第七十三回 大きな戦い、小さな陰謀
怒りに震える石豹は常安へ向かい、怯える皇帝はそれでも戦場にて迎え撃つ。
巨人たちの大いなる戦いが始まろうとしている足元で、石炎は慌ただしく奔走していた。
折よく常安周辺にいた宗靖とカラブランを見つけ出すと彼は即座に駆けつける。
「おおい!」
呼び止められた宗靖は一瞬緊張したが、見知った相手だと分かると仮面の下で微かにほっとする。
「石炎か。死んでいたという話は聞こえていなかったが、やはり生きていたか」
「ああ。間一髪な。それよりもちょっと来い」
そう言って石炎は人気のない竹林に宗靖を引き込んだ。
カラブランは二人の会話を聞くまいと少し離れたところに行こうとしたが、石炎が引き留める。
「お前もだ。お前も来い」
「分かりました」
「常安のことは聞いた。皇帝が突然戦場に現れたらしいな」
「ああ。天から降ったか地から湧いたか、ってやつだ。奇術としか言いようがねえ。親征軍はこの上もなく意気軒高。ちょっとやそっとじゃ止められなかった」
「……石穆は残念だったな」
「あんな奴のことなんかどうでもいい。それより今後のことだ」
棘のある言い方に宗靖は違和感を覚えたが、それ以上触れることはしなかった。
「まあそうだな」
「正直、お前がまだこんなところでグズグズしているとは思わなかったぞ。とっくに親父と合流していてもおかしくはない……何かあったのか?」
「大した理由があるわけでもない。龍鳴関に詰めているのが欧陽乙殿とその一党と聞いて、やるせないと思っていただけだ。あの人と戦うと思えば足が重くてな」
「その判断は正しかったかもしれないぜ」
「なぜそう思う?」
「皇帝を常安に連れてきたのは雪瑜だ」
「やはりな。今回の奇術、いかにも雪瑜のやりそうなことだと思っていた」
「だからな……神都まで攻め上らなくとも、月巧妃に会えるかもしれん。つい先日、俺は欧陽玲が使っている宦官と会った。全てが上手く噛み合えば……」
「ここで雪瑜を倒す機会が来る、と?」
「そういうことだ」
宗靖の胸が高鳴った。
ついに願いを遂げられるかもしれないと思えば、心が逸るのを抑えられない。
皇城の外、常安という遠征先ならば警備も常に万全とはいくまい。
さらに妖異を祓うカラブランという手段。
そして、時期。
全てが揃いつつある。
「今こそ千載一遇の好機。もし、理由を付けて雪瑜を一人釣り出せたら……」
「夢のような話だな」
感慨深く宗靖は唸った。だが石炎はあえて冷笑してみせる。
「といってもお前は親父の懐刀だ。このまま本隊に戻り、戦で名を上げる道もある。もしこの戦に勝てたら、お前は親父の樹てる国で元勲になれてもおかしくはない」
「石豹殿の元に身を寄せたのは立身出世の為ではない。本懐を遂げる為なら地位など惜しくはない」
「お前は馬鹿な奴だぜ、本当に」
石炎はそう言いながらも目は笑っていなかった。
「じゃあやるんだな。本当に?」
「無論だ。お前こそいいのか?」
「へっ俺はとりあえず欧陽玲ちゃんから命の保証を貰えたらそれでいい。それと少々のおこぼれもな」
「そうか……」
宗靖はふーっと深く息を吐いた。
例え朝廷に弓引いた謀反人となったとしても、石豹将軍には世話になった。
受けた恩を返せないことは心残りだが、もはや詮無き事。
「やるぞ、石炎」
「応」
宗靖は喫邪の仮面を脱ぎ、竹林に捨てた。
もう必要ない。
この時点で宗靖は石豹から完全に離脱した。
一方、廖 克は常安に行き、石炎と出会ったことを亮に伝えた。
「石炎と会った。玲様に直接お会いして伝えたいことがあるらしい」
「直接ですか……要件はなんでしょう」
「大したことじゃないだろう。どうせただの命乞いだ。暗に身の安全を保障してくれと言っていたからな。それでも万が一のことがあるから伝えた」
「そうですか、ありがとうございます」
「今しばらくは雪瑜様の時間だ。玲様と面会するのは不可能だろう」
「それがそうでもないのです。廖克さんはしばらくここでお待ちください」
「そうする。もう戦が近い。私だってこれ以上外に出たくない」
「ははは。いつも危ないことをさせて申し訳ありません」
廖克と別れた亮は常安の祖廟堂へと向かった。
堂内の片隅に作られた真新しい祭壇の前に月巧妃がしゃがみ込んでいる。
「雪瑜様……?」
「いいえ。私よ」
と、玲は答えた。
変化したばかりなのだろう。玲の纏う服は丈が合っておらず、ブカブカと袖が長い。
「よかった。玲様にお話があります」
「なにかしら。良い話だといいけど」
「それは僕には判断が付きかねます」
亮は石炎が会いたがっていることを伝えると、玲は「拒む理由はない」と了承した。
「ただし時間がもうないわ。会いたいなら早く来るように伝えて。私が表に出て居られる時間は少ない。最近は特にね」
「承知いたしました。急ぎます」
亮が去ると玲はため息をついた。
「……本当に私の時間は少なくなった……いまの雪瑜の心はかつての十倍も強い……」
ふと、玲は檻に入れられて皇帝の前に引き出された日のことを思い出した。
自分はあの時の檻よりも強固な檻で閉じ込められつつあるのかもしれない。
廖克と亮は慌ただしく走り回った。
傍から見れば戦を前にして月巧妃の世話に奔走しているように見えただろう。
再び宦官たちは石炎と会い、彼を連れて常安の城へと舞い戻った。
口で言うのは簡単だが、戦が起きる直前である。様々な意味で多くの汗をかく場面があった。
しかし最終的に彼らは全ての課題を突破し、月巧妃の偉名と金と口弁を使って任務をやり遂げ、石炎を玲の前に連れ出した。
「へへっお初にお目にかかります、欧陽玲様。俺ァ、宗靖と組ましてもらってる石炎と言います。この次からお見知りおきいただけたらこれ幸い」
「知っているわ。石豹将軍の一門の方でしょう。挨拶はいいから、要件を仰って。もっとも私にできることは限られているけれど」
「へへ。今回のことは親父とは無関係、宗靖絡みのことですよ。奴はずっと玲様の体からあの女を消したがってるんで」
「それも知っているわ」
「奴の言葉をそのまま伝えますぜ『時節到来。このような機会は二度とない。よくよく考えるべし』」
「……」
「それとこいつは俺の私見ですがね、あの雪瑜って女はかなり危なっかしい。このままに放置しておけば玲様の身にも危険が及びますぜ」
「そんなことは私が一番よく知っている」
既に多くの危険が玲の身に降りかかってきた。
雪瑜は玲を守るが、それは自分の身を守る為に必要だからだ。
玲には懸念があった。
私を消し去れるのなら彼女は躊躇しないだろう……そしてそれは近い将来訪れる可能性が高い。
彼女の意思が私を圧倒し、私の心を押し潰す。
そのような予感である。
「……確かにこれが最後の機会かもしれないわ。雪瑜の力はますます強くなっている。いつか私は雪瑜に飲み込まれて消化されるかもしれない」
そしていまの雪瑜は皇帝の如く振舞っている。やがて陛下を蔑ろにするのに時間はかからないだろう。私を蔑ろにしているように。
実際既にそのような兆候がある。
陛下に仕える月巧妃として──雪瑜の横暴を止めるのとしたら、いまかもしれない。
「どうやって雪瑜を消すつもり? 時間はかかるの?」
「いや、そんなにはかからない。こちらには強力な払除の巫女がいるんでね。その力をもって妖魔を祓うってワケで。上手くいけば玲様も晴れて自由の身」
「自由? まさか。結果がどうなろうと私にそんなものはない」
「そ、そう言わずに」
「別にそのことに文句はないわ。それで、私は何をすればいいの?」
「大筋としちゃあ誰にも、もちろん雪瑜にも意図を知られず、一人でこっちの指定した時と場所に来て、そこで雪瑜に変わるんです。できますかい?」
「一人で……」
難しい、と玲は思った。
だが、不可能ではない。前も一度やったことがある。
それにいまの雪瑜は戦のことで頭がいっぱいだ。付け入る隙はある。
「わかりました。やってみましょう」
「へ、へへへ。そんで首尾よく事が運んだら俺の助命を嘆願してくれりゃ大助かりで」
「上手くいけばの話ですが、微力を尽くします」
石炎が祖廟堂から出ていくと、玲は母の祭壇に焚き上げた。
どうか上手くいきますように。
そう願いつつ玲は再び雪瑜に体を預ける。
小さな体が再び膨れ上がり、魔性の女が戻ってきた。
「……」
雪瑜は獣じみた直感でその場の空気に何か違和感を感じ取った。
祖廟堂の外で待機していた亮に尋ねる。
「玲の様子がおかしい気がする。何か変わったことがあったか?」
「玲様は戦の趨勢を気にしておられます。万が一敗れた場合、陛下の身を逃がす手段は万全かとしきりに気にしておられるようで」
亮にとっては予め想定していた受け答えである。それゆえ滑らかに舌が動いたものの、内心は冷や汗ものだった。
「当然準備している。だが戦う前から逃げることばかり気にするのはよくない。もう少しどんと構えろとお前から玲に言ってやれ」
「は、はい」
「それで、他には?」
心の奥底まで射貫くような火眼金睛が亮に向けられた。
全身の毛がぞっと逆立つ。万が一ことが露見すれば死……。
「い、いえ。特にありません」
「そうか……ん、どうした亮。何を震えている?」
「ぼ、僕も戦は恐ろしいのです。相手があの石豹将軍となればなおさら」
そこで雪瑜はふっと表情を和らげた。
彼女が親しき者にだけ見せる少年のような顔である。
「お前も玲も心配性だな。もっと楽しいことを考えろ。そうだ、色々ごたついてしまったが、お前に嫁を取らせるという話、私はまだ覚えているぞ。楽しみにしていろ」
「自分には勿体ないお言葉……」
「いいか。この戦で決して死ぬことまかりならんからな。兄弟揃って私に恥をかかせることなどあってはならぬぞ!」
雪瑜はそっと亮の肩に手を置いた、白皙の腕は外から見るよりも力強く熱さが籠っている。
「勿体ないお言葉……」
亮はある種の陶酔を感じながら同じ台詞を繰り返し唱えた。
同時に心の内に疑念が生じる。
本当にこのお方は玲様や宗靖さんが言うような化け物なのだろうか?
もしそうでないとしたら……僕はどうすればいい?




