いつか見た空の色・7
回想です。
保健室のベッドで目を覚ました空は、驚愕の表情のまま葵を見つめていた。
「空?」
濡れた指をスカートでぬぐいながら葵は首をかしげた。
何をそんなに驚いているのだろう。やっぱり寝ている間に来てはいけなかったのだろうか。
「……あ、」
うめくような声を出して、空は両手で顔を覆った。
「あ、あ、あ、あ、あ、」
荒い呼吸で吐き出された声は明らかに苦しげで。
何かの発作だろうか。葵は慌てて立ち上がる。
「先生、」
とっさに保健医を呼びかけたが、強く腕を掴まれてベッドを振り返った。
制服に指が食い込むほどの力で引き留めた空は、もう片方の手で顔を隠したまま首を横に振った。
「……いい。ごめん、いいんだ」
無理やり息を落ち着けるように深呼吸を繰り返す。
葵を捕らえていた指から力が抜けて、その腕がぱたりとベッドの上に落ちた。
「大丈夫、なの?」
ためらいながら声をかければ、空はようやく顔を覆っていた手を外してゆっくりと体を起こした。
「あおい」
静かに、名前を呼ぶ。
向けられた表情は落ち着いていたが、それでも何かをこらえているのがわかって、その内側にある痛みを感じさせた。
「別れて、くれないかな」
まっすぐに葵を見て空は言った。
言葉の意味を飲み込めずに葵も空を見つめ返す。
彼は今、何て言った?
目を見開いたまま固まった葵に苦笑する。
「こんな体じゃもう、葵にもかまえないから」
別れよう、と空は言った。
病気の体では、まともに相手ができないから、と。
葵は頭に血が上るのを感じた。
ふざけるな。
そんな他人行儀な気遣いで切り捨てるな。
葵の感情を何もかも無視したままで。
葵は空をにらみつける。
「別に、病気なんかどうでもいい」
怒りをはらんだ葵の言葉に空は困ったように目を細めた。
「ごめん。一緒にいるの、きつい」
口調は柔らかいが、答えあくまで否定だった。
病気だという原因は変わらない。だが、言葉の内容は葵にとって大きな違いがあった。
それは葵への遠慮ではなく、空の希望だということ。
つまり、『別れてほしい』ということ。
うまく動かない頭を強引に働かせる。
ここで葵が嫌だと言ったら、結果をくつがえすことはできるのか。
くつがえしたところで、空の気持ちはそこにあるのか。
葵が隣にいることが苦痛にしかならないなら。
笑わない空の隣にいて、自分は満たされるのか。
理解はできるのに思考が追いつかない。
ふと、視線を落とした葵の目に銀色の光が映った。
「……じゃあ、それ、返して」
ゆっくりと顔を上げて葵は言った。
「ネックレス」
今も空の襟元からのぞく鎖。
そこに連なる銀の十字架。
空が初めて葵に手を伸ばして引き寄せた、あの夜の象徴。
もし空がそれを迷いなく手放すなら、きっともう望みはないのだろう。
だけどもしまだ、少しでもためらうそぶりを見せるなら、あるいは。
空の表情が凍りつく。
葵は見ていられなくてうつむいた。
やはり、もう駄目なのか。
しばらくして、はっと荒く息を吐く音が聞こえた。
「佐野さんは、人にあげたものすら取り返さないと気が済まないの?」
呼ばれたのはもう、名前ではなかった。
はじかれたように顔を上げた葵が見たもの。
それは葵が見たことのない空の表情。
明らかな、軽蔑だった。
葵は二度とその声で名前を呼ばれる権利を失ったのだ。




