廃工場の裏路地―月に狂った獣
月の光は、ルクジムの白い体毛を銀に染め、瞳を金色に変えていく。
彼の呼吸は浅く、肩が上下に揺れていた。 目の前には、異形の悪魔――灰色の皮膚にひび割れ、炎のような瞳を持つ存在。
「混ざり者……お前の血は、門を開く鍵だ。」
その声は、耳ではなく脳に直接響く。 ルクジムは低く唸り、爪を立てた。
「……黙れ。」
その言葉とともに、彼は地面を蹴った。 月光を浴びた身体は、獣のようにしなやかに、そして鋭く悪魔へと迫る。
爪が悪魔の胸元を裂く。 だが、傷は瞬時に再生する。
悪魔は笑う。 「痛みは、快楽に変わる。もっと見せろ、お前の“本性”を。」
黒い炎が悪魔の手から放たれる。
ルクジムは跳躍し、壁を蹴って回避するが、爆風が体をかすめる。
体毛が焦げ、皮膚が焼ける。 痛みが、理性を削る。
「……っ!」
彼は再び突進する。 爪、牙、膝――すべてを使って悪魔を叩きつける。
悪魔は笑いながら受け止める。 「もっとだ。もっと深く、怒れ。お前の中の“獣”を解き放て。」
その言葉が、何かを引き金にした。
ルクジムの瞳が、さらに深い金色に染まる。 呼吸が荒くなり、唸り声が言葉を失っていく。
的確な急所を狙っていた攻撃が、次第に悪魔の肉体をただ引き裂く衝動的なものへと変わっていく。
「……ッガァアアアアアルッ!!」
咆哮が夜を裂いた。
彼の動きが、理性を超えた。 攻撃は精密さを失い、代わりに圧倒的な力と速度を得る。
悪魔は笑みを消した。
「……これは、制御を超えたか。」
ルクジムは、壁を突き破りながら悪魔を押し倒す。 爪が肉を裂き、牙が骨を砕く。
悪魔は抵抗するが、ルクジムの力は月光によって限界を超えていた。
「ヴァアアアアアッ!!」
最後の一撃。 ルクジムの爪が、悪魔の頭部を貫いた。
悪魔は、炎のように崩れ落ちる。 その灰が、月光に照らされて静かに舞った。
だが――ルクジムは止まらない。
彼はなおも唸り、瓦礫を引き裂き、空気を噛むように咆哮を続ける。 理性は、もはや彼の中に残っていなかった。
その姿は、まるで“月に狂った獣”。
気がつくと、悪魔の体は地面に崩れ落ちていた。
その肉体は黒い霧のように崩れ、やがて跡形もなく消えていく。
ルクジムの体には、その返り血がべっとりと付着していた。
肩で息をしながら、彼は膝をついた。
全身に走る激痛。
爪は裂け、毛皮は焼け、骨の奥まで疲労が染み込んでいる。
「……なんだ、あれは……」
理解できない。
あれは人狼でも、吸血鬼でも、異能力者でもなかった。
まるで、世界の理から外れた“何か”。
だが、今は考える余裕などなかった。
彼の中で、何かが爆ぜた。
怒り、恐怖、混乱、そして――
生き延びたという、野生の歓喜。
それは、知覚を超えた恐怖への反発であり、抗えなかった自身の力の残滓であり、
そして、死の淵から生還した純粋な生命の叫びだった。
そのすべてが混ざり合い、彼の喉から、咆哮となって噴き出した。
「オオオオオオオオオオーンン!!!!!」
夜の静寂を切り裂くような、獣の叫び。
それは、誰にも届かない。
だが、確かにこの世界に刻まれた。
夜空を翔けるセシルの耳にも、獣の咆哮が届いた。
それは、ただの人狼の叫びではない。
怒り、恐怖、そして――生存の証。
「……ついに、来たか。」
セシルは風を切り、咆哮の発信源へと向かう。
廃工場の屋上に降り立つと、そこには血にまみれ、傷だらけのルクジムがいた。
彼はまだ息を荒げ、獣の瞳を宿していた。
セシルは静かに歩み寄る。
その姿は、夜の闇に溶け込むように滑らかで、威圧感はない。
「落ち着きなさい。君は……よくやった。」
ルクジムは振り返る。
初めて間近で見る“闇の貴族”の姿。
その瞳は深紅に輝き、どこか哀しみを湛えていた。
「お前は!…いや、あれは、何だったんだ……俺が倒した、あの化け物は……」
セシルは一歩、距離を詰めると、静かに語り始めた。
「我らは、現在を現世とする怪物――リバースだ。吸血鬼、人狼、超能力者、妖……人間の歴史と共に生きてきた存在。」
「だが、あれは違う。あれは“魔界”の悪魔。別次元の存在だ。」
ルクジムの瞳が揺れる。
理解が追いつかない。
だが、セシルの言葉は、確信に満ちていた。
「しかしどうやって現世に実体化できたのか……それが問題だ。」
セシルはコートの内側から、古びた羊皮紙を取り出す。
そこには、複雑な魔法陣が描かれていた。
「人類は太古の昔から、魔法陣を使って“門”を開こうとしてきた。それは知識であり、愚行でもある。
そして今、誰かがそれを成功させた。」
ルクジムは言葉を失った。
自分が知らなかった世界が、静かに、しかし確実に崩れ始めている。
「同盟を組まないか、ルクジム。
この世界を、永久の安住のために。」
その言葉は、ルクジムの胸に深く刺さった。
彼はまだ迷っていた。
だが、確かに――何かが始まろうとしていた。
「廃工場屋上 ― 断られた手」へ続く




