初めての朝
朝の爽やかな風と明るい光の差し込むテラスで、薔薇の庭園を眺めつついただく朝食。隣には昨日結婚したばかりの夫。侍女や侍従が待機しており、皿が空になるたびに焼き立てのパンを追加してくれて、空になったカップには紅茶を入れてくれる。ああ、なんて新婚に相応しい完璧な朝なんだろうと、私は日の光の眩しさに目を細めながら紅茶をできるだけ上品に飲む。
今のところ夫兼王太子殿下様は、紅茶を飲みつつ新聞に目を通している。ちらりと見えた一面の記事は、昨日の王太子殿下の婚礼についてだ。一昨日までの私なら、その記事を「へぇ、そうなんだー。おめでたいね」なんて他人事で暢気に読み流していたことだろう。けれど、その婚礼の相手が自分で、子爵家の令嬢からいきなり王太子妃の座を獲得した棚ぼた玉の輿令嬢と話題になっているとなれば、ただただ頭が痛いだけだ。こうして正気を保って優雅にクロワッサンをちぎって口に放り込んでいられるのは、現実を直視していないからである。
というか、なんでこの人は――いや、このお方は平然と紅茶を飲んでいらっしゃるのかしら!
私は平然とした顔をして新聞をめくっている夫兼王太子殿下に視線を移す。なんで、いきなり見知らぬ女と結婚させられたというのに落ち着き払っていて、現状を受け止めているんだろう。それとも、これはやっぱり、一時的なその場しのぎの結婚で、いずれ離婚するんだからいっか~くらいにしか考えてないから!?
私は昨晩のことを思い返す。疲労困憊で眠たすぎて、入浴後ベッドにダイブしたところまでしか記憶がない。爆睡していたらしく、目が覚めた時にはこのイケメン殿下様が横で普通に寝ていらっしゃったというわけだ。いや、結婚したんだしね。同じベッドで寝るのは普通のことだ。
世の中の夫婦というのは、そういうものだと私だって当然知っている。結婚初日からいきなり寝所別々で、同衾もしないなんて、何かあったのだろうとあらぬ憶測や噂を生んでしまう。彼は王太子殿下で、その結婚ともなれば国事。夫婦円満をアピールしなければならないのは義務だ。まして、私たちの結婚はトラブルに見舞われ過ぎた。
お互いに結婚相手が手に手を取り合って駆け落ちしていたなんて前代未聞。それだけでも噂の的になっているのに、この上、やっぱり偽装夫婦ですぐに離婚するのではないかなんて言われたら、王家の評判も王太子の評判もがた落ちだ。
だから、うん。彼が隣で寝ていたことには何の文句もない。いきなり寝込みを襲ってこなかったのだし、さすがに王太子だけあって礼儀正しい。もともと、この容姿だから女性のお相手には困っていないだろうし、いきなり連れてこられた間に合わせの結婚相手を抱こうなんて気持ちにならないのも当然である。おかげで、私の貞操は守られたし、昨日は彼の腕枕のおかげで快眠できた。
そして、今朝のこの朝食のお誘いだ。それは嬉しいし、お腹が空いていたからモリモリ食べている。後ろで控えている侍従や侍女が、目配せし合いながらカゴの中のパンが足らなくなりはしないかと心配しているくらいだ。さすがに王宮の料理人が用意した朝食だけあってオムレツもプルンプルンだし、ベーコンやソーセージもカリカリに焼いてありおいしい。スープもサラダも完璧だ。その上、フルーツまで用意されている。
それはいいんだけど、この状況にもう少し動じたり、疑問に思ったりしてもいいんじゃないだろうか。私がさっきから物言いたげな視線を送り続けていたからか、殿下は新聞を下げて私の方を見る。知らなかったが、彼は新聞を読む時にはメガネをかけるらしい。そのメガネがまたよく似合っている。
「どうかしたのか?」
問われて、私は「いいえ、なにも」と首を横に振る。嘘です。本当はこの状況についてじっくり話し合う必要があると思っています。けれど、後ろには侍女や侍従が控えているし、彼はこの後公務がある。そうのんびり話し合っている時間はないはずだ。
話し合いをするなら、やっぱり夜よね!
彼もきっと、昨日は私がすっかり寝てしまっていたから遠慮したのだろう。今日はきっと、例の「清い結婚宣言」の話を持ち出されるはずだ。その時、お互いの今後の関係とあり方、距離感についてしっかり話し合おう。
「とてもおいしい朝食で満足していたところです」
「そうだな。テラスで朝食を取るなどあまりないことだから、気分がいいものだ」
彼はそう言って、薔薇園に視線を移す。そうなの? もしかして、私を気づかってテラスに朝食を用意をしてくれたのだろうか。気遣いもできるなんて、さすがに王太子殿下だ。きっと女性をエスコートする教育もしっかり受けているに違いない。昨日知り合ったばかりの相手でも、蔑ろにしないとはとても評価できる。国民の間でも王太子殿下の人気が高い理由がわかる気がした。軍でも活躍していたし優秀な人なのだろう。
公爵令嬢のミレーネ様はいったい、この人のどこが不満だったんだろう。少なくとも、この殿下とローマンでは、月とすっぽんだ。確かに、ローマンは女性受けする顔立ちだし、女性を口説くことは熱心で、その甘い言葉に騙される女性は少なくなかっただろう。けれど、軽薄さは隠しようもなかったし、女癖の悪さも、金遣いの荒さも評判になっていた。彼はたびたび、賭け事をして借金を作っていたくらいだ。弱いくせに、見栄っぱりだから誘われるとひょいひょいと出かけていき、鴨られるのだ。そんな学習能力の低いどうしようもないダメ人間だった。
それに比べて、確かに殿下は愛想こそない無表情男だけど、誠実な人だと思える。それに彫刻みたいに完璧な顔立ちで、体つきだって――。昨日の腕枕を思い出して赤面しそうになった私は、ゴクッと紅茶を飲み干した。とにかく、殿下は大変男らしくて好ましい人物に見えるということだ。
しかも、彼と結婚すれば王太子妃の座が手に入る。そしてその座はそのまま王妃の座へと昇格確定なのだ。社交界の女性たちや、その親である貴族たちが血眼になって手に入れようとした権力の頂点だ。私みたいな子爵家の小娘が簡単に座っていい席ではない。きっと、多くの令嬢たちやその両親は苦々しい思いで昨日の結婚式に参列していただろう。
私だって座りたくて座ったわけではない。王太子妃の役目なんて私には重すぎる。幼い頃から王太子妃教育を受けてきた公爵令嬢のミレーネ様とは違うのだ。何の教育も受けていない。貴族の令嬢としての振るまいすら、及第点ギリギリだろう。
王族の礼儀も社交界での作法も、ろくに知らない。そんな私がいきなり王太子妃になったところで、何もできないし、ヘマをして笑い者になるのが関の山だ。だからまあ、この離宮に押し込めて、離婚できる時がくるまで大人しく引っ込んでいろということなんだろうけど。それでも、公式行事はあるだろうし、それをすべてキャンセルするわけにはいかないのだ。
にこやかに笑みを作って手を振っていれば、それでなんとかなるならいいが、そういうわけにもいかない。気が重い。ついでに食べ過ぎて、胃もずっしり重い。これはサクサクのバターたっぷりなクロワッサンを食べ過ぎたせいだ。ゲップが出そうになるのを、ハンカチで口元を押さえて堪える。
いくらなんでも、王族たる旦那様の前でそんな粗相はできない。
「殿下、そろそろお時間です」
従僕に告げられて、「そうか」と殿下は折りたたんだ新聞をテーブルに置いて席を立つ。
「では、先に失礼する。君はゆっくり食べているといい。話は夜に」
話は夜に!
私は腰を浮かせて、「は、はいっ。いってらっしゃいませ」と殿下を見送った。
やっぱり、今夜大事な話をするつもりなんだ。私は部屋に戻っていく彼の背中を見詰めながら、緊張した手を握った。
◇◇◇
朝食後、書斎に移動した私は、メガネの侍女から本日のスケジュールを聞かされる。王太子妃としての教育を受けてこなかった私は、今日からみっちり礼儀作法から教え直されるらしい。頭が……悪い……じゃなくて、頭が痛いっ!
さて、この神経質で生真面目そうなメガネの侍女は、王太子の宮殿を管理する侍女長であるらしい。名前はサリー=メイスン。伯爵家の出であるらしい。分厚い鈍器にもなりそうな王宮典範を開く前に、メイスン侍女長から昨晩の振る舞いについてこってりと絞られてしまった。
「殿下が部屋にいらっしゃった時には、妃殿下はすでにベッドで大の字になり眠ってしまわれておりました。殿下がそのままでよいとおっしゃられたので、妃殿下の寝衣の乱れを少々お直して部屋を退出いたしました。妃殿下も随分とお疲れだったご様子でしたから、殿下もご無理をさせずにお気遣いなさったのでしょう。けれども、夜のお勤めは妃殿下のお役目でございます。くれぐれも、今夜は昨晩のようなことがなきよう! よいですね!?」
机に向かう私に、メイスン侍女長はズイッと顔を寄せて睨んでくる。
「は、はいっ、すみません!!」
椅子に座った私は、背筋をピンッと伸ばして返事をする。私、大の字になって寝ちゃってたのか。そして、ネグリジェもきっとめくれてひどい格好になっていたのだろう。その姿を見られたとは。なんて、図太い娘だと呆れたことだろう。今夜、殿下と顔を合わせるのが辛い。けれど、話し合いはしなくちゃいけない。
できれば、ベッドだけでも別々にしてもらえないだろうか。そうすれば私の寝相の悪さの被害を殿下が受けずにすむ。寝室はベッドを二つ入れられるくらいに十分な広さがある。とはいえ、いきなりベッドを別にしたなんて噂が広まるのも困る。王宮の侍女やメイドは教育が行き届いているだろうが、噂はどこから漏れるかわからない。外部に噂が広まらなくても、王宮内での私や殿下の評判が悪くなるのもよいことではない。
「今日は、気をつけますから……」
私は笑みを作ってしおらしく答えておいた。メイスン侍女長は「よろしい」と頷いて、さっそく王宮典範について説明を始める。女学校時代の苦手な先生を思い出す。厳しくて、口うるさくて、私の天敵みたいな先生だった。この侍女長から教育を受けなければならないのだ。私はひどく気が滅入って、ため息を吐きそうになる。けれどメガネ越しに鋭い視線を向けられて、慌ててそのため息をのみ込んだ。
「では、まず王太子妃の役割と公務について基本的なところから説明してまいります」
「よ、よろしくお願いいたします」
離婚してもらえるのは、いつになるのかな。できるだけ早い方がありがたいんだけど。できれば、一年くらいで。それも、今夜じっくり話し合わなければならないだろう。今日はうっかり大の字になって寝てしまわないように、夜は濃いめのコーヒーをいれてもらおう。




