落下する土曜日・6
つぶやくような葵の答えに、つまり、と既望は言った。
「彼は、別れる必要があった。だけど、その十字架は手放すわけにはいかなかった」
淡々と、あたかも客観的な事実のように語る内容に、葵は口をはさんだ。
「別れる必要って何」
別れてほしい、とあいつは言った。
きっかけはなんであれ本人がそれを望んだのだ。
別れたかったから別れた。それ以上でも以下でもない。
必要だとか言ったら、まるであいつの意思とは別に理由があるみたいじゃないか。
そんなわかりやすい理由があったなら、あんな別れ方にはならない。こんなに混乱なんかしない。
苛立ちの声をあげるより先に、既望は次の言葉を口にした。
「彼は、春休み中に退学することになっていた」
唐突に変わった話題に葵は眉根を寄せる。
いきなりなんだ。
これも既望がいう作り話の一環か。
それにしたって不自然がすぎるだろう。
事故が起きたのが春休みなのだから。
退学? することになっていた?
「彼の病気には、まだちゃんとした治療法がなくてね。入学した時点での症状は軽かったが、病気の進み具合からして卒業まで体が持たないと言われていた」
葵の戸惑いなどお構いなしに話し続ける。
「彼の身内は早くから学校を辞めて治療に専念するよう、彼を説得していた。ところが当の本人が頑として応じなかった」
既望のついたため息が耳をくすぐった。
「君が、いたからだ」
その感覚がいやに鋭く感じて、葵は自分が耳をそばだてていたことを知る。
「少なくとも彼は、自分の体よりも君の存在を優先するくらいには想いを寄せていた」
これはフィクションだ。
頭ではわかっているのに意識は引き寄せられていく。
鼓膜を震わせる既望の声が、脳裏にじかに響いてくるかのような錯覚にとらわれる。
「そうこうしているうちに、恐れていた発作が起きた。年が明けてすぐのことだ。あとは君が見てきたとおり」
三学期に入って、急に休みがちになった空。
血の気のない肌。肉のそげた頬。薄く筋の浮いた細い首。
「結果として、彼は佐野さんから離れざるを得なくなった。このまま傍にいようとすれば、一方的に君を束縛することになる。何より、もし仮に死ぬようなことになれば、どんな状況であれ君は自分を追い詰めるだろう」
不意に既望の腕に力がこめられた。
葵は体を縮こまらせる。
「少なくとも君が、それくらいには自分を好いてくれていることを彼は知っていた」
抑えた声に、葵は反射的に噛みついた。
「それならなんで、」
どうしてあんな風に切り捨てた。
別れ際、あの保健室で葵を見据えた明らかな軽蔑の目。
はっきりと表情を硬くした葵に、既望は眉をひそめた。
「……もしかして、返して、なんて言わなかったかい? 別れるときに」
その、ネックレス。
付け加えられた主語に小さく頷くと、既望は呻くようにそういうことか、とつぶやいた。
その妙に大きな反応に、葵は訝しげに顔を上げる。
「その十字架は、彼にとって最後の祈りだったんだ」
淡々と語っていた口調にかすかな感情が混じった。
痛みというほどのあからさまな色はない。ただほんの少し、何かを悼むような響き。
「もともと彼は病気にこだわりがなかった。確かに難しい病ではあったけれど、そもそも治したいという意識が希薄だった。自分の体はこんなものだと思っているようだった」
確かに心当たりはある。
いつだったか、これは病気というより体質みたいなものだと、他愛のないことのように笑っていた
「ところが、君と時間を共有していくうちに心境が変わった。自分の体はどうでもいい。だが病気のままでは君の隣にはいられない」
台詞を区切る、既望の息遣いを追う。
「彼は初めて病気を疎んじた」
俯瞰で語っていた言葉が段々と空の内側に切り込んでいく。
願って治るものじゃない。神頼みなんかに意味はない。
わかっていてもなお、何かにすがらずにはいられなかった。
それならせめて。
祈るなら、得体の知れない神様ではなく実体のある君がいい。
すがるなら、当てのない信仰ではなく想いを繋げた記憶がいい。
「だから彼は、君の手から十字架を欲しがった」
心臓が大きく跳ねた。
強く早く、自らの鼓動が体を揺さぶっていく。
(なんかさ、葵のくれた十字架なら願い事のひとつくらい叶いそうじゃない?)
おどけてみせた空の声。
つくろった笑顔に込められた意味。
あげてから毎日欠かさず身に着けていたものが、彼の最後の願いだったとして。
沈みかけた葵の思考を遮るように、だけど、と既望は続けた。
「結局のところ、彼の願いは叶わなかった」
病気は治らなかった。
症状は悪化の一途をたどり、空は別れを決断した。
「それでも彼は十字架を手放そうとはしなかった。むしろ、君から離れざるを得なかったからこそ、手ずからもらった想い出を切り捨てることはできなった」
襟元からのぞく鎖。そこに連なる銀の十字架。
空が初めて葵に手を伸ばして引き寄せた、あの夜の象徴。
願掛けの道具であったはずのそれは、いつしか二人の記憶を留めるよすがになっていて。
「返して、と言われたときに彼は何を思っただろうね?」
ひゅっ、と息を飲む音が妙に大きく響いた。
喉が渇いてひきつれる。
本当に返してほしかったわけじゃない。
ただほんの少しだけためらって見せてくれれば。
二人でいたことを、わずかでも惜しんでくれたなら、それだけで……。
はっ、と荒く息を吐いたら肺がからになった。
胸がつかえて呼吸がうまくできない。
脳に酸素が足りない。
浅い呼吸を繰り返す葵の耳に、それとね、と既望は囁いた。
「名前は呼んでいたんだよ」
君のいないところではずっとね。
どこか甘さを含んだ低い声に葵は目眩を覚えた。




