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探偵・久世朔  作者: 九重有
東京開発事件簿

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3/17

拾ったのは欠片





 弁護士事務所は空だった。

 荒らされたように見える部屋と、やけに丁寧に貼られた「臨時休業」の紙だけが残っていた。

 結城は舌打ちして、「次だ」と言った。

 再開発の周りでは、事件が続く。


 篠宮直斗が転ばずに事務所へ入ってきた朝は、だいたい良くない日だ。


 人間って不思議で、失敗が続くと「今日もいつもの」って気持ちになるけど、成功が続くと「今日、何か起きる」って身構える。


 俺はコーヒーを飲みながら直斗を見た。


「直斗くん、今日、歩き方が普通だね」


「はい。普通です」


「普通って、怖いね」


「え、怖いですか?」


 直斗が真顔で返してくる。こういうとこ、可愛い。でも男だし、言わない。言ったら誠司くんが咳払いする。


 誠司は言った。


「久世。無駄な会話は後にしろ」


「無駄じゃない。人間観察だよ。」


「君の趣味だ」


 固い。朝から固い。豆腐が羨ましい。豆腐は柔らかいのに役に立ってる。


 そこへ結城修吾が入ってきた。今日はノックした。警察としての成長かもしれない。遅いけど。


「おい、久世。今すぐ来い」


「はいはい。朝の挨拶は?」


「事件だ」


「事件が挨拶みたいに言わないでよ」


 結城は封筒ではなく、写真を机に置いた。スマホの画面。白いタイル。手すり。階段。赤いテープ。


「施設?」


「支援施設。財団絡みだ」


「補助金と委託が絡んでる。表沙汰にしたくない理由は、山ほどある」


 結城は言い方を濁す。濁しても匂う。むしろ匂いが強くなる。


「被害者は?」


「久保田大和。職員。今朝、階段下で見つかった。落ちたってことで事故扱いにしたい連中がいる」


「連中?」


「上と、現場と、あと……」


 結城は途中で止める。言わない。言えない。言わないことで誰かを守ってるつもりの顔。俺はそこが嫌いで、嫌いじゃない。


 誠司が立ち上がった。


「行こう」


 直斗が勢いよく頷く。


「はい!」


 そして、玄関で靴紐を結びながら言った。


「今日は、絶対に転びません」


「宣言すると転ぶよ」


「転びません!」


「する」


「転びません!」


 誠司が間に入った。


「静かにしろ。結城、場所は」


「東湾の支援施設。『ひかりの家』」


「名前、優しいし暖かいね!」


「優しい名前のところが暖かいとは限らねえんだよ」


 結城の言い方が珍しく鋭い。昨日何かあったのかもしれない。聞かない。聞くと面倒になる。面倒って言葉、使いたくないけど、使う。


 施設は古いビルの一階だった。看板は新しい。入口はガラス張り。中には子どもの描いた絵が貼ってある。優しいふりが上手い場所だ。


 中に入ると、受付の男が固い顔をした。


「警察の方ですか」


 結城が手帳を出す。


「事故の確認だ。現場、見せろ」


 男は一瞬だけ視線を逸らす。誠司がそれを見逃さない。


「誰が責任者だ」


「……羽田です」


 奥から出てきた男がいた。羽田透。理屈っぽい顔。細部にうるさそうな眼鏡。手が綺麗。爪も整ってる。こういう人は、嘘をつくと指先が動く。


「羽田透です。ここは支援施設です。今朝の件は不幸な事故でして」


「不幸って便利な言葉だよね」


 俺が言うと、結城が肩を叩いた。黙れ、って意味。黙らない。


 誠司が羽田に言う。


「久保田大和はどこで倒れていた」


「階段の下です。清掃員が見つけました。救急は呼びましたが……」


「監視カメラは」


「あります。ただ、個人情報が――」


「事故なら見せられる」


 結城が言うと、羽田は唇を薄くした。


「……警察がそう言うなら」


 階段は施設の奥にあった。二階は事務室。階段の踊り場に花瓶が置かれている。割れていない。床は乾いている。滑った形跡もない。


 誠司がしゃがむ。


「手すりに擦れた跡がある」


「落ちたんだ」


 結城が言う。


「落ちた。けど、落ち方がある」


 誠司は固い声のまま言う。俺は手すりを見た。手の脂の跡が妙に濃い。握りしめた跡。滑って掴んだじゃない。掴まされた。


 直斗が階段下を覗き込み、そこで、やっぱりやった。


「うわっ」


 足が滑る。転ぶ。今日も平常運転。俺はちょっと安心した。心が悪い。


 直斗は転びながらも、何かを掴んだ。


「いてて……あ、これ」


 直斗の指に、プラスチックの欠片がくっついていた。カードの角。薄い。固い。


 誠司がすぐに手袋で受け取る。


「IDカードの破片だ」


 結城が眉間に皺を寄せる。


「施設の職員カード?」


 羽田が声を出す。


「そんなもの、落ちるはずが――」


 俺は羽田を見る。


「落ちるよ。人が落ちるんだから」


「……」


 羽田の指先が動いた。嘘。小さな嘘。いや、嘘というより、知らないふり。知らないふりは嘘の親戚だ。


 結城が言った。


「職員のカード、全部確認する」


「それは――」


「する」


 結城の声が強い。珍しい。昨日の何かがまだ残ってる。


 職員が集められた。部屋の隅で、二人が妙に目立った。


 一人は北川拓真。寡黙で頑固そうな男。腕を組んで、表情が動かない。守る気の人だ。守るものがある。


 もう一人は鳥越剛志。軽い笑顔。言葉が先に出るタイプ。保身の匂い。こういう人は、誰かを守ってるんじゃなくて、自分を守ってる。


 俺は鳥越に話しかける。柔らかめに。


「こんにちは。今朝、久保田さんと会った?」


「え、俺? 会ってないっすよ。そもそも久保田さん、朝はバタバタで」


「バタバタって具体的に?」


「いや、ほら、準備とか」


 言葉が薄い。薄い時は嘘を塗ってる。塗りが薄いから下が透ける。


 誠司が北川に言う。


「あなたは」


「……知らない」


 短い。頑固。嘘をつくならもっと喋る。これは嘘じゃない“拒否”だ。


 結城が羽田に言う。


「久保田は誰と揉めてた?」


「揉めてなどいません。皆、支援のために――」


「支援って言葉、嫌いになりそうだよ」


 俺が言うと、誠司が咳払いした。咳払いで黙らせようとするな。


 誠司が机にカード一覧を並べる。職員カード。番号。写真。名前。久保田大和のカードはある。欠けていない。


 誠司が言った。


「破片は、久保田のものではない」


「じゃあ誰の」


 結城が聞く。


 誠司は破片の裏面を見て、淡々と答えた。


「この刻印。上層の権限カードだ。一般職員ではない」


 羽田の顔色が変わった。ほんの一瞬。戻す。でも戻しきれない。戻しきれないから、俺は笑いそうになる。笑わない。


 俺は羽田に言った。


「羽田さん、あなた、カード持ってる?」


「もちろん。責任者ですから」


「見せて」


「……」


 羽田はポケットに手を入れた。取り出す。カード。角が欠けている。


 直斗が息を呑んだ。


「……あ」


 結城が低い声で言う。


「羽田」


 羽田は急に早口になった。


「違います。これは、昨日、落としただけで」


「昨日、どこで」


 誠司が固いまま聞く。


「階段で……」


「階段で落としたなら、欠片は階段の途中に落ちる。階段下ではない」


 誠司の声は平坦なのに、逃げ道を一つずつ塞いでいく。怖い。優しい顔じゃない怖さ。俺はこの怖さが好きだ。


 羽田が口を開こうとした瞬間、鳥越が割って入った。


「いや、羽田さんじゃないっすよ。あの人、そんなことするタイプじゃない」


「するタイプかどうかは関係ない」


 結城が言う。


 俺は鳥越を見る。


「鳥越くん、庇うの早いね。君、久保田さんと揉めてた?」


「揉めてないっすよ。俺、基本、平和主義なんで」


「平和主義って言う人、だいたい平和を壊すの早いよね」


 鳥越が笑う。笑いが固い。固い笑いは怖い。


 北川が初めて口を開いた。


「……久保田は、止めてた」


「何を」


 俺が聞くと、北川は目を逸らした。


「……言えない」


 結城が苛立つ。


「言え」


「言えない」


 頑固。守ってる。守ってるのは誰だ。


 誠司が北川に言う。固い声で、でも少しだけ柔らかく。


「あなたが黙るほど、誰かが傷つく。久保田はもう――」


 言葉がそこで止まる。誠司は、言い切らない。言い切らない優しさ。俺はそれが甘いと思う。


 北川は小さく息を吐いた。


「……久保田は、名簿を見た」


「名簿?」


 結城が聞く。


「支援者の……いや、支援対象者の」


 羽田が顔を上げた。


「それは内部資料だ。勝手に見るなと――」


「見るなって言われるものほど、見たいんだよね」


 俺が言うと、結城がまた俺の額を小突いた。今日はよく小突く。


 誠司が言う。


「久保田は、何を止めていた?」


 北川が言った。


「……名簿の扱い。金の流れ。外に漏れるとまずいって」


 結城の表情が硬くなる。


「財団か」


 北川は答えない。答えないけど、答えてる。


 俺は羽田に言う。


「羽田さん。あなた、久保田さんを階段で止めようとした? 止めようとしたら、手が出た?」


「違う」


「じゃあ、なんでカード欠けてるの」


「……」


 誠司が淡々と刺す。


「あなたは落ちた久保田を助けたか?」


 羽田が言葉を飲む。


「……救急は、呼びました」


「誰が最初に?」


「清掃員が」


「清掃員は誰だ」


 結城が言う。


 羽田が視線を逸らす。鳥越が一瞬だけ笑う。北川が拳を握る。


 俺は気づいた。清掃員。ここにいない。ここにいない人が一番危ない。


 その瞬間、直斗が小さな声で言った。


「あの……」


 全員が直斗を見る。直斗は机の下を指差していた。


「さっき転んだ時に、これ……」


 直斗の手に、もう一つ欠片があった。今度はカードじゃない。小さな金属片。ネジ。監視カメラのカバーに使うタイプ。


 誠司がそれを見て、目を細める。


「……カメラが触られている」


 結城が羽田を見る。


「監視カメラ、見せろ」


「個人情報が――」


「事故なら見せられるって言ったよな」


 結城の声が低い。怒ってる。珍しい。俺は少しだけ安心する。結城が怒る時、動く。


 カメラ映像は、途切れていた。階段の時間帯だけ、妙にノイズが走る。直斗が拾ったネジは、そのカバーのものと一致した。


 誠司が言った。


「映像を消したのは、内部の権限」


 羽田のカードが欠けている理由が、もう一つ増えた。


 でも、俺は違うところを見ていた。羽田じゃない。羽田は“触った”かもしれない。でも“やった”とは限らない。羽田は理屈の人だ。理屈の人は、感情で手を出すと後悔する。後悔を嫌う。


 鳥越の笑いが固い。保身が強い。こういう人は、他人を落とすためなら、カメラも触る。


 北川は守ってる。誰かを。久保田を守れなかった代わりに。


 俺は鳥越に言った。柔らかく。


「ねえ鳥越くん。清掃員、どこ行った?」


「え? 知らないっすよ。そもそも今日、来てないんじゃないすか」


「来てないのに、見つけたって誰が言ったの?」


 鳥越の目が動いた。速い。逃げ道を探す目。


 誠司が鳥越に言う。固いまま。


「あなた、今、誰が第一発見者か把握していないのに『来てない』と言ったね。矛盾だ」


 鳥越が笑った。笑いが崩れる。


「いや、俺、聞いたんすよ。羽田さんから」


「羽田は今、清掃員と言った」


 誠司が言うと、鳥越の喉が鳴った。


 俺はそこを拾う。


「鳥越くん。君、久保田さんに何を言われた?」


「……」


「君、平和主義なんでしょ。久保田さんが“まずい”って言ったもの、君は“まずくない”って言った?」


 鳥越が目を逸らした。


 結城が言う。


「鳥越。任意で話せ。今ならまだ――」


「任意って言うなよ、怖いだろ」


 俺が言うと、結城が睨む。誠司が咳払いする。今日は咳払い多いな。風邪か。


 鳥越が、ようやく吐いた。


「……久保田さん、名簿を外に持ち出そうとしたんすよ。止めたんす。俺が」


「止めた? 誰のために」


 誠司が問う。


「施設のためっすよ。支援のため。漏れたら終わる」


「それ、誰が言った」


 俺が言う。


 鳥越の目が揺れた。


「……上が」


「上って誰」


「……羽田さんが」


 羽田が口を開く。


「私はそんな指示は――」


「指示じゃなくて“お願い”でしょ?」


 俺が言うと、羽田の顔が一瞬固まった。


 結城が羽田に詰め寄る。


「羽田。久保田を止めろと言ったのか?」


「違う。私は……ただ、施設を守ろうと」


「守るって言葉で人は落ちるね」


 俺が言うと、結城がまた俺の額を小突いた。今日は額が忙しい。


 誠司が結論を出す。淡々と。


「久保田は階段で止められた。誰かが揉み合った。手すりに掴まされた跡。カメラはその時間帯だけノイズ。権限カードが欠けている。鳥越は第一発見者の情報を知りもしないのに断言した」


 結城が言う。


「鳥越、お前がカメラ触ったな」


 鳥越が笑った。今度は笑いじゃない。歯が見えるだけの顔。


「触ったっすよ。だって、終わるじゃないすか。施設が。支援が。みんな困るじゃないすか」


 北川が拳を振り上げかけて、止まった。止めたのは誠司の目だった。固い目。北川は守ってる。守ってるのは“支援”じゃない。久保田の真面目さだった。


 結城が鳥越に手錠を出した。


「任意終了だ」


「うわ、怖っ」


 俺が言うと、結城が睨む。


「黙れ」


 誠司が鳥越に言う。


「あなたは支援を守ると言った。だが支援は、嘘で守れない」


 鳥越は目を逸らした。その逸らし方が、子どもみたいだった。


 現場を出る時、直斗が小声で言った。


「俺、転んでよかったです」


「転ぶのやめろ」


 結城が言う。


「でも、拾いました」


 直斗が胸を張る。拾ったのは欠片。カードの欠片。ネジの欠片。そういう小さなものが、真実を引っ張り出す。


 誠司が固いまま言った。


「……よくやった」


 直斗の顔がぱっと明るくなる。褒められた。人生で一番大事な瞬間みたいに。


 俺は笑って言う。


「誠司くん優しいじゃん、今の嬉しい」


「優しくない。事実だ」


 結城が先に歩き出しながら言った。


「お前ら、本当にムカつく」


「褒め言葉?」


「違う」


 帰り道、結城がぽつりと言った。


「……財団の名前、今回も出すなよ。上が嫌がる」


 俺は答えた。


「出さないよ。まだね」


「まだ、って言ったな」


「うん。まだ」


 誠司が歩幅を合わせて言う。


「久世。焦るな。早すぎる。」


「褒めてる?」


「褒めていない」


 でも、その言い方は少しだけ柔らかかった。


 俺はポケットの中で、施設のパンフレットを指で撫でた。紙は丁寧。言葉も丁寧。優しい言葉が並んでいる。


 その下に、小さな文字で委託先の番号がある。


 誰かが選択肢を並べている。

 俺たちは、その欠片を拾っている。


 拾ったのは欠片。だけど、欠片は繋がる。

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