落下する土曜日・3
ふっと、宙に浮く感覚が全身をかけ抜ける。
なんだか、体ごとなくなってしまうような。
あとは、ただ、落ち、て……
「!」
瞬間、肩に衝撃が走った。
強い痛みが手放しかけた意識を引き戻す。
地面に打ち付けられた?
違う。打った痛みじゃない。
違う。意識なんか、痛みなんか跡形もなく消えるはずなのに。
でも、だけど、今度こそ空へと飛びこんだんじゃなかったか。
だって、あのとき全身を突き抜けた感覚は確かに。
肩の痛みは腕に直結し、しびれになって体を支配していく。
これじゃまるで、上から引っ張られているみたいじゃないか。
……上?
目を開く。
首をひねって顔を上げ、
葵は息を呑んだ。
葵の腕を真上から掴む男の手。
掴まれた腕から宙吊りになっている身体。
全てを投げだすために目指した地面ははるかに遠く。
葵は愕然とする。
(足音は、なかった)
初めての時とは違う。
今日はずっと、ぎりぎりまで耳をそばだてていたのだから。
(なんで)
疑問の先を追うように、さらに上へ目を向ける。
はたしてそこにあったのは、見慣れてしまった帽子の輪郭と少しこけたような頬の線。
間違いなく、さっきまで葵が待っていた人物だった。
胸の中に苦いものが広がっていく。
葵が決心を固めた瞬間を、狙ったように切り崩しにくる男。
いつだって自分からは干渉するそぶりを見せないくせに。
「離して、」
強い言葉をぶつけても返答はない。
ただ葵の腕を固く握りしめるだけ。
葵は忌々しい顔を睨みつけようと首をそらす。
だが目があった瞬間、葵は眇めていた目を見開いた。
葵の視線を受けるその顔には表情はなかった。
苛立ちも悲しみも痛みも認められない。
だけど、それなら。
(あの目は、何)
夕陽の名残りも消えた宵闇の中、妙に赤く光るあの眼は何だ。
なんの感情も伴わないのに、いやに鋭く葵を射抜く眼差しは。
まるで、捕食者が獲物を狩るときの。
鼠を捕える鷲のような。
あの目の色は一体何だ。
ぞわりと背筋が粟立った。
早く、落ちるなら早く。
早く、掴まれた手を振り払え。
脳はしきりにそう命じるのに、体はまるで動かない。
蛇に睨まれた蛙というのはこういうことをいうのか。
意識の隅で考えている間に、頭上の男は容赦なく葵を鉄柵の内側へと引き上げていた。




