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子爵家に

「三日後、君からの聞き取りを行うことになった。陛下とカストリアン公爵、それに私が立ち合う。急なことだが、これも君の潔白を証明するためにも必要なことだ。公爵は簡単には納得しないだろう」

 殿下にそう言われて、私は素直に応じることを伝えた。公爵がローマンの手紙以外にも令嬢の証言を裏付けるような証拠を持っているとは思えない。そもそも、私には身に覚えがないことなのだ。けれど、公爵がどんな手に出てくるか予測不能だ。


 聞き取りが行われる日の当日、私は殿下と一緒に宮殿のテラスで朝食を取る。今日は公爵との対決の日だもの。しっかり食べておかないと。私は朝から気合いを入れるために、クロワッサンを大きな口で頬張る。オムレツ、ソーセージ、それにサラダとスープを、交互に口に入れる。


「君が不安がっているかと思ったが……その心配はなさそうだな」

 殿下は私の食べっぷりに呆れているのか、驚いているのか、紅茶をゆっくりと飲みながら言う。

「ええ、もちろんです。だって、それでは相手の思う壺でしょう? 私は何も疚しいことも、後ろめたいこともないのですから、堂々としているべきです」

「その通りだな……君が不当な扱いをされないように気を配っておくが、私は取り調べに口を出せない。聞き取りは司法官が行うことになっている。だが、公爵はすでに手を回しているだろう」

 つまり、買収済みの司法官というわけだ。

「わかっています。余計なことを言わないように気をつけますから。殿下に同席していただけるだけで、十分安心です」

 私は片手を上げて答えてから、ちぎったクロワッサンを口に詰め込んだ。

 侍女が空になったカップに二杯目の紅茶を注いでくれる。紅茶を飲み、「ふうっ」と満腹になったお腹をさすった。さすがに、クロワッサン三つに、スコーン二つは食べ過ぎてしまったみたいだ。それに大きなオムレツもペロリと平らげたのだ。後ろに控えていた侍女たちも目を丸くしているほどだ。殿下ですら、クロワッサンは二つしか食べていないし、スコーンも一つだ。

 

「殿下が私の味方だけをするわけにはいかないお立場であることは承知しています」

「すまない。本当なら、王太子妃に対してこのような聞き取りを行うこと事態、不敬なことだ」

 殿下は紅茶を飲みながら眉間に皺を寄せる。けれど、相手は大貴族のカストリアン公爵家だ。多くの貴族たちを派閥に抱え込んでいる権力者なのだから、王家もその言い分を無視できないのだろう。

「平気ですよ。なにもいきなり拷問にかけられるわけじゃありませんから」

 私はニコッと笑ってカップに口をつける。


 クラッと目眩がして、「あれ?」と私はテーブルを見詰める。カップを持つ手に急に力が入らなくなり、取っ手を支えていた指が抜ける。あっと思ったけれど、体が思うように動かない。傾いたカップから紅茶がこぼれる。殿下が青い顔をして急に立ち上がり、私に手を伸ばしてくる。


 侍女たちが駆け寄ってくるのに、その音も声も聞こえない。体が傾いて椅子からずり落ちそうになる私の体を支えてくれたのは、殿下の腕だった。


 彼は私の頬を叩き、必死に何か言っている。そんな焦って動揺した表情を初めて見る気がする。殿下はいつでも堂々としていて落ち着き払っていたから。何が起きたのか分からないけれど、紅茶をこぼしてしまったことだけは分かった。カップを割ってしまったのだろうか。どうしよう。王宮の食器はどれも高価な特注品なのに。メガネ侍女長が顔をしかめそう。なんて、ぼんやり考えているうちに、目が回って気持ち悪くなってくる。まるで、穴の中に落ちていくみたいな気分だった。

 

「アイビー!!」

 そう、殿下の呼ぶ声が聞こえた気がする。

 けれど、返事もできないまま、私の意識は途切れた。


◇◇◇

 

 目を覚ました時には、寝室のベッドの上だった。あれ、もう真っ暗になっている。燭台に火が点いていて暗い部屋の中を照らしていた。朝だったはずなのに、おかしいな。夢でも見ていたのだろうか。

 体が重くて、頭が疼く。喉も渇いていて、胃も気持ち悪かった。起き上がろうとした時、「気が付いたか」とホッとしたような殿下の声がした。驚いて顔を横に向けると、ベッドのそばに椅子を持って来て殿下が座っていた。その殿下の手をしっかりと握り締めたまま、私は寝ていたらしい。

「殿下! もしかして、ずっとついていてくれたんですか?」

 慌てて手を引っ込めると、殿下が腰を浮かせた。ベッドサイドのテーブルに置かれていたグラスにピッチャーの水を注ぎ入れる。そして私が起き上がるのを腕で支えながら、グラスを渡してくれた。喉が渇いていたからありがたい。ゴクゴクと飲み干すのを、殿下は心配そうな目をして見ている。その口からフッと息がこぼれていた。


「すみません……どうなったのか覚えていなんです。急に気を失っちゃったみたいで。今日の取り調べはどうなりましたか?」

 私がおずおずと尋ねると、殿下は空になったグラスを取り上げてテーブルの上に戻した。

「取り調べは中止になった。それどころではなくなかったからな」

 それはつまり、私が急に気を失って日が落ちるまで眠りこけてしまっていたから!?

 公爵はきっとおかんむりだろう。取り調べをすっぽかしたも同然なのだから。


「殿下にご迷惑をかけてしまったんですね。ごめんなさいっ!」

 私はベッドにきちんと座り直して頭を垂れる。その肩を、殿下がグイッと強めに押した。びっくりしている間にベッドに転がる体勢になる。殿下は私の肩に手を触れたまま、上から覗き込むような体勢だった。

 急に心臓の音が速くなって、あわあわする。風邪をひいた時みたいに頬も額も熱が上がっていた。

 もしかして、自分でも知らない間にひどい風邪をひいていたのだろうか。それで気を失ったのかもしれない。私は元気だけが取り柄で、ほとんど体調を崩したことがなかったというのに。

 

「まだ、休んでいろ。君は覚えていないだろうが、毒を盛られていたんだ」

 険しい表情を浮かべる殿下の言葉に、私は「へ?」と間の抜けた声を返す。

「毒を盛られたって……もしかして、サラダに入っていたハーブの中に、間違って毒草が紛れていたとかですか? あっ、それとも……ジャムにカビが生えていたとか?」

 王宮の一流料理人がそんな田舎ではよくある失敗をしでかすとは思えない。田舎では、食べられるキノコと、毒キノコを間違って採ってきちゃったり、山菜と毒草を間違えて大変な目に遭うのは、そう珍しいことではない。パンやジャムにカビが生えていてうっかり食べてしまい、お腹を壊すこともよくある。けれど、今朝食べた朝食はどれもおいしくて、クロワッサンも焼き立てだった。おかしい……。いったい、何がいけなかったんだろう。私は真剣に考え込む。


 そんな私を見下ろしたまま、殿下は額を押さえて少し呆れ気味にため息を吐く。

「君は……もう少しで命を落とすところだったんだぞ」

「えっ、そんなにひどい症状だったんですか!?」

「当然だ。すぐに医師を呼んで治療させたから助かったものの、もう少し毒物の量が多ければ危なかっただろう」

 殿下は私を見下ろす姿勢をやめて、椅子に座り直す。

「いったい、何をそんなに食べちゃったんです!? クロワッサンの食べ過ぎ!?」

 もしかして、致死量のクロワッサンを食べてしまったのかもしれない。それとも、クロワッサンにたっぷり含まれていたバターの方が問題だったのだろうか。確かに、あのおいしさは危険なくらいだった。明日からもう、食べさせてもらえないかもしれないと思うと泣きそうになる。


「毒物の成分は今、調べさせている。君が飲んだ紅茶に含まれていたのだ」

「それって……入れられたってことですか?」」

 私はさすがに驚いて尋ねた。取りあえずクロワッサンとバターが原因ではなかったようだ。よかったと私は心の中でホッと胸をなで下ろした。これで、罪なきクロワッサンとバターは明日からも提供してもらえるだろう。厨房の料理人の皆さんにも、あらぬ疑いをかけてしまったことをしっかり詫びておく。とはいえ、紅茶に毒物が混入されていたってどういうこと!?

 つまり、それって私を毒殺しようとしていた人がいたってことよね?

 私の顔から血の気が引く。

 

 確かに、歴史では王族や有力貴族の毒殺事件なんて珍しくはない。むしろ、毒殺なんてポピュラーな暗殺方法だろう。最近、読んだ推理小説にも、金にがめつくて意地の悪い大金持ちの老人が毒殺される事件がでてきた。そして親族一同が疑いをかけられ、たまたま招かれていた探偵と助手が犯人を推理するのだ。とはいえ、私は金にがめつくもないし、遺産もない。王太子妃になったとはいえ、後ろ盾なんてない吹けば飛ぶような存在だ。権力なんて呼べるようなものは少しも持っていない。せいぜい、お茶の時に自分が食べたいスイーツを思う存分要求しても誰にも文句を言われないというくらいだ。それを羨んだ人の犯行だろうか。でも、そんな人いる?

 

 私には動機がさっぱり分からなくて、「うーん」と唸った。それからふと気付いて顔を上げる。

「殿下、紅茶に毒物が入っていたとおっしゃいましたよね?」

「ああ、そうだ」

「でも、あの時……メイドは私の二杯目の紅茶をいれる前に、殿下のカップにも同じポットのお茶をつぎ足していたんです。それなら、殿下の紅茶にも毒が入っていないとおかしくありませんか?」

「それは、メイドにも確認してある。あの時、給仕を行っていた使用人だけではなく、厨房を含めてこの離れでは働いている者、全員、取り調べた」

「えっ、私が寝ている間にですか!?」

 そこまでする必要があったのだろうか。無関係な使用人も多くいただろう。きっと大騒ぎになっていたはずだ。

「当然だ。王太子妃を毒殺しようとした者がいるのだ。簡単に済ませられることではない」

「それで……犯人は見付かったんですか?」

「……それに関しては、今調査中だが……キッチンメイドの一人が行方不明となっている」

「それって、でも……あまりにも分かりやすすぎませんか?」

 自分がやりましたと証言しているも同然だ。しかも、逃亡したのではなく行方不明となっているのが気になる。もしかして、誰かに命じられてやったけど、口封じに殺されたのでは?

 あるいは、別の誰かがやったけれど、罪を着せるために身代わりで殺された可能性もあるだろう。その行方不明のキッチンメイドが見付からない限り、彼女を犯人とは断定できない。だから、殿下も調査中だと言ったのだろう。私は嫌な予感しかしなかった。


「それと、紅茶に毒物が含まれていたと言ったが……おそらく、入っていたのは砂糖の方だろう」

「あっ、なるほど……砂糖に含まれていた毒物が紅茶に溶け出したということですね」

 それなら、殿下と同じティーポットの紅茶を飲んでも、殿下は無事だった理由は分かる。私はあの時、砂糖を入れた。カップに添えられていた薔薇の花の形をしたかわいらしい砂糖だった。けれど、殿下はいつも紅茶には砂糖を入れない。それを知っている者だろう。つまり、狙いは殿下ではなく、間違いなく私だったというわけだ。あの時、用意されていた砂糖は二つ。両方いれようか迷った結果、ぐっと我慢して一つにしておいた。


 もしかして、そのおかげで死なずにすんだのだろうか。だとしたら、我慢した私、偉い!

 欲望に負けて二つ入れていたら、今頃天国に召されていただろう。

 あ、危なかった~~~~。

 私は冷や汗を掻いた気がして、額を拭う。それからコホンと咳払いした。

「殿下。あの時、お砂糖は二つ用意されていたんです。もう一つは回収されているのでしょうか? それにも毒が入っているかもしれません」

 そうだよ。それが見付かれば重要な証拠になる。

「いや……君が倒れた時にカップがひっくり返り、こぼれたお茶と混ざってしまったため、回収はできなかった」

「それは……残念ですね」

 犯人はそこまで見越していたんだろうか。私は顎に手をやって考え込む。


「それと……君にもう一つ、言っておくことがある」

「なんでしょう?」

「王宮内での捜査が終わるまで……君には子爵家に戻ってもらうことになった」

 殿下は膝の上で拳を握り、固い表情のまま言う。私は二秒ほど黙った後、「えっ!」と身を乗り出す。

「私、子爵家の屋敷に戻っても……いいんですか!?」

「嬉しそうだな……」

 殿下が苦笑いする。私は喜びすぎたことにハッとして、前のめりになった体を戻して座り直した。

「それは……結婚してから一度も戻っていませんから。お父様やお母様や弟のことも心配ですし……」

「王宮内で誰が指示していたのか、関わっていた者全員を洗い出すのには時間がかかる。このまま君が王宮にいれば、再び同じことが起こらないとは限らない。安全が確認されるまで、子爵家にいるほうが安全だろうと、陛下や母上とも相談したのだ。そこで、君は療養のため王宮を離れたということにしようと思う」

「そうですね。私もその方が安心できますし……王宮の皆さんに迷惑をおかけしなくてすむと思います」

 大きく頷いたけれど、ああ、あのバターたっぷりクロワッサンがしばらく食べられないのは残念だな。あのクロワッサンだけたくさん焼いて、時々届けてくれないだろうかなんて贅沢なことを考える。いやいや、ダメよ。ここはしばらく我慢だ。

 

 本当にしばらくだろうか。そのまま、離婚ということになり、王宮に戻る必要がなくなるのではないか。私はふと、そんな気がして薄暗い寝室の中で殿下と向き合う。そのほうがいいと分かっている。もちろん、王太子妃の地位に未練なんてない。殺されそうになったのだ。そんな危ない目に遭うのもごめんだ。ただ、少しだけ後ろ髪を引かれるのは、数日ではあったけれど彼とこうして夫婦という関係でいたからだろうか。何もなかったとはいえ、毎晩同じベッドで寝て、腕枕も貸してもらって、朝は朝食を一緒に取った。その間に芽生えた、この信頼感のようなものはなんだろう。


 離婚してしまったら、きっともう殿下と会うことはない。離婚した女性が王宮のパーティーに招かれるはずがない。顔を合わせたとしても、その時にはきっと殿下の隣には別の女性がいて気まずい思いをするだけだ。その時の気持ちを考えると、少しだけ胸が切なくなる。きっと、殿下はその時には遠くて、もう会話すらことすらできない相手になっているのだろうから。

 

「望み……すぎちゃったのかな……」

 そんな呟きが、意図せずポロッとこぼれた。

「なにか、君からの望みがあるのなら、遠慮なく言ってほしい」

「いいえ、ありませんよ! 違うんです。ただ、王宮で贅沢に慣れ過ぎちゃったってだけで。子爵家に戻ればきっとそれも忘れてしまうでしょうから大丈夫です」

「君は王太子妃だ。それは王宮を離れたとしても変わらない」

 殿下は真面目くさった顔をしてそう言ってくれる。


「ええ、分かっています。子爵家に戻ったとしても、羽目を外し……じゃなくて、大人しくしておきますから。問題を起こして王家の皆様に迷惑をおかけすることはありません」

 強くは約束できないけれど。私は少々嘘くさい笑みを作っておく。

「それと、近衛騎士団から君の護衛の騎士を随行させることにした」

「えっ、近衛騎士団の騎士様をですか!?」

 予想外の言葉に驚いて聞き返す。

「当然だ。このような毒殺未遂事件が起こったのだ。子爵家といえども、安全とは言えない。一度、失敗したのだから今度は別の手段で君を狙う可能性もある。それに、王太子妃に護衛を付けるのは当然のことだから気にすることはない」

「ですが……あの……近衛騎士団の騎士様といっても私は知らない方でしょうし。四六時中ついてこられるのはちょっと……気兼ねしてしまうんですけど」

「不便を強いるが王宮に戻るまでの辛抱だと思ってくれ。それと、君に随行させる騎士はキャバリック公爵家ゆかりの者だ。だから、安心してもらいたい」

「キャバリック公爵家!?」

 カストリアン公爵家と並ぶ大貴族の家柄じゃないの。私は仰天して声が変に上ずった。

 そんな方が子爵家の令嬢でしかなかった私の護衛をしてくださるの?

 ものすごく気まずいし、申し訳ない気分になりそうだ。子爵家の邸宅を見て、ボロいとか小さいとか思わないかな。それが心配だ。

 けれど、殿下がキャバリック公爵家ゆかりの騎士から護衛を選んだのは、毒殺を企てたのがカストリアン公爵の手の者かもしれないと疑っているからだ。キャバリック公爵家はカストリアン公爵家と対抗しているし、現当主は王家寄りの人と聞いている。カストリアン公爵もキャバリック公爵家の者を買収することはできない。


「殿下は公爵をお疑いになっていらっしゃるんです?」

 私は殿下の顔色を伺いつつ、おずおずと尋ねてみた。こういうことははっきり聞いておきたい。

「可能性の一つとしては排除しきれないとは思っている。だが、確証があるわけではない。今回の件で、君の聞き取りが中止になった。公爵は君が取り調べを避けるために毒を飲んだのではないかと言ってきた。おそらく、疑いの目が自分に向くことは承知しているのだろう」

「それって、つまり私の自作自演だと?」

「ああ……だが、その噂はすでに広まってしまっている」

「えっ、そんなに早く!?」

 いくら、王宮内での出来事はあっという間に社交界に広がるとはいえ、あまりにも早すぎる気がする。

「故意に流させているのだろうな」

 なんてこと。それじゃあ、私は事実を隠蔽するために自ら毒をあおって取り調べから逃げ出した卑怯な王太子妃というふうに見られているわけだ。ますます悪女っぽいイメージがついてしまっている気がして、もはや笑う他ない。こうなったら本当に、権力を思う存分ふるって君臨する、希代の悪女を目指し、潔く処刑台の露と消えてやろうかしら。なんて、自暴自棄になっている場合ではない。


 それに、私では権力を振るったところで、大した悪事も思いつきはしない。とびきりおいしいバターたっぷりのサクサク焼き立てクロワッサンをたんまり食べたいということくらいしか欲望はないのだ。しがない田舎貴族の娘なのだから、暴君になるような度胸も図太さもない。こうなったら、本格的に国外逃亡計画を練ろう。うん、私にはそっちの方が現実的だ。


「とにかく、子爵家に戻ることと、護衛に騎士様をつけていただく件は了承いたしました。お父様にお手紙を書いて早急に準備していただくことにします」

「ああ、そうしてくれ。すまない……面倒をかける。君をこんな目に遭わせるなど、私の落ち度だ」

「いいえ、殿下のせいではありませんよ。お気になさらず。それより、最近寝不足気味でしょうし。しっかりお休みになってください。殿下が体調を崩される方が、私のことなんかよりも一大事なのですから」

 私は緩い笑みを浮かべて、ヒラヒラと手を振る。むしろ、子爵家に戻れるのだからラッキーだったとくらいだ。これで、息の詰まる王宮の生活から解放される。アンリエットとジェーンにもすぐに手紙を書かないと。あまり喜んでいるように見えないように注意しなければ、本当に自作自演だと言われてしまう。

 私はギュッと唇を引き結ぶ。殿下は不意に腰を浮かせると私に顔を寄せてきた。


 えっ、あれ?

 顔が近いことに困惑している間に、柔らかな感触のものが額に触れる。掠めるようなほんの一瞬だ。頬に添えられていた殿下の大きな手が離れまで、私はまたバカみたいに間抜けなガチョウ顔でポカンしてしまっていた。

「えっ、あ、の……殿下!?」

 額に手をやって驚くと、彼はすぐに横を向いてしまった。「私はもう少し執務が残っているから、君は先に寝ているといい」と、言い残して足早に扉に向かう。


「殿下……お休みなさい!」

 私が焦って声をかけると、扉の前で立ち止まった殿下が少しだけ振り返る。

「ああ。お休み」

 顔ははっきり見えなくて、彼はそのまま隣の書斎に入っていき扉を閉めた。その音が消えると、妙に室内が静かに感じた。

 おでこにキス――は、家族のキスよね?

 私は額にそっと触れる。うん、ただの親愛を示す挨拶のキスだ。驚くほどのことではない。

 あのローマンだって、帰り際には時々私の頬や額にキスをした。たいした意味のないキスだった。彼にとっても私にとっても。それなのに、どうしてだろう。

  

 今のキスはなんだか、優しくて触れたところからじわりと広がる熱が心地良く広がっていくうようだった。今まで、一緒のベッドで寝ていてもお休みのキスなんてしなかったのに。殿下の考えていることも、気持ちも私にはさっぱり分からない。ただ、彼は今でもこうして自分の妻として扱ってくれる。


「ううん、殿下はずっとそうだったわ……」

 結婚式の当日から、ずっといきなり連れてこられたよく知りもしない田舎貴族の娘を、丁重に扱ってくれた。愛想はなかったけれど。


 子爵家に戻ればしばらくは殿下とも会えないだろうし、彼の腕枕で寝ることもできなくなる。

 ゆっくり眠れるだろうかと、なんだか変なことを心配してしまった。枕が変わると眠れなくなると言うし。

「殿下を枕代わりにするなんて、不敬も甚だしいわ!」 

 私は独り言を漏らして、もう一度上掛けの中に潜り込む。


 その三日後、私は王宮の馬車に乗って懐かしい我が家、王都にある子爵家の屋敷に戻ることになったのである。




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