拾ったのは欠片
弁護士事務所は空だった。
荒らされたように見える部屋と、やけに丁寧に貼られた「臨時休業」の紙だけが残っていた。
結城は舌打ちして、「次だ」と言った。
再開発の周りでは、事件が続く。
篠宮直斗が転ばずに事務所へ入ってきた朝は、だいたい良くない日だ。
人間って不思議で、失敗が続くと「今日もいつもの」って気持ちになるけど、成功が続くと「今日、何か起きる」って身構える。
俺はコーヒーを飲みながら直斗を見た。
「直斗くん、今日、歩き方が普通だね」
「はい。普通です」
「普通って、怖いね」
「え、怖いですか?」
直斗が真顔で返してくる。こういうとこ、可愛い。でも男だし、言わない。言ったら誠司くんが咳払いする。
誠司は言った。
「久世。無駄な会話は後にしろ」
「無駄じゃない。人間観察だよ。」
「君の趣味だ」
固い。朝から固い。豆腐が羨ましい。豆腐は柔らかいのに役に立ってる。
そこへ結城修吾が入ってきた。今日はノックした。警察としての成長かもしれない。遅いけど。
「おい、久世。今すぐ来い」
「はいはい。朝の挨拶は?」
「事件だ」
「事件が挨拶みたいに言わないでよ」
結城は封筒ではなく、写真を机に置いた。スマホの画面。白いタイル。手すり。階段。赤いテープ。
「施設?」
「支援施設。財団絡みだ」
「補助金と委託が絡んでる。表沙汰にしたくない理由は、山ほどある」
結城は言い方を濁す。濁しても匂う。むしろ匂いが強くなる。
「被害者は?」
「久保田大和。職員。今朝、階段下で見つかった。落ちたってことで事故扱いにしたい連中がいる」
「連中?」
「上と、現場と、あと……」
結城は途中で止める。言わない。言えない。言わないことで誰かを守ってるつもりの顔。俺はそこが嫌いで、嫌いじゃない。
誠司が立ち上がった。
「行こう」
直斗が勢いよく頷く。
「はい!」
そして、玄関で靴紐を結びながら言った。
「今日は、絶対に転びません」
「宣言すると転ぶよ」
「転びません!」
「する」
「転びません!」
誠司が間に入った。
「静かにしろ。結城、場所は」
「東湾の支援施設。『ひかりの家』」
「名前、優しいし暖かいね!」
「優しい名前のところが暖かいとは限らねえんだよ」
結城の言い方が珍しく鋭い。昨日何かあったのかもしれない。聞かない。聞くと面倒になる。面倒って言葉、使いたくないけど、使う。
施設は古いビルの一階だった。看板は新しい。入口はガラス張り。中には子どもの描いた絵が貼ってある。優しいふりが上手い場所だ。
中に入ると、受付の男が固い顔をした。
「警察の方ですか」
結城が手帳を出す。
「事故の確認だ。現場、見せろ」
男は一瞬だけ視線を逸らす。誠司がそれを見逃さない。
「誰が責任者だ」
「……羽田です」
奥から出てきた男がいた。羽田透。理屈っぽい顔。細部にうるさそうな眼鏡。手が綺麗。爪も整ってる。こういう人は、嘘をつくと指先が動く。
「羽田透です。ここは支援施設です。今朝の件は不幸な事故でして」
「不幸って便利な言葉だよね」
俺が言うと、結城が肩を叩いた。黙れ、って意味。黙らない。
誠司が羽田に言う。
「久保田大和はどこで倒れていた」
「階段の下です。清掃員が見つけました。救急は呼びましたが……」
「監視カメラは」
「あります。ただ、個人情報が――」
「事故なら見せられる」
結城が言うと、羽田は唇を薄くした。
「……警察がそう言うなら」
階段は施設の奥にあった。二階は事務室。階段の踊り場に花瓶が置かれている。割れていない。床は乾いている。滑った形跡もない。
誠司がしゃがむ。
「手すりに擦れた跡がある」
「落ちたんだ」
結城が言う。
「落ちた。けど、落ち方がある」
誠司は固い声のまま言う。俺は手すりを見た。手の脂の跡が妙に濃い。握りしめた跡。滑って掴んだじゃない。掴まされた。
直斗が階段下を覗き込み、そこで、やっぱりやった。
「うわっ」
足が滑る。転ぶ。今日も平常運転。俺はちょっと安心した。心が悪い。
直斗は転びながらも、何かを掴んだ。
「いてて……あ、これ」
直斗の指に、プラスチックの欠片がくっついていた。カードの角。薄い。固い。
誠司がすぐに手袋で受け取る。
「IDカードの破片だ」
結城が眉間に皺を寄せる。
「施設の職員カード?」
羽田が声を出す。
「そんなもの、落ちるはずが――」
俺は羽田を見る。
「落ちるよ。人が落ちるんだから」
「……」
羽田の指先が動いた。嘘。小さな嘘。いや、嘘というより、知らないふり。知らないふりは嘘の親戚だ。
結城が言った。
「職員のカード、全部確認する」
「それは――」
「する」
結城の声が強い。珍しい。昨日の何かがまだ残ってる。
職員が集められた。部屋の隅で、二人が妙に目立った。
一人は北川拓真。寡黙で頑固そうな男。腕を組んで、表情が動かない。守る気の人だ。守るものがある。
もう一人は鳥越剛志。軽い笑顔。言葉が先に出るタイプ。保身の匂い。こういう人は、誰かを守ってるんじゃなくて、自分を守ってる。
俺は鳥越に話しかける。柔らかめに。
「こんにちは。今朝、久保田さんと会った?」
「え、俺? 会ってないっすよ。そもそも久保田さん、朝はバタバタで」
「バタバタって具体的に?」
「いや、ほら、準備とか」
言葉が薄い。薄い時は嘘を塗ってる。塗りが薄いから下が透ける。
誠司が北川に言う。
「あなたは」
「……知らない」
短い。頑固。嘘をつくならもっと喋る。これは嘘じゃない“拒否”だ。
結城が羽田に言う。
「久保田は誰と揉めてた?」
「揉めてなどいません。皆、支援のために――」
「支援って言葉、嫌いになりそうだよ」
俺が言うと、誠司が咳払いした。咳払いで黙らせようとするな。
誠司が机にカード一覧を並べる。職員カード。番号。写真。名前。久保田大和のカードはある。欠けていない。
誠司が言った。
「破片は、久保田のものではない」
「じゃあ誰の」
結城が聞く。
誠司は破片の裏面を見て、淡々と答えた。
「この刻印。上層の権限カードだ。一般職員ではない」
羽田の顔色が変わった。ほんの一瞬。戻す。でも戻しきれない。戻しきれないから、俺は笑いそうになる。笑わない。
俺は羽田に言った。
「羽田さん、あなた、カード持ってる?」
「もちろん。責任者ですから」
「見せて」
「……」
羽田はポケットに手を入れた。取り出す。カード。角が欠けている。
直斗が息を呑んだ。
「……あ」
結城が低い声で言う。
「羽田」
羽田は急に早口になった。
「違います。これは、昨日、落としただけで」
「昨日、どこで」
誠司が固いまま聞く。
「階段で……」
「階段で落としたなら、欠片は階段の途中に落ちる。階段下ではない」
誠司の声は平坦なのに、逃げ道を一つずつ塞いでいく。怖い。優しい顔じゃない怖さ。俺はこの怖さが好きだ。
羽田が口を開こうとした瞬間、鳥越が割って入った。
「いや、羽田さんじゃないっすよ。あの人、そんなことするタイプじゃない」
「するタイプかどうかは関係ない」
結城が言う。
俺は鳥越を見る。
「鳥越くん、庇うの早いね。君、久保田さんと揉めてた?」
「揉めてないっすよ。俺、基本、平和主義なんで」
「平和主義って言う人、だいたい平和を壊すの早いよね」
鳥越が笑う。笑いが固い。固い笑いは怖い。
北川が初めて口を開いた。
「……久保田は、止めてた」
「何を」
俺が聞くと、北川は目を逸らした。
「……言えない」
結城が苛立つ。
「言え」
「言えない」
頑固。守ってる。守ってるのは誰だ。
誠司が北川に言う。固い声で、でも少しだけ柔らかく。
「あなたが黙るほど、誰かが傷つく。久保田はもう――」
言葉がそこで止まる。誠司は、言い切らない。言い切らない優しさ。俺はそれが甘いと思う。
北川は小さく息を吐いた。
「……久保田は、名簿を見た」
「名簿?」
結城が聞く。
「支援者の……いや、支援対象者の」
羽田が顔を上げた。
「それは内部資料だ。勝手に見るなと――」
「見るなって言われるものほど、見たいんだよね」
俺が言うと、結城がまた俺の額を小突いた。今日はよく小突く。
誠司が言う。
「久保田は、何を止めていた?」
北川が言った。
「……名簿の扱い。金の流れ。外に漏れるとまずいって」
結城の表情が硬くなる。
「財団か」
北川は答えない。答えないけど、答えてる。
俺は羽田に言う。
「羽田さん。あなた、久保田さんを階段で止めようとした? 止めようとしたら、手が出た?」
「違う」
「じゃあ、なんでカード欠けてるの」
「……」
誠司が淡々と刺す。
「あなたは落ちた久保田を助けたか?」
羽田が言葉を飲む。
「……救急は、呼びました」
「誰が最初に?」
「清掃員が」
「清掃員は誰だ」
結城が言う。
羽田が視線を逸らす。鳥越が一瞬だけ笑う。北川が拳を握る。
俺は気づいた。清掃員。ここにいない。ここにいない人が一番危ない。
その瞬間、直斗が小さな声で言った。
「あの……」
全員が直斗を見る。直斗は机の下を指差していた。
「さっき転んだ時に、これ……」
直斗の手に、もう一つ欠片があった。今度はカードじゃない。小さな金属片。ネジ。監視カメラのカバーに使うタイプ。
誠司がそれを見て、目を細める。
「……カメラが触られている」
結城が羽田を見る。
「監視カメラ、見せろ」
「個人情報が――」
「事故なら見せられるって言ったよな」
結城の声が低い。怒ってる。珍しい。俺は少しだけ安心する。結城が怒る時、動く。
カメラ映像は、途切れていた。階段の時間帯だけ、妙にノイズが走る。直斗が拾ったネジは、そのカバーのものと一致した。
誠司が言った。
「映像を消したのは、内部の権限」
羽田のカードが欠けている理由が、もう一つ増えた。
でも、俺は違うところを見ていた。羽田じゃない。羽田は“触った”かもしれない。でも“やった”とは限らない。羽田は理屈の人だ。理屈の人は、感情で手を出すと後悔する。後悔を嫌う。
鳥越の笑いが固い。保身が強い。こういう人は、他人を落とすためなら、カメラも触る。
北川は守ってる。誰かを。久保田を守れなかった代わりに。
俺は鳥越に言った。柔らかく。
「ねえ鳥越くん。清掃員、どこ行った?」
「え? 知らないっすよ。そもそも今日、来てないんじゃないすか」
「来てないのに、見つけたって誰が言ったの?」
鳥越の目が動いた。速い。逃げ道を探す目。
誠司が鳥越に言う。固いまま。
「あなた、今、誰が第一発見者か把握していないのに『来てない』と言ったね。矛盾だ」
鳥越が笑った。笑いが崩れる。
「いや、俺、聞いたんすよ。羽田さんから」
「羽田は今、清掃員と言った」
誠司が言うと、鳥越の喉が鳴った。
俺はそこを拾う。
「鳥越くん。君、久保田さんに何を言われた?」
「……」
「君、平和主義なんでしょ。久保田さんが“まずい”って言ったもの、君は“まずくない”って言った?」
鳥越が目を逸らした。
結城が言う。
「鳥越。任意で話せ。今ならまだ――」
「任意って言うなよ、怖いだろ」
俺が言うと、結城が睨む。誠司が咳払いする。今日は咳払い多いな。風邪か。
鳥越が、ようやく吐いた。
「……久保田さん、名簿を外に持ち出そうとしたんすよ。止めたんす。俺が」
「止めた? 誰のために」
誠司が問う。
「施設のためっすよ。支援のため。漏れたら終わる」
「それ、誰が言った」
俺が言う。
鳥越の目が揺れた。
「……上が」
「上って誰」
「……羽田さんが」
羽田が口を開く。
「私はそんな指示は――」
「指示じゃなくて“お願い”でしょ?」
俺が言うと、羽田の顔が一瞬固まった。
結城が羽田に詰め寄る。
「羽田。久保田を止めろと言ったのか?」
「違う。私は……ただ、施設を守ろうと」
「守るって言葉で人は落ちるね」
俺が言うと、結城がまた俺の額を小突いた。今日は額が忙しい。
誠司が結論を出す。淡々と。
「久保田は階段で止められた。誰かが揉み合った。手すりに掴まされた跡。カメラはその時間帯だけノイズ。権限カードが欠けている。鳥越は第一発見者の情報を知りもしないのに断言した」
結城が言う。
「鳥越、お前がカメラ触ったな」
鳥越が笑った。今度は笑いじゃない。歯が見えるだけの顔。
「触ったっすよ。だって、終わるじゃないすか。施設が。支援が。みんな困るじゃないすか」
北川が拳を振り上げかけて、止まった。止めたのは誠司の目だった。固い目。北川は守ってる。守ってるのは“支援”じゃない。久保田の真面目さだった。
結城が鳥越に手錠を出した。
「任意終了だ」
「うわ、怖っ」
俺が言うと、結城が睨む。
「黙れ」
誠司が鳥越に言う。
「あなたは支援を守ると言った。だが支援は、嘘で守れない」
鳥越は目を逸らした。その逸らし方が、子どもみたいだった。
現場を出る時、直斗が小声で言った。
「俺、転んでよかったです」
「転ぶのやめろ」
結城が言う。
「でも、拾いました」
直斗が胸を張る。拾ったのは欠片。カードの欠片。ネジの欠片。そういう小さなものが、真実を引っ張り出す。
誠司が固いまま言った。
「……よくやった」
直斗の顔がぱっと明るくなる。褒められた。人生で一番大事な瞬間みたいに。
俺は笑って言う。
「誠司くん優しいじゃん、今の嬉しい」
「優しくない。事実だ」
結城が先に歩き出しながら言った。
「お前ら、本当にムカつく」
「褒め言葉?」
「違う」
帰り道、結城がぽつりと言った。
「……財団の名前、今回も出すなよ。上が嫌がる」
俺は答えた。
「出さないよ。まだね」
「まだ、って言ったな」
「うん。まだ」
誠司が歩幅を合わせて言う。
「久世。焦るな。早すぎる。」
「褒めてる?」
「褒めていない」
でも、その言い方は少しだけ柔らかかった。
俺はポケットの中で、施設のパンフレットを指で撫でた。紙は丁寧。言葉も丁寧。優しい言葉が並んでいる。
その下に、小さな文字で委託先の番号がある。
誰かが選択肢を並べている。
俺たちは、その欠片を拾っている。
拾ったのは欠片。だけど、欠片は繋がる。




