表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
25/27

落下する土曜日・6



 つぶやくような葵の答えに、つまり、と既望は言った。


「彼は、別れる必要があった。だけど、その十字架は手放すわけにはいかなかった」


 淡々と、あたかも客観的な事実のように語る内容に、葵は口をはさんだ。


「別れる必要って何」

 

 別れてほしい、とあいつは言った。

 きっかけはなんであれ本人がそれを望んだのだ。

 別れたかったから別れた。それ以上でも以下でもない。

 必要だとか言ったら、まるであいつの意思とは別に理由があるみたいじゃないか。

 そんなわかりやすい理由があったなら、あんな別れ方にはならない。こんなに混乱なんかしない。

 苛立ちの声をあげるより先に、既望は次の言葉を口にした。


「彼は、春休み中に退学することになっていた」


 唐突に変わった話題に葵は眉根を寄せる。

 いきなりなんだ。

 これも既望がいう作り話の一環か。

 それにしたって不自然がすぎるだろう。

 事故が起きたのが春休みなのだから。

 退学? することになっていた?


「彼の病気には、まだちゃんとした治療法がなくてね。入学した時点での症状は軽かったが、病気の進み具合からして卒業まで体が持たないと言われていた」


 葵の戸惑いなどお構いなしに話し続ける。


「彼の身内は早くから学校を辞めて治療に専念するよう、彼を説得していた。ところが当の本人が頑として応じなかった」


 既望のついたため息が耳をくすぐった。


「君が、いたからだ」


 その感覚がいやに鋭く感じて、葵は自分が耳をそばだてていたことを知る。


「少なくとも彼は、自分の体よりも君の存在を優先するくらいには想いを寄せていた」


 これはフィクションだ。

 頭ではわかっているのに意識は引き寄せられていく。

 鼓膜を震わせる既望の声が、脳裏にじかに響いてくるかのような錯覚にとらわれる。


「そうこうしているうちに、恐れていた発作が起きた。年が明けてすぐのことだ。あとは君が見てきたとおり」


 三学期に入って、急に休みがちになった空。

 血の気のない肌。肉のそげた頬。薄く筋の浮いた細い首。


「結果として、彼は佐野さんから離れざるを得なくなった。このまま傍にいようとすれば、一方的に君を束縛することになる。何より、もし仮に死ぬようなことになれば、どんな状況であれ君は自分を追い詰めるだろう」


 不意に既望の腕に力がこめられた。

 葵は体を縮こまらせる。


「少なくとも君が、それくらいには自分を好いてくれていることを彼は知っていた」


 抑えた声に、葵は反射的に噛みついた。


「それならなんで、」


 どうしてあんな風に切り捨てた。

 別れ際、あの保健室で葵を見据えた明らかな軽蔑の目。

 はっきりと表情を硬くした葵に、既望は眉をひそめた。


「……もしかして、返して、なんて言わなかったかい? 別れるときに」


 その、ネックレス。

 付け加えられた主語に小さく頷くと、既望は呻くようにそういうことか、とつぶやいた。

 その妙に大きな反応に、葵は訝しげに顔を上げる。


「その十字架は、彼にとって最後の祈りだったんだ」


 淡々と語っていた口調にかすかな感情が混じった。

 痛みというほどのあからさまな色はない。ただほんの少し、何かを悼むような響き。


「もともと彼は病気にこだわりがなかった。確かに難しい病ではあったけれど、そもそも治したいという意識が希薄だった。自分の体はこんなものだと思っているようだった」


 確かに心当たりはある。

 いつだったか、これは病気というより体質みたいなものだと、他愛のないことのように笑っていた


「ところが、君と時間を共有していくうちに心境が変わった。自分の体はどうでもいい。だが病気のままでは君の隣にはいられない」


 台詞を区切る、既望の息遣いを追う。


「彼は初めて病気を疎んじた」


 俯瞰で語っていた言葉が段々と空の内側に切り込んでいく。


 願って治るものじゃない。神頼みなんかに意味はない。

 わかっていてもなお、何かにすがらずにはいられなかった。

 それならせめて。

 祈るなら、得体の知れない神様ではなく実体のある君がいい。

 すがるなら、当てのない信仰ではなく想いを繋げた記憶がいい。


「だから彼は、君の手から十字架を欲しがった」


 心臓が大きく跳ねた。

 強く早く、自らの鼓動が体を揺さぶっていく。


(なんかさ、葵のくれた十字架なら願い事のひとつくらい叶いそうじゃない?)


 おどけてみせた空の声。

 つくろった笑顔に込められた意味。

 あげてから毎日欠かさず身に着けていたものが、彼の最後の願いだったとして。


 沈みかけた葵の思考を遮るように、だけど、と既望は続けた。


「結局のところ、彼の願いは叶わなかった」


 病気は治らなかった。

 症状は悪化の一途をたどり、空は別れを決断した。


「それでも彼は十字架を手放そうとはしなかった。むしろ、君から離れざるを得なかったからこそ、手ずからもらった想い出を切り捨てることはできなった」


 襟元からのぞく鎖。そこに連なる銀の十字架。

 空が初めて葵に手を伸ばして引き寄せた、あの夜の象徴。

 願掛けの道具であったはずのそれは、いつしか二人の記憶を留めるよすがになっていて。


「返して、と言われたときに彼は何を思っただろうね?」


 ひゅっ、と息を飲む音が妙に大きく響いた。

 喉が渇いてひきつれる。


 本当に返してほしかったわけじゃない。

 ただほんの少しだけためらって見せてくれれば。

 二人でいたことを、わずかでも惜しんでくれたなら、それだけで……。


 


 はっ、と荒く息を吐いたら肺がからになった。

 胸がつかえて呼吸がうまくできない。

 脳に酸素が足りない。




 浅い呼吸を繰り返す葵の耳に、それとね、と既望は囁いた。


「名前は呼んでいたんだよ」


 君のいないところではずっとね。




 どこか甘さを含んだ低い声に葵は目眩を覚えた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ