第七十一回 覇王之資
野戦で敗れた石穆は命からがら城内に逃げ戻ってきた。
石炎は強い調子で詰め寄る。
「お、おい。こんなに早く撤収してきやがって! やるならもっと……」
「黙れ! あのままでは常安を失っていた! 俺の判断は間違っていない!」
クソガキが。だからそもそも出撃するなって言ってたんだよ。
石炎は心の中で毒づいた。
「これからどうする気だ?」
「父上か禹兄に援軍を出してもらう。だが……」
「だが?」
「まだ俺は負けたわけじゃねえ。包囲だって完全じゃない……父上たちの手を借りなくても、まだ俺たちだけでなんとか出来るかもしれん」
そう語る石穆の表情は血の気が引いて青白く、体は微かに震えていた。
強がっていても明らかに恐怖を感じている。
戦場で命の危険を感じた直後なら異母弟のこの反応も当然か。石炎はそう思ったが、すぐそれが違うことに気が付いた。
「父上にはこのまま報告できない。まずは禹兄に相談して……」
こいつ……!
負けて死にかけたからビビってるんじゃねえ。
親父に負けを報告するのが怖くて震えてやがる!
味方に怯える。
それは戦に負けて弱気になっているよりも、敵に怯えることよりもさらに悪いことだった。
「おい、馬鹿なこと言ってるんじゃねえ! さっさと親父に使いを出せ! 皇帝が来てるんだぞ! このままじゃいつまで保つか分からん! ここが落ちたらこの戦は負けだ!」
「黙れ妾腹が! 俺に意見するな!」
石穆の発言はあっさり一線を越えた。
石炎の目が大きく見開く。
「てめえ……こっちが下手に出てりゃあ……!」
石炎は石穆に掴みかかり、拳を振るおうとしたものの、周囲の兵に遮られた。
五、六人がかりで引き離された石炎だったが、石穆も似たような状況で同じく兵に抑えられ大声でわめいている。
「俺に触れるな!クソ、離せ!」
「……もういい、勝手にしろ」
石炎は殴る気も失せて踵を返した。
「待て、どこへ行く気だ妾腹!」
「てめえに関係あるか」
「ふざけるな、軍令違反だ! 殺してやる!」
「俺は軍と関係ねえと言ったのはお前だろ」
背後でわめく石穆の声に、石炎はぺっと唾を吐き周囲の人間に告げる。
「お前らソイツに付いてここに残ってりゃ死ぬぞ。悪いことは言わねえから俺についてくるんだな」
「貴様! 逃げる気か、戻れ! 戻れえ!」
もう石炎は振り返ることはなく本営となっていた常安の城を後にした。
その後、石穆は部下をけしかけて石炎を捕らえようとした。
しかし、その追っ手に向かって石炎は言う。
「いいのかお前ら。石穆に義理立てしてなんになる。俺と一緒に逃げた方がいいんじゃねえか?」
「黙れ!」
と、名もなき兵は叫んだものの、その追っ手たちも今後について不安がっているのは明白だった。
「くくく。どのみち死ぬと思っているのかもしれねえが、俺はまだ死なねえぞ。常安の連中は俺が石穆の横暴から庇ったことを証言すると言っている。それに、こう見えて俺は月巧妃とも面識があるんだ。信じるかどうかはお前らの勝手だが、石穆に付くよりは分がいいと思わねえか?」
「……!」
追っ手の一団は石炎の言葉に転んだ。
こうして、石炎は十数人の兵を連れて混乱する市井にまぎれたのである。
さらに石炎が消えてから皇帝軍の攻撃までの間には数日のズレがあったが、その間に石穆軍には闇夜に紛れて脱走する兵が相次いだ。
もはや反撃どころではない──。
兵の統率すらおぼつかない状況になって、ようやく石穆は石豹に援兵を要請する使いを出したという。
だが、このような迷走の果ての指示が間に合うはずもなく……。
払暁。
やめてくれ、という皇帝の言葉を振り切って、雪瑜は戎衣を纏い最前線に立っていた。
雪瑜の頬はいつもよりも朱色が濃い。自分でも胸から熱気が込み上げてくるのを感じた。
ここには自分の求める全てがある。
自らの軍勢。助けを求める都市。そしてこれから打ち砕く賊軍。自分が正しさの中にあるという絶対的な自信。悪を正していく快感。
これこそ私が求めていたものだ。
「昭の臣民よ! あと一息だ! 今日我らは常安を取り戻す! さあ、共に行こう! 各人の奮闘を期待しているぞ!」
「オオオオオオオオオオオッッ!!」
皇帝軍が発する雄たけびは津波のように常安へ轟いた。
対する石穆軍の士気は低い。
防衛は殆ど形ばかりのものだった。
戦いの中で特筆すべき点はなく、勢いに乗る昭軍は草を刈るように石穆軍を引き裂き、常安を収穫した。
昭軍の中核となっていたのは確かに精鋭の羽林軍である。その他の兵の士気も高かったのも事実である。
しかしそれを考慮しても、鴉兵たちがこれほどのあっけなく敗れ去るのは前代未聞の出来事であった。
敵軍を駆逐し、昭軍が常安を手中に収めても、すぐに皇帝は入城しない。市中に刺客が潜んでいないか慎重を期していたためである。
しかし雪瑜は常安の城に自軍の旗が立つや否や、居ても立ってもいられずに叫んだ。
「大家はごゆるりと参りなさいませ。雪瑜は一足先に入城し、その為の準備を整えましょう!」
「ま、待て!」
そう言って雪瑜は風演の手を振り切って常安入りを果たしたのである。
「あまり陛下に心労をかけないでくだされ」
雪瑜と共に入城した劉幹将軍は苦笑した。
「御身に何かあれば我らの首が飛ぶ」
「大家の身代わりに死ぬのなら本望だ。それに、そうならぬようにするのが将軍の仕事だろう?」
「それはその通りだが……」
「ところでそろそろ馮嘉隊長を返してもらってよいか? 建物の外に出たいのだが」
「えっ!? 馮嘉隊長を護衛に戻すのは構いませぬが、外出は……そ、それは危険なので遠慮していただきたい……」
「ここは大家と私の国だ。出歩くのに誰かの許しなどいらん」
「そ、それは……」
「早く大家を迎えられるよう頼んだぞ、劉将軍!」
そう言い放つと馮嘉隊長を自分の護衛に戻した雪瑜は、今度は劉幹の静止を振り切って、市中に降りて行ってしまった。
彼女は自分の目で戦場となった場所を見たかったのである。
「思っていたよりも被害は少ないな」
常安市内を見回った雪瑜はそう漏らした。その隣には馮嘉隊長と亮を連れている。
護衛付きとはいえ、うら若き乙女が戦場になったばかりの通りをうろつくのは危険である。しかし雪瑜が戎衣を纏い供を連れて歩く様は、遠目には年若い将のように見えた。
彼女が女性であることに気付くものは少ないだろう。
「はい。石豹軍は常安を長期的な拠点の一つにするつもりで、略奪を控えたのでしょう」
「そこを突然俺たちが襲ったもんだから火事場泥棒する暇もなかったっちゅうことです」
亮と馮嘉はそれぞれ所感を述べたが、雪瑜の表情は厳しい。
「被害が少ないことは犠牲者の慰めにはならん。そもそも奴らがこんなことをしなければ、被害はなかったのだ。胸が痛むぞ」
さらに雪瑜は心の中で付け加えた。
──傷ついたのは私の臣民だ。
雪瑜はさらに歩き、戦の被災者たちが集まっている場所に辿り着いた。
「お前たち」
と、雪瑜はなるべく自然体で話しかけた。
突然現れた麗人の将軍に声を掛けられた被災者は驚いて頭を下げ、足早に立ち去ろうとする。
「待て待て。そう緊張するな。なにもしない」
「へ、へえ」
「今日の寝床はあるか」
「そりゃまあ、一応親戚の所に宿を借りようかと」
「あっしはしばらく友達の所に厄介に」
「俺はどうすっかなって思ってたところで、ガキもいるし……」
「それならば天幕を貸し出させよう。腹は減ってないか?」
「ぶっちゃけここ二、三日ロクに食うもんがなくて腹ぁペコペコで」
「……そうか。今日中に炊き出しを行わせる。もうしばらくの辛抱だ」
「そ、それはありがてえ!」
「失礼ですが将軍様はどこのお方で?」
「私は陛下の後宮と身辺を守る月巧妃という者」
「!!」
「月巧……どっかで聞いたことがあるような、ないような」
「ば、馬鹿! この方は皇帝の、お、お、お后様だ!」
「なっ……!」
自分たちと言葉を交わしているのが女だった事──それも、皇帝の妃であることに被災した町民たちは驚愕した。
「何から何までしてくださって本当にありがとうございます」
「ははは。感謝は私でなく陛下にすることだ。陛下ももうすぐこの市にいらっしゃる。そのとき無用な騒ぎを起こさなければそれがなによりの敬いとなろう」
「へ、へへえ」
さらに何人かの被災者と言葉を交わし雪瑜は本営に戻った。
早速被災者に風雨をしのぐ天幕を貸し出して負傷者の治療と炊き出しを行うことを劉幹に指示する。
「こちらもあまり食料に余裕はありませぬが……」
「苦しくともこれは必ずやらねばならぬ。大家の慈悲と徳を万民に示すのだ」
「そこまで仰るのであれば、承知しました」
「頼んだぞ劉将軍」
雪瑜には分かっていた。権力を維持する為の費用は決して吝嗇ってはならぬと。
戦で負けても再起はできる。だがいま民衆の支持を失えば、それは命取りになる。
半日後、市中の広場で炊き出しが行われると、再び雪瑜は人々の前に出ていき、自ら高らかに皇帝を称える歌を歌った。
雪瑜はあくまで皇帝に仕える者、というスタンスを崩してはいない。
しかし常安に住む者の目には、いの一番に市に駆けつけて民を慰撫した雪瑜こそ王者のように映っていた。
そして雪瑜はそのことも理解していた。
石豹め、今頃は歯ぎしりしているだろう。
だが、まだまだ報いは受けてもらうぞ。
この国の皇帝は大家……そして私だ。決して貴様などではない。




