第七十二回 交錯する意思
皇帝の親征軍が突如出現し、常安を解放したという話は当初根も葉もない噂として受け止められた。
神都の重臣たちは勿論のこと、石豹ですら一笑に付したほどである。
だが、本当に常安が陥落したという報告と共に、敗れた敗残兵が続々と現れると石豹の顔色が変わった。
「常安は落ち、石穆殿はその戦いで戦死したとのこと! 石炎殿の行方は不明でございます!」
──まさか。そんなことが……。
常安は石豹の根拠地である大蘭と前線を繋ぐ重要な交通の要衝である。あそこを失えばこれ以上の侵攻が一気に難しくなる。
石豹は嚇怒してもおかしくなかったが、このときはそれよりも驚きが勝った。
あの皇帝が……このようなことを考えるはずがない。
やりおったな、月巧妃!
「すぐに禹に伝え常安を奪還させよ! 皇帝に率いられているとはいえ大半は烏合の衆! よく戦えば必ず綻びを見せる!」
「せ、石禹殿は……」
伝令は一瞬言葉に詰まった。
「石禹殿は兵を連れ大蘭に引き返しました」
出兵の際、一族の若輩ばかりを連れてきたことがここにきて響いていた。
石禹の周囲に粘り強く戦うことを勧める者がいなかったのである。
戦況の不利を悟った石豹の次男は早々に根拠地へ西域に逃げ帰っていた。
確かに常安陥落は想定外だ。
だが、それにしても、これしきでなんと臆病な!
「──馬鹿な! そんな、馬鹿な! 何という愚かな真似を!」
石豹は思わず立ち上がり、早々と戦の行方に見切りをつけた息子に呪いの言葉を吐いた。
そこに普段の好々爺の面影はない。
「おのれ! おのれええ! 奴の手が触れるもの全てが腐り落ちてしまえ! 百たび殺しても足りぬ!」
これで戦い前に描いていた絵図は完全に崩壊した。
一旦戦略を練り直し、全体を立て直さなければならない。
この龍鳴関さえ抜ければ神都まで一息なものを!
ここまで準備を進めて、決戦せず引き返すというのか!
おのれ、おのれ! なにもかも忌々しい!
「わしは常安を取り戻しに行く! もし喫邪が戻ったらここに留まって指揮を取れと伝えよ!」
怒りに震えながら石豹は命令を下した。
自ら半分の兵を連れ常安に向かうという決断である。
龍鳴関を後にする際、石豹が敵陣を睨みつけると、彼を嘲るようにパラパラと通り雨が龍鳴関に降り注いだ。
「クッ龍神がわしを笑っておるわ」
昭の天命は尽きずというのか。だが、まだわしが負けたわけではない!
肩を怒らせながら石豹は馬首を巡らせた。
「陛下が戦場に立っているだと……!」
やや遅れて、神都の宮廷人たちも、今いる場所はもぬけの殻であり、皇帝が遠く離れた戦場いることを認識した。
高官たちは事情を知っていた焦螟や魏高輔に詰め寄ったが、暖簾に腕押し。二人は笑って非難の言葉をかわした。
「これは全て我が君の御聖断。拙はただそれに従うのみよ」
「陛下がこのようなことを申されるはずがない! げ、月巧妃殿だな! あの方はどこにいる!?」
「無論、月巧妃殿は我が君のお傍に」
「魏宰相! なぜこのような無謀な真似を許した!」
「敵を騙すにはまず味方からだろうが。石豹も今頃青くなってやがるだろうよ」
「ぐ、ぐう~~」
二人を責めても詮無き事だと思い知った宮廷人たちは急ぎ皇帝の元に馳せ参じる準備を進めた。
この時代、首府など入れ物にすぎない。皇帝こそ帝国の中心である。皇帝が移動すれば百官たちも付き従わなければならない。
魏高輔は可能な限りの政治機能をそのままにしておくように指示されていたが、多くの貴族・官僚が一族郎党を引き連れて皇帝の元に向かった。
決戦の地は神都ではなく常安。
常安へ!
石豹も朝廷人たちも、様々な思惑をもって皇帝のいる場所を目指した。
帝国を割る変革か、朝廷が健在ぶりを示すのか。
否応なく人々は時代の大きなうねりを感じた。
次の戦いで何かが永久に変わる。
だが、そうした大きな流れと時を同じくして、小さな、しかし石豹と昭王朝との戦いに劣らず重要な戦いが始まろうとしていた。
「へっやっぱり常安は陥ちたか。言わんこっちゃねえ」
少数の部下と共に常安を脱出し、昭軍になりすまして付近に潜伏していた石炎はそう呟いた。
「あっ!?」
その時である、潜伏した先の村で偶然にも石炎は廖 克の姿を見つけた。
廖克は月巧妃──それも雪瑜ではなく玲の密使として動いていた宦官である。
石炎は廖克の前に進み出ると、身を投げ出すように叩頭した。
「廖克殿! ここで出会えたのは天の助けだ! 俺を覚えていますかい!?」
「せ、石炎か!」
「へへ。いやあ、あっちゃこっちゃ大騒ぎで、とんでもねえことになりましたな。俺も巻き込まれちまってどうしたもんかと困ってたところで」
「こうなったのは誰のせいだと思っている!」
「へえ、馬鹿な親父のせいだってことは俺も承知。その件に関しちゃ申し開きもございませんが、俺自身は一切民を殺めたりしておりませんよ、常安の連中に聞いてみてくださっても結構」
廖克は下手に出る石炎を一喝した。
「何と言われようとお前は官憲に引き渡す。私にできるのはそれだけだ」
「へへへ。それならそれでしょうがねえや。けどその前に月巧妃様、というか玲様に会わせて下せえよ。伝えることがあるんで」
「そんなことができると思うか!」
「やってくれなきゃ困りますなァ。重要な言伝なんでね」
「どんな内容だ」
「それは言えねえ。重要なことなんで」
廖克はどうしたものかと逡巡した。
ここで石炎を処分するのは容易いが、このことで後に玲に恨まれるかもしれないと思うと二の足を踏む。
雪瑜の陰に隠れているが、玲も皇帝の寵を一身に受ける月巧妃には違いない。
石炎はすかさずその動揺を突いた。
「分かってるよ、廖克殿。アンタも危ねえ橋を渡ってるってことは。なんせ玲様を担いで雪瑜様を出し抜こうって一派に組してるんだからな」
「わ、私はそんなつもりは……」
「アンタ自身はそうでも玲様も雪瑜様もそう思わんだろうさ。俺たちは同じ穴の狢だよ。なあ頼む、なんとか玲様と繋いでくれ。親父のトチ狂った行動のせいで妙なことになったが俺は元々妾腹で一族のはぐれ者。親父なんぞより玲様に仕えてるつもりだ」
「……言葉だけは伝えてやろう。しばらくここに居ろ」
「恩に着るぜ、廖克殿」
「ちっ」
複雑な表情をした廖克が去ると、心の中で石炎は心の中で歓喜した。
首の皮一枚でなんとか繋がったぜ、あとは宗靖と繋ぎを付けりゃあこっちのもんだ。
何が何でも生き残ってやる!
これ以上親父のバカ騒ぎに付き合ってられるかってんだ。
それに親父だって今更俺に頼るなんて都合のいいことは考えてねえだろ?
アンタが可愛がってた穆は死んだ。禹は逃げた。自業自得って奴だぜ。
石炎は生き残りをかけてこれから自分が取るいくつかの道筋を考えていたが、いずれの道を取るにせよ父親である石豹を支えるという考えはない。
というか石穆が討ち死にした以上、俺だけノコノコ戻っていったら殺されかねない。
父親に不信を抱いている石炎にはそのような思いがあった。
虚勢とバレぬよう、なるべく堂々と石炎は部下に命じた。
「喫邪を探せ。奴もこのあたりにいるはずだ」




