善意の遺書
朝から誠司くんが静かだった。
静かっていうか、いつも静かなんだけど、今日は“より”静か。無口のプロ仕様。隣にいると、こっちの息づかいが雑に聞こえる。
俺はわざと軽く言う。
「誠司くん、今日、怒ってる?」
「怒っていない」
「じゃあ、寒い?」
「寒くない」
「じゃあ、眠い?」
「眠くない」
結城修吾が机を指で叩いた。
「お前、今それ聞いてる場合か」
「聞いてる場合じゃん。だって誠司くん、今日、棘がないね」
「棘がないとか言うな」
結城の眉間が深くなる。深くなると彫刻みたいで面白いけど、言わない。額を小突かれるのは、もう飽きた。
結城の後ろで、直斗が玄関の段差を見つめている。今日も段差と睨み合い。
「直斗くん、段差と和解した?」
「まだです。今日は慎重にいきます」
そう言いながら玄関マットを踏んで、すべりそうになって止まった。止まっただけでえらい。人間の成長はたいてい低い位置にある。
結城が茶封筒を置いた。中身が透けるくらい薄い。
「自殺だ」
その一言で、部屋の温度が落ちる。
「高瀬慎吾。支援を受けてた男。昨夜、自宅で首を吊って見つかった。遺書あり。遺書が綺麗すぎる」
誠司が目を上げる。
「綺麗すぎる」
俺は封筒を開けずに言った。
「遺書、読まなくても分かるよ。謝ってるでしょ?」
結城が嫌そうに顔をしかめる。
「……なんでわかる」
「丁寧な脅しの次は、丁寧な遺書じゃん? 東京、丁寧ブームきてるよね」
「久世。冗談は後だ。現場へ」
「はいはい」
「その返事、信用ならねえ」
結城が吐き捨てる。
現場は再開発エリアの外縁にある古い団地だった。廊下は暗い。階段は軋む。郵便受けはへこんでる。なのに玄関だけ新しい。ドアの塗り替え。二重の鍵。支援が入ってる家の匂いがする。
結城が鍵を開ける。
中は、やけに整っていた。
整っている、というより、整いすぎている。
「……あ」
直斗が声を漏らした。視線は床。転ばないために。偉いけど、事件も見ろ。
誠司が言う。
「全員、手袋。触るな」
「触らないよ。触ると怒られるじゃん」
「自覚があるなら直せ」
「努力はする」
誠司の目がわずかに細くなる。怒ってるというより、諦めに近い。
リビングの中央に椅子がある。ロープは撤去済み。警察が先に入っている。床に傷がない。椅子の位置が妙に真ん中。カーテンが左右対称。テーブルの上のコップの向きまで揃っている。
「真ん中で死ぬ人、あんまりいないよね」
「余計なこと言うな」
「余計じゃないって。配置って本音出るじゃん」
誠司が机の上の紙を見た。
「遺書だ」
紙は一枚。封筒付き。ペンも置いてある。ペンの向きまで揃ってる。
死ぬ直前の人間が、ペンの向きまで揃えるか。揃える余裕があるなら、呼べる。揃える余裕がないなら、揃わない。
俺は読む前に言った。
「これ、本人の癖じゃない」
「高瀬は几帳面だ」
結城が言う。
「几帳面と、舞台作りは違うよ」
誠司が遺書を読み上げる。
「『この度は皆様に多大なるご迷惑をおかけし、誠に申し訳ございません。支援を受けながらも、期待に沿うことができず――』」
直斗が眉をひそめる。
「遺書で、誠に申し訳ございません……」
誠司が続きを読む。
「『私の行動は自己責任です。関係者の皆様に責任はありません。どうかお許しください。』」
結城が紙を見て、顔を歪めた。
「責任はありません、って先に書くのが一番怪しい」
「先に守ってるよね。誰かを」
誠司が小さく頷く。
冷蔵庫の上に支援の書類ファイル。ラベルが綺麗。色分け。付箋。丁寧。これは暮らしの丁寧だ。日々が滲む。
でも遺書の丁寧は、手続きの丁寧だ。滲まない。
廊下で足音がした。
「失礼します。警察の方がいらっしゃると聞いて」
入ってきた男は深く頭を下げた。角度が綺麗。声も綺麗。スーツも綺麗。
望月康平。支援コーディネーター。
「ご遺族に代わり、手続きをお手伝いしておりました。支援担当の望月です」
結城がぶっきらぼうに言う。
「遺書、これか」
「はい。高瀬さんが残されたものです。高瀬さんは真面目な方でした。責任感で――」
「責任感で死ぬ人は、責任感で生きるじゃん」
望月が一瞬だけ目を瞬いた。すぐに微笑む。戻しが早い。
「探偵さん、ですね。失礼ですが、遺書に何か問題が?」
誠司が固い声で答える。
「問題は、丁寧すぎる」
「丁寧なのは高瀬さんの人柄では」
望月は丁寧に言う。丁寧に押してくる。
俺は望月に近づく。柔らかい声を使う。
「望月さん、字、綺麗だね」
「ありがとうございます」
「遺書の字も綺麗?」
「……拝見しました。綺麗でした」
「拝見したんだ」
結城が低く言う。
「家族より先に、支援担当が遺書を読むのか」
望月は動じない。
「ご遺族が動揺されていましたので、私が内容を確認し、必要な手続きを」
「手続き」
誠司がその単語を繰り返す。
「望月さん、手続き好きそうだよね」
「仕事ですから」
「仕事って便利だよね。何でも正当化できる」
望月の笑顔がわずかに薄くなる。ほんの一瞬。すぐ戻る。戻しが早い。癖だ。
直斗が部屋の隅で封筒を見ていた。珍しい。今日は転んでない。怖い。
「橘さん」
「何だ」
「遺書の封筒、糊が端まで均一です」
望月が一瞬だけ直斗を見る。目が鋭い。直斗がすぐ視線を逸らす。
誠司が封筒を手袋で持ち上げた。
「均一すぎる。癖が出ない」
望月が微笑む。
「丁寧に封をする方もいます」
「死ぬ前にそんな丁寧に封をする余裕があるなら、助けを呼べる」
誠司の声が少しだけ尖る。棘がある。今日はそれでいい。
結城が望月に言う。
「高瀬は最近、誰と揉めてた」
「揉めてなどいません。支援は円滑でした。皆、善意で」
「善意って凶器にもなるよね」
望月が薄く笑う。
「探偵さんは悲観的ですね」
「現場にいると、そうなるんだよね」
結城のスマホが鳴った。短い通話。切ってすぐ結城が言う。
「石井達也。近所の知人。昨日、相談に来た。高瀬が怯えてるって。今朝、石井にも紙が届いた」
「紙?」
「謝罪文だ。遺書みたいなやつ。丁寧に」
誠司が顔を上げた。
「行く」
「今すぐだ」
結城が言う。
望月が間に入ろうとする。
「石井さんには私から」
「いい。警察が行く」
結城が遮った。
石井の部屋は同じ団地の別棟だった。ドアを開けた男は目が鋭い。疑り深い顔。守るために疑う人間の顔。
「警察?」
「昨日来ただろ。石井。話の続きだ」
石井は俺と誠司を見て眉をひそめた。
「探偵まで連れてくるなよ」
「連れてきたんじゃないよ。ついてきただけ」
結城が睨む。
机の上に紙。謝罪文。遺書と似た匂い。似た丁寧。
「これが今朝届いた。俺に謝ってる。何を謝ってるのかも書いてない」
俺は読んで、息を吐いた。
「謝罪の形してるけど、脅しだね。『責任はあなたにありません』って」
石井が唇を噛む。
「責任はないって言われると、逆に怖い」
誠司が言う。
「責任を先に否定する文章は、責任がある状況で使われる」
結城が聞く。
「高瀬は何を持ってた。資料とか」
「知らない。けど……高瀬は『名簿』って言ってた。支援の名簿だって」
誠司の目が一瞬だけ鋭くなる。欠片が繋がった音。
「名簿、また出たね」
「笑うな」
「笑ってないよ。嫌になってるだけ」
石井が続けた。
「昨夜、団地の集会所で支援の説明会があるって言ってた。そこで話があるって」
「集会所、行くぞ」
集会所の壁には支援のポスター。丁寧な言葉。優しい言葉。笑顔の写真。
その隅に、望月康平の名前。
誠司が低い声で言う。
「これは支援ではない。管理だ」
「管理って言うと怒られるよね。棘がない人たちに」
「怒らせるなら俺がやる。お前は黙れ」
結城が言った。
直斗が入口付近の床を指差す。
「これ、紙の切れ端」
細い紙片。封筒の糊の部分みたいな切り方。
誠司が拾った。
「配布した封筒をその場で開けた痕跡。ここで同じ文面が配られていた可能性がある」
その時、誠司のスマホが鳴った。非通知。
「橘です」
短い沈黙。
「承知しました」
切る。
結城が顔をしかめた。
「上か」
誠司が言う。
「石井の件をこれ以上追うな、だそうだ」
直斗が固まる。
「そんな……」
「来たね」
俺が言った。
「善意って凶器だよね」
誠司が俺を見る。固い目。だけど、その奥が少しだけ柔らかい。
「久世。余計なことはするな」
「努力はする」
「努力では足りない」
「じゃあ、何する?」
誠司が言った。
「証拠を拾う。丁寧に」
その言い方が今日一番おかしくて、俺は危うく吹き出した。
「今の、棘がないね」
「棘がないわけじゃない。事実だ」
夜。事務所の机に遺書のコピーを置いた。文章の癖。丁寧の癖。謝り方の癖。
末尾の一行。
『関係者の皆様に責任はありません』
俺はそこで手を止めた。
この言い回し、見覚えがある。
物じゃない。紙の質でもない。文章の形だ。
“責任”という単語を先に否定して、相手の罪悪感を先に縛る。
謝罪のふりをして、逃げ道を塞ぐ。
俺は、指でその一文をなぞった。
「誠司くん。これ、前の件と同じだよね」
誠司が遺書を覗き込む。
「同じ“構文”だ」
「だよね。『自己責任です』『関係者に責任はありません』。順番まで同じ」
誠司が淡々と言う。
「書いた人間が同じか、作らせている人間が同じだ」
「丁寧さの種類が同じってことだよね」
誠司は答えない。ただ、視線を外さない。外さないのが答えだ。
遺書の端に、小さな印刷がある。
委託番号。
同じ番号。
ここまで丁寧だと、偶然じゃない。
丁寧は癖だ。癖は、同じ手に戻る。
誰かが選択肢を並べている。
善意の顔で。棘のない声で。
俺たちは、それを、丁寧に剥がす。




