第七十六回 白猴哭す
「カラブラン! ここで引くなら天香妃の命は助けてやるぞ!」
「馬鹿な! カラブラン、立て! 諦めるな!」
「無駄だよ靖ちゃん。そいつには自分の命より大切なものがある。命を賭けることはできない」
雪瑜は恐ろしいほど無造作に宗靖に近づいた。
「隊長、私と代われ。久しぶりにこの男と踊りたい」
「いや娘子将軍、こいつめっちゃくちゃ手強いっスよ。危ねえです」
「そんなことは分かっている。隊長が手こずるぐらいだからな。だが私は殺されぬ。殺せるものか」
と言いながら雪瑜は宗靖に微笑みかけた。
「なぁ靖ちゃん? 愛しの玲が私の中に居るのだから。お前にもまた、命より大切なものがある……ふざけた奴らだ。自分の命以上のものは賭けられないとはな。そんな温い考えで私を倒せると思ったのか? 私は自分の命も! 他人の命も! 愛する我が君の命さえ賭け駒に換えて勝負したのだぞ!」
邪悪な笑みを浮かべつつ、雪瑜は鉄鞭を振りかぶりながら地を蹴った。
鉄鞭と剣が火花を散らしてぶつかり合い、戛然と音を立てる。
雪瑜はそのまま力任せに鉄鞭を押し込んだ。
「今度も私の勝ちだ。悔しいか、宗靖? ここまで私に迫りながらなお手が届かぬという事実が? だがその気持ちは分かるぞ。私にとってはお前がそうだった!」
雪瑜は力任せに鉄鞭を振り切り宗靖を吹っ飛ばした。
立ち上がりながら宗靖は叫ぶ。
「カラブラン、来い! 玲から雪瑜を引き剝がせ!」
「軽々しく我が名を呼ぶな。その名前は、我が君が授けてくださった名前だ! あのお方は私を玲ではなく、一個の人として扱ってくれた! お前にそれを期待したこともあった! そうすれば、そうすれば今頃三人で……!」
再び鉄鞭が振るわれた。宗靖が避ける。雪瑜は返す刀で鉄鞭を突きあげた。
宗靖は剣で受けたがあまりの威力に刀身が悲鳴を上げる。
「お前は私を悪意ある妖魅だと言う! とんでもない過ちだ! 私のことなど何も知らぬくせに! そこにいる馮嘉も、宇文亮も! 私を知る者は決して私をそのように思わぬ! 私は善性を証明した! その善性にお前は敗れたのだ!」
「お為ごかしを言うな。知っているぞ、その地位に就く為に貴様が殺した恵徳妃のことを! 貴様は自らの望みの為にまた人を殺めるだろう。今度はより多くの民を賭け駒に換えるだろう!」
「私は無益な殺戮などしない! 私の戦いはいつも身を守るものか……義のあるものだけだ!」
「嘘だな! 欲望につき動かされる、欲望そのものの貴様が!」
「なんだとぉっ!」
激怒した雪瑜は、その怒りを叩きつけるように宗靖に向かって何度も鉄鞭を振り下ろした。
宗靖は辛うじて剣で防いだが、力任せに振るわれる鉄鞭の前に、ついに刀身が砕ける。
はぁはぁと肩で息をしながら、雪瑜は防ぐ物のなくなった宗靖に向かって鉄鞭を振り上げるが……一旦振り上げられた鉄鞭は静かに下ろされた。
「……なんでそんなに酷い事ばかり言うの。どうやっても私を認めないのか」
雪瑜の火眼金睛はいつもよりも赤く、腫れあがっていた。燃えるような瞳から液体が溢れる。
雪瑜は涙をぬぐう。
「いつか靖ちゃんに私のことを認めさせてやる」
腫れあがった眼でそういうと、倉庫の出入り口を指した。
「そこの役立たずを連れてさっさと失せろ。どこぞで私の成す偉業を見ているがいい」
「……」
宗靖は雪瑜を警戒しながらカラブランに近づきそっと肩を貸した。
カラブランの肌に触れると、彼女がじっとりと脂汗で濡れていることに気が付く。服の上からではわかりにくいが、どうやら相当の重症を負っているようだった。
どのみちこれ以上は戦えそうにない。
「ここで逃がしたこと後悔するぞ」
宗靖の捨て台詞を雪瑜は皮肉で返した。
「後悔させて欲しいものだ」
そうして宗靖とカラブランは夜の街に消えた。
二人が去ると馮嘉がかぶり振った。
「いいんですかい、あいつはまた将軍を殺しに来るかも知れませんぜ」
「それを期待している」
「ええ……」
「愛されぬのならせめて憎まれたい。想われていることには変わりないさ」
そう言ってから雪瑜はハッとして、それが言うべき言葉でない事に気が付いた。
「隊長、いまのは聞かなかったことにしろ。というか今夜ここで起こったことは全てなかったことにしろ」
「分かってますって。さあそろそろ、戻りましょう。陛下が心配しますよ」
「そうだな……」
雪瑜は城内に戻ると、侍女たちに体を拭かせ香油を塗った。眠る皇帝の口に軽く口づけしながら床に戻る。
そして短い眠りの後、全てに決着をつける為再び目を開いた。
石豹軍は戦う前から消耗していた。
龍鳴関に向かう際は、積み上げた勇名と恐怖により昭国民は委縮し、無抵抗だった。進軍するにあたって懸念は殆どなかった。
しかし皇帝自らが親征し常安を奪還。さらに石豹軍の一部が逃げ帰ったことで昭国民の感情にも変化が生じた。
石豹軍の行く先々で激しい抵抗を行う者が現れたのである。
いまだ大軍を誇る石豹軍にとって一つ一つは微々たる抵抗だが、それが何度も繰り返されることで確実に石豹軍を蝕んでいた。
行くときにあった村が、常安へ戻る際には徹底的に破壊され破棄されていたこともあった。
雨風を凌げる家屋は燃やされ、残った井戸には毒が投げ込まれていたのである。
住民自らの手による焦土作戦は石豹を驚かせた。
かつての伊玄曹をはじめ、宮廷の高官の中には風演を暗愚な馬鹿殿だとせせら笑う者が少なからずいる。
石豹自身も内心そう思っていた。
しかし蓋を開けてみればどうだろうか。昭国民は皇帝と共に起った。
「あの皇帝……いや、昭王朝が積み上げてきた陰徳がこれほどとは……」
息子さえ戦場から逃げ出したいまの自分とは雲泥の差だ。
なんとか常安に辿り着いたとき、石豹は己の周囲を最も信頼できる親衛隊で固め、常に身を守らせていた。
これもまた開戦初期とは様子が違う光景だった。
普段の石豹は必要最低限の護衛しか置かず、それさえない時も多い。
護衛を増やさざる得なかったのは、身の危険を感じたからである。
『石豹をこちらに引き渡せば、反逆に加わったことは赦そう』
昭軍は繰り返し繰り返しそう述べ、その言葉は石豹軍に浸透していた。
もう石豹は己の部下ですら信用できない。そのことが彼の精神に多大な負荷を与えていた。
笑みは消え、眠りは浅くなり、些細なことで怒鳴ることが多くなった。
「将軍……」
「なんだ?」
石豹は報告に来た伝令をジロリと睨む。
「ほ、報告します」
恐怖で唇の渇いた伝令はなんとか舌で唇を湿らした。
「龍鳴関に敵の援軍が到着し、勢いを得た欧陽乙は我が方の陣を壊滅させたと……」
石豹は立ち上がると、その伝令の首根っこを掴み引き倒した。
「二か月もかけた準備が消えたというのかぁ!! 喫邪は何をしている!? あいつはどこへ行ったァ!」
「ひっ。そ、それは分かりません……」
「ふざけるな! ふざけるなよ!」
怒りに任せた石豹は剣を引き抜きかけたが、すんでのところで堪えた。
伝令の報告は体を切り刻まれるような痛みだが、部下に当たったところで状況は好転しない。まだその分別は石豹に辛うじて残っていた。
神都を攻撃するという考えに固執し、軍を分けたのが間違いだったのか……!
どの道こうなるようであれば、全軍を引き連れてくるべきであった……!
いや、そもそもなぜわしは軍を分けた……?
神都を攻撃する意味はなくなっていたはずなのに!
あちこちで戦線は崩壊している。
石豹に残った最後の希望は皇帝を捕らえることであった。
「この常安の攻撃はなんとしてでも成功させる。皇帝を捕らえることができれば我らの勝ちだ」
将軍たちの前で石豹はそう告げた。
「我らが一丸となれば止められるものなどいない! ノコノコと現れた皇帝に思い知らせてやるのだ!」
石豹は熱弁を振るって配下の将兵を励ました。
「此度の戦、まだわしは戦闘では負けていない。今度も勝つ!」
補給線はズタズタで軍団は孤立しかけている。だが、皇帝を捕らえることができれば全てが変わると。
そう自分自身にも言い聞かせると、石豹は常安の方を向いた。
易々と我らを容易に組み敷けると思うなよ……雪瑜……!




