第2話 俺なら、そんなことはしない
その日の夜、家に帰ってからも、駅前での出来事が頭から離れなかった。夕食を食べている間も、風呂に入っている間も、何度も同じ場面を思い出していた。右へ行くつもりだった。なのに、足は左へ向かった。たったそれだけのことだ。考えすぎだと思う。疲れていたのかもしれない。仕事で頭がぼんやりしていたのかもしれない。あるいは、自分では気づいていなかっただけで、何か左側に用事があったのかもしれない。理由なんて、いくらでも考えられる。
「……くだらないな」
そう呟いて、俺はベッドに横になった。スマホを見る。時刻は二十三時四十七分。明日は朝から仕事がある。さっさと寝よう。そう思ってスマホを置いた。
けれど、目を閉じても眠れなかった。頭の中に、子どもの頃の記憶が浮かんでくる。この世界はゲームなんじゃないか。あの頃は、そんなことを本気で考えていた。眠ることがセーブで、起きることがロード。人生で起こる出来事はイベント。死んだらゲームオーバー。子どもの妄想だ。今ならそう思える。けれど、今日の一歩だけは妙に引っかかっていた。自分の意思で歩いたはずなのに、自分が選んだという感覚がなかった。
「……そんなこと、あるか?」
独り言が部屋に響いた。当然、返事はない。俺は目を閉じた。そのまましばらくして、ようやく眠りについた。
翌朝、目覚ましが鳴る少し前に目が覚めた。時計を見ると、午前六時十二分。いつもより早い。
「珍しいな」
眠気はほとんどなかった。顔を洗い、着替え、簡単に朝食を済ませる。家を出て駅へ向かう途中、昨日の交差点を通った。昨日と同じ信号。昨日と同じ道。ただ、今日は迷わなかった。右へ進む。それだけだった。
「やっぱり昨日は疲れてただけか」
そう思った。昨日のことなんて、もう忘れよう。そう決めた。
その日の仕事は特に変わったこともなく終わった。帰宅して、夕食を食べる。テレビをつける。ニュースが流れている。誰かが事故に遭ったという話、新しい店がオープンしたという話、スポーツの結果。どれも自分には関係ない。普通の一日だった。だから、そのときまでは何も気にしていなかった。
スマホが鳴った。
友人からのメッセージだった。
『今週の日曜、暇?』
俺は画面を見ながら考えた。特に予定はない。
『暇だけど』
そう入力して、送ろうとした。
その瞬間、指が止まった。
なぜか、返信したくなくなった。理由はない。ただ、「行かないほうがいい」という感覚があった。俺は少し迷った。そして、結局こう返信した。
『ごめん。日曜は予定ある』
送信。
自分でも驚いた。
「……なんで?」
予定なんてない。友人との付き合いが嫌なわけでもない。むしろ、暇だったから誘われたら普通に行くつもりだった。なのに、断った。しかも、嘘までついた。
スマホを置く。
嫌な感じがした。
昨日と同じだった。自分で選んだ。確かに、自分の指で文字を打って送信した。それなのに。
「俺なら、そんなことしないだろ」
口に出した瞬間、背中が少し寒くなった。
昨日の一歩。
今日の返信。
二日続けて、自分でも理解できない行動をしている。
偶然だ。
そう思おうとした。でも、昨日のことを思い出してしまう。子どもの頃に考えていた、馬鹿げた話。この世界にはプレイヤーがいる。自分たちは、そのプレイヤーに操作されている。
「……まさかな」
笑った。
そんなわけがない。もし本当に誰かが俺を操作しているなら、もっと分かりやすいはずだ。自分の意思と関係なく歩いたり、突然何かを喋ったり。そんなことが起きるはずがない。
俺はそう考えて、スマホを伏せた。
その直後。
スマホがもう一度震えた。
さっきの友人からだった。
『そっか。じゃあまた今度な』
それを見て、俺は少しだけ安心した。けれど、その直後、別のメッセージが届いた。
知らない番号だった。
『日曜日は家にいてください』
一瞬、意味が分からなかった。
誰だ。
悪ふざけか?
間違いだろう。
そう思った。
けれど、画面を見つめているうちに、指先が冷たくなっていった。
日曜日。
俺が嘘をついて予定があると言った日。そして、昨日から何となく避けようとしていた日。
「……なんで?」
メッセージは、それだけだった。
俺は返信しようとした。誰なのか聞こうとした。しかし、指が動かなかった。
まただった。
自分の意思では動かしているはずなのに、動かしたくない。返信したくない。そんな感覚だけが、はっきりと残っている。
そして画面を見つめながら、俺はふと思った。
もし、本当に誰かが俺を操作しているのなら。
そいつは、俺が何をするかだけじゃなく、俺が何をしないかまで、決められるんじゃないか。
その瞬間、スマホの画面が一度だけ暗くなった。
そして、何も操作していないのに、画面の中央に小さな文字が浮かんだ。
『セーブしますか?』
俺は息を止めた。
次の瞬間には、画面は元に戻っていた。
何事もなかったように。
俺はスマホを握ったまま、しばらく動けなかった。




