聖母祭
寝不足気味の顔でクロワッサンを口に押し込んでいると、向かいの席に座った殿下がカップを置く。今日は曇り空で風が強いため、モーニングルームに朝食を用意してもらった。晴れた日はテラスで食べるけれど、このところ曇り日と雨の日ばかりだ。
「聖母祭は母と共に行くことにしたようだな」
殿下に話しかけれて、私はぼやーっとしたまま視線を向ける。ハッとして急いでクロワッサンをのみ込んだから、ちょっと喉に詰めそうになった。紅茶を飲み込んで胸を叩く。殿下が「大丈夫か?」と目を丸くしていた。
「は、はい、大丈夫です」
殿下が片手を上げると、後ろに控えていた侍女が私の空になったカップにお茶を注いでくれる。
「あまり寝れていないのか?」
「いいえ、ぐっすりです!」
昨日の夜も、殿下より先に寝たくせに、殿下の腕を枕代わりにしてぐーすかと寝ていたのだ。私よりも遅く寝て、私が目が覚めるより先に剣の稽古や軽い書類仕事までこなしている殿下の前で、寝たりないだけですなんて言えない。
「それならいいが、無理は禁物だ」
「もちろんです! 聖母祭は殿下のおかげで王妃様に同行をお許しいただけました。警護の事や手配も王妃様にしていただけるということです。王妃様のご負担にならなければいいと思うのですが……私は何も心配しないでいいからと。何から何までご配慮いただいて、感謝しております」
「母上は随分、はりきっていらっしゃったからな。君と行けるのが嬉しくてたまらないのだろう」
殿下の口元に笑みがこぼれる。その顔をまじまじと見ていると、顔が急に火照ってきて視線を逸らす。
「私も嬉しいですよ……王妃様にご一緒させていただけるなんて光栄ですもの! 子々孫々まで自慢しちゃいます!」
私はあせあせしながらそう答えた。あれ、でもよく考えてみれば、私がこのまま離婚されなければ、私の子々孫々は王族って事? あまりよく考えた事はなかったけれど、急にプレッシャーを感じてしまった。そうよね。そのために、王妃様も私を聖母祭に連れていってくださるんだもの。
殿下は「そうか」と、微笑む。最近、ちょっと表情が柔らかくなっているように見える。最初はあまり表情の変わらない堅物っぽい人かと思っていたけれど、感情を表に出さないように幼い頃から訓練されてきたからかもしれない。私といる事にも少しは慣れたからだろうか。すごく自然体だ。
それが私には、ちょっと嬉しく感じてしまう。半熟のベーコンエッグを切り分けて口に運んだ。料理長、今日の卵の焼き加減は最高よ。勲章ものだわ。私は心の中で、まだ一度も見た事がない見知らぬ料理長の顔を想像して、グッと親指を立てておく。
「殿下も……」
ご一緒できればよかったと言いかけて、私は慌てて口を閉じる。喉からゴキュッと変な音がした。
あ、危うい。聖母祭は子授かりや安産どを祈願しに行くのだ。殿下と一緒に行けば、周りが余計に騒がしくなる。王妃様と行くというだけでも、目立ちそうで怖いのに。
「私がどうかしたか?」
「いいえ! 殿下のご健康と無事もお祈りして参りますね! それが一番重要な〝お願い事〟なんですから! 聖母祭は家内安全を祈りに行く人も多いそうですよ!! 王妃様もそうなさるようですし!!」
王妃様は殿下や殿下の弟君である王子殿下、それに公女殿下の健康もお祈りするのだろう。そう、何も聖母祭は子授かりや安産祈願ばかりではないのである!
「私より、君自身の健康と無事を祈ってくるといい。その方が大事だ」
「私は……祈らなくても健康ですよ。私の取り柄は……それだけですから」
私はドキドキしながら笑みを浮かべる。
「そうとは思わないが、君が健康でいてくれると私も安心して公務ができる」
「そう……ですか?」
「それはそうだろう」
殿下は当たり前のように言ってくれる。結婚しても相手の健康や体調にあまり気を配らない夫もいる。まして殿下は王太子。国王と共に国を背負う責任ある立場だ。そんな人が、つい最近まで田舎貴族の娘だった私を気に掛けてくれる。以前なら考えられもしなかった事だ。こんなふうに共に朝食を取る事も。雲の上の人。願っても手が届かないほど高い場所にいる人。私はもしかしたら、とんでもなく幸運な星の下に生まれたのかもしれない。その分、多くの苦難が伴うだろうけれど、それも殿下の隣ならちょっとは我慢して耐えていけるような気すらしてくる。
「聖母祭で、ちゃんとお祈りしてきますね」
私はそう答えて微笑んだ。
「ああ、気をつけて行ってくるといい」
◇◇◇
聖母祭当日は土砂降りの雨になった。夕刻前から支度をして、王妃様の馬車に乗せてもらい、護衛の騎士を引き連れて中央大聖堂に向かう。丸い屋根の聖堂は霧に霞んでいた。聖母祭の始まりを告げる祈りの鐘の音が王都に響く。中央大聖堂前の広場や街道は、祈願に訪れる人たちで溢れていた。周辺は教会の騎士たちや、王都の守備隊が警護に当たっていて、続々と集まる人たちを誘導する。
騎乗した近衛騎士に囲まれた王妃様の馬車が通ると、人々が道を開ける。手を振っている人もいれば、物珍しそうに眺めている人たちもいた。馬車には王家の紋章が描かれているし、近衛騎士団のマントにも王家の紋章が刺繍されている。馬車は大聖堂正面に停まり、教会の騎士たちと近衛騎士たちが整列した。
「すごい人なんですね……」
「ええ、そうね。あなたは初めて?」
「は、はい。今までは小さな教会に行っていたので」
中央大聖堂に来るのは結婚式の日以来だ。王妃様の護衛騎士と、私の護衛騎士であるセシーナが傘を差し掛けてくれている。
「ようこそおいでくださいました。王妃殿下、王太子妃殿下。お待ち申し上げておりました」
教会の騎士を連れた白髪頭のおじいさん大司教が出迎えてくれる。
「出迎え、ありがとうございます。エスレイ大司教」
王妃様の後に続いて、私も挨拶を交わし、後についていく。これだけ厳重に警備を行っているのだから、もし狙う人がいたとしても簡単にはいかないだろう。
「毎年、こんなに厳重な警備を?」
「いいえ、今回は特別に増やしていただいているの。あなたが一緒ですもの。それより、お揃いのドレスにしてよかったわね。よく似合っているわ。アイビー」
王妃様は私の隣にやってきて、私の腕に手をかける。王妃様、少女みたいにかわいいなぁなんてほのぼのしてしまった。王妃様は濃いグリーンの生地と、白地に鈴蘭柄の生地を合わせている。私は空色の生地で同じ白地に花柄の生地を合わせている。色違いだが、デザインがお揃いだ。鈴蘭は聖母様の象徴でもあるのだ。そのため、アクセサリーもパールで作った鈴蘭で、それも王妃様がお揃いのものを用意してくれた。
「王妃様もとてもよくお似合いです。あっ、ドレス……ありがとうございました」
「いいのよ。だって、私がお揃いにしたかったんですもの。その方が楽しいでしょう?」
王妃様は「ウフフッ」と笑う。大聖堂の中には貴族やその子女たちが大勢集まっていた。全員が立ち上がり、王妃様にお辞儀をする。王妃様と私が貴賓席に着席すると、全員が椅子に座る。私はさりげなく、大聖堂内を見回した。
やはりミレーネ嬢も来ていたようだ。彼女の母親や親族たちと、前方の席に座っていた。大司教が入ってくると祭壇の大きな燭台に火が灯されていく。その明かりが大聖堂の中を照らすと、儀式が始まった。私は祈りの言葉を聞きながら、片目だけ開けてミレーネ嬢の方をチラリと見る。彼女は手を握り、目を伏せて静かに祈りを捧げていた。
「大聖堂内にある、あの小さな聖母像にお祈りしてくるといいわ」
儀式が終わって他の人たちが立ち上がる中、王妃様がそう教えてくれた。見れば、壁際に飾られている小さな聖母像の周りに、女性たちが集まっている。
「あの聖母像は特別なの」
王妃様はそう言って、ウィンクする。「特別?」と首を傾げると、大司教のおじいちゃんが側にやってきた。
「あの聖母像には不思議な言い伝えがございます。あの聖母像が夢に顕れた後に、子を授かった……というような話も聞きますな。そのため、触れて帰られる信者の方が多いのです」
「ええ、そうよ。私も結婚したばかりの頃、あの聖母像にお祈りをしたのよ。きっと、あなたの祈りも聞き届けてくださるわ」
授かろうにも、その前の段階すら進めていないのだ。いくら祈ったところで、清い身では聖母様も子供を授けてくださらないだろう。それに、聖母像の周りには人が群がっていて近づけそうもない。貴族にとっても跡継ぎ問題は深刻だ。皆、必死なのだろう。
私は今日のところは遠慮しておきますと言いかけて、ハッとする。ベールで顔を隠したミレーネ嬢が俯きがちに大聖堂を出ていこうとしていた。
「あの、王妃様! やっぱり、私……祈ってきますね!! ここまで来て、祈らずに帰るなんてもったいないですから!!」
「もちろんよ! 私は別室で待っていますからね。あなたも後でいらっしゃい」
「はいっ!」
大聖堂を出る前に呼び止めないと。私は王妃様と一旦別れ、セシーナとリオンを連れて急ぎ足で後を追う。
「おい、どこに行くんだ。聖母像はそっちじゃないぞ」
「ミレーネ様を追うの!」
私はリオンに小声で答えて、人をかき分けるようにして移動する。それにしても人が多くて思うように身動きが取れない。しかも押されてしまって、気付けばセシーナやリオンとも距離が離れていた。
「ミレーネ様!」
ようやく追いついたのは、渡り廊下の途中だ。中庭は静かで、あまり人がいない。雨音が絶え間なく聞こえ、冷たい湿った風が吹いていた。渡り廊下の石畳も雨で濡れている。
足を止めたミレーネ嬢がクルッとこちらを向いた。
「なんでしょう? レッドベリー子爵令嬢」
冷たい声で訊かれて、私は彼女と向き合う。レッドベリー子爵令嬢と呼んだのはわざとだろう。
ミレーネ嬢の側には侍女と護衛がついていて、警戒するようにこっちを睨んでいた。これ以上、近づけない。
「カストリアン公爵令嬢。できれば、一度……お話する機会を作ってはいただけませんか?」
「私とあなたが? 何の話をするのです?」
取り付く島がない。よほど私は彼女に嫌われているらしい。それも当然だけれど、それならなぜ――。
最初から、殿下を裏切るような真似をしたのだろう。そんな真似をすれば、王太子妃になれない事くらい理解していただろうに。無理矢理襲われたなら、彼女に罪はない。言えなかったから? そうだったとしても、殿下は打ち明ければ決して彼女との婚約を破棄するような事はしなかっただろう。むしろ、彼女を守ろうとしてくれたはずだ。そういう人だから。
それは、あなたも分かっていたのではないですか?
私はミレーネ嬢と真っ直ぐ対峙する。
けれど、ふと視線を移すと彼女の手が小刻みに震えていた。
「……色々と誤解があるように思えるからです」
「誤解ですか……それは何の事でしょう?」
「私はあなたがなぜ、陛下にあのような訴えを起こしたのか理解できません」
「白々しい……」
彼女は視線を逸らして呟く。私は手を握って、大きく足を踏み出した。彼女に近付こうとすると、侍女と護衛がサッと前に出る。私はそれを押し退けて彼女の前に出た。
「それ以上……っ!」
護衛の声を遮るように、「ミレーネ様!」と強く名前を呼ぶ。彼女がビクッとして顔を上げた。
「私は真実が知りたいのです!」
「それは、あなたご自身の胸に聞いてみればいいでしょう! 私はあなたを許さない……あなたのような卑劣な人が殿下に相応しいわけもありません。私は認めませんから!」
彼女は声を荒らげると、私を強く突き飛ばして踵を返す。スカートの裾を濡らしながら駆け出した彼女を、護衛と侍女が追い掛けていく。私はふらついて、ペタンとその場に座り込んだ。
「アイビー様!」
「勝手に移動するなと言ってあっただろう。あの護衛が剣を抜くとは考えなかったのか!?」
セシーナとリオンが渡り廊下を走ってくる。セシーナの手を借りて立ち上がったが、せっかく王妃様が作ってくださったドレスがびしょ濡れだ。
「ごめんなさい。思いっきり、拒絶されちゃったわ……」
「当たり前だろう。心を開いて打ち解けてくれるとでも思ったのか?」
リオンは相変わらず辛辣で、私は「はは……」と笑う。
「王妃様が心配しておられますよ」
「そうね。早く戻りましょう。ああ、それと……一応、聖母像にも触ってお祈りしておかないと」
私は急ぎ足で大聖堂に引き返す。大聖堂にいた人たちは続々と出て行き、残っている人は少なくなっていた。あの特別な聖母像の周りにいた人たちもいなくなっている。私はその前で膝をついてお祈りをした。多くの人たちが触れているからか、石の表面が磨かれてツルツルだ。その慈愛に満ちた表情を見つめる。
どうか、多くの人が幸せでありますように――。
そう祈る事しかできなくて、立ち上がる。今の私に、殿下の子を授けてほしいとはお願いできなかった。その資格があるかどうか、自分でもまだはっきりとは思えなかったから。
王妃様は大司教と話をしている最中のようだ。私も案内されて別室に向かいながら、ドレスの胸元に挟まれていた小さな紙をそっと取り出す。後ろをついてくるリアンやセシーナには見えていないはず。私は手の中に隠したその紙をチラッと見る。その紙を手の中でクシャッと握り締めた。
必ず、お一人で――。




