第七十九回 封禅
足りぬ……。足りぬ……。
権勢を極めた者が次に望むのは何だろうか。
富? 名声? 不死の夢?
雪瑜の場合はさらなる権勢であった。
既に皇帝を篭絡し、並ぶものなき権力を振るっているのに、これ以上どうやってさらなる権勢を得るというのだろうか。
雪瑜はその答えを中華の外である異国、さらには人界を超えた天へと求めた。
「封禅の儀式を行いましょう」
神都に戻った雪瑜は風演にそう切り出した。
「封禅……」
雪瑜の言うことは大抵ほいほいと叶えてやる風演も今回は即答しない。
封禅は天地を祀り、天下がよく治まっていることを天神地祇に報告する儀式である。
問題はこの儀式が皇帝でさえ易々と行うことは許されないということだ。
天子の中でも特に功徳あるものだけが封禅を行う資格があるとされる。
過去に封禅を行ったとされるのは秦の始皇帝や漢の光武帝など、王朝の始祖や中興の祖と呼ばれる錚々たる面子である。
実際にはそれらの偉人に張り合おうとする者や彼らの権威を借りようとする皇帝も封禅を行っているが、どちらにせよ風演の気は進まなかった。しかし雪瑜は熱心に説いた。
「大家はこれまで天下を治め人心を安じてこられました。さらに逆賊が現れるたび勇敢に戦ってこれを討ち、その戦いぶりは春秋の五覇、漢の高祖にも劣りません。その貴方様が封禅を行い天神地祇を祀ることを誰が咎めましょうか」
「お前はそう言ってくれるが、これは私の一存だけでは決められぬ」
雪瑜はニイと口角を上げる。
「それでは大臣と庵室の学士たちに諮らせましょう」
風演は乗り気ではなかったが、雪瑜がやりたいといえばそれを止める者は今の朝廷にはいない。
実質的に政を取り仕切っている魏高輔は雪瑜派であり、こういう時真っ先に諫める魏澄子ですら、自ら兵を率いて逆賊を討った風演の功績は認めていた。
「封禅を行うとなれば慎重に協議しなければならん……」という魏澄子の言葉はいかにも弱々しい。
この時点で封禅を行うことは決定であった。あとはいつ行うかだけである。
封禅!
この壮挙を行うという話が出ただけで、三省六部九寺の全ての官僚が揺れた。
封禅は最高級の格式の式典である。
まず神都から泰山への移動。
親征の際は奇襲を行う為、皇帝の移動は秘密裏に行われたが、本来皇帝の移動とは壮麗なものだ。
まして大式典であればなおさらである。
皇帝は玉輅という皇帝の馬車の中でも最高の格の馬車に乗って泰山へ向かう。
玉輅の車体には玉がちりばめられ、金の鳳凰と十二の鈴、十二の旗が配置されている。無数の護衛と楽隊に守られた玉輅は六頭の白馬に引かれながらゆるりと進む。
その護衛は大駕鹵簿と呼ばれこれまた最高の装備と格式が求められる。皇帝に随従し泰山へ向かう諸侯もまた同様。
諸侯の場合は誰が皇帝に従いていくか、その順番はどうするかも揉める一因だ。
これだけで六部のうち人事に関わる吏部、道路宿泊の工事に関わる工部、税を管理する戸部、軍事を管轄する兵部は大騒ぎである。
だが何といっても封禅において主役は儀式、礼楽、祭事などを管掌する部門である礼部と太常寺である。
礼部侍郎は青ざめた顔をして、封禅儀式の詳細を調べる時間をくださいと言い、太常寺卿は封禅の話が出るやいなや高齢を理由に封禅使(封禅の一切を取り仕切る特別職)になることを渋った。
また石氏の乱の傷跡が癒えていない状態で封禅を行い、民に負担を強いることに首をかしげる者は多い。
臣下に封禅の是非を諮らせた結果、雪瑜に返ってきたのは「どんなに急いでも二年後」という回答であった。
「二年後か」
自分の衙で亮からその報告を受け取った雪瑜は焦らなかった。
「封禅は天子ですら生涯に一度しか許されぬ一大事。急いて中途半端になることは許されない。二年と言わず三年待とう。その代わり疎漏は許さん、とそのように魏宰相に伝えよ」
「はっ」
「それと封禅使についてだが、太常寺卿殿が渋るようなら魏澄子を推したい旨を本人に打診しておいてくれ」
「魏澄子殿を、ですか?」
「意外か? フフ、まあ奴と私は喧嘩ばかりでそう見えるのかもしれんな。だが魏澄子を引き上げてやったのは私だし、奴もよく仕えてくれた。そろそろ晴れ舞台を用意してやりたい」
「そういうことでしたか。思慮が足りませんでした」
「晴れ舞台というのなら、お前のも決まりかけている」
「えっ」
「お前との結婚を是非にという家がニ、三ある。どれも高官を輩出したことのある名家だ。近々面会があるだろう」
「そこまでしていただけるとは……恐縮です」
そうして亮を使いに出してやると、今度は魏澄子が衙に駆け込んできた。
「月巧妃殿!」
「そのように慌てていかがした、魏澄子殿?」
「封禅使の件を聞きましたぞ。もし封禅を行うとなれば封禅使は太常寺卿が務めるべきある。これははっきりと申し上げておく」
「いまの太常寺卿殿は高齢だ。今から三年後の封禅には耐えれまい」
「もし太常寺卿が無理なら太常寺少卿だ。そうすべきだ」
まくしたてる魏澄子に雪瑜はふるふると首を振る。
「いや、私はあなたにやって欲しい。魏澄子殿が古今の礼法に通じていることは私も陛下も存じている。また封禅使には並々ならぬ意思が必要だ。そのことについても我らは十分に知っている。そのあなたの仕切りを行うなら封禅は万事抜かりないだろう」
「そこまで評価していただけるとはまことに光栄」
「では受けてくれますか」
「断る」
切れ味ある否定だった。普通なら気分を害すだろうが、魏澄子の性格を知っている雪瑜は動じなかった。
「まぁまぁそう言わず。なにが不満なのかな? もしや封禅自体に反対なのですか?」
「封禅を行うことに異論はない。だがその人事を月巧妃殿が操るのは不快だ。許されることではない」
絶大な権力を振るう雪瑜にこのような物言いをするのは魏澄子をおいて他に居ない。
それゆえ、雪瑜は魏澄子のことを気に入っていた。このときも彼女は内心で正論だ、と大いに感心した。
「……確かに魏澄子殿の言う通りだ。私が人事を差配するのはおかしい。これはまた一つ道理を教わった」
「では取り下げてもらえるか」
「もちろんだ。だが、やはり私は封禅使は魏澄子殿が良いと思うな。これは単なる意見だから翻すことはできない相談」
「月巧妃殿! 貴殿がそういえば忖度が起きる! 口を慎みなされ!」
雪瑜はカラカラと笑う。
「今後は気を付けましょう!」
後日、朝議の中で結局魏澄子は封禅使に選ばれることになる。
これにより、魏澄子は封禅の準備に忙殺されることになった。
重しがなくなった雪瑜はさらに横暴にふるまうかと思われたが、逆に彼女は一歩引いた立場になることが多くなった。
──魏澄子が封禅の準備に掛かりきりな今こそ慎まねばならぬ。
雪瑜は自分にそう言い聞かせていた。
自分は天に選ばれた特別な存在。
そう信じてはいたが、まだ“名”が“実”に追いついてはいない。
私はあくまで三妃にすぎない。多くの者もそう思っている。精々近い将来に皇后というところだろう。
空に飛び立つ前の龍が地に伏す様に、今は慎まねばならぬ……。
雪瑜は過去自分に立ち塞がった者たちのことを考えた。恵徳妃に天香妃。潘国公・伊玄曹、三州節度使・石豹。
みな手強い相手だった。彼らが無能だったとは思えない、それでも敗れたのは恐らく自滅に近いものだ。みな自分が無敵だと勘違いしていた。
そして私もその兆候がある……。運良く生き残っただけ場面もあった。勝つには勝ったが彼らと自分の器量はさほど変わるまい。
一方、この動乱の中で危なげなく己の立場を維持している者もいる。
後宮を掌管する焦冥である。彼は決して己の分を超えた真似をしない。それゆえ泰然としている。真に無敵になるまでは彼を手本にしなければならない……。
激しい渇望を感じながら雪瑜は自分に言い聞かせた。
石氏の乱から一年後。
封禅の準備が続く中、北西の胡族が風演に莫賀咄可汗の称号を贈った。勇敢なる皇帝の意である。石豹を破ったことを称えてのことだろう。
風演はそれなりに喜んだが、一方で未だ三妃の位に留まっている雪瑜のことを不憫に思った。
「孤は長らく皇帝であり、遥か彼方の胡人たちにとっても可汗と慕われている。だのに傍らで常に孤を支えた雪瑜が未だに三妃に留まっているのはおかしいではないか」
そう風演は周囲にこぼした。
「いい機会だ。雪瑜を皇后とする。石氏の乱で孤と共に兵を率いた活躍を考えれば反対する者はいまい」
殆どの高官たちはこれにへつらいの笑みを浮かべ同意した。
これで決まりかと思われた時、朝議の中に反対の声が上がる。
「否!」
声の主は他ならぬ雪瑜だった。
風演も思わず振り返って御簾の向こうにいる雪瑜に困惑の顔を向ける。
「なぜだ雪瑜? みなお前を皇后として認めている。誰も反対などしない」
「ありがたい話ですが、皇后を決めるのは家事ではなく国事。軽率に決めるべきではありません」
「ではどうするのだ。お前が受けねば永遠に皇后は空位だぞ?」
「なにも焦る必要はございますまい。封禅を行う際、天地の神々に私が受け入れられたら、で、よいでしょう」
「……お前がそういうのならば、いいだろう」
雪瑜の言葉に異を唱える者は居なかった。
足りぬ……。足りぬ……。
雪瑜はまた胸の奥に激しい渇望を感じた。
皇后などでは足りぬ……。




