立ち退きの夜
夜の古ビルは、音が遅れてくる。誰かが歩くと階段の軋みが数拍遅れて追いかけてきて、壁の奥で咳き込むみたいに響く。
結城修吾の車が、ビル前の路肩で止まった。
「ここだ。立ち退き交渉中の古ビル。今夜、放火未遂」
「未遂で済んだの、えらいじゃん」
俺が言うと、結城が横目で睨む。
「褒めてんじゃねえ。次があるって意味だ」
誠司くんが助手席から降りた。ライトを足元に落として、燃え跡の位置を先に見る。動きが無駄なく、冷たい。
「被害者」
誠司くんが短く言う。
「長尾慎。ビルの管理側。誠実で頑固。条件が不利でも正面から行くタイプだ」
「そういう人、狙われやすいよね」
結城が短く吐く。
「今夜は“狙い”が見えすぎる。補償条件を動かす匂いが濃い」
直斗が後ろで足元を見ながら歩いている。段差を恨む目。
「転ばないでね」
「はい。今日は転びません」
言った瞬間、躓きかけて持ち直した。今日は“未遂”が多い日だ。
入口には規制線。焦げた匂い。湿った消火剤の匂い。
「長尾は?」
「中です。軽い火傷。煙吸ってる。けど意識ははっきりしてます」
三階の一室。古い事務所。机の上だけがやけに整っている。長尾慎は、煙の匂いの中で妙に落ち着いて見えた。
「結城さん」
長尾は深く頭を下げた。声が静かで、目が真っ直ぐだ。
「ご迷惑を…」
「迷惑は後だ。状況を言え」
結城が遮る。
長尾は頷いた。
「一階の階段下で、灯油の匂いがしました。すぐ見に行ったら、紙と布が燃えかけていて。消火器で…」
「誰か見た?」
「いいえ。ですが——」
長尾は一瞬だけ言葉を止めた。
「交渉が…詰まっていました。今日も。立ち退きの補償条件で」
誠司くんが言った。
「交渉相手」
「このビルを借りているテナント代表が二人。金子亮さんと、相沢真一さん。あと…住人の相談役みたいに動く真鍋伸也さんがいます」
俺は名前を頭の中で並べた。金子、相沢、真鍋。全員、今夜ここにいる。
誠司くんが俺を見た。
「久世。余計なことはするな」
「分かってるよ。今日は誠司くんに任せる」
結城が舌打ちする。
「茶化すな」
「茶化してないよ。尊重してる」
「口が軽いんだよ」
その通り。
金子亮は、会った瞬間に声を荒げた。
「こっちだって被害者だろ! 焦げ臭いし、客は逃げるし! 誰が責任取るんだよ!」
強気で攻撃的。声が先に出るタイプだ。
相沢真一は、同じ空間にいても温度が違った。穏やかで常識人風。声が低く、言葉が整っている。整いすぎている。
「警察の方々も大変ですね。ですが、まずは安全の確保を」
「安全の確保はもうしてる。話をしろ」
結城がぶっきらぼうに返す。
真鍋伸也は廊下の端でそわそわしていた。世話焼きの顔。噂好きの顔。
「いやあ、ほんと怖いっすよね。ここ、古いから火が回ったら一気で…長尾さん、義理堅いからさ、絶対に逃げないんすよ」
「義理の話は後だ」
誠司くんが切る。
「全員、時間。今夜ここにいた理由を言え」
金子が言う。
「交渉だよ。俺の店、ここで十年やってんだぞ。移転なんて簡単じゃねえ。補償が少なすぎる」
相沢が続ける。
「私も同意見です。ただ、感情で決めると損をする。条件は丁寧に詰めるべきです」
真鍋が手を挙げる。
「俺は相談役。まあ、みんなの面倒見る係っすね」
俺は軽く言った。
「面倒見いい人、こういう時に疑われやすいよね」
真鍋が目を丸くする。
「え、俺?」
「冗談だよ。たぶん」
結城が睨む。
「お前は黙れ」
「はいはい」
誠司くんは燃え跡の写真を見て言った。
「放火未遂は一階の階段下。火種は紙と布。燃え広がらないよう配置されている。灯油は少量。致死目的ではない」
金子が噛みつく。
「は? じゃあ誰がやったんだよ!」
「目的は“火事”ではない。“火事未遂”だ。恐怖と記録が欲しい」
相沢が穏やかに言う。
「記録、ですか」
「火災報告。保険。補償条件。交渉材料」
金子の喉が小さく鳴った。
直斗が、うっかり口を滑らせた。
「でも、灯油って…購入履歴、すぐ追えますよね。近くのスタンド——」
「篠宮」
誠司くんが刺す。
「はいっ」
「余計なことを言うな」
「すみません!」
直斗は縮む。だが、その“余計なこと”が刺さる相手もいる。
金子が一瞬だけ目を泳がせた。相沢は微笑んだ。薄い微笑み。
結城のスマホが鳴る。短い通話。切って顔が歪む。
「……上か。分かった」
切る。
「財団絡みの匂いがすると“慎重に”だとよ。現場は燃えかけてんのに」
「慎重って便利だよね」
俺が言うと、結城が睨む。
「お前の口を慎重にしろ」
誠司くんは燃え跡の周辺を見た。
「階段下に火種を置いた人間は、ここを熟知している。消火器の位置も知っている」
廊下の壁際。消火器。使用済みなのに、元の位置に戻っている。
真鍋が言った。
「あ、それ俺っす。散らかってるの嫌で。戻しました」
誠司くんの声が硬くなる。
「触ったのか」
「触ったっていうか…持って…」
「現場を荒らしたのか」
結城が怒鳴りかけて、誠司くんが片手で止めた。
「結城。今はいい」
硬いのに、内容が少し優しい。
誠司くんが続ける。
「真鍋。戻したのは何時だ」
「騒ぎのあと、すぐっす」
「誰かに見られたか」
「いや、たぶん…」
「たぶんは要らない」
相沢が柔らかく言う。
「橘さん。責めるのは得策ではないですよ。混乱していたのですから」
誠司くんが相沢を見る。
「混乱していたなら、なぜ言葉が整っている」
相沢は一瞬止まって、笑った。
「職業柄です。普段から、整った話し方をしています」
「整っていること自体が問題ではない。整いすぎている」
誠司くんは燃え跡をもう一度見た。
「火は“見せたい程度”で止めている。恐怖を作り、交渉材料を作る。なら犯人は、交渉で得をする者だ」
金子が叫ぶ。
「俺は損してる! 店が燃えかけたんだぞ!」
「損は演出できる」
誠司くんが言う。
金子の強気が剥がれる。
相沢が穏やかに言う。
「なら、誰が得をするのですか」
誠司くんが答える。
「条件変更を引き出せる者。火事未遂を理由に補償を上げさせる者。保険を動かす者」
金子が噛みつく。
「証拠は? 証拠があんのかよ!」
「ある」
誠司くんは階段下の壁を指した。
「灯油が垂れた跡。拭いた跡もある。拭いた布はどこだ」
真鍋が首を振る。
「知らないっす」
誠司くんは金子を見る。
「金子。あなたの店に、同じ匂いが残っている」
「は? 俺の店?」
「あなたはさっき『焦げ臭い』と言った。だが店の中は燃えていない。階段下の燃え跡から店へは風が逆だ。店内で断言できるのは、店内に原因があるからだ」
金子の口が開いて、閉じて、また開く。
「煙が回っただけだろ!」
「煙は上に回る。あなたの店は一階だ」
誠司くんが言い切る。
結城が歯噛みする。
「令状は通らねえ」
「任意でいい。店内の消火器と清掃用品を確認する」
誠司くんが言った。
結城が頷く。
「……分かった。俺がやる」
直斗が勢いよく言う。
「僕も行きます!」
「篠宮」
「はいっ」
「走るな」
「はいっ」
走りかけて止まった。えらい。
金子の店の裏。清掃用具入れの奥に、湿った布が入ったビニール袋があった。灯油の匂い。焦げた紙片。
結城が低く言う。
「出たな」
金子は肩を震わせた。
「違う! 俺じゃねえ!」
誠司くんが言う。
「なら説明しろ」
「誰かが入れたんだよ! 俺をハメた!」
相沢が静かに言う。
「ほら。第三者の可能性もある。あなたの断定は危険です」
誠司くんは相沢を見て短く返す。
「あなたは、なぜ守る」
相沢の微笑みが、ほんの一瞬だけ薄くなる。
「常識です。人を疑うには、手続きが必要だ」
「手続きは踏む。だが、あなたの言葉は“守るため”ではない。“逃がすため”だ」
空気が冷える。
俺は、ちょっとだけ口を出す。ちょっかい程度。
「相沢さん、優しいね。棘がない」
相沢が俺を見る。
「ありがとうございます」
「その優しさ、誰に向いてるの?」
相沢の目がほんの少しだけ細くなる。
金子が叫んだ。
「俺は! 補償を上げたかっただけだ! このままじゃ潰れるんだよ!」
自白に近い声。
誠司くんが即座に固める。
「条件変更狙いの自作自演。未遂にして交渉材料にする。動線も火種も、全部そうだ」
結城が息を吐く。
「……終わったな」
金子は崩れ落ちた。強気が全部抜ける。
相沢はまだ、穏やかだった。常識人の顔のまま。
「残念ですね。ですが、これで交渉は——」
俺は相沢に言った。
「相沢さん、今『これで交渉は』って言いかけたよね。まだ終わってないのに。未来が見えてる感じ、怖いよね」
相沢の口が止まった。
誠司くんが硬い声で言う。
「相沢。あなたは条件変更の話を、誰より先に知っている。なぜだ」
相沢は穏やかに言う。
「関係者ですから」
「関係者の範囲が広すぎる」
誠司くんが切る。
結城が吐き捨てる。
「相沢。背後に誰がいる。財団の“相談員”か。コンサルか」
相沢は微笑んだまま、答えない。丁寧な拒否。
夜が明ける前。結城が押収した資料の中に、再開発計画図があった。
紙は普通だが、端に押された社印がやけに綺麗だった。関連会社の社印。聞き覚えのない会社名。
誠司くんが言った。
「繋がっている」
俺は頷く。
「丁寧にね」
結城が吐き捨てる。
「上は“慎重に”だとよ」
誠司くんは短く言った。
「慎重に進める。だが、止まらない」
硬い声。だけど、守る内容。
俺は笑った。
「今の、棘がないね」
「棘がないわけじゃない。事実だ」
東京の夜は、綺麗だ。
綺麗なものほど、よく燃える。




