。

「逃げるか、桑畑! 上級下士官が、他隊の部隊の面前で、上等兵に面子を潰されるのが怖いか!」

 桑畑は、これで退くに退けなくなった。元同僚と雖も、いまの美祢は一個の兵隊である。その兵隊に、他隊の下士官や兵隊の面前でやりこめられたとあっては、曹長の面子は確かに丸潰れである。上級下士官としての体面だけは繕わなければならない。

 その面子が、振り向きざまに、こう言わせた。

「なんだと貴様、それが上官に対する態度か! 上官侮辱は許さんぞ!」

 桑畑は歯を剝いたが、美祢の前では無意味な虚勢でしかなかった。上等兵に軽く一喝された。

「上官だと、笑わせるな! 軍の物資横領の罪を俺の部下に被せて、殺害した挙句に責任を俺に転嫁した貴様が、今度は上官侮辱の廉で俺を処罰するか! いいだろう、やれるものならやってみろ!」

 と、桑畑に怒声を浴びせた美祢の声を、寿は塹壕で聞きながら見守っていた。

 美祢は、背を向けているから表情は摑めないが、桑畑の拳を握った両の手が小刻みに震えはじめたのは、これは美祢に対しての怒りではなく、怯えから来る震えである。美祢の挑むような姿勢から判断して、美祢が伍長から上等兵に降等されるような余程のなにかを、桑畑は美祢に対して行ったのである。その証拠に、美祢の両の手は、さり気なく腰の帯革に当てがわれているが、左の腰の手には帯剣が起こされている。相手の出方如何で、美祢は刺し違える肚と、寿の眼にはそう映っていた。

 成り行きを見つめている塹壕の男たちも、この一触即発の緊迫した空気に、息を呑んで釘つけになっていた。

「行かなくていいですか?」

 と、滅多なことで動じない有働も、これにはさすがに顔色を変えていた。

「あの様子だと、どっちかが死にますよ。拙いことになりませんか」

 と、美祢の異様な殺気に、有働が寿の袖を引いたのも自然のことである。

「心配はあるまい。あれも、いっぺんは下士官になった男たい、こげな場所で面倒ば起こすとどげなこつなるか、それぐらいの分別は持っとるたい。それより、あいつは自暴自棄に陥っとる。いま動けば、あいつは衝動的にあの曹長を刺すかもしれんばい。もう少し成り行きば見るほうがよさそうじゃ」

 寿はそう読んで動かなかったが、しかし、頃合いを見計らって出て行く腹積もりだけはしていた。すぐに駈け上がれる用意にと、塹壕を上がるために設けてある踏み段に足をかけて見守った。

「……そげにしてもあの二人、なにか知らんばってんが、余程の訳がありそうたいの……」

 二人を見据えて、誰にとはなく呟いた。

 間合いを詰められた桑畑は動けなかった。もし一つでも動作を誤れば、美祢の帯剣は、躊躇なく自分の腹に直突しそうである。美祢は、それを計算に入れて、相手の一挙一動に全神経を尖らせているようであった。

 塹壕の男たちは、元伍長だった上等兵と曹長が気になって、作業どころではなくなっていた。

「知らん!」

 と、突然、裂くような桑畑の声がした。

「あれは、俺の知らんことだ!」

 そう言ったように、寿には聞こえた。

「つまり」

 と、美祢は、相手を真横に身構えて、言った。

「あれは岩郷のやったことで、自分には関係ない。そう言いたいのだな」

「だから、俺は、知らんと言っているだろ!」

「とぼけても駄目だぞ。お前と岩郷が結託してやったことは、明白な事実として証拠が残されているんだ」

「証拠だと? 馬鹿な、……なんのことだ!」

 美祢は、どす黒い笑いを浮かべた。

「夜間演習の夜に、溺死と見せかけて殺された()(ぐら)一等兵だよ」

「……」

「忘れたとは言わせんぞ。仮にお前は忘れても、俺は一日たりとも忘れたことはないからな」

 事実、あの夜の事件を境にして、美祢は、そのことを一日も忘れることはなかった。むしろ、日を重ねるたびに、憎しみを増幅させて報復を誓ったのだ。これは、しかし、美祢が病院へ担送されたからのことで、なんの故障もなくそのまま南方へ動員されていたとしたら、事件の真相を知ったときには、美祢は、否応なく報復を諦めざるを得ない立場に置かれたのは確実で、無念の(ほぞ)を噛むどころか、いまごろは南方の屍と化しているところである。

 原隊を失った美祢は、病気が治癒しても、そのまま病院の使役要員として残された。理由は単純であった。病み上がりの兵隊は、どこの部隊でも歓迎されない。したがって受け入れ先がきまらなかったためである。

 ある日、使役から戻った美祢に、病室の患者たちは口々にこう言った。南方行きを免れたお前は運のいい奴だとか、お前を南方戦線から解放したのは神仏の庇護があったからだとか、看護婦に囲まれて仕事ができるとは倖せな奴だとか、そのうちに看護婦と懇ろな間柄となって子連れで内地へご帰還だとかの、羨みと妬みの混じった揶揄を飛ばして美祢をからかった。彼らには、病気が完治すれば、帰りたくもない殺伐とした原隊が待っている。厭味の一つでも言わなければやりきれないのである。

 美祢は、しかし、そんな揶揄などどうでもよかった。たとえここが非戦闘区の病院とはいえ、階級序列の帝国陸軍の軍隊と変わりはないからである。それに、自分を南方行きから救ってくれたのは病気のせいで、それを神仏の庇護と単純に結びつけて考えるほど信心深くはなかったし、病院に残されたのは単なる軍の事情だけではなく、残されたのは、なにか特別な意味があるように思いはじめていたからである。

 その特別な意味とは、そう、美祢がこれまで思い募らせていた報復が、手の届く現実となったからである。

 美祢は、それを、一つ一つ鮮明に蘇らせながら言った。

「貴様は、……いや、正確には貴様らだ。貴様と岩郷は、軍の物資を横流して莫大な利益を壟断して私腹を肥やしていた。それを小椋に証拠を握られたんだ。小椋も、黙って眼をつむっていれば命を棒に振らずに済んだろうに、あいつも愚かな奴だよ。僅かばかりのかね欲しさに、小椋は貴様たちを()()った。それであの三日間の大隊演習だ。三日目の演習が終わったあの夜、貴様は、俺が中隊長の幕舎に出向いて留守にしているのを知って、小椋に分け前の砂金をやるから水筒を持って沼に来いと呼び出した。演習の際に部隊が利用するあの沼だ。小椋は、水筒いっぱいに砂金が手に入るぐらいに思ったんだろう。貴様の指示に歓んで従って沼へ行った。貴様は、そこで酒に眼のない小椋に用意していた水筒の酒を吞ませて小椋の警戒心を解き、頃合を図って、小椋が泥酔して溺死したと見せかけて始末した。そのあとで、貴様は自分の水筒の酒を小椋の水筒に入れ換え、沼の水で自分の水筒を洗って、何食わぬ顔で幕舎に帰った。俺が分隊の幕舎に戻ったときは、小椋が沼で浮かんでいると騒然となっていて、中隊は、小椋の救助に向かっていた。貴様は、そのとき中隊長に具申したそうだな。小椋が演習後に酒を飲んで溺死したのは、軍の物資を横領した罪が発覚するのを恐れて、酒を大量に飲酒して沼に投身して自殺を図ったんだとな。中隊長もいい加減なものだ。日頃の小椋の素行を准尉の岩郷から(しら)されていたから、貴様の話を鵜呑みにした上に、ろくに調査もしないで小椋を犯人ときめつけ、中隊の不名誉を惹起するそのような兵隊を管理できなかったのは、小椋の直属班長である俺の重大な責任だとして俺を査問会議にかけた。査問会議もでたらめだ。部下の犯罪行為を知っていながら、それを黙殺した責任は重いと、俺を重営倉十日と三階級降等処分にした。俺もな、まったく間抜けで馬鹿だったよ。あの日、小椋がどこで酒を調達して演習に持ちこんだか、あんな水筒一本の酒を呑んでも平然としている酒豪の小椋が、なぜあんな沼で、それも水筒に三分の一ほども酒を残して溺死したか、兵隊の分際で軍の物資をどうやって持ち出したのか、もう少し小椋の行動に対して慎重な調査をしていれば、事件はもっと早く解決できただろうし、貴様らの悪事も暴露できたんだ。あいつは俺の班の札付きで、俺自身が奴に手を焼いていたのも事実だったし、あいつならそれぐらいはやるだろうと思いこんだお蔭で、俺は貴様たちにまんまと()められ、おまけに、有難くもない()()までつけられた。南方行きの、地獄の片道切符ってやつをな」

「なんの証拠も、根拠もないのに、でたらめを言うな!」

 尖った桑畑の終わりの声だけが寿の耳に届いた。それ以外はなにを喋っているのかは、互いに声を抑えているからわからない。

「でたらめではない」

 美祢の口許が陰険に笑った。

「それを、いまの俺の上官の前で暴露させてもいいのか。気をつけろよ。いまの俺は、人間の分別をとっくに棄てているんだ。岩郷や貴様のお蔭でな、あの日以来、俺は悪魔に魂を売ったゲスな復讐の鬼と化しているんだ」

 桑畑の右手が、銃囊へピクリと動いた。

「動くな! へたに動くと、貴様は一秒も生きてはいられないぞ。それでもいいのか。俺が、どうして貴様たちの悪事を知ったか、それを知らずにくたばりたくはないだろう。そのまま黙って聞いてろ」

 桑畑の手がだらりと下がった。

「貴様が、あの夜、小椋を事故死と見せかけて殺したことを知ったのは、俺が病院に担送されて暫く経ってからのことだ。病気が完治して転属がきまったその夜、返された軍装品と私物の整理をしていたら、私物箱のいちばん底にこれがあった」

 美祢は、胸の内隠しから、二つに折りたたんだ封筒を出して見せた。

「小椋が殺される前に、奴が書き残したものだ。これには、貴様たちの悪行を日付をつけて、物資をどこで(さば)いたかが書きこまれている。あいつが目撃した貴様らの悪行を直接俺に告白せずに、こんな形にして俺の私物箱に忍ばせたか、その意図はわからん。確認しようにも、いまとなっては死人に口なしだ。だがな、この書簡は匿名だが、まぎれもなくあいつの筆跡だよ。これを読んだ俺は、小椋も俺も貴様らに嵌められたことを知った。あの酒豪の小椋が、なぜ不自然な溺死をしたかもわかった。どうだ、これでもまだシラを切るか」

 追い詰められた桑畑の顔に生気が失せた。

「残念だったな、貴様は、俺がこの分隊にいることに気づかなかったようだが、俺は最初から貴様に気づいていた。貴様が気づかないのも無理はないさ。あれから二年も経っているんだ。貴様は、俺は南方に動員されて、俺とはキッパリ縁が切れたと信じているからな。運命は皮肉にできているもんだ。俺はこうして戻って来て、こうして貴様と対峙している。もし貴様が俺より先に俺に気づいていたら、貴様は、俺を秘密裏に始末できただろうにな」

「……」

「安心しろ。俺は貴様のような卑怯な真似はせんよ。俺は、俺自身の流儀で貴様を清算したいからな。この場で貴様を冥土に送ってやるのは簡単だが、いまは生かしておいてやる。だが甘く見るなよ。俺は諦めたわけじゃないぞ。手を出さんのは、俺の班長や分隊員たちにつまらん面倒をかけることになるからだ。いいか、忘れるなよ。俺は殺された小椋の恨みと、俺が受けた屈辱を重ねて必ず清算するぞ。そのためだけに、いまの俺は生きているようなもんだからな。だから、へたな真似をして早まるなよ。俺は貴様の一挙一動を細大漏らさず監視しているからな。これからは昼夜を問わずだ、人気のないところは避けて歩け。特に夜の一人歩きは用心することだ。もういい、行け」

 美祢の、殺意に満ちた視線に()されて、桑畑は、陰湿に歪んだ口許を美祢に残して戻って行った。

 美祢は、寿に呼ばれるであろうことを覚悟して、その場に佇立していたが、寿が何事もなかったように作業に取りかかったのを見て、その場で挙手をして持ち場に戻った。

 それを眼で追いながら有働が言った。

「あいつ、兵隊にしては気位の高い野郎だなと思っていましたが、元々は下士官だったんですね。驚いちゃった」

 呟いて、口に咥えている煙草にマッチを擦った。

「それにしても、なにがあったんですかね、あの二人。伍長から上等兵に格下げになるってことは、よっぽどのことがなけりゃ、そうはなりませんよ」

 と、無神経に呟いた有働に、寿は、苦笑いで知らぬ顔で済ませた。

 その有働の無神経さが、この男をさらに調子づけた。

「あいつ、このまま放っておいたら、ほんとに野郎を()りかねませんよ。なんなら、俺がやめさせましょうか」

 と、でしゃばったものだから、さすがの寿も黙っているわけにはいかず、声こそ抑えてはいるが、その響きは鋭く尖っていた。

「知らん顔ばして黙っとれ。人にはの、有働、人それぞれに事情ゆうもんがあるもんたい。余計な口出しも手出しも詮索も無用じゃ。あれのことは、そっとしておいてやれ。それにじゃ、こげな狭か陣地では双方ともなにもできゃせん。無駄口はそのくらいにして、きさんは赤羽たちと水ば汲んで来い」

 そう命じたあと、寿は、折を見て事情を確かめる必要がありそうだと、腹の内でそう考えていた。


 有働たちが糧秣庫の所在を探しに出向いている間、寿は野下の傍で暫く汗をかいた。

 そうして作業が終盤に近づいたころ、寿は、円匙の手を止めて、ロ号の指揮所を窺い見た。日中は気にしないつもりでいても、やはり、埴生の動きが気になるのである。

 ロ号のそこは、しかし、静まり返っていた。見る限りでは、いまのところ、新たな動きはなさそうであった。

 寿は、胸の隠しから煙草を取出して、火を()けると、今度は、両翼の密林に視線を泳がせた。戦場離脱を決意したものの、離脱後の退路をどう辿るかを思案したのである。戦闘が開始されれば、おそらく身動き一つできない状態になるのは必至である。そうなってから考えたのでは遅いのだ。

 それにしても、両翼に拡がる密林は、陣地台上から眺めても樹木のほうが高いために、その規模がどれほどものかはわからない。まるで涯がないかのように拡がっていそうであった。

 密林は、浅い場所で一時的に潜伏する分には確かに好都合だが、それ以上に足を踏み入れようものなら、それがどれほどの危険を(はら)んでいるか、素人の判断では計り知ることはできない。なぜならば、深い密林のなかでは忽ち方位感覚を奪われ、地獄の迷路に(はま)るのが落ちだからである。寿は、経験からそれを学んでいるのである。

次に、寿は台上を仰ぎ見た。いま自分がいる位置からでは再確認することはできないが、この陣地へ来た折りに台上から眺めた記憶の限りでは、陣地後方のその向うは、懐の深い両翼の密林を割るように細長い平原が遜河方面へとつづいていた。それを辿れば遜河へ出るはずだから、そこまで行けば、孫呉の帰路へと繋がっているはずである。

 寿は、以前、耕介から見せてもらった北満の地図を脳裡に呼び起こした。そのときは、自分がどの辺りにいるのかを知りたくて地図を広げたのだが、それが役に立った。

 寿は、離脱後の一応の目標としている、(ほく)(こく)線が走っている孫呉までを一本の線で結んでみた。

 乏しい記憶の限りでは、孫呉までの距離は、いま寿の立つ位置から大まかに測ると、ほぼ真西の五十キロ地点である。五十キロなら遠くない。検閲行軍の一日の行程である。これを無事に踏破すれば、あとは鉄路を辿って南下を果たせば(ぺい)(あん)である。

 孫呉から北安までの鉄路は、殆ど山間部である。距離は孫呉からは概ね百八十キロ。敵を回避して廻り道をしたとしても五日である。そうして北安まで辿り着けば、そこで何らかの情報も入手できるだろうし、前途の確認もできようというものである。ただし、これは食糧が充実して健全であった場合の話である。途中には、自分たちを妨げる難関が幾つも待ち受けているだろう。食糧も簡単には手に入らないかも知れない。だが、それを乗り越えていかなければならない。

 そうは、しかし、考えるものの、その考えは、すぐに改めなければならなかった。孫呉まで行けば、確かに鉄道も県道もあるが、これは殆ど見込みがないことに気づいたのだ。なぜならば、東西北の国境線三方全線が戦闘の渦中に置かれているということは、北満国境第一線の黒河は無論のこと、それにつづく孫呉以南も危険な状態に陥っていると判断しなければならないし、それと並行して、鉄道も敵の制圧下に落ちていて、随所で分断されている可能性大だからである。

 県道も同様である。道路という道路は、おそらく反満抗日旗が翻っていて、寿たちを含む、関東軍の将兵を待ち受けている確率が高いと考えなければならない。

 では、どうするか?

 残された選択肢は一つである。

 それは、陣地両翼に拡がる、この途轍もなく懐の深そうな樹海を孫呉まで歩くことである。

 だが、見知らぬ密林の恐ろしさを骨髄にまで染みこませている寿は、これこそが人間に対する自然界の大敵であると考えていたから、密林を歩くことは思考の対象にはしていなかった。

 密林は、魔界地獄である。鳥獣以外の進入を受けつけないそこは、人間の五感や常識などは通用しないところである。そんなものなど持ち合わせていても、無慈悲に打ち消されてしまうのである。たとえ精巧な磁石や専門的知識を持ち合わせていたとしても、森をよく識る案内人がいない限り、密林の強力な磁場で方位も感覚も簡単に狂わされてしまい、余程幸運でない限り元の場所には戻れない、それこそ、誰にも知られずに白骨と化す身の上となる、まさに死の森なのである。

 寿は、思考を巡らせた挙句、最後の手段として、陣地後方へつづいている平原をもう一度思い浮かべた。

 鉄路も道路も駄目。食糧の調達見込みも生命の保障も皆無と言える密林は尚更駄目ということになれば、残された選択肢は必然的に定められることになる。それならば、あとは、死を覚悟しての平原に命を懸けるだけである。可能な限り赤軍や満人との接触を避け、農家のある耕地をつかず離れずして歩けば、まだ飢えずに生きる望みが残されるというものである。(いち)()の望みがあるならば、これに賭けるのが賢明な策ではないか。成るか成らぬかは、あとは実物が証明してくれるのだ。

 そう決意したが、しかし、戦闘で生き残る前に解決しなければならない重要な問題が残されていた。自分のすぐ背後に位置する、埴生少尉の陰湿な脅威である。敵は必ずしも前だけとは限らない。そのことを、寿は、このときはじめて肝に銘じるのである。味方であるはずの「敵」を背後に、それも無防備に姿を暴露させている寿にとっては、これこそが、まさに死と直結した空間であった。たった一発の銃弾で埴生の用は達せられ、寿は葬られるのである。

 寿は、ガラ空きになっている背後の脅威を、念入りに観察した。

ロ号陣地、つまり埴生小隊の配備は、戦闘指揮所の直下の壕に一個分隊、一段下がった陣地両翼に二個分隊、さらに一段下がった中央に小隊指揮所と一個分隊が配備されており、寿の守備するハ号壕は、間の悪いことに、埴生の指揮所の真下に位置していた。

 ロ号中隊指揮所にも、本陣との連絡を兼ねた望楼が建っているが、これもちょうど寿の壕の真上に位置していて、そこからは、自分の壕の底まで丸見えであった。これに登られて狙われたら、寿の運命は埴生に握られたも同然であった。

 この脅威を防禦するためには、いまの塹壕の深さでは駄目である。少なくとも、いまよりも数尺は掘り下げて、背後には防禦壁を設けて自分の身を護るべく死角が必要であった。

 寿は、分隊員たちに、射撃の足場を残してさらに二尺(約六十センチ)ほど掘り下げるよう命じた。

 寿の個人的な事情など知らない分隊員たちは、この二尺の差がどのような意味と価値があるかより、昼飯抜きでやらされる作業にブツブツ小言を言いながら掘りはじめた。

 寿は、背後からの狙撃を想定しながら、掘り出した塹壕の土を背面に分厚く盛り上げさせ、それを丹念に固めさせた。銃弾の貫通を防ぐためである。

 作業を終えた寿は、もう一度、それも念入りに背後の防禦を確認した。

 どうやら、埴生の陣地からの脅威は、これで解消されたようであったが、望楼はそれ以上に高いために、そこからの死角がどれだけ確保されたかは下からでは判断しずらかった。

 だが、これ以上の防御は不可能である。諦めに似た笑いを浮かべた寿は、煙草に火を点けて、射撃の足場に腰を下ろすと、分隊員たちに大休止を命じて昼飯を許した。他の陣地では、既に飯は終わっている時刻である。

 野下から渡された口糧を口にしながら、寿は、有働たちの帰りが遅いのを気にしつつ、塹壕のそこから天空を仰いだ。視ると、北の方角に怪しい黒い雲が張り出ていて天空一面を覆いはじめていた。

 もしかして雨になるか? 雨でなければ、今夜は墨汁に浸かったような一寸先も見えない闇となるだろう。

 闇なら、いっそのこと、そのほうが有難いと思った。雨で物音が掻き消されて、その上にずぶ濡れの(ろう)()となるよりも、黒い闇のほうが、まだ周囲に神経を注ぐ聴覚が残されるというものである。

 口糧を食い終わって、作業を再開したところへ、漸く有働たちが戻った。

 寿の壕に胡坐をかいた赤羽が、口糧の缶詰を口にしながら、まだ塹壕の補強をしている仲間を見廻してから、壕の深さに気づいて寿に訊いた。

「班長殿、いまさらなんでそんな必要があるんです? 掘るだけ無駄になりゃしませんかい?」

「無駄になるかならんかは、そのときの状況次第たい。念を入れてやるに越したことはなか」

 寿は、腹の内で複雑な笑いを浮かべた。原隊で、この赤羽たちに言ったことを、よもや自分が経験する破目になろうなどとは考えもしていなかったから、その手前、つまらぬ因縁の防衛から掘っているのだとは、口が裂けても言えなかった。

 寿は、それを、赤羽に、こうすり替えた。

「こげんしとるあいだにも、いつ敵の砲撃が開始されるやわからんとぞ。たった一寸の差が、命の分かれ目ゆうこともある。ここの部隊番号のようになりたけりゃ、ぬしゃなんもせんでんよかぞ」

 赤羽は、それもそうだと呟いて、それ以上は逆らわずに曳田と自分の場所へ行った。

 有働が、食い終わった缶詰の空をポイと捨てて塹壕に下りて来て、赤羽と同じことを言った。

「俺たちはここをずらかるんでしょ。いまさら念入りに掘ったって意味ありませんよ」

 寿は、咥えていた煙草を塹壕の土で揉み消すと、すぐ上の指揮所に顎をしゃくって卑屈に笑った。

「みんなには意味のなかごつあろうがの、オイにはあるとじゃ」

 有働はロ号壕を見上げて、あァ、と、うなずいた。

「それより、やけに遅かったが、糧秣庫の場所はわかったとか?」

 訊くと、有働は、忌々しそうに無精髯を歪ませた。

「糧秣庫はすぐにわかったんですがね、だけど近づけませんでした。弾薬庫と糧秣庫には、それぞれ下士官と衛兵が固めていましてね、それで暫く様子を見ていたんです」

 と、乾麺麭を頬張りながら重い腰を下ろした。

「やっぱしの……」

 と、寿がうなずくと、有働が首をかしげた。

「どういうことです?」

「もうじき弾薬と糧秣の支給がはじまるゆうこつたい」

 有働が、塹壕の下から眼玉をギョロリと掬い上げた。

「それなら、どこかの部隊にまぎれこんで、糧秣を受領しましょうか」

「いや、それは駄目じゃ。受領するには将校の証明印が捺された受領伝票が要る」

「駄目ですか……」

 短い沈黙のあと、塹壕の地面を見つめて考えていた有働が、急に顔を上げた。

「……やっぱり、朝を待たずに、今夜やりませんか。この様子だと、今夜は闇夜ですよ。少々動いたって人眼に触れにくいし、糧秣は諦めて、日が暮れたら、思い切ってやりましょうよ。食いもんぐらい、途中で、どうにかなりますよ。ね」

「それも含めて、もう少し様子を見よう」

「でも、国境じゃドンパチがはじまっているんだから、こっちだって、いつはじまるかわかりませんよ。夜になってはじまったら、四の五のと悠長なことは言ってられませんよ。陣地じゅうが動いているいまのほうが、却ってやり易くありませんか。それにあの少尉のことだ、もしかしたら俺たちの裏を読んで、今夜のうちにあの曹長と動くかもしれない」

 と、有働は迫った。

 寿は、それを軽く鼻で嗤った。

「月もなか、いつ天候が崩れるかわからん闇夜ぞ、我が足下さえ見えん闇のなかを、なんぼあれとて安易に動けまい。心配なか」

 と、言ってのけて、

「ま、用心だけはしとくばい」

 と、塹壕の仕上げに足場を固めはじめた。

 その作業が終わるころには、他の陣地では夕飯の飯上げに入っていた。

 曳田が、作業終了の報告を兼ねて夕飯をどうするかの相談に来た。口糧があと一食分しか残っていないことを懸念してのことである。

「残さずに食うておけ。明日の糧秣は、明日心配すればよか。空きっ腹で行軍はでけんけの」

 と、言って、随時携帯糧秣の喫食を命じた。

 携帯糧秣とは、戦場における兵隊の糧食である。飯盒による甲種尋常糧秣と呼ばれる米飯による(すい)(さん)もあるが、敵前で公に火を使えない戦場での糧食は、乙種糧秣と呼称される携帯口糧が主であった。一食分の内訳は、(かん)(めん)(ぽう)(乾パン六五〇グラム)に肉の缶詰(一五〇グラム)と、それに食塩(十二グラム)である。川尻分隊が携行している糧食は、この乙種糧秣と呼ばれるものである。

 それにしても、戦闘間近だというのに、この陣地ではまだ炊飯が許されているらしく、川尻分隊の貧食をあざ笑うかのように、各陣地の壕からは炊煙が濛々と立ち昇っていた。陣地の将兵には、最後の最後まで、「味」のある、温かい飯が給与されているようなのである。

 やがて陣地の其処彼処で、夕食後の休息に耽っている兵隊たちの満足そうな姿を眼にして、曳田がぼやいた。

「俺たちゃよそ者だからよ、温けえ飯を御一緒にどうぞ、てなわけにはいかねえんだろうが、それにしてもだ、戦をする同じ仲間だってのによ、この給与の差はあんまりじゃねえか」

 と、不平と一緒に乾麺麭を口に頬張った。

「ここの連中はよ、俺たちには一物もくれてやる気なんてねえんだよ。奴ら、てめえの爪の垢さえも惜しみやがる連中だからな。戦をやるのは、てめえらだけじゃねえってのによ!」

 と、怨みのこもった声を上げると、それを受けて、赤羽が返した。

「招かれざる客かなんだか知らねえけんどよ、それにしても、この差別は軍法会議もんだぞ。俺たちにこんな仕打ちをしやがってよ、ここの連中は、温ったけえほっかほかのおまんまだ。これが関東軍の公平な給与と言えるか!」

 そう嘆くと、今度は木津が割って入った。

「非常時だから贅沢は言わねえさ。だがよ、ドンパチの前くらいは、せめて温ったけえもんを食わせろってんだ。こんな糧秣じゃ戦もできやしねえぞ!」

 この男たちのぼやきはもっともだが、編制外の部隊には一切の配慮も考慮もされないのである。それを承知していても、眼の前で待遇の格差を露骨に見せつけられると、愚痴りたくもない愚痴の一つも出るのである。

 彼らは、しかし、それでも味のある給養が摂れるだけ、まだ幸運であった。このとき、(へい)(たん)からの補給を絶たれた南方の(とう)(しょ)で戦っている将兵たちは、草の根を煮て食い、木の根や皮を囓って飢餓の地獄と闘っていたのである。

 狭い塹壕に肩を並べて、粗末な口糧だと愚痴をこぼし合って乾麺麭を頬張っているこの男たちは、南方の戦線で餓死寸前となって戦っている友軍たちの実態を知らないだけ倖せであった。もし知っていたとしたら、この粗食をどのような思いで食ったであろうか……。

 その草根木皮よりも遙かに人間的な食事を終えた寿は、胸の隠しから煙草を抜き取って咥えた。

 有働が、寿の煙草に火を点けてやりながら、ぼそりと呟いた。

「やりきれませんね」

「なにが?」

「だってそうでしょ。同じ軍隊の仲間であるはずの「敵」の弾を気にしながら、こうしてじっとしていなければならないんですよ。馬鹿げてませんか?」

「確かに馬鹿げとるたい。やけんが仕方なかろうがくさ。どげな因果かしらんが、オイはこげな巡り合あわせに生れついとるとたい」

 寿は、吐いた煙草の煙の先に答えた。

「いっそのこと、班長殿、俺があの野郎をこっそりバラして来ましょうか。そうすれば、一切気にすることはなくなるでしょう」

 と、有働の真面目くさった顔に、寿は呆れた笑いを洩らした。

「きさんは、二言目には()るとかバラすとか口走るがの、それはもうやめにしておけ。これ以上つまらんかかわりは持ちとうはなか」

「殺されかけているんですよ。それがつまらんかかわりですか!」

「阿呆。大けな声を出すんやなか。もう黙っとれ」

 小声で叱責して有働の脇腹を肘で突いた。

「ごめんなさい……」

 有働は、暮れ行く陣地に溶けこむように黙ってしまった。

 夜が近づくにつれて、天空は黒い暗幕を張りはじめた。晴天時なら、太陽が沈んでも空は小白夜となって、暫くは薄暮の状態がつづくのだが、生憎と天候が悪化しているせいで、やがて陣地一帯は、墨汁に浸かったような一寸先の地物すら見えぬほどの闇が支配し始めるのである。寿自身も、これまで経験したことのない他人からの脅威的な視線を意識しているせいか、四方の闇からじりじりと忍び寄って来る不気味な戦慄を覚える夜でもあった。


 闇が深まり、随分と時間が経ったように思えた。

 寿は、自分の位置を埴生に特定されない用心のために、塹壕深く腰を屈めて、闇のなかを手探りでマッチを擦って腕時計に明かりを当ててみた。

 時計の針は、促々と刻まれているのに、闇のなかでの苛立つ時間は感覚さえも狂わすようである。寿が感じているほど、時間はいくらも進んではいなかった。

 いつ雨が降ってもおかしくない天空のはずが、幸いなことに、一滴の雨も落ちて来そうもなかった。

 寿にとっては好都合であった。闇のなかで、土砂降りの雨に祟られては、それこそお手上げである。雨音で周囲の気配が掻き消されて、その上、塹壕は忽ちにして泥沼と化してしまう。そうなれば、幾ら闇夜とはいえ、自分の姿を否応なく塹壕から暴露させてしまう結果となる。このまま降らずに、頑固に片意地を張り通して欲しかった。

 闇に閉ざされた塹壕の底で、寿は神経を尖らせた。

 小さな物音がするたびに、なにも見えはしない辺りを見廻し、聞き耳を立てて様子を窺った。それが仲間の寝返りや、時折塹壕を撫でる風のいたずらであることがわかると、そっと胸を撫で下ろした。これほどまで神経を尖らせる戦慄を覚えたのは、炭鉱の坑内で硬い炭層を砕くために仕掛ける(はつ)()(ダイナマイト)のとき以来のことで、不気味な黒い闇の脅威は、まるで、真綿で頸をじわじわと締めつけられるような息苦しさがあった。

 苛立つ、長い時間であった。寿は煙草を咥え、先程と同じように塹壕に身を低くし、煙草に火を点けた残り火で腕時計を見た。

 針は、午前一時を少し過ぎていた。腕時計を耳に当てると、コチコチと軽やかに時を刻んでいた。

 闇に浸かった塹壕に眼を凝らすと、蛍のような淡い光があちこちで点滅していた。不安と緊張で眠れずにいる男たちが、低くした腰をさらに低くして喫煙しているのである。

 その小さな蛍火も、やがて疎らになって、塹壕一帯は再び闇に閉ざされた。

 あれほど寿の身辺を気に掛けていた有働は、寿の傍で軽い寝息を立てていた。

 ――このまま、取越苦労に終わればよかとやが……。

 そう思いかけたとき、すぐ至近で、金属が触れ合う音を耳にした。兵隊が腰に吊っている帯剣の音である。音は塹壕内からではなく、壕外の空気を這って来る。

 寿は、反射的に腰を浮かして、耳を澄ませた。音の算からして、どうやら単独ではなさそうである。

 ――卑劣な奴め、兵隊を刺客に使うとか!

 寿は、塹壕の壁に背をつけて、腰の銃嚢から南部(十四年式)拳銃を抜き取り、(えん)(とう)を鎮かに引き起こして激発状態にして身構えた。

 物音は、塹壕の側面を伝って、ゆっくりと自分のほうへ向かって来るようである。

 寿は、眠っている有働の頭を揺すったが、有働は寝返りを打っただけで眼を覚まさなかった。

 ――こげなときに、馬鹿が、熟睡ばしくさって!

 寿は舌を打った。

 闇のすぐ近くで、囁く声がした。

「こう暗くっちゃよ、いったい誰がどこだか、さっぱり見当がつかんな」

「もう少し、先じゃなかったかな?」

 闇の声は地を()って、用心深く、手探りで特定の人物を捜しているらしかった。

「昼間のうちに、目印でも置いておくんだったな」

「その心配はねえ。そのときは声をかければいいさ」

 その声に、拳銃を引いた寿は、にが笑いを浮かべた。

「赤羽か?」

 と、低く声をかけると、

「あ、そうです」

 闇のすぐ眼の前で赤羽の声が返った。

「おい、ここだここだ」

 赤羽が曳田と匍うように来た。

「きさんら、そげなとこで、なんばしよっとや?」

「いや、別になにをってことじゃありませんがね、俺と曳田で、例の場所へ行ってみたんですがね、兵器受領は終わっているはずなんですが、あすこは全然武装が解けそうにありませんぜ。駄目です。ネズミ一匹近づけねえです」

 と、赤羽は囁き声で答えた。周囲に気を配っているのは声の調子でわかったが、しかし、分隊員たちの耳は一斉に声のほうへ向けられたようであった。

「お前たちだけで行ったとや?」

「そうです。有働は、班長殿の護衛に必要かと思いましてね、俺たちだけで行きました。それに、暗くなったら身動きがとれませんからね。明るいうちに向うの雑木林に潜伏して、様子を窺っていたんです」

 闇に少しの沈黙があって、赤羽が訊いた。

「どうします。あの様子じゃ、トラックも糧秣も諦めるしかありませんぜ」

「みんなの準備はできとるか?」

「いつでも動けますが」

 曳田が囁いた。

 すると、寿の足下から声が来た。

「トラックが手に入らねえんじゃしょうがねえな」

「なんね、きさん起きとったとや?」

「こんなときに、グースカ寝てられませんよ」

 白々しく呟いて、有働は寿の横に立ち上がった。

「トラックが駄目なら、だったら班長殿、さっき俺が話したようにしましょうよ。この陣地の両側は密林に挟まれているでしょ。トラックは諦めて、このいちばん近い密林に潜るってのはどうです?」

「それも一つの方法かもしらんが、それは危険じゃ。あげな森は、昼間でも薄暗かとこぞ。一歩でも足ば踏み入れたら最後、森に迷うて行き場を見失うのが落ちたい。ましてや、こげな闇夜に森へ入ったら、それこそ自殺をしに行くようなもんぞ。分隊は、五分も経たんうちに四分五裂になって、二度と合流でけん有様になる」

「でも、こんなところで死ぬよりはましでしょ」

 有働である。

「確かにの、敵の弾で死ぬよりは遙かにましかもしらんが、それ以上に、森のなかは悲惨な状況になる。いま言うたように、森だけは絶対に駄目じゃ」

「それじゃ、いったいどうやって離脱するんです?」

 そう訊いたのは曳田である。

「さっき、ここへ戻る途中に、こいつも聞いたはずですがね、幕舎から出て来た将校が喋っているのを耳にしたんです。それによると、国境の第一線を越えたロスケの一部の機甲部隊が、明朝を待たずにこっちに到達するそうです。あと四時間ほどで夜が明けます。班長殿。どうするかきめてください」

 寿は闇の敵前に眼を据えた。いまは鎮まり返っているが、夜が明ければこの静寂は一変して、陣地は地獄の劫火に包まれて瞬時に壊滅するだろう。その夜明けが近い。決断を急がねばならない。

「班長殿」

 と、有働が寿の袖を曳いた。

「やっぱり、いったん森に潜って、そこから、この陣地の後方の野っ原へ抜けましょうよ。うしろの奴は、前の奴の銃を手綱して歩けば、それなら、闇夜でもはぐれることはありませんよ」

 有働の言うとおり、その方法がいいかもしれない。

 寿は、しかし、決断を鈍っていた。森への離脱よりも、営門を堂々と抜けたい意思のほうが、まだ優先しているのである。だが、それは、戦闘がはじまっての話である。

「班長殿」

 と、赤羽が念を押すように言った。

「有働の言うとおり、やるならいまですぜ。まごまごしてると、それこそ手遅れになる」

 すると、意外な声が闇を衝いて来た。

「時を待てば、それだけ後手に廻る可能性が大となります。私も有働の案に賛成で、いまが好機と考えます。班長殿、決行しましょう」

 野下の声に、闇のなかで、男たちが一斉に動く気配が感じられた。

 寿は、野下の声で、まだきめかねている肚をきめた。

「よし、きさんらの肚はようわかった。成るか成らんか、やってみよう。赤羽に曳田、お前たちは、みんなに装具の変更をさせろ。軍装は、雑嚢、携帯天幕、飯盒、身軽な行動がとれるごつ、必要最小限を持って背嚢は捨てる。目標は左翼の森。森へ入ったら、別命あるまでその場で待機。勝手な行動はならんぞ。一人でも列を乱すものがおると、わしら分裂するけんの。森に入ったら、わしはお前たちを先導をするが、お前たちの誰かが遅れても、わしは戻ったりはせんぞ。そのつもりで着いて来い。銃には実包を装填して、安全子を掛けておけ。移動中不用意に銃を暴発させる虞がある。赤羽、装具の点検が済んだら、お前は何名か連れて、左翼下の鉄条網を破ってこい。あとは……」

 と、寿は口を噤んだ。

 その先は賭けである。事ここに至った上は、結果はどうであれ断行するまでである。賽は投げられたのである。

「赤羽、きさんは全員の合流を確認したら、そこから森の裾野伝いに陣地を迂回して後方の平原へ抜ける。陣地周辺は絶対に音を立てちゃならん。咳もならんぞ」

「わかりました」

 赤羽が声を殺して答えた。

「よし、すぐにかかれ」

 赤羽たちは、物音を消すようにして自分の場所へ戻った。

 塹壕内に乱れた空気が一頻り漂った。

 寿は、それを囁くように注意した。

「大きな音を立てちゃならん。静かにやれ」

 有働が、背嚢を手探りで開きながら、ぼそりと呟いた。

「うまく行きますかね」

「なんじゃい。言い出しっぺが、きまった途端に心細かごつなったとや?」

 闇のなかで、装具を手探りでととのえながら寿が言った。

「そうじゃないですがね、ちょっと気になることがあるんですよ……」

「なにか?」

「戸川っていう、大工上がりのショネコウですよ」

「あいつがどげかしたとや?」

「ここに来てから、妙に落ち着きがありません。どう見ても、あの眼は普通じゃねえ」

「誰とて同じたい。頑強のはずの国境守備隊が一晩で全滅したと聞かされりゃ、誰とて普通にしておれんたい」

「そうですかね。それならいいんですがね」

「お前らしかなかぞ。いまさら個人を気にしてもはじまらん。気にするな」

 装具を手早く終えた寿は、塹壕へ上がって腰を(かが)めた。

「有働、まだか」

 そこへ赤羽が戻って来た。

「鉄条網は意外と簡単に抜けました。準備は完了です」

「よし、オイが号令するまでそのまま待機、動いちゃならんぞ。有働、なんばしよっとか、早よせんか」

「ちょっと待ってくださいよ。御守りを落としちゃったんですよ」

「そげなもん、どうでもよか。早よせい!」

 苛立った寿が呶鳴るように囁いた。

「駄目ですよ。これは冬美に貰った、俺の大事な御守りなんです」

「あそこのナニか?」

「そうです。班長殿、一緒に探してくださいな」

 それなら仕方がない。呆れた笑いを洩らして、寿は塹壕へ飛び降りた。

 そのときである。闇を縫うように、夥しい閃光が尾を曳いて頭上を走り、突然、凄まじい轟音とともに陣地一帯が激震した。有働が大事な御守りを探し当てて、頓狂な歓声を上げたのとが殆ど同時であった。闇を衝いて、極東ソ連軍の砲撃が開始されたのだ。

「いかん。みんな屈め!」

 凄まじい爆発音に掻き消されて、それだけ言うのが精一杯であった。

「くそ! はじめやがった!」

 塹壕に身を跼めて寿は歯を剝いた。

 極東ソ連軍が誇る最新鋭のロケット弾(関東軍の謂う通称カチューシャ)は、まるで寿たちの行動を読んでいたかのように、両翼の密林に夥しい火焔と爆煙を噴き上げた。有働の落とし物がなければ、今頃は森のなかで全員が虚空の塵と化しているところであった。

 ロケット弾の集中射は凄まじかった。よくもこれほどの弾量があるものだと、度肝を抜かれるほどの熾烈なものであった。

 不思議なことに、砲撃は、陣地の攻撃をあと廻しにしたかのように、両翼の森ばかり閃光を曳いていた。

 寿は、最初は座標を誤ったのではないかと思ったが、そうではなかった。昨日の航空偵察で、敵は正確な座標点を割り出して、照準を絞っているのである。その証として、砲弾は両翼の森を乱れなく確実に抉っていた。

「きさんの御守りが効いたばい」

 寿は、火焔の明かりに揺れる有働の背中を叩いた。

「一秒前にわしらが飛びこんどったら、あの森で人間の焼肉が出来上がっとるところたい。くそったれが、あれではどうにも近づけん!」

「どうしますか!」

 有働が呶鳴るように返した。

「阿呆、考えとる余裕なんぞいまはなか」

 呪いの視線を森に向けて、吐き捨てるように言い放った。

 密林に向けられた激烈な砲撃は、執拗につづけられた。まるで、そこに生息するすべての生物を消滅させるかのような弾量であった。

 川尻分隊は、塹壕から一歩も動くことができなくなっていた。ただ敵の砲撃に任せるまま、塹壕に身を跼めて、恐怖に耐え忍びながらやり過ごすより(すべ)がなかった。

 寿は、最初に考えていた(きり)(こみ)(たい)として、営門からの離脱を考えたが、次には、陣地一帯が激烈な砲撃を受けるであろうことを予測して、それを断念して塹壕に身を屈めて、敵の攻撃を見守っていた。

 どれほど砲撃がつづいたか、時間を計ることも許されなかった。実際は、そう長くはなかったのだが、密林への砲撃が緩んだときには、陣地両翼の森一帯は猛火に包まれていて、寿の予測どおりに次には本陣台上に砲撃の照準が向けられ、そこは猛爆に慄え上がっていた。もう塹壕を出ることも、森に近づくことも不可能となっていた。

 砲撃は、夜が白みはじめる頃までつづき、やがて陣地正面の稜線に戦車群が姿を現して、こちらの陣営に砲身を向けて睨みを利かせた。その数は二十輌にも達していて、その後方に煙幕のように砂塵が舞い上がっていることから、尚も後続が控えているようであった。

 戦車群は、前方の緩やかな丘陵を鉄の爪で掻き毟るようにして、ゆっくりと前進をはじめた。

「来ますよ」

 有働が呟いた。

「すげえ数になりやがったな。こりゃ、へたをすると班長殿、全滅だ」

 そう言った有働の横顔に、寿は不得要領の笑いを浮かべた。へたをしなくても、全滅は既に秒読み段階なのである。

「敵さん、悠々としたもんたいの」

 こちら側には強力な火器を備えていないことは、上空からの偵察で既に分析済みである。敵戦車の先鋒は、悠然と戦車壕附近まで接近すると、中央の数輌を残して、ほかはなぜか両翼に割れた。

 この行動に、陣地将兵の誰もの眼は、敵戦車は正面の突破を諦めて陣地両翼の隘路を強行突破するものと解釈した。

 それを双眼鏡で睨んでいた部隊長が喚いた。

「馬鹿めが、ここを突破することはできんのだ! 奴らを隘路に引きつければ勝機は我にありだ。擲弾筒! 前方の戦車を撃破しろ! 第一中隊長、二個小隊をもって右翼正面の戦車を叩け! 白兵戦に持ちこむんだ! 白兵戦なら、こっちのほうが得意戦法なのだ! 行け!」

 部隊長は、適いもせぬ大敵に向かって、虚勢を張りつづけた。彼は、北支戦線での白兵戦で勝利を収めた経験から、敵の圧倒的火力を眼前にしていながらも、いまだに白兵戦の威力を信じているのである。その自負が、愚かな負け犬の遠吠えであることも、所詮は(とう)(ろう)の斧でしかないことも気づこうとはしなかった。

 その部隊長の目論見は意外な方向へ展開した。

 両翼に散開した敵の戦車群が、突然、不可解な行動を起こしたのである。

 どう見ても無駄と思える、既に焼き払われている密林を目差して、火焔と黒煙のなかを進みはじめたのである。

 寿は、その不可解な行動に一瞬首をかしげたが、俄かに総毛立った。

 ――あれは、わしらを陣地内に封じておいて、一兵も逃がさんごつ始末する魂胆ぞ!

 陣地の攻撃をあと廻しにして、無意味と思える両翼の密林をロケット弾で焼き払ったのは、陣地の日本軍を完全包囲した上で一網打尽にする作戦だったようである。猫が、捕らえた獲物をなぶり殺しにする、まさにそれであった。

「……あれでは、手も足も出しようがなか」

 寿は、誰に言うでもなく、乾ききった声で呟いた。

 そう。勝敗は、戦う前に、既に敵の手できめられているのである。己の姿を悠然と暴露させて森へ侵入する戦車は、日本軍陣地からの打撃を殆ど受けずに、機甲力によってその進路を着実に拓いていた。

 砲兵から歩兵に成り下がった赤羽は、陣地両翼の森の樹木を(なぎ)(たお)し、火焰のなかを悠々と進む敵の戦車を、歯軋りしながらを見つめていた。

「友軍の砲兵隊はいったいなにをしてやがるんだ! 早く砲門を開いてあいつらを叩き潰さねえか! この両翼を突破されたらお(しま)いなんだぞ!」

 赤羽は、肚の底を搾るように呟いて、砲兵隊の力強い援護を期待して祈った。その祈りは、しかし、神様にも仏様にも届きはしなかった。赤羽が日頃から口癖のように誇っていた、あの心底から信頼していた無敵関東軍の砲兵隊は、このとき、孫呉の第百二十三師団の陣地と孫呉北方の独立混成第百三十五旅団の守備する璦琿陣地以外は、無残にも瓦解していたのである。

 敵の激烈なロケット砲で驚愕した木津は、蒼白になった顔を塹壕から持ち上げて、恐々と外を窺っていた。

 正面の戦車群は、いずれも砲身を休めて沈黙している。

 本陣の機関銃座が両翼の密林に向けて猛射をはじめた。視ると、先に拓かれつつある右翼の森に敵の尖兵が次々と躍進に入って、本陣右翼の斜面を突こうとしていた。

 本陣の機関銃に交じって、擲弾筒陣地からも数発の榴弾が右翼のそこへ放たれた。幾つかの人影が、森の腐葉土ととともに飛び散ったのが視えた。

「やった! うめえぞ」

 味方の強力な火器に、木津は、自分の全身に活力が沸き立つのを覚えて、銃把を叩いて歓声を上げた。

 正面に控えていた戦車群が、この頃になって漸く砲門を開いた。両翼の友軍が進路を拓き易いように、援護の砲撃を開始したのだ。

 陣地一帯に、またも凄まじい爆煙が噴き上がると、木津は、慌てて首をすぼめたが、それが自分たちに向けられたものではないとわかると、また頭を持ち上げて本陣台上をかえり見た。擲弾筒陣地の反撃を期待したのだ。

 その期待は、しかし、木津の(ねが)いを簡単に打ち砕いてしまった。いまの戦車の一斉砲火で、既に崩されている本陣台上の形態がさらに歪んでしまっているのである。

 木津は、その辺りを睨むように見つめて舌を打った。

 ――馬鹿めが、なんて(もろ)い奴らだ!

 戦車の砲撃が()むと、両翼の森の影に控えた赤兵が一斉に動き出した。その一群に、本陣の機関銃が一斉に唸りを上げた。

 機関銃中隊の抗戦力は、射撃練度が高いせいか、両翼の敵の進撃を遮断するかのように威勢がよかった。

「いいぞ。その調子でやれ!」

 本陣の奮戦に、木津の胸は、新たな期待で膨らんだ。

 敵は、既に機関銃の有効射程内に入っている。その調子で頑張ってくれれば、敵は容易に近づけない勘定である。この分だと、水際で叩き潰せるかも知れないと、安易にも、木津はそう読んだのである。

 気の早い何名かの仲間が射撃をはじめた。

 木津も、その勢いにつられて、小銃を構えて表尺板を立てた。だが、その先の標的は、小銃の必中限界内にはまだかなりの距離があった。

 木津は、照星の先の遠い敵兵を睨んで、また舌打ちをした。その先に展開されている敵の躍進が、木津の眼には、射ち殺せるものなら射ってみろと言わぬばかりに、それは悠然と構えて進んでいるように映るのである。それが小憎たらしく、癪に障って腹立たしいのだ。

 その悠然とした敵兵の動きを、木津は、照星の先を振りながら睨みつけていた。

 本陣の機関銃の有効弾を受けたのか、一塊の集団は蜘蛛の子が散るように割れて、突然、動きが一瞬消えた。窪地の其処彼処に身を伏せたのだ。

 本陣からの機関銃は軽快な音を立てつづけている。

 黒い群衆は、それでも有効弾のなかをすぐに起き上がって躍進をはじめた。

 木津は首をかしげた。驟雨のような機関銃弾を浴びても、その動きは先程とちっとも変わらず、まるで怖れを知らぬかのように悠々と体を暴露させているのである。それなのに、味方の銃弾が一発も中っていないように思えるのはどうしたことだ? 

 ――赤毛野郎は不死身だって言うが、本当かな?

 木津は、表尺板に眼を移して距離を測った。小銃の射程距離は、少しも縮まっていなかった。そのはずである。敵は陣地正面を横へゆっくりと移動しているのである。

 塹壕にうずくまっている()(じま)が、いつまでも腰を下ろさない木津を、下から見上げて声をかけた。

「危ねえぞ。もっと頭を下げろ」

 と、木津の軍衣の裾を曳いた。

「俺はいま忙しいんだ。黙ってろ」

 そう言って、木津はニタリと笑った。

「見てろよ。あいつが射程内に入ったらな、あの赤毛野郎からぶっ殺してやるんだ」

 敵兵の一人を捕捉したのか、木津は、銃眼の先へ薄笑いを送った。

「関東軍の精兵がどんな働きをするか、奴らに思い知らせてやる」

 木津は表尺板の指標を読んだ。

「まだ少し遠いが、見てろ、中ててやる」

 木津の銃口が唸った。距離は必中限界を遙かに超えていたが、不思議なことに、狙った辺りの黒い集団の一塊が散った。木津の射った弾丸が有効弾であったかどうかは定かではないが、その場所で、確かに異変が起こったようであった。木津は、それが自分の射った一弾であると信じた。

「見ろ。奴ら、驚いて怯みやがった!」

 木津は、調子づいて何発か射った。

「いい加減にしねえか!」

 鬼島の怒声と、木津の眼前で凄まじい土煙が上がったのが殆ど同時であった。森からの自動小銃弾が塹壕の土を薙ぎ払ったのだ。

「脅かしやがって、くそったれが!」

 木津は、今度は半腰を跼めたが、すぐに頭を持ち上げて射ちつづけた。

「やい。射つなと言っているのがわからねえのか!」

 鬼島が木津の足を銃床で突いて本気で怒鳴った。

「てめえ、俺たちを皆殺しにしてえのか! そんなに早死にしたけりゃ、てめえ一人で突撃してさっさとくたばっちまえ! 馬鹿ったれが!」

 木津は、鬼島を見下ろして黄色い歯をニッと剥くと、それからまた引鉄を絞った。撃針がガチリと虚しい音を立てた。遊底を引き起こすと、五発装填の弾倉内は空になっていた。

「ち、弾切れだ!」

 木津は、その場に小銃を置くと、(やく)(ごう)に手をかけた。この曖昧な動作が、不幸にも、木津の魂を瞬時にして冥途へ導く結果となった。

 木津は、鬼島に圧し被さるように崩れ落ちた。

 咄嗟のことで、鬼島はすぐには状況が呑みこめなかったようであった。木津の体を下から支えて、その死を知ったのは、木津の鉄帽から滴り落ちた鮮血で自分の軍衣を染めてからである。関東軍の古参兵は、誇れる働きを何一つしないまま、あっけなく死んでしまった。

 鬼島は、血に染まった手を拭おうともせず、木津を塹壕に蹴落とした。同年兵であろうと神様であろうと、死んだ者を思いやる余裕などないのである。次は自分の番かも知れないのだ。

 傍で誰かが叫んだ。

「駄目だ! 右翼を突かれるぞ!」

 その声に、鬼島は、急いで水筒の水で手を洗うと、赤羽の巨体を遮蔽物にして顔を持ち上げた。

 鬼島が眼にしたのは、戦車群の砲撃の間隙を利用して、右翼の森から一個大隊を悠に越える兵力が、まるで森から吐き出されるように溢れ出て、本陣右翼の斜面へ辿り着こうとしているところであった。

 そこへ本陣の機関銃が集中して唸った。有効弾はその一群を確実に捉えたようである。黒い群衆は、無数の屍体を大地に残して森へ反転した。

「その調子だ。手を抜くんじゃねえぞ」

 と、赤羽は何発か射って、傍の鬼島に怒鳴った。

「やい、ボヤッとしていねえで、あっちを射て! 右翼のあの森だ!」

 鬼島は、慌てて小銃の安全子を外して据銃しようとした。そのとき、二人の正面が激烈に揺れた。戦車の砲弾が炸裂したのだ。赤羽と鬼島を含む何名かが、もろに爆風を受けて、軽石のように飛ばされて塹壕に叩きつけられた。

「赤羽と鬼島がやられました!」

 誰かが悲痛な声で叫んだが、その声は、次々に炸裂する砲弾で掻き消されて寿の耳には届かなかった。

 寿の隣の有働が、二人のいた場所を一瞥して、銃先を右翼へ振った。

 それを寿が()めた。

「待て有働、この距離では駄目じゃ。無駄弾になるぞ」

 有働は、寿の忠告にいったん小銃を置きかけたが、他の仲間が無心に射っているのを見ると、我慢できずにまた何発か無駄弾を射った。なにもせずにじっと敵を待ち受けているより、射っているほうがまだ落ち着くのである。

 その有働に、寿が呶鳴り上げた。

「射っても無駄じゃ。弾を節約せい!」

「なぜです! ロスケの野郎がすぐそこまで来てるんですよ! 赤羽と鬼島は殺られました。俺が、あの二人の仇を取ってやるんです!」

 歯を剥いた有働は、聞く耳を持たなかった。

 寿は、チラとその場所へ眼をやったが、すぐに顔を敵前に戻した。死者を悼む余裕はないのである。

「射つな、有働。射ちたかやろが、もう少し我慢せい。小銃の必中限界にはまだ距離がある。射つだけ無駄ぞ。それに、きさんの腕では射っても(あた)りはせん。もう少し、敵ば引きつけてからにせい!」

 砲弾がまた至近で炸裂した。土砂をしたたかに被った有働は、それを掃おうともせず、すぐに立ち上がってめくら射ちに発砲した。

 誰もの神経も敵前に集中していて、聞く耳はなくなっている。なにを喚いても、どんな命令も無駄であった。敵の砲撃が開始された直後から、寿の分隊の指揮は崩壊しているのである。

 諦めた寿は、塹壕に腰を跼めると、今度は有働の帯革を掴んで強引に引き下ろして顔を引き寄せた。

「おい、きさん、おとなしか潜っとれ言うとるんがわからんのか! 死にたいのか、きさん!」

「じっとしていても同じですよ。殺られるときには、殺られるんです!」

 有働は、眼を血走らせて咬みついた。

「その前に、殺ってやるんです!」

 有働は射ちまくった。中っていても、いなくても、そんなものは二の次のように射ちまくった。

 寿は塹壕の底で呪った。

 ――くそったれめが! なしてこげな戦争ばはじめたとじゃ!

 突然砲撃が()んだ。

 砲撃が熄んだということは、戦車の弾量が尽きたか、それとも敵兵が本陣の火点に到達したかである。

 寿は、塹壕から顔を上げて、忙しく周辺を窺った。

 敵の尖兵が、味方の機関銃の間隙を縫って、戦車壕に滑りこんでいるのが眼に入った。戦車壕までの距離は六百である。六百の距離では、小銃で応戦しても無意味である。

 両翼の森には、火炎がこちらに向かって噴き荒れていた。あれでは、動こうにも動きようがない。離脱は殆ど皆無となっていた。

 寿は、絶望的な笑みを洩らして、また塹壕に腰を跼めた。

 その塹壕の後方では、大工の戸川が有働の懸念していたとおりになった。

 戸川は、崩れかかった塹壕に身を縮ませて、迫り来る死神の(きよう)(おん)に白眼を剝いて、全身を小刻みに震わせていた。

 敵戦車は、いまは砲門を閉じているが、いつ砲撃を開始するかわかったものではない。その一弾が、この塹壕に飛びこんで来るかと思うと、戸川は気が気でなかった。

 逃げようにも、この塹壕を一歩でも飛び出せば、次には凄まじい機銃弾が飛んで来て、戸川の体を一瞬のうちに蜂の巣にするだろう。そう思うと、恐怖と絶望が体全体に錯綜して、戸川の精神の平衡を引き裂きはじめた。

 機銃弾が、また塹壕一帯を抉るように弾けた。それは、まるで戸川一人を標的としているかのように、戸川の前の塹壕を抉り取った。あと四五センチこの塹壕の土を抉り取られたら、戸川の頭蓋骨は粉微塵に吹き飛ばされる勢いであった。

 ロスケが来る! あの大柄なロスケが、赤い鬼が、俺の塹壕目指して迫って来る! 俺の前ばかり狙っていやがるのは、これは、ロスケは俺の居場所を既に確認しているのだ。いまに、ロスケは俺を見つけるだろう。燃えるような強いウォトカで酒焼けした赤い顔で、俺を見て、それからニヤリと笑うのだ。そうだ。今度はお前の番だ。そう言って、あのときの匪賊のように、今度は、俺がなぶりものにされるのだ。生きながらにして腹を抉られ、断末魔に喘ぐ俺の頭を機銃弾で粉微塵にされるのだ。そう思うと、ますます戸川の全身に慄えが来て、言葉とも呻きともつかぬ意味不明な声を洩らして、銃を抱きながら口から泡を吹きはじめた。発狂したのである。

 機銃掃射が緩慢になった。塹壕には、数発の銃弾が突き刺さっただけであったが、不幸なことに、その一弾が何かに跳ねたらしく、戸川の鉄帽を掠った。その途端、戸川の精神が一瞬にして分裂を起こしてしまった。

 戸川は、短い奇声を発して塹壕に躍り上がった。傍に居合わせた男たちが、慌てて戸川を制めようとしたが、帯剣を引き抜いて暴れはじめた戸川の異常な行動に、身の危険を感じた男たちは逆に身を引いた。

「ロスケがなんだってんだ! 赤毛野郎なんか、俺ァ恐かァねえぞ! みんなぶっ殺してやる!」

 口から泡を飛ばしながら戸川は喚いた。その行動に、有働の眼が血走った。

「あの野郎、やっぱり狂いやがった!」

 戸川は、奇声を発しながら辺り構わず仲間に帯剣を振り廻して駈け廻った。

「この野郎! こいつめ! 刺してやる! こんちくしょう!」

 振り廻している帯剣が手から滑って、仲間の鉄帽を直撃した。

「おい、かかってこい。射ってみやがれってんだ!」

 戸川は、今度は雑嚢から手榴弾を取出して、安全栓を歯で引き抜いた。

「やれよ。やってみろ! 俺にはこいつがあるんだぜ。やい、俺は怖かァねえぞ。馬鹿野郎!」

 握られた手榴弾は、いまにも鉄帽に当てられて、信管を叩きそうな勢いであった。

「あの馬鹿たれが! やめんか! おい、誰かあいつを制めろ!」

 寿が半腰で構えて号んだ。

 そのうしろで、ガチリと遊底の閉まる音がした。

「駄目ですよ、班長殿。狂った野郎に、なにを言っても無駄です。耳を塞いで眼をつむってください」

 言った直後に、有働の小銃が轟音を発した。

 戸川は、跳ねるように斜面へ転がり落ちて、すぐに乾いた炸裂音が起こった。転げ落ちる際に、手榴弾の信管が斜面の固い部分に当たったのである。

 有働は、何喰わぬ顔をして、塹壕に跼みこんだ。

「なんで殺した。そう言いたいんでしょ」

 寿は、黙したまま、有働と肩を並べた。

「ああいう場合は、ああするしか方法はないんです。殺したくはなかったが、あの野郎一人のために、俺たち全員が死ぬ破目になる。そうでしょ」

 有働の言うとおりである。有働がやらなければ、寿がやっていたかも知れないのである。

「すみません」

 と、有働は、ペコリと頭を下げた。

「気にするな」

 呟いて、寿は、顔を上げて敵前を確認した。

 戸川の手榴弾が爆発しても、敵側からの反応はなく、敵の歩兵は、こちらの火点を目指して戦車壕に達していた。

 その距離は、依然と六百を保たれていた。不思議なのは、いままで砲列を組んでいた戦車の数が減っていることであった。塹壕からは死角になって確認することはできないが、あれだけいた戦車の数が減っているということは、戦車群は既に森を突破して、陣地後方へ廻ったのである。しかし、それにしては、陣地両翼に向けての本陣台上からの反撃が稀薄であった。

 そのはずである。そこは無残にも破壊されて、一挺の機関銃が虚しい抵抗をつづけているだけであった。唯一の要であるはずの擲弾筒陣地からは、敵が有効射程内に入っているにもかかわらず、肝腎なときには一発も発射されなかった。同じように首を揃えていた有働が、寿の傍でなにやら呟いたが、周囲の銃声に掻き消されて聞き取れなかった。

「なんぞ言うたか!」

 と、寿が有働に耳を傾けると、有働は、寿の耳許に口を近づけて、

「とうとう女を抱けずじまいになっちまった、そう言ったんです!」

 その顔には、悔しさが満ち溢れていた。

「阿呆! こげな状況下でなんば考えよっとか!」

 突然、凄まじい連射が襲って来て、背後の防壁を抉り取った。二人は、反射的に塹壕深く体を沈めた。

「みんな頭ば低うしとれ! 妄りに動いちゃならんぞ!」

 言い置いて、塹壕から顔を上げて敵前に視線を巡らせると、敵兵は戦車壕を突破して、いよいよ本陣右翼の斜面へ辿り着こうとしていた。

 寿は、肚をくくった。敵がこの陣地の突角へ展開しないうちに撤退しなければ、寿以下全員が玉砕である。死が、脳裏を(かす)めた。寿は、再び肚をくくった。どのみち死ぬのであれば、それならば、一か八か、燻っている森への撤退である。あの最後の赤兵が、陣地の後方へ抜けたときが勝負に思えた。

 そう決意して、寿が号令をかけようとしたその矢先に、またも凄まじい砲弾の嵐が吹き荒れた。このとどめの一斉砲撃で、瓢箪山の二つの瘤が一つになった。

 そのさ中、塹壕に背を凭れていた有働が、隠しから煙草を取り出して悠然と()いはじめた。いつ死ぬかわからないこんなときに、平然とした顔でよくも落ち着いていられるものだと、寿は、腹を立てるよりも、むしろ呆れ返った。

 有働は、悠然と煙草を喫いつけて、寿の口許に煙草を突き出したが、寿は反射的に顔を横に振った。こんな状況で喫う余裕などないのである。

 その寿の顔を覗きこむようにして、有働が言った。

「こんなことで死ぬんだったら、班長殿の言うことなんか素直に聞くんじゃなかった。あの夜、夜這いをやっていればよかったです」

 寿が黙っているのを見て、

「だって、このまま女を抱かずに死んだんじゃつまらねえ。そうでしょ。班長殿も、肚ではそう思ってるんでしょ」

「……」

「このまま死んじまったら、なんの役にも立たねえただの糞ですよ、俺たちは」

 有働は妙なことを口走ったが、有働の言いたいことは寿にはよくわかった。この男の言うとおりかもしれない。こんな辺鄙なところで死んでしまえば、それこそ糞以下の値打もなくなるのである。

「糞か、わしらは」

「そうです。便所の糞だって、畑に撒けば立派な肥やしになりますよ。なにもないこんな荒れたところで野垂れ死にしても、それこそ、カラスも寄りつかない薄汚ねえごみになるだけです」

 機銃弾がブスブスと塹壕に突き刺さった。その一弾が、塹壕の前に防御用に置いた背嚢の一つに中って、寿の足下に跳ね落ちた。

寿は、落ちたそれを拾い上げようとして、僅かに体を浮かした。そのときである。寿の鉄帽上部に耳を劈か(つんざ)んばかりの打撃が走った。寿の鉄帽に銃弾が跳ねたのである。

 寿は咄嗟に有働を引き倒して身を被せた。有働は、それを寿が殺られたものだと慌てた。

「班長殿!」

 ゴリラのような巨体が、寿の下で、もがいた。

「動いちゃならん。じっとしとれ」

 寿が有働の耳許で囁いた。

「生きていたんですか。俺は、てっきり殺られたかと思いましたよ。大丈夫ですか?」

「心配なか。流れ弾が鉄帽に掠っただけたい」

 寿は、有働に圧し被さったまま忙しく顔を振って周辺を窺ったが、それにしても、流れ弾が中ったにしてはおかしかった。塹壕深く潜っている標的に対して、下から飛んで来る銃弾は、その直前で屈折したりはしないからである。

 そこへ第二弾が来た。

 これは寿の横面を掠めて塹壕へ突き刺さった。寿は、もう疑わなかった。銃弾は上から飛んで来たのである。

 寿の背筋が急激に凍りついた。前方の敵兵にばかり気を取られていて、背後の危険をすっかり忘れてしまっていたのである。

 寿は、身を返して仰向けに拳銃を構えた。背後の大きく崩れた防壁の隙間から、崩れかけた望楼が一直線上に眼に入った。寿は、素早く場所を移動して用心深く周辺を窺った。そのとき、崩れた望楼の下から影が揺れ動いた。

 ほんの一瞬だが、小銃を手にしたその影は、まぎれもなく将校の姿であった。

「有働!」

 と、呼んで、再び視たときには、その影は消えていた。

 寿は、その辺りを憎々しげな視線を飛ばした。その眼には、誰にも隠しようのない殺意の炎が、メラメラと燃え盛っていた。

 寿は、有働の襟首を掴んで引き寄せた。

「おい有働、一〇分経ってもわしが戻って来なんだら、きさんは分隊を指揮して森へ後退せい。絶対に無理をしちゃならんぞ。すぐに戻って来るけんの」

 寿は塹壕に手をかけた。

 その腕に有働が手をかけた。

「ちょっと待ってくださいよ。もしかして、いまのは、あの野郎ですか?」

「危なかとこたい。肝心な背後をすっかり忘れとった」

 有働の眼が、忽ち野獣の怒りに豹変した。

「野郎を殺りに行くのなら、俺にまかせてください。班長殿が手を汚すことはありません」

 と、塹壕に手をかけたのを、寿が厳しく制めた。

「いかん! これはきさんには関係のなかこつたい。やけん、この始末はオイがつける!」

「俺も行かせてくださいよ。あの野郎、将校もへったくれもあるかい。あんな野郎を生かしてたんじゃ、国のためにならねえ」

 そこへ凄まじい機銃弾がまた塹壕一帯に弾けて、二人は身を潜めた。それと同時に、野下の隣で果敢に射っていた男が、跳ねるように崩れ落ちるのが眼に入った、

 崩れ落ちたのは、木津と同年兵の鬼島であった。銃弾は鬼島の側頭部を砕いていた。

 もし寿が塹壕を飛び出していたならば、寿も鬼島と冥途へ直行しているところであった。

「みんな、頭を出すんやなかぞ。おとなしか潜っとれ!」

 寿は、生き残っている周りの男たちに(さけ)んで、それから美祢を呼んだ。昨日の桑畑との一件を思い出したのである。もしかして、美祢も同じように狙われたのかもしれないと思ったのである。

「美祢はどげした?」

「いないようです」

 答えたのは野下である。

「殺られたとか?」

「いえ、姿がありません」

 寿と有働の眼が合った。

「野郎、一人でずらかったんですかね」

 と、有働は、そう解釈したようであったが、寿はそうは考えなかった。望楼附近に二つの影ががあったということは、おそらく桑畑も、美祢の狙撃に失敗したのだ。美祢の姿がそこにないことからして、美祢は桑畑の復讐に走ったにちがいなかった。

 ハ号陣地の付近で戦車の砲弾が炸裂しまくって、夥しい土砂が塹壕へ降り注いだ。機関銃の銃弾が、驟雨のように弾幕を張っている。これでは、動こうにも、まったく動きようのない八方塞がりであった。

 有働が、土砂に半分埋もれた屍を睨みつけるように見て、寿の袖を乱暴に曳いた。

「班長殿、このままじゃ殺られます。俺たちもぼつぼつ逃げる算段をしませんか」

「逃げる? どこへたい。こげな状況じゃと、どこも突破することはでけんぞ」

 寿がそう答えると、

「そうです。どこもロスケがうじゃうじゃいて危険です。だから、俺たちが逃げる場所はあっちですよ」

 有働は、敵前へ顎をしゃくった。

 その方向を視て、寿は歯を剝いた。

「阿呆! そっちは敵前ぞ、よりによって、そげな敵中に飛びこむ馬鹿がどこにおるか!」

「だからやるんです。このどさくさに、敵の裏を掻くんですよ。視てください。ロスケは右翼の一部の兵力を残して、あとは森を抜けて、その殆どが俺たちの後方へ廻っています。前はロスケの砂漠だから、連中、俺たちはそっちへは行かないと信じきっているんですよ。だからこの左の正面は殆ど手薄なんです。お誂え向きに、敵の後続も右翼へ方角を変えました。戦車はみんな右翼の森の向うだし、俺たちが左翼の先端を衝いて一気に突っ走れば成功しますよ。それに、あの野郎どもたちを追っかけても、今頃は生きちゃいませんよ」

 有働は、崩壊した本陣台上をかえり見て、空になった前薬盒二箇をうしろへ廻して後薬盒と入れ替えると、その薬盒から実包を取り出して弾倉に装填した。

 崩れた塹壕の隙間から敵前を窺っていた寿は、

「有働、こげな拳銃じゃ話にならん。そこの銃をやれ」

 と、屍兵の小銃に顎をしゃくった。

 有働は素早く動いて、屍兵の弾帯と小銃を拾って寿に差し出した。

「きさん、弾はあるとか?」

 装備をととのえて訊いた。

「あと六十発少々」

「無闇に射つんやなかぞ。まだ先があるけんの」

 言って、左翼の森を窺った。

 戦車壕を突破した最後の歩兵集団が、ロケット弾で抉られた左翼の森へ消え入ろうとしていた。寿たちの小さな突角陣地など、取るに足らぬ存在ときめつけているかのように、殆ど無関心に森を突き進んでいる。

 寿は、小銃の表尺板を立てて、森の先端と陣地真横の距離を測ってみた。森の先端までの距離は、概ね四百である。陣地の横は三百強だから、これは小火器の必中射程内である。自動小銃を持たない最後列の歩兵集団が、自分たちの横を通過したそのときが脱出の好機である。それを見計らって、左翼の森の先端までの四百を一気に駈け抜ければ、その先は逃げ切れそうであった。

「よし、わしが号令するまで、待機ぞ」

 寿は、陣地の真横を睨みながら有働に言いつけた。

 その黒い集団は、泰然と森を進んでいた。こちらの塹壕を無視してくれているのはいいが、まるで牛歩のように苛立つほどの時間をかけて進んでいるように思えた。

 やがて最後尾が、陣地の横に差しかかった。両翼の森の先端はこれでがら空きになった勘定である。出るのはいまである。

 寿は、塹壕の男たちに声をかけた。

「みんな、準備はいいか」

 声を殺したうなずきが一斉に返って来た。

「よし、わしと有働で援護ばする。一人づつ、左翼の森の先端まで……」

 言い終わらぬうちに、突然、左翼側面から横殴りの機銃掃射が襲いかかって来た。

「いかん、出るな!」

 号んだが、その声は、一部の男たちには届かなかった。銃撃と同時に、塹壕の先端に躍り上った何名かが、斜面を跳ねるように崩れ落ちた。

 機銃掃射は執拗につづけられた。少しでも動くものがあると、銃弾はそこへ集中して弾けた。だが、決して攻めて来ようとはしない。こちらの動きを観察しているのである。

 寿は、歯を剥いて舌を打った。敵は、自分たちの存在を無視しているものと思っていたが、そうではなかったのである。動きを完全に読まれて、封鎖されているのである。

 塹壕に釘付けにされている有働が唸った。

「これじゃ出られませんね」

「出られんな」

 寿は分隊員に叫んだ。

「みんな、頭ば低うして動いちゃならんぞ!」

 寿は、左翼の森を用心深く窺い視た。そこには、赤軍兵の塊が蠢いていた。

「ぐずぐずしとると、全滅じゃぞ!」

 寿は、吐き捨てるように言って、野下を呼んだ。

「敵の銃撃の間隙を利用して、各箇に強行突破を伝えろ。目標は左翼先端の森、向うに着いたら、わしが行くまで絶対に動いちゃならんぞ。急げ!」

「わかりました」

 と、野下が腰を浮かしかけたとき、ハ号陣地一帯に爆発がつづけざまに起こって塹壕が激動した。左翼の森に潜んでいた何輌かの戦車が、一斉に火を噴いのだ。

 その一弾が、寿のすぐ至近で爆発した。

 激烈な衝撃を受けた寿は、塹壕へ叩きつけられ、瞬時に意識を消失させた。

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