第七十四回 漏洩
親征軍の偵騎は五十里先に石豹軍を捕捉した。
彼らの行軍は速い。遅くとも二日後には両軍は激突するだろう。
常安の陣営には自然とピリピリとした空気が流れる。
だが、対する石豹軍はそれよりもさらに緊張が張り詰めていた。
特に馬上の石豹は額に皺を寄せいかにも近寄りがたい。
苛立ちの原因は決戦を目前に龍鳴関を引き返したことも理由の一つだが、しばらく前から喫邪と連絡が取れないことが大きい。
しくじった……!
こんなことなら軍を分けるべきではなかった。
と、石豹は唇を嚙む。
いま冷静に考えれば未練がましく龍鳴関に兵を残したのは失策であった。
常安に皇帝がいるのなら、神都を攻略する意味はない──なのに、拘ってしまった。
あそこを攻め落とさねばならぬと思い込んでいた……あの天上の如き絢爛たる都がわしの目を眩ませた……!
龍鳴関に残した兵も常安に戻さねばならぬ。
そして喫邪はどこに消えた。
まさか捕らえられたか。
石豹はそこまで考えて、首を振って打ち消した。
いや、もっとありえそうなことは裏切りだ。
確かにこれまでの喫邪はわしに忠実であった。
しかし、息子でさえこの父の命令を聞かずに逃げ帰ったのだ。あの男も心変わりしない保証がどこにあろうか。
もしそうならば……。
石豹はギリギリと歯を食いしばる。
戦場での貴重な時間を浪費した焦りと、次々に湧いてくる疑惑が、石豹の心に影を落としていた。
一方その頃、石豹の元を離反した宗靖は斎戒して心身を清め、瞑想し神経を研ぎ澄ましていた。
これまでの雌伏も全てこの時の為。
どのような結果になるにせよ、これで全てが終わる。
白猴よ。
欲望果てしなき猿よ。
お前がどれだけ権勢を握ったとしてもそれは幻。
なぜならお前は夢。玲が一夜のうちに見た悪夢にすぎぬからだ。
今こそ悪夢は去り、曙光が差す夜明けの時。
瞑想していた宗靖の横にカラブランが座り込む。
しばらくカラブランは黙っていたが、やがて口を開いた。
「あまり張り詰めすぎることのなきよう」
「その浄眼には俺の心などお見通しか」
「いまの宗靖殿を見ておれば、浄眼がなくとも分かります。釈迦に説法かもしれませぬが、情念は剣先を曇らせます」
「かもしれぬが、その情念が俺をここまで鍛え上げた。今更捨てることなどできはせん。俺は僧侶じゃないんだ。それに……」
宗靖は目を開いて傍らのカラブランの方を向いた。
「お前こそどうなんだ? 俺にはお前の身の内に復讐という情念の炎が燃えているように思えるのだが」
「その通りでございます。主家の零落、兄の死……怒りを抑えることなどできぬ相談」
「それでお前の浄眼は曇らないのか?」
「そのようなことはありませぬ。なぜならこの浄眼こそ我ら一族の情念そのものだからでございます。祖国を失い流浪の民となった我が一族が、なお決して手放すまいと二千年磨き続けた力でございますれば」
「ならば……これは酷い戦いになりそうだな」
宗靖はため息交じりにそう言った。
「白猴もまた同じ。その原動力は激しい怒りと恨み。幼年期に受けた屈辱と無念を権勢を得ることで晴らそうとしている」
「情念と情念の戦いというわけでございますか。なるほど、これは武徳ある戦いにはなりそうもない。醜く浅ましいものになりましょう」
「ああ。仏徒の説くところの修羅道よ」
宗靖が自嘲気味に笑ったとき、二人の前に石炎が現れた。
「そろそろ時間だぜ、準備はいいか」
「無論だ」
宗靖は立ち上がり石炎に振り返った。
「色々世話になったな」
「付いていかなくていいか?」
「これは俺たちの戦いだ。もうお前はさっさと身を隠せ。俺たちと一緒にいるところを見られたらまずかろう」
「それじゃ俺はもう行くぜ。お互い生きてたらまた会おう」
「どこへ行く? もう石将軍の元には戻れまい」
「しばらく身を隠し、廖克の仲介で昭に投降する。あとは舌先でなんとかして見せるさ」
「そうか。敵同士にならぬことを祈っている」
「勝てよ宗靖。最後は玲ちゃんに助けてもらう予定なんだからな」
こうして宗靖と石炎は袂を分かった。
誰もが来る戦に思いを馳せ、眠れぬ夜を過ごす中、雪瑜だけは深い眠りに着いていた。
できることは全て行った。あとは天命を待つのみだ、という神経の太さゆえの熟睡である。
玲はその隙を突き、布団の中で体の主導権を奪って身を起こす。
傍らにいた風演がぼんやりとした浅い眠りのまま声を掛ける。
「雪瑜?」
「用を足してまいります、大家」
玲は雪瑜の振りをして風演の額に軽く口づけすると寝室を出た。
部屋から出ると、名も知らない従者が明かりを持ち玲の前に立ったが、玲はその従者から灯明皿をひったくると同時に下がらせた。
「子供じゃあるまいし一人で行けるわ。あなたは控えていなさい」
「ですが……」
「月巧妃の不興を買いたくなければ大人しく言うことを聞きなさい」
と言って凄むと従者は顔を引きつらせてすごすごと下がる。
チクリと玲の良心が痛んだ。
深夜とはいえ戦は近い。城内はそれなりに起きている人間もいたが、玲は月巧妃の名前をもって見咎める人間たちを黙らせて先へ進む。
よし、順調だ。
なるべく人目を避けながら、城内を進み、ついに雪瑜は門衛の前までやってきた。
事前に考えていた言い訳をもう一度胸の中で反芻してから玲は、門衛の前に進み出る。
「何も言わず黙って私を通しなさい。」
なるべく、高圧的に聞こえるように玲は言った。
「月巧妃様!」
「聞こえなかったの? 大事な用があるの。通しなさい。さもないと……」
「はっ承知いたしました!」
玲は拍子抜けした。
想像より門衛があっさりと自分を通したからである。
順調だが、順調すぎる。
何かおかしい。
城を抜け出した玲はほっとしながらもどこか違和感を覚える。
……簡単すぎる。
裏門から城を抜け出すと、物陰に亮が待っていた。
こちらです、と事前に宗靖と示し合わせた場所に玲を導く。
「貴方にも迷惑をかけたわね、亮」
「いえそんなことは……」
「まだどうなるか分からない。案内を終えたら貴方はすぐに離れなさい。雪瑜に気が付かれる前に」
「……いえ、最後までお供いたします」
「ダメよ。もし今夜しくじって貴方まで巻き込まれたら私の味方はいなくなってしまう」
「玲様……」
亮はどこか上ずった声を発し、鼻をすすった。
その後、亮はほぼ口を閉ざし、「右です」「左です」という機械的な案内の言葉だけを喋っていた。
亮が導いたのは運河に接したとある倉の中である。
往時には常安に運び込まれた荷が山のように積まれていたのだろうが、いまは倉の中は空っぽでがらんとしていた。
倉の中には仄かな明かりが灯され、武装した宗靖とカラブランの二人の姿を映し出した。
意外な人物の登場に玲は驚く。
「か、カラブランさん? まさか貴方が」
「お久しぶりでございます、玲様。我が主の危難を救っていただいた借り、今夜返したく参上いたしました。貴方様の体に巣食う妖怪を、今宵払って御覧にいれましょう」
「そういうことだ。カラブランの浄眼の力なら白猴をも払えるだろう」
「た、確かに。以前、それは成功しかけたことがあるわ」
「さあ、玲。白猴に代わってくれ。奴は暴れるだろうが俺が抑えてみせる」
「そして払い終えるまでは、玲様は表に出ることなきよう。以前妖怪は玲様を盾にしたゆえ」
「わ、分かった」
まだ何が起きるか分からない。玲の体は微かに震えていた。宗靖は安心させるように玲の肩に手を置いて笑いかける。
「大丈夫だ。何も心配することはない。もし上手くいって解放されたら何がしたい?」
「もし……雪瑜がいなくなれば陛下は悲しむわ。あの人を慰めてあげたい」
玲の言葉に心に痛みを覚えながらも、そのことはおくびにも出さず、宗靖はなおも気丈に微笑んだ。
「そうか。では皇帝の為に祈ってやれ。後のことは任せろ」
「うん。じゃあ、行くわよ──」
玲は自らの意識を精神の中の深みへと潜らせた。
その奥で眠っている雪瑜を見つけると、彼女は雪瑜の耳元で大声を叫び叩き起こす。
驚いた雪瑜の意識が覚醒し、乙女の肉体に交代の変化が生じた。
仄暗い倉庫の中には土の匂いが充満していた。
香を焚いた宮室の中で活動していて久しい雪瑜は、その匂いに不快感を感じて眉を顰める。
「……臭いな」
「その臭い場所でお前は消えるのだ」
「年貢の納め時だぞ、白猴よ」
宗靖は剣を抜いて睨んだ。
カラブランは浄眼を見開いた。
雪瑜は二人の姿を認めたがその顔に動揺はなく、代わりに冷笑が浮かんでいる。
「ふふふ、私は忙しいのだがな。靖ちゃんにカラブラン。私に追い散らされた者どもが性懲りもなく現れたか。その運と度胸だけは認めてやろう」
「馬鹿なことを! 丸腰で我らに勝ち目があるとでも思っているのか」
「ふっふっふ。いまや私にできぬことなどない。年貢の納め時と言ったな靖ちゃん? だが生憎といまの私は万民から年貢を取り立てる身分なのだ。馮嘉隊長!」
「おおおおっ!」
雪瑜が叫ぶと野太い雄たけびと共に馮嘉が古びた倉庫の中へと乱入し、背後から宗靖に切りかかった。
不意を突かれた宗靖は巨躯の親衛隊長が振るう巨大な陌刀を辛うじてかわす。
「な、なに!?」
「残念だが靖ちゃんの考えなど先刻お見通しだ。さて馮嘉隊長、これが武挙の折にお前に恥をかかせた仮面の男の正体ぞ。存分に雪辱を果たすがよい」
「できるなら貴様とは共に切磋琢磨したかったぞ! だが、娘子将軍に手を出したとあっちゃあ見過ごせねえ。覚悟しろ喫邪! あの時の俺と同じだと思うなよ」
気力充実した馮嘉とは対照的に、計画が漏洩していた事実に宗靖は大きな動揺を隠せなかった。表情に焦燥が浮かぶ。
憧れの人のそのような姿を見るに忍びなく、亮は泣きそうになりながら俯いた。




