第七十七回 鎮圧
石豹の勝ち筋がもはや皇帝を捕らえることだけというのは当然昭軍側も承知していた。
それゆえ常安は幾重にも陣が張り巡らされ、可能な限り防備が強化されている。
やってくるのが分かっている相手を待ち受けるのは容易い。
常安に詰める兵の中には、鬼神の軍とて破れまい、と自画自賛する者もいた。
まして補給路を断たれた石豹には、もはや悠長に準備する時間は残されていなかった。
入念に出迎えの準備がされていると分かっていて、つき進むしかないのである。
これほど石豹軍に不利な条件が揃っているにも関わらず、三度目の常安を巡る攻防はかつてない激戦となった。
何度跳ね返しても食らいついてくる石豹軍には雪瑜ですら畏れを抱いた。
毎日多くの者が死に、それ以上の者が傷ついた。
流石に手強い……。雪瑜は歯噛みする。
いかに彼女でもこれほど大規模の戦の指揮を直接執ることはできない。
将軍と名乗っても所詮は名ばかりであるという事実に、彼女は苛立つ。
だが悶々としていた雪瑜はすぐその苛立ちを紛らわせる代償行為を見つけた。
こんな激戦の中でただ指を咥えて眺めることなどできない。
そう思い立った雪瑜はなるべく兵の前に出て励ましたり、怪我を負った兵を率先して看護した。
自らの手で兵の血を拭い体を洗い、薬を塗って声を掛ける。
血だらけで思わず目を背けたくなるような傷でも雪瑜は怯まなかった。
「その方らはよくやっている。陛下は決してこの傷と献身を忘れんぞ」
「あ、ありがとうございます……お、お后様……」
雪瑜は皇后ではなかったが、その誤りを訂正しなかった。
「よいよい。早く傷を治せよ」
雪瑜は一人の手当てを終えると、すぐに次の怪我人の元に行く。
「がんばれ、あと少しだ」
「この私が処置したのだ、死ぬことなど許さんぞ。これは娘子将軍の命令だ」
「おお見事な傷ではないか。だがこれは死ぬ傷ではないぞ。帰ったら家族に自慢してやれ。そうとも帰るのだ。陛下と共に!」
「石豹の誤算は不屈のお前たちだ。この程度では負けぬ、そうだろう?」
「いまの羽林軍こそ皇軍の誉れだ。誇りに思うぞ」
何人も手当てした後で、自分の服が血だらけになっていることに気付いた雪瑜は、清潔な格好に着替えるとまたすぐ怪我人の元に戻る。
その僅かな間も雪瑜は周囲を見渡して、怪我人だけでなく死者も丁重に扱うように何度も繰り返していた。
「我が皇軍の勇者たちだ。敬意を払えよ」
そう言ったとき雪瑜自身眩暈を覚えた。気づけばとっくに日は落ち、一日中食事を取っていないことに気が付く。
限界を感じ、兵と同じ内容の食事を腹に詰め込むと、将軍たちに戦況の報告を聞き、短い睡眠を取る。
これが戦場における雪瑜の一日であった。
体に鞭を打ち日々やつれていく雪瑜に皇帝も心配していた。
だが雪瑜は
「名ばかりでも私は娘子将軍。戦場に出る兵の労苦に比べたらこの程度! ご心配には及びませぬ。大家はどんと構えていて下され!」
と強がるのが常だった。
この戦いはひと月以上も続いた。
石豹軍は何度も陣を破り常安の城壁にとりつくこと七度を数えた。
それでもその都度昭軍は体勢を立て直し、反撃して石豹軍を追い返す。
ならばと石豹軍も敗残し各地に散っていた兵をかき集めて、戦力を増強する。
鴉兵の強さと日々増える死傷者に雪瑜は辟易しかけていたが、石豹はそれ以上に苦しんでいた。
き、消えていく。俺の積み上げたものが!!
常安の攻略に失敗するたび、石豹は叫びそうになった。
地位、声望、兵、富──そして形になりつつあった自分の国。
常安で刻一刻と時間が過ぎた分だけ、これまで何十年もかけて築き上げてきたそれらが消え去っていくようであった。
視界が揺れる。
「ぬ、ぬうううう!!」
激しい落胆と怒りで唸っていると、石豹は背後に視線を感じた。
ハッとして振り返ると、親衛隊の一人が恐怖にひきつった顔で自分を見ている。
怯えたその顔が石豹の癪に障った。
「何を見ている……なんだあっ! その顔は!?」
「い、いや、何も見ておりません」
「失せろ!!!」
「はっはいい!」
兵が去ると石豹は強く壁を殴った。
恐れ知らずの鴉兵が怯えている。
奴が恐れているのは戦死することか。それともいまのわしの姿か。……わしを殺そうとして気付かれたことか?
くそっくそっ!
軍同士による激しい鍔迫り合いは永遠に続くかに思われたが、時間は昭軍に利した。
補給の苦しい石豹軍の方が消耗が激しかったのである。
対して常安を守る皇帝の元には続々と援軍が駆けつけた。
取り残された神都の貴族・官僚たちも遅れを取り戻すのを競うかのように常安の支援を始めた。
──このままでは常安を落とすどころか、包囲されかねない……!
いや、その前に背後から剣が襲って来るか。
「……老いた」
石豹は苦いものを吐き出すように呟いた。
もう十歳も若ければ背後の刃など気にせず戦えただろう。
だがいまはもう戦えない。
とどめに領地としていた青州で皇帝派の反乱が起こったという報告が届いた。
根拠地である西域ですらぐらつき始めている。
ついに石豹は撤退を決断した。
「完全に包囲される敵陣を突破し、西域に戻る。大蘭だけは死守せねばならぬ」
将兵の前でそう告げる石豹の顔は開戦時より百歳も老け込んで見えた。
ぎゅっと目を閉じて無念を噛み締める。
いつだ。いつわしは間違えた。
もっと早く龍鳴関を抜けていればよかったのか?
石禹の副官をもっと吟味しておればよかったのか?
石基の死を飲み込み雌伏すればよかったのか?
それとも──野心を抱いたのが間違いだったというのか……。
どれだけ考えても答えは出ない。
だがそれでも考えずにいられなかった。
わしは戦に負けてはいなかったはずだ。それでも、勝つこともできなかった……。
潮が引くように石豹軍は去った。
昭軍は始め何らかの計略かと疑ったが、本当に石豹軍が撤退したと気付くと歓喜に湧いた。
劉幹将軍は追撃の兵を指揮して石豹を追った。戦いはいましばらく続くだろう。だが、趨勢は定まった。
いつものように怪我人の手当てを行っていた雪瑜も、報告に手を止めて風演の元に急ぐ。
風演は突然の勝利に困惑していたようだった。
雪瑜の姿に気が付くと不審そうに尋ねる。
「か、勝ったのか?」
「左様でございます。大家。誰が見ても我らの勝ち。大家は常安……いや昭を守り抜いたのでございます」
「そうか。良かった……終わった……」
やはり風演は喜びよりも安堵が勝った。
対して雪瑜は高らかに哄笑する。
「大家! 大家!もう少しお喜びになって下さいまし。兵たちを称えてくださいまし! はああああああああっ! 勝った、勝ったぞおおおおお!」
ひとしきり叫んだ雪瑜は笑貌を見せつつ風演の手を握る。
「さあ、兵と常安の民の前に参りましょう! 彼らに勝利を告げるのです!」
「しかし、ぬか喜びさせるわけにはならぬ。しばらく様子を見てからにした方がいいのではないか?」
「何を仰る! 時を置いて告げても民は喜びませぬ、いま言わねばならぬのです! 馮嘉隊長、来なさい!」
と、雪瑜は半ば強引に風演と馮嘉を引っ張っていった。
そして城内に残っていた兵に勝利を告げて回ると、さらに一人で盛り上がった雪瑜は馬にまたがり城門を開けさせて、市中に行くと言い出した。
「せ、雪瑜。流石にそれは危な──」
「我らの国で危ない事があるものですか! さあ参りましょう!」
風演が諫めようとしたが雪瑜は止まらない。
皇帝すらも押し切って、市中に飛び出した。
「大昭の民よ聞け! 勝利だ! 我らの勝ちだぞ! 石豹は逃げ出した!」
いつ終わるかも分からぬ戦いの中、ぽつぽつと勝利の噂が漂いはじめていた。
そこへ突如現れた勝利を告げて回る男装の麗人に民衆は驚き、困惑した。だがすぐに彼女の熱狂が感染する。
「本当に勝ったのか?」
「あ、あ、あ、ありゃあ月巧妃様だ……!」
「おお、おおお、おおおお! うおおおおおおおおお!」
「大昭万歳!」
「万歳!」
「皇帝陛下万歳!」
「万歳!」
騎乗した雪瑜は高らかに声を上げて市内を練り歩き、その後ろを慌てて追いかけてきた護衛と従者、皇帝である風演、そして市民たちが続く。
雪瑜を先頭に長蛇の列となった行進は続く。
その瞬間は、誰もが雪瑜の発する雰囲気に吞まれ、彼女に従属していた。
皇帝さえも従えて雪瑜は行進する。
「ははは、はーっはっはっはっは!」




