第七十八回 乱の幕切れ
落ち延びていく石豹にもはや開戦時の精彩はなかった。
余裕はなく、常に苛立って部下を怒鳴りつける。
かつてない大きな敗北と重圧が彼の精神を蝕んでいたのである。
わしの国、わしの兵、わしの夢が消えていく……。
それは精神をこそぎ落とされるような恐怖だった。
いままで失敗しなかったわけではない。
戦場で死を覚悟したことは幾度もある。だが、これほどの衝撃をもたらす敗走はなかった。まるで自分の存在、過去から未来が全て消えていくような感覚だった。
これが破滅か……と、その結末が背に迫っているのを感じた。
その前になんとしてでも西域に戻らねば……その一心で馬を走らせたものの、昭軍の追撃は苛烈で各地の抵抗は激しかった。
思うように移動できない。
しかし、それでもなお鴉兵は強かった。
撤退していく中で起きた戦闘でも負け続きというわけではない。むしろ勝った戦いの方が多かった。
だがその勝利が、石豹の首を絞めていく。
昭軍に追いすがられても、包囲されても、石豹は必ず活路を見出した。しかし、その勝利は犠牲を伴うものだ。
既に戦略的な勝利を望めないのにも関わらず、石豹が部下に押し付ける注文は日々過酷なものになっていった。
兵卒の間にはいったい何のために戦っているのだ、という不満が積もる。
日々兵は逃げ出し、あるいは戦いに倒れ、往時二十万を超えていた兵力は一万を割るほどに減っていた。
兵から買った恨みはいかほどばかりか。
しかし生き延びることに必死な石豹は、その不満に気付かない振りをした。
北西州に辿り着いてしまえばまだ何とかなる……!
青州の反乱を鎮圧し、西域三州をもって独立する。
まだだ、まだ道はある!
石豹は自分にそう言い聞かせた。
ようやく阜州を抜け、己の支配していた北西州に辿り着いた石豹は一粒の涙をこぼした。
「間に合った……!」
だが……州関所の門は固く閉ざされていた。
先行していた偵騎が石豹に報告する。
「北西州は現在石禹が節度使代行として取り仕切っている模様。そ、その石禹は……将軍を受け入れることはできない、と」
「……」
報告した伝令は、理不尽に怒鳴り散らされることを覚悟した。
実際、石豹は一瞬だけ憤怒の表情を見せた。
だが怒りが爆発する前に、彼は部下たちの困惑と恨みの籠った眼に気が付いた。
──どうするんだ。この始末は。ここまで必死で付いてきたが、その結果がこれならもうお前には従いていけねえ。
と、そう言っている眼である。
石豹は己の築き上げてきたものがいよいよ陽炎のように消え去ったのを悟った。
力ずくで関所を破る代わりに、彼は野営の準備を指示した。
その夜、石豹は幕僚たちを遠ざけると一人天幕に引き籠る。
「よォ。お邪魔するぜ」
失意の石豹の前に一人の若者が現れた。見知った男である。
「……お前か、えーと……」
石豹は若者の名前を思い出そうとしたが、酔いのせいで上手く思い出せない。若者は酩酊している父親に皮肉な笑みを浮かべた。
「炎だよ。石炎だ」
「ああそうだったな。死んだと思っていたぞ」
石炎の目に嘲りが浮かぶ。
アンタにとっちゃそりゃそうだろう。俺が死んだと思っていたってのはいつの話だ? ひと月前か、それとも二十年前か?
しかし、石炎はそのことには触れず酒臭い父親の横に座った。
「どっこいこうして生きている。俺はしぶといんだ。で、ど~~するよ、これから?」
「……」
「なにか言ってくれ。部下が指示を持っている」
「弓折れ矢尽きた。これ以上何をしろというのだ。わしが築いたものは全て消えた」
「そうかな」
「見誤った……! 昭を、息子を、あの女を、そして自分自身を……」
「もうやる気がねえってのか。拍子抜けだな」
石炎はすらりと腰から剣を抜いた。
「じゃあサクッと終わらせようか」
「誰の命令だ? 月巧妃か、石禹か。それとも別の誰かか?」
「誰だっていいだろう。みんながアンタを狙っている」
「それもそうだ……」
酒の酔いで濁った石豹の眼が一瞬正気を取り戻す。
「最後に手紙を書きたい」
「誰への手紙だ?」
「月巧妃にだ。届けてくれるか」
「約束はできねえが、書くのならご自由に」
石豹は筆を執るとさらさらと文字を書く。
胡人として育った石豹にとって中華の文字は異国の文字であった。しかし石豹は達筆であった。これを覚える為に努力した若き日の思い出が浮かぶ。
石豹は手紙を書き終えると、それを脇に置いた。
「気は済んだか?」
「ああ……」
石豹は一息おくと吠えながら勢い良く立ち上がった。
「小僧が! 易々とわしを殺せると思うな!! お゛お゛お゛おおおおおおおっ!!!」
牛の如き咆哮を上げて石豹は石炎に突進する。
丸々太った石豹の突進は死を覚悟した者の迫力があった。
石炎は尻込みしつつも、向かって来る石豹に向かって刃を突き立てる。
突進の勢いによってズブズブと刀身がぶ厚い肉に吞み込まれていった。
「ぐぐぅ~~っ」
「はぁはぁ……」
父親が血を吐き息絶えてからしばらくの間、石炎は茫然としていたが、ようやく一言言葉を絞り出した。
「……てめえの息子の名前ぐらい覚えてろ。くそったれめ」
こうして昭国を揺るがした大乱は、石豹の死をもって幕を閉じた。
石豹の撤退後も皇帝と月巧妃はなお彼方の石豹軍に睨みを利かせるように、しばらく常安に滞在していた。
やや時を置いて、二人の元に石豹の死の報告と、最後に彼が認めたという手紙が届けられた。
「奴の遺言か」
「見ずに焼いてもいいですが気になりますね、大家」
雪瑜は好奇心に駆られ書状を開いたが、読んでいくうちに額に皺を寄っていく。
「なんと書いてある?」
位極めし貴さも
国傾くる権勢も
達人の目に眺むれば
蟻の群れとはなに変わるべき
そこにあったのは、夢破れた者の悲哀とこれより夢を叶えようとしている者への嫉妬を込めた詩であった。
風演は横から覗き込もうとしたが、その前に雪瑜は手紙を破り捨てると、呵々大笑してみせた。
「はははは! ハハハハハハ!」
「何が書いてあったのだ、雪瑜?」
「下らぬ負け惜しみですわ、驃騎将軍と呼ばれた男にしては随分と小さなことが書いていただけ。読んだとて大家のお目汚しになるばかり。お忘れください」
「そうか。だが、これで本当に戦が終わったのう」
「ええ。帰りましょう。我らの都に」
「うむ」
「大家、戻ったらやりたいことがあります」
雪瑜が嬌態を含んだ笑顔を向けると、釣られて風演の表情も明るくなった。
「お前にそう言われると断れんな」
「そうでしょうとも、私の皇帝」
雪瑜は勝ち誇ったように風演の肩に腕を回す。
「だが、それは神都に戻ってから聞こう。先に私の願いを聞いてくれ、久々にお前の舞が見たい。ひとさし舞ってくれないか?」
「お望みならば何曲でも舞いましょう」
「心對心がよい。私が笙を吹こう」
「では……」
皇帝の奏でる笙の音に併せ雪瑜が舞った。途中で興が乗ってきた雪瑜は舞いながら歌いだした。
「我哭泣時、你受傷了……因為你和我是一樣的……」
私が泣くと、貴方は傷つく。私たちは同じものだから。
曲が終わって舞い終えると風演は目尻を下げた。
「我らながら良い曲だ。しかし近頃玲に会っておらんな」
心對心は風演と玲が二人で作り上げた曲である。
雪瑜は少しムッとしたが、すぐ取り繕うと風演に抱き着いた。
「心對心。玲と私は一心同体。気にすることはないでしょう。そして私と大家もまた一心同体、決して離しませんわ」
こうして風演と雪瑜は半年以上に渡る戦いを経て、神都へと引き上げていった。




