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29 闇の抱擁

 彩華は闇帝に話していないことがたくさんある。

 それは意図しての隠し事というよりは、闇帝が求めないから語らないことであったし、彩華が必要ないと思ったから話さない数々のことだった。

 だけど、たった一つ。

 それは、たった一つ、明らかに彩華が隠そうとして黙したことであったし、悪意ある嘘と呼ぶべきものだっただろう。

 そうではないと。

 これは違うのだと。

 いくら誤魔化しの言葉を重ねたところで、彩華は己のために、その嘘をつき続けていた。

 それが事実だ。

 そして、彩華がつき続けていた嘘は、昨夜、闇帝によって暴かれた。


 彩華が薬で珪心に罠をしかけたあの日。

 彩華は最後の最後で珪心の呪縛を解いた。

 己の身が惜しかったわけではない。

 だが、たった一つの珪心の言葉が、押さえつけていた良心を抉り出し、彩華を(とど)めた。

 「清夢様」

 珪心は、彩華の燻らせた香と飲み物に混ぜた薬で、理性を奪われ、自我を失いながら、それでも救いを求めるようにその名を幾度と呼んだのだ。

 その指は彩華の髪を乱して掴み、その腕は彩華の身をかき抱きながら。

 最後の望みであろう名を呻くように、何度も何度も繰り返した呼び続けた。

 その瞬間、彩華は手にしていた最後の媚薬と一滴の血を香炉に入れるのを止めた。

 そして、まるで彩華の逡巡を見透かすように、目の前に月待草の花弁が一枚落ちていたのだ。

 闇帝との契約を忘れた訳ではない。

 己がそれを望む理由も。

 ただ、繰り返されるその名に、それ以上、珪心の心を嬲る事は彩華にはできなかった。

 すがるような思いで、月待草を手に取り、媚薬の代わりにそれを香炉にくべたのだった。


 言い訳が許されるならば、そうと思わせる状況が作り上げられたことは、彩華の意図したことではなかった。

 珪心を陥れるために、彩華が己の持てる知識を駆使し、念入りに幾重にも重ねて張り巡らした罠。

 彩華自身はある程度の理性を保たせるために解毒の作用がある薬を先に含んではいたが、それでも、一人の男を絡めとらんと仕掛けた香りの鎖は、少なくない影響を彩華の身にも及ぼしていた筈だ。

 だから、一滴を滴らすがための傷で良いものを、手元が狂って大きな傷を作ることにもなったのだ。

 そこに本来は燻ぶらせては使わない月待草を交わらせたことが、二人にどのように作用したのかを、確かめる探求心が今の彩華にあろう筈がない。

 ただ、先に意識を失った珪心をどうとすることもできず、結局はあの場で気を失ったのであろうことは理解している。

 そして、目が覚めた時には、清夢と闇帝がそこに在った。

 彩華は珪心が何らの罪を犯していないことを理解していた。

 だが、珪心はそうと思い込んだ。

 それは、彩華にとっても想定外だったのだ。

 薬の残骸でうまく動かない体と思考の中、それでも、己が主君と愛しい娘を前にした男が、明らかに狼狽しているのを感じ取り。

 記憶がないのであろうことを察し。

 主君の妃に無体を働いたと誤解した男のそれを、彩華は利用した。

 なんて、身勝手なのか。

 珪心の罪悪感を、清夢の絶望を。

 そして、闇帝との契約でさえ。

 弄ぶかのように、彩華は己の願いのために、すべてを利用した。


 もう終わりにしても良いだろうか。

 いや、もっと早く終わらせるべきだった。

 そう、唯一の宝である彩雪を失ったときに。

 ただ一つの望みさえが、果たされないことを悟った時に。

 あの瞬間から、彩華の願いは儚く散り去り、同時に、束縛するものもなくなったのだから。

 その筈、なのだから。


 彩華は立ち上がった。


 もう、いいだろう。

 

 薬箱を手に取る。


 もう、何もない。

 最後の嘘も、暴かれた。

 あの王は知っただろう。

 彩華は王を欺いて、正妃に収まった。

 王の償いなど不要であったのだ、と。

 王は彩華を切り捨てるだろうか。

 それを望んでいた筈なのに。


 どうして、私は、もう味わうことのないだろうと思った絶望を、今、再び感じているのか。 


 薬箱を開けば、ふわりと鼻腔に届くのは懐かしいような薬草の香り。

 いつか闇帝の傷を手当した傷薬や包帯。

 それらを脇に寄せて、二重になっている底を開く。


 それは何のために忍ばせたのであったか。

 王を屠る考えなど、露ほどもなかった。

 ならば、きっと。

 今が、彩華がそれを使うと想像した瞬間ではないか。

 ほんの一つばかり、想像とは違う想いと絶望があったとしても。


 小さな丸薬は1粒で意識を混濁させ、2粒で呼吸困難を招く。

 確実に望むならば、ここにある3粒すべてを。

 

 彩華は手のひらにそれを乗せた。

 迷いなく、口元に運んだ時。


「だめ!」

 知らない声が響いた。

「だめ!」

 彩華よりも細い指先が、禍々しいそれを乗せた手のひらをグイっと引っ張る。

「正妃様、だめ」

 小さな体が全身で彩華を止めようと。 

「……朝月?……」

 初めて聞くそれは少女の声だった。

 少女はそれが何かを知る由もないのに、彩華の手を掴んで必死に首を振る。

 禍々しいそれが少女に触れぬようにと、彩華が拳にそれを握りこめば、なおも細い指でそれを開けと促した。

「……だめ……正妃様、だめ」

 ポロポロと少女の瞳から雫が零れる。

 これは何の涙なのか。

 いつかみたあれは、清夢の絶望の涙。

 彩雪は、死の淵にあって、どんな涙を流したのだろうか。

 ただ、今、目の前でハラハラと落ちる粒は。

 きれいだな、と。

 これは、彩華を思って流れている涙なのだろうか。

 烏滸がましいとも言える考えだ。

 それでも、そうなのだろうと思い至った刹那、彩華の体から力が抜けた。

 すとんと腕が下がり、解かれた手のひらから薬が転がり落ちた。

 コロコロと転がっていくそれの行方を追うこともなく、己にしがみついて「だめだ」と繰り返す少女を見つめていれば。

「俺には効かぬが……お前には効くのだったな」

 まったく気配を感じさせない男の、しかし、その声は張るでもないのに、恐ろしいほど冴え冴えと空に響いた。

 彩華は声の主を見やることもできずに縋りつく朝月に、自ら縋って抱きしめた。

「……俺の狼藉が……お前に死を選ばせるか?」

 彩華は首を振った。

 違う。

 昨夜のあれは王の狼藉ではなく、そして、彩華が死を選ぶ理由でもない。

「もう、何もないのです」

 私にとっての唯一は、消えてしまったのだ。

 その筈、だ。

 だから。

「もう、立っていられない……生きている意味がない」

 彩雪がいない、のだから。

「……っ私、正妃などになりたくありませんでした!でも、あの娘に少しでも長く生きていてほしかったのです!……だから、ここに来ました! 嘘をついても誰を裏切っても正妃という地位が欲しかったのです!」

 でも、もう彩雪はいない。

 私が守るべきものは、もう、消えてしまった。

「あの娘がいないのに……」

 だから、ここにいる意味なんてない。

「なのに……ここに在りたいと願う私がいるのです……」

 生きる意味がない、と思いながら。

 なのに、少しでも。

 側にいたかったのだ。

 王を欺いていたことが知れるまで、生きながらえた身のなんておぞましい。

 消えてしまえば良い。

 それは本気の願い。

 願わくば、髪一筋残さぬほどに。

 それができないのならば。

 せめて、この広い城の片隅で、闇帝が築いた骸の一つと積み上げられれば良いものを。

 衣擦れの音がする。

 縋った少女が身じろぎ、そして、細い腕が彩華の背中をぎゅっと抱きしめたのを感じる。

「……正妃様……が、好きです」

 少女は掠れた声で呟いた。

「……いろいろと教えてくれて、苦しい時に抱きしめてくれて……どこにも行かないで、ここにいて欲しいです」

 拙い言葉で告げられる純粋な好意。真摯な願い。

 それは己に相応しいものではないのに。

 傍らにその人が膝をつく。

 漆黒が、お互いに縋って離れない二人を包みこむ。

「華」

 全てを奪う、独裁者の腕は、今はまるで彩華が厭う全てを遠ざけるように。

 力強い闇が彩華を囲い込む。

「あの小さな村で、あの娘と二人で少ない日々を過ごせば良かった」

 美しいドレスも、贅沢な食事も、何もなくても。

 二人で身を寄せ合って、穏やかにその時を待てば良かった。

「華」

 そうすれば、たくさんの人を傷つけることもなかった。

 何よりも。

「結局……一人で死なせてしまったのです」

 行かないで、と。

 側にいて、と。

 せめて、その願いだけを叶えれば。

「……彩華」

 深く閉ざされるばかりの闇にも思えたそこに、うっすらと光が差す。

「お前が俺に情愛を教えたのだ」

 無骨な指先が、思いがけず柔らかく彩華の頬を辿る。

 促されて見上げたそこには、相変わらず表情のない面があった。

「……珪心への敬愛を、清夢への慈愛を……お前が俺に教え、俺はようやくあれらに向き合うことができたのだ」

 相変わらず表情に乏しい王は、それでも、一言一言を噛みしめるように、知らしめるように。

「お前が……俺を変えた」

 再び引き寄せらて抱きしめれる。

「……清夢は珪心の元で幸せになるだろう。お前がそう導いた。朝月も夕月も涼風も……この城の者たちはお前が正妃であることに……俺の側に在るべきと疑っておらぬ」

 朝月を見れば、顔を涙にぐちゃぐちゃにしながらも、男の言葉に必死に頷いている。

「……何より、俺が……」

 目の前の男が近づく。

 だが、今度は闇に閉ざされることはなかった。

 闇帝が大きな体で縋るように彩華を抱きしめるから。

 肩越しに見える朝月は、ポロポロと涙を流し続けている。

「お前がここを出たいと請うても……死さえ望んでも」

 その向こうには夕月と涼風が呆然と立っていた。

「……俺がお前を側に置きたいと願うのだ。誰にも……お前自身であっても邪魔はさせぬ」

 こんなこと、許される筈がないのに。

 彩華は自分の腕が、その人を抱きしめることを止められない。

 もしかしたら、これは、また罪を重ねることになるのかもしれない。

 それでも、彩華を優しく奪うこの闇に身を委ねることが許されるだろうか。

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― 新着の感想 ―
[良い点] はじめまして、以前からこのお話も大好きで繰返し読ませていただいてます。 美しく切なく壮絶な世界と人達の想いを、夢中になってうっとり浸っております。 とうとう彩華さまと闇帝さまが想いを言葉に…
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