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第六十九回 混迷する世界

 後宮の門は固められ、皇帝も月巧妃も姿を現さず、宰相のみが独断で切り盛りしているような状態に不安を覚える者は多い。

 朝廷内に渦巻く不満は日々大きくなっていた。

 特に月巧妃が姿を現さなくなったのは、大臣たちにとって意外だった。

 あれほど権力を望み、国務を仕切りたがっていた女が、皇帝に付ききりとは……。

 と、官僚たちは頭を傾げる。

 いまこそ暗躍し自身の権勢を拡大する好機なのでは?

 そう思案する者もいたが、とにかく月巧妃が姿を現さないのは不気味だった。もし不意に月巧妃が現れてその不興を買ったらと思うと二の足を踏む。

 とにかく判断材料が足りない。なんでもよい、情報が欲しい。

 そのような考えに囚われた者たちは朝廷内に数々の出所不明の噂を蔓延させた。

「皇帝は既に死んでいる」という者。

「いや、死んだのは月巧妃の方だ。だから悲しむ皇帝は姿を現さないのだ」という者。

 戦況についても同様で、「龍鳴関は陥落寸前、もうすぐ神都に石豹がやってくる」という根拠もない話が真実のように語られていた。


「もはや座しているわけにはいられぬ。もし劉将軍が敗れれば取り返しがつかぬ事態となる! その前に陛下を逃がさなくては!」

 ある高官はそう思いつめて、なんとか皇帝との面会を求めて無理やり後宮に押し入ろうとしたが、にべもなく捕らえられた。

 焦螟は見下すように捕らえた侵入者を睨み、詰問する。

「軽率だな、太常寺殿。なぜ、このようなことをしたのだ。このような行動が陛下の御心を煩わせるとは思わなかったのか」

「例え陛下に疎まれようとやるべきことをやるのが忠と心得ている!」

「いまの陛下は誰とも会わぬ。しばらく待つのだな」

「事は一刻を争うのだ! 陛下と会えぬのなら月巧妃様でもよい、なんとかお目にかかりたい!」

「いまは誰にも会うつもりはないというのが月巧妃様の御意向だ」

「しかし!」

「政ならば宰相と話し合えばよい」

「政のことではござらぬ、陛下の安全についてだ!」

「そこまで言うなら拙が伝えよう。さあ申されよ」

「戦況は悪く、このままでは石豹が神都に乗り込んでくるのも時間の問題。何卒陛下には都を移されることを献言いたす!」

「それは陛下の身を案じてのことか、それとも単に自分が逃げたいからそう申しているのかな、太常寺殿」

「臣を侮辱するか! 自分の身が可愛いならこのような真似はしない!」

「これは失言。謝罪いたしまする」

 そう言いつつも焦螟の表情からは謝意は見えない。

「しかし、声高に叫ぶ者ほどやましいところがあることもございますゆえ」

「な、なにっ!」

「太常寺殿のお言葉は拙が責任もって陛下に伝えておくゆえ、ご安心くだされ。それとまた同じことをすれば穏便に済ますわけにはいかぬゆえ、心しておかれよ」


 焦螟は捕らえた官僚を元の役所に突き返すと、嫦娥宮に戻っていく。

 人気のなくなった宮殿は墓のような静寂に包まれていた。

「くく、損な役回りよ。そう思いませぬか、我が君……」

 しかし、答えが返ってくることがなかった。

「焦螟様、どうなさいました?」

 老宦官が振り返ると、箒を手にした玉蘭がこちらを眺めている。

「いや、なんでもない。そうだ、またここに押し入ろうとする輩がまた現れるかもしれない。目を光らせておくように」

「はい!」

「もっとも、それももう少しの辛抱だと思うがな」



「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!」

「いざ! いざ進めえ!」

「あのようなものコケ脅しにすぎん!」

「衝車を守れぇぇぇ!」

「矢ァァァァァ! 矢ァァァを放てぇぇぇぇぇ!」

 その日、龍鳴関に龍の鳴き声は響いてなかったが、代わりに兵たちの絶叫が巻き起こっていた。

 石豹軍が攻城兵器の組み立てを行っていることを察知した欧陽乙は、配下の馬炎、令蛮に奇襲を命じた。いずれも欧陽乙とは二十年来の付き合いがあり、配下というよりも戦友に近い存在である。

 兵を率いた二人は欧陽乙の信頼に応え、目的であった攻城兵器の破壊を成功させた。

 しかし、すぐに石豹軍の逆襲が始まり、さらに欧陽乙が救援の兵を出したことから、両軍は静けさから一転、あっという間に敵味方入り乱れる乱戦となった。

「退かセロ。このままでハ損害が成果に釣り合ワナイ」

 たどたどしい口調でそう言ったのは令蛮だった。

 元々奴隷として南方の国から連れてこられた男だが、人間離れした怪力が周囲の目をひき、兵として頭角を現した男である。老いてなお筋骨隆々、二の腕は女性の太ももほどの太さがある。

 馬炎が頷くも、その表情には焦燥が浮かんでいた。

「分かっているが下手に撤退すれば総崩れだ!」

「俺ガ時間稼ぐ」

「待て!」

「待つ時間はネエ!早くいけ!」

 馬炎は下唇を嚙みながら馬首を巡らした。

「退くぞぉぉぉぉ!」

「それデいい」

 後方に去っていく戦友を見てほんの一瞬、令蛮は殿を引き受けたことへの激しい恐怖と後悔に襲われた。

 これでもう一度故郷の地を踏むことはできなくなった……。そう思えば体は萎え足元がぐらつく。

 しかし、もう一度顔を上げた時、全ての感情を闘志に変え令蛮は叫んだ。

「敵を近づけさせルな!」

 裂帛の気合を漲らせ、槍を振るって馬上で敵兵をなぎ倒すこと三十人。その後落馬しさらに己の足で戦場を駆けて切り殺すこと十七人。

 暴れに暴れた後、ついに命も尽き果てて、令蛮は戦場に倒れ伏した。

 甲斐あって多くの味方が彼の稼いだ時間によって救われていた。

 戦場を遠望していた石豹は、あと一歩を詰みきれなかったことを惜しそうに唸る。

「今日は向こうに運があったか。しかし、それがいつまで続くかな?」


 一方、馬炎から令蛮の戦死を告げられた欧陽乙は、苦悶の表情を浮かべながら、それでも部下を褒めた。

「そうか……だが、後世称えられる見事な戦いぶりであった」

「はっ。令蛮に救われた者たちは多く、その奮戦ぶりは一層我らの士気を高めております」

 犠牲は少なくなかったが、一時は圧倒されかけたところを痛み分けまで持っていけた意味は大きい。

 あの鴉兵と互角に渡り合えたという事実は兵たちの自信に繋がる。

 だが、兵と将では視座の高さが違う。

 指揮官として戦場全体を見ていた欧陽乙は、内心凍り付いていた。

 あくまで互角に見えただけ。戦況はほんの紙一重だった。場合によっては今日龍鳴関は陥落していたかもしれない……。

「我が軍の士気が高いことは救いだ。しかし気持ちだけでは長くはもたん……」

「劉幹殿が神都の近衛兵を率いて出陣されたということですが」

「ああ。だがここには来ない、迂回して常安を叩くそうだ。上手くいけば敵の糧道を断つことができるが、それまで我らが耐えられるかどうかの勝負だな」



 いましばらく。いましばらく耐えれば……。

 朝廷でも戦場でもそのようなことが強く願われていたとき、劉幹率いる羽林軍はぞっとするほど静かに常安へと向かっていた。

 かつての豪奢な羽林軍なら観衆に見送られ神都を発し、各地で歓待を受けながら進んだはずである、だが此度の出撃は隠密行動さながらだった。

「なんだか、寂しいねえ」

 黙々と進軍する軍を見て、ぼそりと呟いたのは雪瑜の側近であった馮嘉隊長だ。

「せっかく出世したのに静かなもんだ」

「そういうな。これも任務だ。それにもう喪中のような真似はやめるはずだ。次の町では大々的に兵を募る、派手に頼むぞ隊長」

「お、やっとですかい。来た来たァ!」


 龍鳴関の戦いが大詰めに入る中、常安を巡って新たな戦いが起ころうとしていた。

 

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