表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
探偵・久世朔  作者: 九重有
東京開発事件簿

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/17

立ち退きの夜





 夜の古ビルは、音が遅れてくる。誰かが歩くと階段の軋みが数拍遅れて追いかけてきて、壁の奥で咳き込むみたいに響く。


 結城修吾の車が、ビル前の路肩で止まった。


「ここだ。立ち退き交渉中の古ビル。今夜、放火未遂」


「未遂で済んだの、えらいじゃん」


 俺が言うと、結城が横目で睨む。


「褒めてんじゃねえ。次があるって意味だ」


 誠司くんが助手席から降りた。ライトを足元に落として、燃え跡の位置を先に見る。動きが無駄なく、冷たい。


「被害者」


 誠司くんが短く言う。


「長尾慎。ビルの管理側。誠実で頑固。条件が不利でも正面から行くタイプだ」


「そういう人、狙われやすいよね」


 結城が短く吐く。


「今夜は“狙い”が見えすぎる。補償条件を動かす匂いが濃い」


 直斗が後ろで足元を見ながら歩いている。段差を恨む目。


「転ばないでね」


「はい。今日は転びません」


 言った瞬間、躓きかけて持ち直した。今日は“未遂”が多い日だ。


 入口には規制線。焦げた匂い。湿った消火剤の匂い。


「長尾は?」


「中です。軽い火傷。煙吸ってる。けど意識ははっきりしてます」


 三階の一室。古い事務所。机の上だけがやけに整っている。長尾慎は、煙の匂いの中で妙に落ち着いて見えた。


「結城さん」


 長尾は深く頭を下げた。声が静かで、目が真っ直ぐだ。


「ご迷惑を…」


「迷惑は後だ。状況を言え」


 結城が遮る。


 長尾は頷いた。


「一階の階段下で、灯油の匂いがしました。すぐ見に行ったら、紙と布が燃えかけていて。消火器で…」


「誰か見た?」


「いいえ。ですが——」


 長尾は一瞬だけ言葉を止めた。


「交渉が…詰まっていました。今日も。立ち退きの補償条件で」


 誠司くんが言った。


「交渉相手」


「このビルを借りているテナント代表が二人。金子亮さんと、相沢真一さん。あと…住人の相談役みたいに動く真鍋伸也さんがいます」


 俺は名前を頭の中で並べた。金子、相沢、真鍋。全員、今夜ここにいる。


 誠司くんが俺を見た。


「久世。余計なことはするな」


「分かってるよ。今日は誠司くんに任せる」


 結城が舌打ちする。


「茶化すな」


「茶化してないよ。尊重してる」


「口が軽いんだよ」


 その通り。




 金子亮は、会った瞬間に声を荒げた。


「こっちだって被害者だろ! 焦げ臭いし、客は逃げるし! 誰が責任取るんだよ!」


 強気で攻撃的。声が先に出るタイプだ。


 相沢真一は、同じ空間にいても温度が違った。穏やかで常識人風。声が低く、言葉が整っている。整いすぎている。


「警察の方々も大変ですね。ですが、まずは安全の確保を」


「安全の確保はもうしてる。話をしろ」


 結城がぶっきらぼうに返す。


 真鍋伸也は廊下の端でそわそわしていた。世話焼きの顔。噂好きの顔。


「いやあ、ほんと怖いっすよね。ここ、古いから火が回ったら一気で…長尾さん、義理堅いからさ、絶対に逃げないんすよ」


「義理の話は後だ」


 誠司くんが切る。


「全員、時間。今夜ここにいた理由を言え」


 金子が言う。


「交渉だよ。俺の店、ここで十年やってんだぞ。移転なんて簡単じゃねえ。補償が少なすぎる」


 相沢が続ける。


「私も同意見です。ただ、感情で決めると損をする。条件は丁寧に詰めるべきです」


 真鍋が手を挙げる。


「俺は相談役。まあ、みんなの面倒見る係っすね」


 俺は軽く言った。


「面倒見いい人、こういう時に疑われやすいよね」


 真鍋が目を丸くする。


「え、俺?」


「冗談だよ。たぶん」


 結城が睨む。


「お前は黙れ」


「はいはい」


 誠司くんは燃え跡の写真を見て言った。


「放火未遂は一階の階段下。火種は紙と布。燃え広がらないよう配置されている。灯油は少量。致死目的ではない」


 金子が噛みつく。


「は? じゃあ誰がやったんだよ!」


「目的は“火事”ではない。“火事未遂”だ。恐怖と記録が欲しい」


 相沢が穏やかに言う。


「記録、ですか」


「火災報告。保険。補償条件。交渉材料」


 金子の喉が小さく鳴った。


 直斗が、うっかり口を滑らせた。


「でも、灯油って…購入履歴、すぐ追えますよね。近くのスタンド——」


「篠宮」


 誠司くんが刺す。


「はいっ」


「余計なことを言うな」


「すみません!」


 直斗は縮む。だが、その“余計なこと”が刺さる相手もいる。


 金子が一瞬だけ目を泳がせた。相沢は微笑んだ。薄い微笑み。


 結城のスマホが鳴る。短い通話。切って顔が歪む。


「……上か。分かった」


 切る。


「財団絡みの匂いがすると“慎重に”だとよ。現場は燃えかけてんのに」


「慎重って便利だよね」


 俺が言うと、結城が睨む。


「お前の口を慎重にしろ」





 誠司くんは燃え跡の周辺を見た。


「階段下に火種を置いた人間は、ここを熟知している。消火器の位置も知っている」


 廊下の壁際。消火器。使用済みなのに、元の位置に戻っている。


 真鍋が言った。


「あ、それ俺っす。散らかってるの嫌で。戻しました」


 誠司くんの声が硬くなる。


「触ったのか」


「触ったっていうか…持って…」


「現場を荒らしたのか」


 結城が怒鳴りかけて、誠司くんが片手で止めた。


「結城。今はいい」


 硬いのに、内容が少し優しい。


 誠司くんが続ける。


「真鍋。戻したのは何時だ」


「騒ぎのあと、すぐっす」


「誰かに見られたか」


「いや、たぶん…」


「たぶんは要らない」


 相沢が柔らかく言う。


「橘さん。責めるのは得策ではないですよ。混乱していたのですから」


 誠司くんが相沢を見る。


「混乱していたなら、なぜ言葉が整っている」


 相沢は一瞬止まって、笑った。


「職業柄です。普段から、整った話し方をしています」


「整っていること自体が問題ではない。整いすぎている」


 誠司くんは燃え跡をもう一度見た。


「火は“見せたい程度”で止めている。恐怖を作り、交渉材料を作る。なら犯人は、交渉で得をする者だ」


 金子が叫ぶ。


「俺は損してる! 店が燃えかけたんだぞ!」


「損は演出できる」


 誠司くんが言う。


 金子の強気が剥がれる。


 相沢が穏やかに言う。


「なら、誰が得をするのですか」


 誠司くんが答える。


「条件変更を引き出せる者。火事未遂を理由に補償を上げさせる者。保険を動かす者」


 金子が噛みつく。


「証拠は? 証拠があんのかよ!」


「ある」


 誠司くんは階段下の壁を指した。


「灯油が垂れた跡。拭いた跡もある。拭いた布はどこだ」


 真鍋が首を振る。


「知らないっす」


 誠司くんは金子を見る。


「金子。あなたの店に、同じ匂いが残っている」


「は? 俺の店?」


「あなたはさっき『焦げ臭い』と言った。だが店の中は燃えていない。階段下の燃え跡から店へは風が逆だ。店内で断言できるのは、店内に原因があるからだ」


 金子の口が開いて、閉じて、また開く。


「煙が回っただけだろ!」


「煙は上に回る。あなたの店は一階だ」


 誠司くんが言い切る。


 結城が歯噛みする。


「令状は通らねえ」


「任意でいい。店内の消火器と清掃用品を確認する」


 誠司くんが言った。


 結城が頷く。


「……分かった。俺がやる」


 直斗が勢いよく言う。


「僕も行きます!」


「篠宮」


「はいっ」


「走るな」


「はいっ」


 走りかけて止まった。えらい。






 金子の店の裏。清掃用具入れの奥に、湿った布が入ったビニール袋があった。灯油の匂い。焦げた紙片。


 結城が低く言う。


「出たな」


 金子は肩を震わせた。


「違う! 俺じゃねえ!」


 誠司くんが言う。


「なら説明しろ」


「誰かが入れたんだよ! 俺をハメた!」


 相沢が静かに言う。


「ほら。第三者の可能性もある。あなたの断定は危険です」


 誠司くんは相沢を見て短く返す。


「あなたは、なぜ守る」


 相沢の微笑みが、ほんの一瞬だけ薄くなる。


「常識です。人を疑うには、手続きが必要だ」


「手続きは踏む。だが、あなたの言葉は“守るため”ではない。“逃がすため”だ」


 空気が冷える。


 俺は、ちょっとだけ口を出す。ちょっかい程度。


「相沢さん、優しいね。棘がない」


 相沢が俺を見る。


「ありがとうございます」


「その優しさ、誰に向いてるの?」


 相沢の目がほんの少しだけ細くなる。


 金子が叫んだ。


「俺は! 補償を上げたかっただけだ! このままじゃ潰れるんだよ!」


 自白に近い声。


 誠司くんが即座に固める。


「条件変更狙いの自作自演。未遂にして交渉材料にする。動線も火種も、全部そうだ」


 結城が息を吐く。


「……終わったな」


 金子は崩れ落ちた。強気が全部抜ける。


 相沢はまだ、穏やかだった。常識人の顔のまま。


「残念ですね。ですが、これで交渉は——」


 俺は相沢に言った。


「相沢さん、今『これで交渉は』って言いかけたよね。まだ終わってないのに。未来が見えてる感じ、怖いよね」


 相沢の口が止まった。


 誠司くんが硬い声で言う。


「相沢。あなたは条件変更の話を、誰より先に知っている。なぜだ」


 相沢は穏やかに言う。


「関係者ですから」


「関係者の範囲が広すぎる」


 誠司くんが切る。


 結城が吐き捨てる。


「相沢。背後に誰がいる。財団の“相談員”か。コンサルか」


 相沢は微笑んだまま、答えない。丁寧な拒否。






 夜が明ける前。結城が押収した資料の中に、再開発計画図があった。


 紙は普通だが、端に押された社印がやけに綺麗だった。関連会社の社印。聞き覚えのない会社名。


 誠司くんが言った。


「繋がっている」


 俺は頷く。


「丁寧にね」


 結城が吐き捨てる。


「上は“慎重に”だとよ」


 誠司くんは短く言った。


「慎重に進める。だが、止まらない」


 硬い声。だけど、守る内容。


 俺は笑った。


「今の、棘がないね」


「棘がないわけじゃない。事実だ」


 東京の夜は、綺麗だ。

 綺麗なものほど、よく燃える。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ