第七十五回 天網
雪瑜を消し去るという計画に深く関わりながら、亮は常に悶々としていた。
本当にあのお方を葬ってよいのだろうか?と常に自問する。
確かに雪瑜様は時に強硬な手段を取る。特に政敵に対して容赦がない。だが、それが殊更に酷薄な性質だろうか。廷臣ならば多かれ少なかれ皆行っていることではないか。
むしろ敵対者以外に対して雪瑜様は優しさを見せることの方が多いのではないか?
多くの者が蔑む宦官にも分け隔てなく接するではないか──そして、兄の働きにも雪瑜様は報いてくれた。葬儀の費用を負担し兄の遺徳を評価してこうして自分もこうして召し抱えて頂いた。
そのような方を裏切ることなんて、ぼ、僕にはできない。
亮は悩み抜いた末、抹殺計画が決行される直前にその全容を雪瑜に打ち明けた。
玲たちの計画を知った雪瑜は険しい表情をしたあと、まず亮を叱った。
理由は自身を消す計画に加担したことではない。玲を裏切ったことに対してである。
「玲は我が半身。それを裏切るとは許し難い大罪だ」
「申し訳ありません……ですが」
「分かっている。よく知らせてくれた。お前がいなければ大事になっていただろう」
「は……」
「それにしても玲が何かを企んでいたことは知っていたが、まさか宗靖と連絡するところまで動いていたとはな。おまけにカラブランときたか」
雪瑜にしてみればこれはかえって面倒な相手を一網打尽にする好機。
兵を揃えて待ち構えるだけでいい。
「……」
しかし、雪瑜はそうはしなかった。
「相手はカラブランと宗靖の二人なのだな?」
「はい。そういう手筈になっております」
「ならば私と馮嘉隊長だけで始末をつける。コトの詳細は誰にも話すな。門番どもには今夜玲を通すよう、私から言っておく」
「そ、それはあまりにも危険ではないでしょうか? あの二人は手練れです!」
「そうだな。しかし……友に会うのにぞろぞろと兵を引き連れていくもの無粋だ」
ほんの一瞬だけ、雪瑜の瞳にやるせなさが浮かんだ。
そして現在。
振るわれた白刃に宗靖が体勢を崩した瞬間、馮嘉は雪瑜に鉄鞭を投げ渡すと、改めて宗靖と対峙した。
「さあ行くぜ喫邪!」
巨大な刃が再び唸りを上げた。
巻き起こった剣風のすさまじさに宗靖の顔が引きつる。
剛力を存分に生かした速く鋭い打ち込みだ。隙がない。
僅かな例外を除いて、戦いでは体が大きいことが有利に働く。宗靖も小柄ではないが、巨躯の馮嘉と比べれば二回りは小さい。
その馮嘉がさらに巨大な陌刀を握っているのだから、両者の間合いの差は倍以上である。
かつて宗靖はその差を埋め、馮嘉を出し抜いたが、再びそれを行うには馮嘉は強くなりすぎていた。
「どうした! 逃げ回るだけか!」
馮嘉の叫ぶ叱声にも返す言葉がない。
あの威力、仮に仮に剣で受けたとしたら、刀身ごとなます切り。かといって差し返す暇もない。
できることは避けの一択。
「……ちいっ!」
これまで人ならざる速さと膂力を持つ雪瑜を念頭に剣の修練を積んできたが……馮嘉はただ速いだけ、馬鹿力だけではない。きちんとした技術に裏打ちされた強さだ。
馮嘉が剣を振るった分だけ、宗靖は退いた。退くたびに歯を食いしばった。
あと一歩、あと一歩で願いが叶うのに、その一歩の前に陌刀を掲げた馮嘉が立ち塞がっている。その剣を避けるたび目標が遠ざかっていくかのようだ。
ドン、と宗靖の背に何かが当たる。
宗靖はいつの間にか柱を背負ってしまっていた。それまで剣をかわしていた足が止まり、拍子が狂う。
ク、クソ!
「オラァ!」
馮嘉が気合と共に繰り出したのは、柱もろとも宗靖の体を両断するかのような横薙ぎ一閃。
ええい、ままよ!
受けることも避けることもできぬ、と判断したその瞬間、宗靖は身を投げ出した。
体を半身にねじりつつ迫り来る刃の上を転がる。
宗靖は死が自分の体に触れるのを感じた。だがそのまま死の腕からするりと逃れる。
馮嘉の剣は空振り、間合いが詰まる。絶好の機会。宗靖の剣が初めて反撃に転じた。
白刃が閃き──空を切る。
「!!」
宗靖の剣は馮嘉に届かない。
馮嘉の尋常ならざる迫力が、宗靖に常より広い間合いを取らせていたのである。
「おおおおおお!」
馮嘉は体ごと陌刀を振り回し、再び宗靖を引き離した。
死線を超えた先にあった勝機が一瞬にして霧散する。
「はっはっはぁーっ! あぶねえあぶねえ! やっぱりお前はすげえな喫邪!」
なおも溌溂とした馮嘉に対し、宗靖は一瞬で老け込んだ気がした。
一方、馮嘉から投げ渡された鉄鞭を手に、雪瑜はカラブランと対峙していた。
「殿方らは積もる話がある様子。こちらは女同士で楽しもうか、カラブラン? 一別以来だな、天香妃は息災か? おっと、いまのあやつは三妃ではなく反逆者の娘であったわ。いつか会える日が来るのを楽しみにしているぞ。くっくっく」
主も含めて、雪瑜はカラブランを嘲笑した。
しかし、カラブランはそのような安い挑発に乗らなかった。宝石のような浄眼は揺らぐことなく雪瑜の姿を捉える。
「黙れよ。そのようなことの前に自らの身を案じておけ! どのような妖も我が浄眼の敵ではない」
「そうかもな。だが、厄介なのはその眼だけだ。お前自身ではない。種の割れた手品が二度も三度も通用すると思うな」
「ならば試して見るがいい!」
カラブランの浄眼がその威力を発揮する。
が、瞳が輝く瞬間、雪瑜は素早く上衣を脱いだ。乳房が露わになるがそんなことは気にしない。
そして脱いだ上衣を大きくはためかせ、カラブランの視線を遮る。
「こんな子供も騙しで我が浄眼を!」
カラブランは双剣を抜き上衣に向かって斬りかかるが、それより先に雪瑜の足がカラブランの腹部を蹴り上げた。
「うぐあっ」
苦悶の声を上げながらカラブランは倒れこむ。
「ははは、どうした? 子供だましで十分防げるではないか。さあ顔を上げろ。私の姿を捉えねばその浄眼は役に立つまい?」
ぎりっと歯を食いしばり、カラブランは何とか立ち上がった。
彼女らしからぬ険しい表情で痛みに耐え、再び雪瑜に向かっていく。
「何度やっても同じだ」
再び上衣がはためき、カラブランの視界を塞ぐ。
しかし今度は無謀に飛び掛かることはせず、カラブランは雪瑜の内に潜む存在に助力を乞うた。
「玲殿、玲殿聞こえるか! 雪瑜の動きを封じてほしい!」
瞬間、雪瑜は体が鉛のように重くなるのを感じた。玲のなけなしの反抗だろう。
だがいまはそれ以上に力が漲るのを感じる。いまの自分に比べて玲の抵抗のなんと弱々しい事か。
もはや我々は対等ではない!
私が上だ! 私が万民の上に立つように!
「ふははは、無駄だ無駄だ! もはや玲にも私を止められぬわ!」
叫びながら今度は雪瑜が踏み込んだ。
豺狼の唸りのような恐ろしい音を立てて迫る鉄鞭の一撃を、カラブランは二本の双剣で辛うじて受け止める。
いまだ!
浄眼よ、この妖を……。
そう願い眼を見開いた刹那、再び雪瑜はカラブランを蹴り上げていた。
二度同じ場所を蹴られたカラブランはたまらず床に転がってのたうつ。
「ぐああ……」
「お前達の負けだ。こうなることは分かっていた」
雪瑜は悶絶するカラブランを見下しながら言った。
「人は己の居場所から見る光景しか見えぬ。私は全ての頂点に立った。それはこの世で私にしか見えぬ景色、天と同じ視点だ。その高みから私には全てが分かる。全てが私に傅いていく。もはや誰にも止められぬ」
「不遜な……き、貴様は皇帝ではない。その妃にすぎぬ……皇后ですらない! その地位も石豹と鴉兵が打ち砕くだろう!」
そういわれても雪瑜は怒りの色さえ見せない。くす、と嗤笑を返すだけだ。
「石将軍か。良い関係が築けるものと、あれには期待していたが、奴には少し辛抱が足りなかった。岩に当たって砕ける波のように奴の軍は消え去るだろう。至高の座から見下ろす私には見える」
「鴉兵の軍が消えるだと。しょ、正気を失ったか!」
カラブランは落ちていた双剣を握り直し、再び立ち上がろうとした。
だが雪瑜は優しく制止する。
「この上もなく正気だ。お前のことも分かるぞ、カラブラン……これ以上はやめておけ。ここで命を張ってどうする? 天香妃を一人にするつもりか。あの女はお前なしでは生きていけぬだろう」
「な……」
カラブランの戦意が揺らぐ。確かに雪瑜はカラブランの心を見透かしていた。
そんなはずはないのだが、ひょっとすると雪瑜は主の居場所まで知っているのではないか──僅かでもその疑念が生じるとカラブランはもう戦えない。
雪瑜はカラブランを無視して宗靖と馮嘉の戦いに目をやった。
「さあ。そろそろ気は済んだか、靖ちゃん。今日もお前の負けだ。さっさと尻尾を巻いて逃げろ」
「……ふ、ふざけるな」
馮嘉を見据えながらも、その声は明らかに雪瑜に向いていた。
しかし宗靖はすぐ雑念を振り払い全身の神経を集中させ、馮嘉の呼吸を読む。
微かに前傾になった姿勢から一歩踏み込む。
馮嘉はまだ動かない。
二歩目を踏み出す。
馮嘉の剣先が下がる。
二歩目が床につく。
馮嘉が歯を食いしばる。陌刀が唸った。
宗靖はどこまでも低く低く、蛇のごとく地を這う。
馬もろとも騎兵を打ち砕く陌刀が、頭を掠める。死の刃をくぐりながら宗靖が放ったのは真夏の曙光のような熱く激しい一閃。
対する馮嘉の目は虚ろだった。明らかに宗靖の動きを追えていない。
しかし。
宗靖の刃は空を切った。
馮嘉は対手の姿を見失った瞬間、恥も外聞もなく身を退いていたのである。
体格の差は残酷だった。
宗靖が馮嘉を斬る為には死線をくぐる必要があるが、馮嘉にその必要はない。
その死線を超えた先の一撃さえ容易く避けられる。
技量でいえば宗靖が上。しかしその差は体格の利を覆すには至らず。
「ほ~~~。本当にすげえよ、お前。こんなに敏捷い奴は見たことがねえ。娘子将軍より上かもしれねえなあ!」
馮嘉の心からの称賛は慰めにはならなかった。
こんなことを何度も続けられるはずがない……。
宗靖は勝ち目が消えたことを悟った。




